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林羅山

ジャパンナレッジで閲覧できる『林羅山』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
林羅山
はやしらざん
一五八三 - 一六五七
江戸時代初期の儒学者。江戸幕府の儒官を代表する林家の始祖。名は信勝または忠、字は子信、通称ははじめ又三郎、のち道春という僧号で呼ばれた。羅山とは儒学者としての号で,中国広東省の羅浮山で宋代の学者が『春秋』を研学したとの故事に基づき、師の藤原惺窩が命名したもの。また江戸の邸宅に夕顔の花があったことにより、顔回になぞらえて夕顔巷などとも号した。天正十一年(一五八三)八月に京都の四条新町で生まれた。父は信時。祖父正勝は加賀の牢人で、紀州で没し、そののち一家は京都に移った。羅山は父の長兄吉勝の養子となり、幼時から学才を示した。十三歳で建仁寺に入り、古澗慈稽・英甫永雄ら禅僧について学んだが、僧にはならず、十五歳で寺を出て帰宅した。この後も読書に努め、慶長九年(一六〇四)、二十二歳の時、吉田玄之(角倉了以の子)の紹介で、惺窩に入門したが、この際に羅山が提出した「既読書目」には、四百四十余の書名が列挙され、その中には、経学のほか、諸子百家や史書・地誌・兵学・本草など、多方面の漢籍が含まれていて、その学力の高かったことを示している。博識ながら、十七、八歳のころから朱子学に関心を深め、二十二、三歳のころには、朱子の注釈による『論語』の公開の講義を京都の市中で行なった。これはそれまで秘伝として貴族や僧侶の間で伝授されて来た古典に関する知識を一般に広めようとする、啓蒙的な文化活動であって、協力した友人松永貞徳も『徒然草』や『百人一首』を講読した。公家の清原秀賢は、これを禁止するよう徳川家康に訴えたが、家康は笑って取りあわなかったという。さらに羅山は、学問を実際の政治と結びつけることをめざして、慶長十年に二条城で家康に謁し、学識を認められて、同十二年に江戸で将軍徳川秀忠に謁し、駿府で家康に仕えて、その命により僧形となり、道春と称した。翌年には禄米三百俵を受け、ついで同十六年に家康に随行して上洛した際に、京都の近辺の八瀬・祝園・梅ヶ畑など数村で三百十石余の知行を与えられた。こののち秀忠・家光・家綱まで四代の将軍に歴仕し、侍講を勤めるとともに、古書旧記の調査蒐集、『大蔵一覧』『群書治要』などの出版、また朝鮮通信使の応接や、外交文書の起草、あるいは寺社関係の裁判事務など、学問や儀礼に関係ある公務に従事し、また幕命を受けて『寛永諸家系図伝』『本朝編年録』などを編纂した。寛永七年(一六三〇)には、江戸上野の忍岡に屋敷を与えられ、また学問料二百両を賜わって、塾舎を建て門人を教育した。同九年には尾張藩主徳川義直が、ここに聖堂を建立した。同年、三百俵を加増。慶安四年(一六五一)に至り、禄米を知行に改めて、武蔵国赤木・袋・柿沼の各村を与えられ、京都近辺の領地と合わせて九百十石余となる。明暦元年(一六五五)、江戸城中にあった銅瓦の書庫を賜わったが、同三年の大火で、銅庫とともに蔵書を焼失し、落胆して、火災から四日後の正月二十三日に病死した。七十五歳。儒礼により上野の邸内に葬られたが、元禄十一年(一六九八)に改葬され、墓は東京都新宿区市谷山伏町の林氏墓地(国史跡)にある。妻は荒川宗意の娘で、名は亀、慶長十四年に結婚し、明暦二年に五十九歳で病没した。長男叔勝と次男は早逝したので、三男の春勝(鵞峯)が家を継ぎ、四男守勝(のち靖、僧号春徳)は、別家を立てて幕府に仕えた。羅山は博識の努力家で、五十八歳の時でも一年間に七百冊を閲読している。著書も多いが、独創性には乏しく、『春鑑抄』『三徳抄』『儒門思問録』など、和文の啓蒙書の類が代表作とされる。思想上では朱子学を信奉し、それと対立する陸象山・王陽明らの学風を排斥することに努め、「惺窩答問」では、師の惺窩の寛容な学風を批判している。また排仏論を唱え、『排耶蘇』を著わしたりもした。しかし現実には幕府で僧侶として待遇されており、寛永六年には民部卿法印に叙任された。法印は最高の僧位で、名誉ではあったが、言行不一致として民間の中江藤樹らの批判を招くこととなった。思想的に家康や幕府の政治に影響を及ぼしたという事実も認められないので、羅山の登用により、朱子学が幕府の官学となったとみるのは、誤りである。しかし羅山の学殖が幕府の内部で重んぜられたことは、儒学者の社会的地位の向上に役立ったし、多数の漢籍に訓点を加えたことにより、儒学の普及にも大きく貢献している。羅山はまた、神道や日本の歴史にも関心が深く、神儒一致の立場から、『神道伝授』『本朝神社考』などを著わした。その漢詩文は、鵞峯らの編集した『羅山林先生集』百五十巻に収められている。→昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ),→本朝通鑑(ほんちょうつがん)
[参考文献]
林鵞峯『羅山先生年譜』(『羅山林先生集』附録)、林春徳『羅山林先生行状』(同)、『寛政重修諸家譜』七七〇、堀勇雄『林羅山』(『人物叢書』一一八)、大江文城『本邦儒学史論攷』、石田一良・金谷治校注『藤原惺窩 林羅山』(『日本思想大系』二八)
(尾藤 正英)


