1. 白虎隊画像
日本大百科全書
7歳の少年で結成されたのが白虎隊であった。兵員数は300余名であった。主力は朱雀、青龍で、玄武、白虎はいわば予備軍であったが、新政府軍の攻撃にあい、白虎隊も従軍
2. 白虎隊
世界大百科事典
隊に分けた。白虎隊は,身分によって上級藩士の士中,中級藩士の寄合,下級藩士の足軽に分かれ,計6中隊とされ,フランス式訓練を施された。征討軍が進入し会津藩が危機に
3. びゃっこ‐たい[ビャクコ‥]【白虎隊】
日本国語大辞典
会津藩が幕末に編制した少年隊の一つ。慶応四年(一八六八)三月、洋式兵制を採用した藩が青龍・朱雀・玄武とともに、年齢別に編制した四隊のうちの一つで、一六~一七歳の
4. びゃっこたい【白虎隊】
国史大辞典
南北の神を意味する。白虎隊は士中一・二番隊九十一名、寄合一・二番隊百七十三名、足軽隊七十九名の計三百四十三名よりなる。八月に入り政府軍を領内に迎えて戦争が始まる
5. びゃっこたい【白虎隊】
日本架空伝承人名事典
朱雀(一八~三五歳)、白虎(一六~一七歳)という各隊に編制された。同年八月、政府軍が領内に入ると、白虎隊も越後口などで戦い、同月二二日、戸ノ口原戦で敗れ、飯盛山
6. 白虎隊自刃の地[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
福島県会津若松あいづわかまつ市 飯盛山いいもりやま©公益財団法人福島県観光物産交流協会
7. 会津戦争画像
日本大百科全書
8月23日板垣退助が指揮する政府軍は若松城下に進撃、1か月にわたる激戦ののち、会津は落城、容保は降伏した。白虎隊びゃっこたいの悲劇はこのときのことである。これに
8. 会津戦争
世界大百科事典
会津領内に入り,列藩同盟諸藩もしだいに脱落した。8月21日猪苗代城が落城し,翌日,会津城外で白虎隊が全滅し,会津藩は籠城に入る。1ヵ月後,9月22日,米沢藩,仙
9. あいづ‐せんそう[あひづセンサウ]【会津戦争】
日本国語大辞典
、薩長から強硬な追討命令が出され、反発した東北三十余藩が奥羽越列藩同盟を結んで抗戦したもの。白虎隊の悲話などを生み、九月、会津の降伏により終結。東北戦争。アイズ
10. 会津藩画像
日本大百科全書
ふしみの戦いで始まる戊辰ぼしん戦争では、奥羽諸藩が次々と敗れるなかで最後まで抗戦し、同年9月白虎隊びゃっこたいの悲劇を残して降伏。翌年、隠退した容保の子容大かた
11. あいづはん【会津藩】
国史大辞典
鳥羽・伏見の戦に始まった戊辰戦争では、江戸城明渡し後も東北諸藩の中心として政府軍に抵抗した。白虎隊の悲劇はあまりにも有名である。同年九月若松城(鶴ヶ城)は落城し
12. 会津若松[市]
世界大百科事典
古墳の一つ大塚山古墳(史),若松城(鶴ヶ城)跡(史)のほか,会津松平氏庭園(史)(御薬園)や白虎隊墓のある飯盛山などの名所が多い。藩政時代から保護奨励された会津
13. 会津若松(市)画像
日本大百科全書
国の天然記念物に指定されている。白虎びゃっこ隊の自刃地飯盛山いいもりやまも参拝客が絶えない。白虎隊記念館、白虎伝承史学館がつくられている。飯盛山山麓ろくの旧正宗
14. いいぬま-さだきち【飯沼貞吉】
日本人名大辞典
1854−1931 幕末-大正時代の武士,官吏。嘉永(かえい)7年3月25日生まれ。慶応4年会津(あいづ)藩の白虎隊(びゃっこたい)編制のとき15歳を16歳とい
15. いいもり‐やま[いひもり‥]【飯盛山】
日本国語大辞典
【二】〔一〕福島県会津若松市の北東部にある小丘。戊辰(ぼしん)戦争の時、戸の口原の戦いに敗れた白虎隊が若松城を望んで自刃した地。標高三七〇メートル。弁天山。〔二
16. 飯盛山
世界大百科事典
堂(さんそうどう)(1796建立),および20名の白虎隊士が戸ノ口原の戦にやぶれ退いて来た時通った戸ノ口堰の洞門などがあり,その上手に白虎隊士の墓,イタリア首相
17. いいもりやま【飯盛山】福島県:会津若松市/旧一箕村地区/滝沢村
日本歴史地名大系
その南側に自刃後に蘇生した飯沼貞吉の墓もある。宇賀神堂には白虎隊士の木像が安置されている。墓地広場は佐原盛純作「漢詩・白虎隊」の碑をはじめ多くの碑がある。山麓の
18. 飯盛山(福島県)画像
日本大百科全書
