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  11. 関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

ジャパンナレッジで閲覧できる『関ヶ原の戦い』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
関ヶ原の戦い
せきがはらのたたかい

1600年(慶長5)9月、徳川家康の率いる東軍と、石田三成(みつなり)を中心とする西軍によって、美濃(みの)国関ヶ原(岐阜県不破(ふわ)郡関ヶ原町)で行われた「天下分け目」の戦い。
[岡本良一]

三成挙兵

1598年(慶長3)豊臣(とよとみ)秀吉が死ぬと、豊臣政権はたちまち内部分裂の兆しをみせ始めた。秀吉は生前から、家康の実力が諸大名のそれをはるかに超えているのを憂えて、前田利家(としいえ)を重用して家康に対抗させようとしたり、五大老・五奉行(ぶぎょう)の制度を設けて、自分の死後における家康の独走を阻もうと考えていた。しかし利家も秀吉の後を追うようにその翌年に死んだので、天下の声望はいよいよ家康に集まり、その独走体制はさらに強まり、専横ぶりもまたひどくなってきた。五奉行の一人であり、かねて家康に強い反感を抱いていた石田三成は、打倒家康を図ってひそかに策を練っていた。1600年6月、家康は、会津の上杉景勝(かげかつ)が上洛(じょうらく)の招きにも応ぜず、兵備を整えているというのを口実に景勝討伐の軍を起こし、その前年の9月以来、腰を据えていた大坂城を発して東下した。かねて挙兵の機をうかがっていた三成はこの機をとらえ、毛利輝元(もうりてるもと)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)らを主とする西国諸大名や、小西行長(ゆきなが)、増田長盛(ましたながもり)、長束正家(なつかまさいえ)、大谷吉継(よしつぐ)、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らの文治派諸将を糾合し、7月大いに家康の罪を鳴らして兵をあげ、家康の老臣鳥居元忠(とりいもとただ)の守る伏見(ふしみ)城(京都市伏見区)を攻めた。内心ひそかに三成の挙兵を期待しつつ、江戸を経、会津に向かっていた家康は、7月24日下野(しもつけ)国小山(おやま)(栃木県小山市)で三成挙兵の報を受けるや、すぐさま従軍の諸将を呼び集めて軍議を開いた。諸将のなかには福島正則(まさのり)、池田輝政(てるまさ)、黒田長政(ながまさ)、浅野幸長(よしなが)、山内一豊(かずとよ)ら豊臣恩顧の大名が多くいたが、彼らはかねて三成にきわめて強い反感を抱いていたので、いずれも家康に従って三成と戦うことを誓い、軍議はたちまち決定した。
[岡本良一]

暗夜豪雨をついて関ヶ原へ

家康は、長男の結城秀康(ゆうきひでやす)や伊達政宗(だてまさむね)を景勝に備えて残し、その他の諸将には反転して西上することを命じ、自らはいったん江戸へ帰り、次男の秀忠をして、榊原康政(さかきばらやすまさ)、大久保忠隣(ただちか)、酒井家次(いえつぐ)ら主として徳川譜代(ふだい)の諸将よりなる一軍の将として中山道(なかせんどう)を進発させ、福島正則、池田輝政、黒田長政、浅野幸長ら豊臣恩顧大名よりなる主力部隊には、軍監として股肱(ここう)の井伊直政(なおまさ)、本多忠勝(ただかつ)両将を添え東海道を西上させた。一方、十数日を費やして8月1日にようやく伏見城を攻略した西軍は、進んで大垣(岐阜県大垣市)に陣して東軍の至るのを待った。中山道を進んだ秀忠軍は、信州上田(長野県上田市)で真田昌幸(さなだまさゆき)にその進撃を阻まれて戦機を逸したが、東海道を進んだ福島、池田、黒田、浅野らは8月23日、織田秀信(おだひでのぶ)(信長の孫)が守る岐阜城を陥れた。それまで江戸に腰を据えて、東海道軍の動向を注視していた家康は、岐阜城陥落の報に9月1日ようやく江戸を発し、14日岐阜の西方赤坂(大垣市)に着陣。一部の兵を残して大垣城に備え、主力をもって三成の本拠佐和山(さわやま)城(滋賀県彦根(ひこね)市)を落とし、さらに進んで大坂城を衝(つ)くという体勢をとり、ただちに行動に移った。これを知った三成らはその夜半、激しい雨を冒して兵を返し、要衝関ヶ原に布陣して東軍を待った。一方、やや遅れて西軍に追尾するように進んでいた東軍もまた関ヶ原に陣した。西軍は、石田隊、島津隊を左翼として北国(ほっこく)街道を扼(やく)し、小西、宇喜多、大谷の諸隊を中央とし、右翼の松尾山に陣する小早川隊とともに中山道を挟み、東方の南宮山(なんぐうさん)に長束、吉川(きっかわ)、毛利隊という陣形。これに対する東軍は、黒田、細川、加藤(嘉明(よしあき))、田中の諸隊と家康麾下(きか)の井伊直政、松平忠吉(ただよし)の諸隊を右翼、福島、京極(きょうごく)、藤堂(とうどう)の諸隊を左翼とし、池田、浅野隊をもって南宮山に備え、家康の本隊は桃配山(ももくばりやま)に陣した。両軍の兵力はともに8万前後でほぼ伯仲であったが、西軍にはかねて東軍に内応していた諸将が多く、いざ開戦となって実際に戦闘に参加したのはようやく3万5000。それにもかかわらず西軍の善戦ぶりはみごとであった。
[岡本良一]