日本大百科全書(ニッポニカ)

林羅山
はやしらざん
[1583―1657]

江戸前期の儒者。名は信勝。字 (あざな)は子信 (ししん)。剃髪 (ていはつ)して道春 (どうしゅん)と称す。羅山は号。天正 (てんしょう)11年8月に京都に生まれる。1595年(文禄4)に臨済 (りんざい)宗の建仁寺 (けんにんじ)に入って、儒学と仏教を学んだが、1597年(慶長2)に家に帰ってのちはもっぱら儒書を読み、朱子の章句、集注 (しっちゅう)(四書の注釈)を研究して宋学 (そうがく)に傾倒し、仏教を排撃した。1604年より藤原惺窩 (ふじわらせいか)に師事し、その推薦で1607年徳川幕府に召し抱えられ、以後、家康 (いえやす)、秀忠 (ひでただ)、家光 (いえみつ)、家綱 (いえつな)の4代将軍に仕え、侍講 (じこう)として儒書や史書を講じた。またつねに将軍の傍らにあって、儀式・典礼の調査、法度 (はっと)の制定や古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草にあたった。1630年(寛永7)将軍家光から江戸上野忍ヶ岡 (しのぶがおか)に土地を与えられ、私塾・文庫と孔子廟 (こうしびょう)を建て(これらはのち、神田 (かんだ)の昌平坂 (しょうへいざか)に移されて幕府直轄の昌平坂学問所および聖堂となった)、林家 (りんけ)の家学である朱子学が幕府の正学となる基を開いた。羅山は、1657年(明暦3)のいわゆる明暦 (めいれき)の大火によって神田の本邸の文庫を焼失、落胆して病臥 (びょうが)し4日後の1月23日に没した。

 羅山の学問は、漢唐の旧注から陸象山 (りくしょうざん)(九淵 (きゅうえん))、王陽明 (おうようめい)(守仁 (しゅじん))の学に及び、諸子百家より日本の古典にわたったが、朱子学が中心であった。すなわち、羅山は藤原惺窩に従っていたころ王陽明の理気論に傾いていたが、1619年(元和5)の惺窩の死以降は朱子の理気論にたつことをはっきり宣言している。そして天(理気未分の太極 (たいきょく))を人事・自然のいっさいの事物のうちに内在化し、しかも天は気によっていっさいを創造し、理によっていっさいを主宰するものと考え、この天の働き(天道)を賛 (たす)けることを人道と断じ、この人道の履践 (りせん)が「格物」に始まることを主張した(『春鑑抄 (しゅんかんしょう)』(1629)『三徳抄』『性理字義諺解 (げんかい)』および『林羅山先生詩集・文集』などの著がある)。羅山はこの朱子学の立場から神道 (しんとう)を解釈して「理当心地神道」をたて、近世の儒学神道の先駆けをなした(『神道伝授』(1644〜1647)『本朝神社考』(1638〜1645成立)『神道秘伝折中俗解』などの著がある)。