会津若松市にある山。標高370メートル。この山の山麓さんろく部の緩斜地が、戊辰戦争ぼしんのとき会津藩の白虎隊びゃっこたい20名が自刃した地として知られる。若松城
19. 市川雷蔵
世界大百科事典
の養子となり,8世市川雷蔵を襲名した。本名,太田吉哉。映画には54年,勝新太郎とともに《花の白虎隊》でデビューし,以後,大映映画のスターとなる。溝口健二監督に抜
20. いちかわ-らいぞう【市川雷蔵(8代)】画像
日本人名大辞典
関西歌舞伎で初舞台。26年3代市川寿海の養子となり,8代雷蔵を襲名。29年大映にはいり「花の白虎隊(びゃっこたい)」で映画デビュー。連作「眠(ねむり)狂四郎」な
21. うしがはかむら【牛墓村】福島県:会津若松市/旧一箕村地区
日本歴史地名大系
当村のほかに天寧寺村・院内村の水田の用水としている(滝沢組村名由来堤山名帳)。戊辰戦争で飯盛山に自刃した白虎隊士を、当村肝煎吉田伊惣次が滝沢村妙国寺に埋葬した。
22. えりんじ【恵倫寺】福島県:会津若松市/旧門田村地区/北青木村
日本歴史地名大系
寺領一〇〇石を与えられていた。戊辰戦争の兵火により七堂伽藍が焼失した。寺宝として蒲生賢秀坐像などがある。白虎隊隊員五名の墓があり、柴四朗・五朗兄弟の墓もある。
23. おおのがはら【大野原】福島県:河沼郡/河東町/強清水新田村
日本歴史地名大系
翌朝二三日戸ノ口原の会津軍陣営を突破、滝沢峠(現会津若松市)を越えて若松城下へ殺到した。当地で白虎隊士中二番隊が対陣したが西軍の猛攻に抗しきれず、飯盛山(現同上
24. かつ-しんたろう【勝新太郎】画像
日本人名大辞典
昭和6年11月29日生まれ。若山富三郎の弟。中村玉緒の夫。長唄修業をへて昭和29年大映の「花の白虎隊」で映画デビュー。35年「不知火検校(しらぬいけんぎょう)」
25. 加波山事件 民権派激挙の記録 104ページ
東洋文庫
ほふり、翌日には若松城に迫った。戸の口原の一戦に敗れ、若松郊外飯盛山に籠った二十少年屠腹の悲劇、白虎隊の物語はこの時のことである。会津藩は、籠城死守を決意、徹底
26. かんぷくじ【観福寺】青森県:三戸郡/三戸町/三戸村
日本歴史地名大系
もって根城南部氏七代とされる信光に関係した仏像であろうとする説がある。境内に明治四年(一八七一)の白虎隊の供養碑がある。山門は同一六年三戸代官所の門を移築したも
27. きゅうせいしゅうじさんそうどう【旧正宗寺三匝堂】福島県:会津若松市/旧一箕村地区/滝沢村
日本歴史地名大系
[現]会津若松市一箕町八幡 弁天下 飯盛山の白虎隊墓所の下、厳島神社境内にあり、円通三匝堂とも、俗に栄螺堂ともいわれる。奇妙な形をした六角円堂形式の塔で、唐破風
28. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 240ページ
東洋文庫
浩より九歳年下の弟である。戊辰戦争では、少年隊である白虎隊に編入されたが、のち、年齢が規定より一年若いため隊からはずされて籠城したため、生命を全うした。白虎隊員
29. 剣舞
世界大百科事典
乗って流行した。紋服,白鉢巻に袴の股立(ももだち)を取った扮装で演じる。《川中島》《城山》《白虎隊》などが有名である。柴崎 四郎
30. 剣舞(けんぶ)
日本大百科全書
居合術の形を基本とし、服装も紋服に袴はかま、白鉢巻というもので、『鞭声べんせい(川中島)』『白虎隊びゃっこたい』『棄児行きじこう』などをよく演じた。その前後に宮
31. ささやまはら【笹山原】福島県:会津若松市/旧湊村地区/篠山村
日本歴史地名大系
地形で、南より赤井川が北に流れ猪苗代町戸ノ口で銚子ノ口に注ぐ。この地は戊辰戦争の際に会津側の白虎隊や敢死隊が奮戦した所で、郡界に近い所に戸ノ口原古戦場碑があり、
32. 薩摩琵琶
日本大百科全書
音楽的には歌いながら楽器で伴奏せず、歌詞の句と句の間だけ奏するのが本来の形である。曲には『桜井の駅』『白虎隊びゃっこたい』『城山しろやま』などの悲壮な戦争物語を
33. さどりむら【佐取村】新潟県:五泉市
日本歴史地名大系
同年小松村(現北蒲原郡安田町)・石間村(現東蒲原郡三川村)と合併して小石取村となる。戊辰戦争の古戦場で、白虎隊の石碑が残り、天正元年(一五七三)元亀が中興したと
34. さわら-そばい【佐原蘇楳】
