天草一揆、島原の乱などともいう。1637年(寛永14)10月下旬から翌年2月下旬にかけて、九州の島原半島南部と天草諸島のキリシタン農民が主体となり、キリシタン信仰の復活、租税の重圧からの解放を意図して、幕藩権力に抗戦した一揆。
[煎本増夫]
1637年10月末、肥前国(ひぜんのくに)(長崎県)島原領で、ふたたびキリシタンとなった農民が、城下と周辺村々に放火、島原城を包囲し、天草(熊本県)でも大矢野島(おおやのしま)、上津浦(こうつうら)で同様の蜂起(ほうき)があった。ことの起こりについては異説がある。一つは、島原領有馬(ありま)村で棄教したはずのキリシタン農民が、キリストの絵像を掲げて礼拝を行っていたところに、代官が踏み込み絵像を引き破ったため、これを殺害したことによるとする説。他は代官殺害を、キリシタンの行為ではなく、年貢未納の農民に対する島原藩の誅求(ちゅうきゅう)(水牢(みずろう)、「ミノ踊り」などの拷問)がきっかけであるとする説である。従来の定説は後者で、キリシタン弾圧に対決する宗教一揆の外被をかぶっているものの、本質は幕藩領主階級による収奪に対する百姓一揆で、形態としては土豪一揆(最近では惣百姓(そうびゃくしょう)一揆説が有力)とする。しかし乱の発端から終結への経過をみると、信仰上の結束を単に外被とする見方だけでは乱の本質を解明できず、近時、宗教一揆面の内容を見直す説が出されている。
[煎本増夫]
一揆の起こった島原・天草地方は日本のキリシタンの中心地であった。とくに豊臣秀吉(とよとみひでよし)の宣教師追放後、国内の宣教師が当地に入り込むことによりキリシタン人口が増大した。追放令前の2万人のキリシタンが7万人に達し、修道院、司祭館、神学校が置かれたという。これには、島原半島南部を領有したキリシタン大名有馬晴信(ありまはるのぶ)の保護政策があった。晴信は、イエズス会と一体的関係にあったポルトガル貿易の条件として、自領内での布教を許可したのである。この傾向は天草氏など天草諸島の領主においても同様である。宣教師追放令後の島原・天草地方は皮肉にもキリシタン王国化の様相をもつに至ったのである。ところがこの状況は江戸幕府の鎖国実施のなかで一変した。幕府は慶長(けいちょう)(1596~1615)末年から元和(げんな)年間(1615~1624)にかけてキリシタン禁制を強化し、3代将軍家光(いえみつ)はいっそう厳しい弾圧を行った。当然、キリシタンの中心地の島原・天草では、島原藩主松倉重政(まつくらしげまさ)と唐津(からつ)藩主寺沢堅高(てらさわかたたか)によってすさまじい拷問がキリシタンに課せられた。これにより1633年(寛永10)前後までに多数のキリシタン農民が棄教し、一揆前の段階では、表面的にはキリシタン信仰が消滅したかにみえた。一方、寛永(かんえい)10年代に入って、島原領では大風雨、日照りで凶作が続き飢饉(ききん)となった。これを印象づけるかのように、朝焼け、夕焼けがとくに鮮やかに見え、桜が狂い咲く天変地異現象が伝えられている。それにもかかわらず、島原藩は租税を軽減することなく年貢納入を促進した。同藩は1636年(寛永13)の江戸城公儀普請(こうぎふしん)、さらに参勤交代、江戸在府中の出費が重なって財源が逼迫(ひっぱく)していた。キリシタン狩りをする一方、租税を高く課し、未進米の収取を強化せざるをえない状況にあった。島原領民は宗教面で弾圧され、生活面では飢え死にの一歩前にあった。天草においても同じ状態であったと考えられる。
[煎本増夫]
一揆に参加したのは島原・天草の居住民すべてではない。島原領で一揆に参加したキリシタンの多くは、従来キリシタン信仰のもっとも盛んな島原半島南部の海岸沿いの「南目(みなみめ)」の村々であった。一揆勢のなかには「むりなり(無理成)のもの」――藩側からみて一揆方が強制的に組み入れた者がいたという。天草一揆勢は大矢野島・上津浦の元キリシタン農民が主体で、一揆拡大のなかで周辺農民を巻き込み勢力を発展させた。一揆を終始指導したのは大矢野島に本拠をもつ天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)とその一味で、合戦など作戦の指揮者は四郎の父益田甚兵衛(ますだじんべえ)といわれる。四郎一味は島原・天草の元キリシタンの大庄屋(おおじょうや)・庄屋にキリスト教の復活を策動し一揆の蜂起を工作したのである。原城籠城(ろうじょう)時の一揆軍の総勢は男女あわせて3万7000人、そのうち実戦参加者は1万3000人、浪人が40人といい、浪人の年齢は50~60歳で出身は不明という。一揆軍の主体は農民であった。