 家康が羅山を召し抱えたのは、羅山の信奉した朱子学を理解し、それが新しい封建制度を持することを認めたからではなく、主として羅山の学殖を政治の実際に役だてようとしたからであろうが、しかし朱子学の思想と徳川封建政治の理念との間に内面的関係が存在し、この関係が羅山の子孫をして代々大学頭 (だいがくのかみ)として幕府の文教をつかさどらせ、朱子学をして幕藩体制を支持する官学たらしめたゆえんと考えられる。

 羅山には4人の男子があり、長男、二男は夭死 (ようし)した。三男春勝 (はるかつ)は鵞峰 (がほう)と号し、1618年に、四男守勝 (もりかつ)(1625―1661)は読耕斎 (とくこうさい)と号し、1625年に、いずれも京都で生まれた。鵞峰は父の後を継いで幕府に仕えて大学頭となり、読耕斎もまた幕府に召し抱えられた。羅山の在世中、この2子は父を助けて歴史書の編集に従い、『寛永 (かんえい)諸家系図伝』や『本朝編年録』(1644)などをつくった。羅山の死後に鵞峰は後者を続編して『本朝通鑑 (つがん)』をつくる。

[石田一良]2016年6月20日

『本朝編年録』(稿本)[百科マルチメディア]
『本朝編年録』(稿本)[百科マルチメディア]
林羅山(はやしらざん)自筆稿本 江戸時代初期写 国立国会図書館所蔵


改訂新版・世界大百科事典
林羅山
はやしらざん
1583-1657(天正11-明暦3)

江戸初期の儒学者。名は信勝,忠,字は士信,通称は又三郎,剃髪して道春。号はほかに羅浮山人,海花村,夕顔巷など多い。祖先は加賀の武士で父信時より京都に住み,伯父吉勝(米穀商)の養子となる。1595年(文禄4)13歳で元服し,京都建仁寺で読書し,97年(慶長2)出家をすすめられたが拒否して家に帰り,独学で経学を修め朱子学に傾倒し,《論語集註(しつちゆう)》を講説し四書の加点を始めた。1604年藤原惺窩(せいか)に会い,多くの学問的影響を受けた。最初の対面時の問答が〈惺窩答問〉である。翌05年惺窩のすすめもあって徳川家康に二条城で謁し,以後伏見城に伺候し,07年には駿府に赴き,また江戸で秀忠に講書し,家康側近にあって下問に応じた。豊臣秀頼大仏殿建立鐘銘事件,《群書治要》開版,大坂の陣参陣のことなどがあった。24年(寛永1)には家光の侍講を命ぜられ,公事(くじ)訴訟の評議に加わり,朝鮮信使応接にも当たった。29年民部卿法印に叙せられ,30年には上野忍岡(しのぶがおか)に学寮,先聖殿を建設し釈奠(せきてん)を行った。これは後の昌平黌(しようへいこう)(昌平坂学問所)の基になるものである。35年に武家諸法度,諸士法度を起草,36年に伊勢神宮参拝典礼,朝鮮国への国書起草,43年に《寛永諸家系図伝》,44年(正保1)に《本朝編年録》を編集した。48年(慶安1)910石余を給せられ,55年(明暦1)には江戸城二の丸にあった銅造りの書庫を賜り神田の邸内に移築した。