日本人名大辞典
がおき)とともにフランスを視察。維新後は郷里の陸奥(むつ)若松(福島県)で教育に従事。漢詩「白虎隊」の作者。明治41年12月4日死去。74歳。名は盛純(もりずみ
35. しのだ-ぎさぶろう【篠田儀三郎】
日本人名大辞典
1852−1868 幕末の武士。嘉永(かえい)5年生まれ。陸奥(むつ)会津(あいづ)藩(福島県)白虎隊士。11歳で藩校日新館にはいる。戊辰(ぼしん)戦争に際し,
36. しもあまやむら【下雨屋村】福島県:会津若松市/旧大戸村地区
日本歴史地名大系
薬師堂が村西の阿賀川河原近くに移転した。明治元年九月一七日、会津藩の朱雀隊と砲兵隊は薬師堂下の丘陵に陣を布き、白虎隊および西郷隊は堂後ろの山上で西軍と対戦し、西
37. じゅうろくきょう【十六橋】福島県:耶麻郡/猪苗代町/戸ノ口村
日本歴史地名大系
あまりに堅牢なために失敗、当橋を渡った戸ノ口原が戦場となった。しかし会津軍は戸ノ口原の戦にも敗れ、このうち白虎隊は戸ノ口堰伝いに飯盛山(現会津若松市)に逃れ、同
38. 増補 山島民譚集 271ページ
東洋文庫
以て之を普請場に運んだ。其跡に立てた寺である故に此の如き名がある。会津若松城の東北にある飯盛山は白虎隊の哀史に由って世に知られて居るが、此山の西麓には古くから宗
39. ちょうげつじ【澄月寺】青森県:十和田市/稲生町
日本歴史地名大系
会津藩士を供養するため明治二三年(一八九〇)当地の会津会員により建立されたもので、そのなかには白虎隊士も含まれていたという。漢方と蘭方の二つを身につけた十和田市
40. 東北合神ミライガー[新語流行語]
イミダス 2018
県)、背中には「ねぶた」(青森県)の絵、両腕には「チャグチャグ馬コ」(岩手県)の馬、ひざに「白虎隊」(福島県)のトラ、肩に「山伏の法螺貝(ほらがい)」(山形県)
41. とうほくせんそう【東北戦争】
国史大辞典
を結集して会津に進軍、八月二十一日の母成峠での戦闘を皮切りに会津戦争に突入した。翌々二十三日白虎隊の少年らが自刃。籠城に入った会津藩が降伏したのが九月二十二日で
42. 登録記念物
日本大百科全書
2019年3月時点。文化庁資料をもとに作成。2種での重複登録物件はそれぞれの種別に掲載。■遺跡関係会津飯盛山白虎隊士墳墓域(あいづいいもりやまびゃっこたいしふん
43. 日本のおもな博物館
日本大百科全書
〔休館日〕年末年始白虎隊記念館〔読み〕びゃっこたいきねんかん〔所在地〕会津若松市一箕町大字八幡字弁天下33〔電話番号〕0242-24-9170〔開館年〕1956
44. ハイゼ
日本人名大辞典
著作に「日本人の忠誠心と信仰」があり,親日家として知られた。1940年4月11日北京で客死。遺言で遺骨は白虎隊の墓のある福島県会津若松市飯盛山に埋葬された。70
45. ばくまつしょたい【幕末諸隊】 : 会津藩
国史大辞典
、茶紐以下浅黄紐以上の士は寄合組隊に、それ以下の者は足軽隊に編成し、そのおのおのを年齢別に、白虎隊(十六、七歳)、朱雀隊(十八~三十五歳)、青竜隊(三十六~四十
46. ばくまつしょたい【幕末諸隊】
国史大辞典
より藩軍的・農兵隊的なものに、桑名藩雷神隊・致人隊・神風隊、郡上藩凌霜隊、高田藩神木隊、会津藩白虎隊・奇勝隊・青竜隊・朱雀隊・敢死隊・新練隊・幼少隊、仙台藩烏組
47. 牧野省三
日本大百科全書
十二時忠臣蔵(1917)阿波十郎兵衛(1917)天一坊東下り(1917)名槍めいそう高田又兵衛(1917)白虎隊びゃっこたい(1917)大村益二郎(1917)仮
48. 間瀬源七郎[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:0件 『白虎隊士間瀬源七郎伝』甲斐山忠左衛門
49. みょうこくじ【妙国寺】福島県:会津若松市/旧一箕村地区/滝沢村
日本歴史地名大系
降伏する。同日藩主松平容保・喜徳父子は城を出て当寺に謹慎した。同年八月二三日飯盛山で自刃した白虎隊士は牛墓村の吉田伊惣次らによって当寺に仮埋葬され、明治七年飯盛
50. むつのくに【陸奥国】福島県
日本歴史地名大系
八月二三日西軍は戸ノ口原(現猪苗代町)の会津藩陣地を攻略した。その夜飯盛山(現会津若松市)では白虎隊二番士中隊の少年二〇人(うち一名は生存)が壮烈な自刃を遂げた