一揆勢は村単位に各城郭に配置され、大庄屋・庄屋が「惣頭(そうがしら)」としてこれを統率した。一揆軍は軍事的に編成されていたのである。島原一揆勢は幕府の鎮圧軍の出動を予想して、原城に集結する間に、領内の藩庫から食糧などを略奪して抗戦に備えた。天草一揆勢を指導した四郎一味は、当初、島原一揆勢と合流して長崎を占拠する計画であったが、唐津藩兵の出撃によってこれと対戦し、島原一揆勢の応援もあって、富岡城代三宅藤兵衛(みやけとうべえ)を敗死せしめ、富岡城を包囲するに至った。唐津藩兵は軍船を本国に帰すなど背水の陣で防戦するうちに、一揆勢は弾薬も少なくなり退散した。そして唐津藩の反撃、肥後細川藩の出兵を目の前にして、大矢野・上津浦一揆衆は海路、原城に入城し島原一揆勢と合流した。
[煎本増夫]
幕府は島原・天草一揆蜂起の通報で初めは板倉重昌(いたくらしげまさ)を、続いて老中松平信綱(まつだいらのぶつな)を上使として派遣した。九州の諸大名は武家諸法度(ぶけしょはっと)によりかってに軍を出動させることができず、幕府の指示を待っていた。一揆鎮圧遅延のゆえんである。重昌は1638年(寛永15)1月1日の総攻撃で戦死。信綱はオランダ船からの艦砲射撃など奇策を行ったが、基本的には「干殺(ひごろ)し」(兵糧攻め)作戦をとり、一揆勢の食糧欠乏の状況をみて、同年2月27日総攻撃をかけた。一揆民は老人、女子、子供に至る非戦闘員まで大半が殺され、翌28日落城した。戦後、島原城には譜代大名高力忠房(こうりきただふさ)が入部、松倉勝家(重政の子)は斬罪(ざんざい)に処せられ、寺沢堅高は天草4万石を没収された。幕府は改めて大名・旗本領におけるキリシタン改めの強化を指示し、鎖国を祖法とする決意を固めたのである。
[煎本増夫]
江戸初期の1637-38年(寛永14-15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。領主松倉・寺沢両氏の重税は有名であるが,年貢減免等の世俗的要求でも,かつてキリシタンの中心地であったがゆえに,信仰による抵抗にすりかえ,さらなる弾圧と収奪が正当化されたところに〈苛政〉の特質があった。加えて相つぐ凶作のため,終末観念や救世者出現の期待は急速に広まった。10月25日島原半島南部に端を発した一揆は,翌26日島原城を猛攻して落城の危機に追い込んだ。藩では急を参府中の藩主松倉勝家に報ずるとともに,近隣諸藩に救援を求めた。しかし諸藩は幕府の指示を待って動かず,一揆は4万石の藩全域に及んだ。27日には有明海をはさんだ天草大矢野島でも蜂起し,やがて島原勢と合流して城代三宅藤兵衛を敗死させ,天草4万石のほぼ半ばを席巻して富岡城を囲み(11月19~23日)落城寸前にまで追いつめた。一揆の報が江戸に達すると,キリシタン一揆として事態を重視した幕府は,板倉重昌を上使とし,佐賀,久留米,柳河の3藩に出動を命じた。彼らが島原に到着する12月5日の直前,かなりの村々は領主側に転じたが,島原南部諸村と天草の一部の老幼男女2万数千人は,石垣だけの廃城となっていた旧領主有馬氏の原城にたてこもり,12月10日以降一揆の第2段階をむかえた。つまり居村を根城にした個別領主との農民一揆から,幕府権力そのものと対決する宗門一揆への転換である。
板倉重昌は,重ねての上使として老中松平信綱の派遣を知ると,その到着前に落城させるべく38年元旦に強引な総攻撃を命じ,みずからは討死した。1月4日に着陣した信綱は,十分な陣地構築と兵粮攻めに転じ,九州全域の藩主自身と備後福山の水野勝成が参戦し,総勢十数万,中国,四国の諸藩にも出動準備が命ぜられた。また平戸のオランダ商館長に命じて船砲を打ち込ませ,長崎在住の明人や町人の参戦,矢文や捕われの四郎の縁者等による投降勧告も続けられた。しかし城内の結束は固く,ついに食糧等が尽き果てた2月27,28日の総攻撃で全員殺害された。一方幕府側も攻城の期間を通じて死者2000余,負傷1万以上をかぞえ,抵抗の激しさを物語っている。この乱を乗り切った幕府は,信綱を中心に幕閣機構を確立し,松倉勝家に斬罪,寺沢堅高に天草没収,軍紀違反の大名・旗本に閉門を科す一方,禁教の強化をてこに農民統制を強め,ポルトガル貿易禁止にふみ切り(1639)鎖国政策を大きく前進させた。今日,宗門一揆説より農民一揆説が有力であるが,蜂起当初諸藩が探った情報によると,転びキリシタンの〈立上り〉とする宗門一揆説のほか,領主の苛政原因説,さらに信仰を掲げるのは上使の下向を引き出して領主の失政を越訴する策謀であるとする偽装宗門一揆説もあった。
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