家康より家綱に至る4代に仕え,創業期の幕府の法度,外交,典礼に関与し,また啓蒙期の学者としても著書は非常に多く,かつ漢籍の注釈,儒学の入門書,神道,排耶蘇(はいやそ)排仏の思想,国文学の注釈,辞書,随想,紀行,草子類の広範囲にわたっている。その多くは現在内閣文庫に収蔵され,文集,詩集は死後,子の林鵞峰によって編集されている。彼の学説は朱子学で,本然の性と気質の性とに分け,純善である本然の性も物欲によって気質の性が生ずるものであるから,修徳のくふうが必要である。それには読書と持敬の内と外との修養につとめるべきであると説いている。理気の説については,〈理気一に帰するのみ〉として判然としない態度であるが,神道と儒学については二教融和の理当心地神道を唱えている。
[山本 武夫]

[索引語]
林道春 藤原惺窩 先聖殿 昌平坂学問所
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1. 林羅山
日本大百科全書
主張した(『春鑑抄(しゅんかんしょう)』(1629)『三徳抄』『性理字義諺解(げんかい)』および『林羅山先生詩集・文集』などの著がある)。羅山はこの朱子学の立場 ...
2. 林羅山
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1583-1657(天正11-明暦3) 江戸初期の儒学者。名は信勝,忠,字は士信,通称は又三郎,剃髪して道春。号はほかに羅浮山人,海花村,夕顔巷など多い。祖先は ...
3. はやし‐らざん【林羅山】
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[1583~1657]江戸初期の儒学者。幕府儒官林家の祖。京都の人。名は忠・信勝。法号、道春。朱子学を藤原惺窩(ふじわらせいか)に学び、徳川家康から家綱まで4代 ...
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江戸初期の儒者。名は忠または信勝。字は子信。通称又三郎。家康の命により慶長十二年(一六〇七)剃髪して道春と号した。京都の人。藤原惺窩に朱子学を学ぶ。のち、惺窩の ...
5. はやしらざん【林羅山】
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6. はやし-らざん【林羅山】
日本人名大辞典
1583−1657 江戸時代前期の儒者。天正(てんしょう)11年8月生まれ。藤原惺窩(せいか)に朱子学をまなぶ。慶長10年将軍徳川家康につかえ,以後4代の将軍の ...
7. 林羅山[文献目録]
日本人物文献目録
ビアン』新村出『林羅山』阿部吉雄『林羅山 近世儒学史の開幕』和島芳男『林羅山雑考』福井保『林羅山と神道』浅野明光『林羅山と禅・茶』古田紹欽『林羅山と其の史学』肥 ...
8. 林羅山・林信勝
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1607年〈慶長12 丁未④〉 4・‐ 幕府、 林羅山 を儒者として任用(重修譜)。 1624年〈寛永元(2・30) 甲子〉 4・11 林羅山 、徳川家光の侍講 ...
9. 日本漢詩集
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4世紀ごろより中国から入ってきた漢籍を訓読によって日本語化し、さらには本家に倣って「漢詩」をつくるようになる。飛鳥時代の大友皇子や大津皇子にはじまり、平安期には ...
10. 林羅山蔵書印[図版]
国史大辞典
江雲渭樹 夕顔巷 胡蝶洞 道春 羅山 読畊斎 読耕斎之家蔵 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
11. 林羅山建學校 (見出し語:學校)
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12. 林羅山敍法印 (見出し語:林信勝)
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13. 林羅山善(見出し語:林信勝)
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14. 林羅山排〓 (見出し語:林信勝)
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15. 林羅山排耶蘇 (見出し語:林信勝)
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16. 林羅山藏書 (見出し語:林信勝)
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17. 林羅山訓點 (見出し語:林信勝)
古事類苑
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18. 会津神社志
世界大百科事典
耶麻郡76座,大沼郡62座,河沼郡41座の4郡268座の由緒ある神社名を列挙したのが本書で,林羅山の子鵞峰,孫鳳岡,山崎闇斎の序文,吉川惟足,服部安休の跋文をつ ...
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20. あしかががっこうあと【足利学校跡】栃木県:足利市/足利町/足利五ヶ村
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21. ありまおんせん【有馬温泉】兵庫県:神戸市/北区/湯山町
日本歴史地名大系
はじめ(「有馬湯治日記」宮内庁書陵部蔵)、大名・公家・僧・医師・学者など多くの人々が湯治に訪れ、林羅山の「温湯記」や貝原益軒の「有馬湯山記」などの地誌・紀行集が ...
22. 有馬地誌[文献解題]兵庫県
日本歴史地名大系
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23. あんよういんあと【安養院跡】茨城県:久慈郡/金砂郷村/赤土村
日本歴史地名大系
一六)栗田勤の筆になる水府煙草栽培起源の碑があり、そのなかに「宥範といふものあり。江戸に到り林羅山に従学せり。談たまたま郷里赤土の事に及び、その瘠地粘土にして、 ...
24. いけだのしゅく【池田宿】
国史大辞典
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25. 異国日記
日本大百科全書
元良、西笑承兌(さいしょうしょうだ/しょうたい)、文之玄昌(ぶんしげんしょう)らの外交書簡や林羅山(はやしらざん)らと外国使節の間に交された詩文などを収録。沼田 ...
26. いこくにっき【異国日記】
国史大辞典
を収め、慶長六年十月から寛永十三年十二月に及び、必ずしも年代順の配列とはなっていない。さらに林羅山らと使節との間に交された詩文や朝鮮人接待の記事など収録されてい ...
27. 石川丈山
日本大百科全書
詩を学んだ。1641年(寛永18)洛北(らくほく)一乗寺に詩仙堂を築いて隠棲(いんせい)し、林羅山(らざん)、元政上人(げんせいしょうにん)ら当時著名な文化人と ...
28. いしかわじょうざん【石川丈山】
国史大辞典
できたのは、若年のころより参禅し、心底に世を厭うの念が強かったためらしい。以後は俗客を避けて林羅山とか堀杏庵とかいう文雅の士とのみ交わり清談に日を暮した。詩名も ...
29. いずもじ-いずみのじょう【出雲寺和泉掾(初代)】
日本人名大辞典
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30. いちのい-ほうご【一井鳳梧】
日本人名大辞典
1616−1731 江戸時代前期-中期の儒者。元和(げんな)2年生まれ。出雲(いずも)(島根県)の人。林羅山(らざん)にまなび,大坂ではじめて儒学をおしえる。ま ...
31. 一休ばなし(仮名草子集) 260ページ
日本古典文学全集
た地名を二つ詠み込んでいる。丹波の「丹」は赤色。前句を受けて色名のついた地名を二つ詠み込む。林羅山の『梅村載筆』に対句の好対を二十七対収録しているが、中にこの句 ...
32. 一休ばなし(仮名草子集) 326ページ
日本古典文学全集
臨済宗の大道場。東坡居士が径山寺の詩を山なりに作る。次の山形詩が一休の作かは不明ながら、先行の林羅山著『梅村載筆』に、次の第五話の熊野の最初の詩を一休作として載 ...
33. 一休ばなし(仮名草子集) 354ページ
日本古典文学全集
万福寺を開いた。薪の酬恩庵と大徳寺の真珠庵にあり、ともに一休の髪を植え込んだといわれている。林羅山の『梅村載筆』に「一休自らひげをぬいて、我木像につけられたり」 ...
34. いばらき-しゅんさく【茨木春朔】
日本人名大辞典
1614−1671 江戸時代前期の医師,仮名草子作者。慶長19年生まれ。江戸の人。林羅山(らざん)に儒学,吉田策庵に医術をまなんだという。酒井忠清の侍医となる。 ...
35. いぶきじんじゃ【伊富岐神社】岐阜県:不破郡/垂井町/伊吹村
日本歴史地名大系
〓草葺不合尊としている。林羅山の「本朝神社考」などは八岐大蛇とするが、これは「日本書紀」などに伝える日本武尊が伊吹山の荒神によって命 ...
36. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】京都府:八幡市
日本歴史地名大系
また小堀遠州とは縁戚であった関係などから、公武の間にあってその仲介役を果したことなどが知られる。林羅山・木下長嘯子・石川丈山・佐川田昌俊・沢庵らとの交友も著名で ...
37. 雨月物語 324ページ
日本古典文学全集
録事)。庭先へ回ったのである。南に面した座敷、普通は正座敷。「魚服記」を訳した『怪談全書』(林羅山著/元禄十一年刊)の「魚服」では、「門ニ入レバ囲碁スルヲ見テ」 ...
38. うん‐かん【雲翰】
日本国語大辞典
〔名〕他人の手紙を敬っていう語。貴翰(きかん)。雲箋。*新編覆醤続集〔1676〕一〇・答林羅山「雲翰触〓手光塵曜 ...
39. うんしんじ【雲心寺】福岡県:直方市/山部村
日本歴史地名大系
高政および之勝の墓所ならびに歴代福岡藩主の位牌があり、高政の重臣吉田知年が寄付した黒田長政像には林羅山直筆の銘があった(続風土記・続風土記附録)。なお「直方旧考 ...
40. えいほえいゆう【英甫永雄】
国史大辞典
この間文禄三年(一五九四)九月南禅寺にも住した。西笑承兌らと親交を結び、また建仁寺の古澗慈稽の門に学んでいた林羅山とも交わり、羅山の学問に多大の影響を与えた。な ...
41. えいほ-えいゆう【英甫永雄】
日本人名大辞典
文渓永忠の法をつぐ。天正(てんしょう)14年から没年まで建仁寺(けんにんじ)住持。同寺でまなんでいた林羅山(らざん)に影響をあたえる。連句や和歌にすぐれ,とくに ...
42. 江戸温泉紀行 307ページ
東洋文庫
文学にはまだなりきれない実用書のたぐいも、これ以前には多く出ている。江戸時代初期の平子政長『有馬私雨』や、林羅山『有馬温湯記』、貝原益軒『有馬山温泉記』など。そ ...
43. 江戸参府旅行日記 338ページ
東洋文庫
高家にしたのに始まり、以後世襲で二六家あった。五 第二の宮を建てさせた これは恐らく聖堂のことで、上野忍ヶ岡の林羅山の家塾にあったものを、五代将軍綱吉が元禄四年 ...
44. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
5(慶長10)3月 家康、活字版『東鑑』を刊行(活字版印刷の盛行)1607(慶長12)4月 林羅山、将軍侍講となる1608(慶長13)姫路城天守閣を造営1610 ...
45. えどゆしまのせいどう【江戸湯島の聖堂】 : 孔子〓
国史大辞典
〔江戸湯島の聖堂〕 寛永九年上野忍岡の林羅山の家塾に始まり、万治三年(一六六〇)改築、元禄三年(一六九〇)湯島昌平坂(東京都文京区)に移転改築して聖堂と称し、 ...
46. おおいがわ【大井川】静岡県:総論
日本歴史地名大系
稿)。このため江戸初期には渡河の手助けをする川越人足が現れたが(烏丸光広「あつまの道の記」・林羅山「丙辰紀行」)、渡賃などをめぐってトラブルが頻繁に発生、幕府と ...
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日本人名大辞典
?−? 江戸時代前期の儒者。京都の人。林羅山(1583-1657)の門弟であった。字(あざな)は子正。名は俊成とも。 ...
48. おくじゅしゃ【奥儒者】
国史大辞典
江戸幕府の職名。将軍の侍講である。若年寄支配。布衣格、二百俵高、役料二百俵。初めは特に置かれず、林羅山・鵞峯・鳳岡がこの任務にあたったが、享保年間(一七一六―三 ...
49. 諡
日本大百科全書
さ)の威公、同光圀(みつくに)の義公、同斉昭(なりあき)の烈公など)に、(3)学者では儒者(林羅山(らざん)の文敏、木下順庵(じゅんあん)の恭靖(きょうせい)な ...
50. 伽婢子 1 81ページ
東洋文庫
燈新話』の中でも日本で最も歓迎された話で、早く慶長五年(一六〇〇) には林羅山が「牡丹燈之詩」をものし(『林羅山詩集』一二)、慶長末成立とされる『奇異雑談集 ...
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林羅山と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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