勝敗を決めた寝返り

家康は機嫌の悪いときには爪をかむ癖があったが、この日も勝敗の帰趨(きすう)が定まらなかった午前中、しきりに爪をかんでいらいらしていた。しかし午後になって、かねて内応を約しながらも、去就を明らかにせず形勢を観望していた小早川秀秋が、家康からの厳しい催促にようやく寝返りを決し、にわかに大谷隊の側背に攻撃をしかけたのを境に、西軍はみるみる総崩れとなり、午後4時ごろ東軍の地すべり的大勝が決定した。三成は伊吹山(いぶきやま)に逃れたが潜伏中を捕らえられ、後日、小西行長、安国寺恵瓊らとともに京都で斬(き)られたほか、西軍の主将として大坂城にあった毛利輝元は安芸(あき)(広島県)など9か国112万石から周防(すおう)、長門(ながと)(山口県)2か国36万石に大減封されるなど、西軍に加わった諸大名は取潰(とりつぶ)し、減封などいずれも厳しい処分を受けた。それに伴い豊臣秀頼(ひでより)も摂津、河内(かわち)、和泉(いずみ)(兵庫県、大阪府)で65万石の一大名に成り下がり、徳川氏の覇権が事実上確立するに至った。
[岡本良一]



改訂新版 世界大百科事典
関ヶ原の戦
せきがはらのたたかい

1600年(慶長5)9月,徳川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍が美濃関ヶ原で行った合戦。全国のほとんどの大名がまき込まれたこの合戦に勝ったことで,家康は事実上全国の支配者となり,さらに3年後に征夷大将軍となったので,〈天下分け目の戦〉ともいわれる。

原因

1598年8月の豊臣秀吉死後の政権は,家康を筆頭とする五大老と三成を筆頭とする五奉行によって運営されることとなった。秀吉の遺言によれば,家康,前田利家,毛利輝元,上杉景勝,宇喜多秀家の五大老が秀頼を後見し,〈御法度,御置目〉などの天下の政治は長束正家,石田三成,増田長盛,浅野長政,前田玄以の五奉行が合議によって推進し,太閤蔵入地その他の中央政権を支える財政の〈算用〉は,家康,利家の2人が総攬することになっていた。このことは,8月から9月にかけて五大老,五奉行の間で交換された多数の誓書によって確認され,秀吉の死で緊急の課題となった朝鮮からの撤兵も,この体制によって実施された。この間,五大老は撤退する軍の集結地の指定から船の手配にいたる全般の指令を連署の書状で通達し,また同様な連署状によって寺社,大名,武士に対する知行の安堵・発給が行われ,ときに五奉行の目録が添えられるという形式が翌年の8月ごろまでとられている。これらのことは,秀吉の遺言が表面上は守られたことを示している。

 99年正月に入ると,五大老,五奉行内部の対立がしだいに表面化してきた。正月19日,家康を除く大老と五奉行は,家康が伊達政宗,福島正則,蜂須賀家政らと婚姻を予約したことを,秀吉の遺言違反として難詰した。この事件は家康と4大老,五奉行が遺言遵守の誓書を交換して収まったかに見えたが,閏3月3日利家の死をきっかけに細川忠興,蜂須賀家政,福島正則,藤堂高虎,黒田長政,加藤清正,浅野幸長らの7大名が三成を襲い,三成は大坂を脱出して伏見に逃れ,家康の軍勢に守られて居城の佐和山に帰るという事件が起きた。この事件は,秀吉の側近として事実上天下を切り回してきた三成などの吏僚派と,秀吉の御前から遠ざけられて戦場で使役された武将派の対立とも,また家康が三成を庇護したのは,後日に三成に挙兵させて一挙に天下を奪う意図によったものとも評されている。しかし真の対立は,武士の権力を維持する路線の問題にあった。三成が推進したのは,武士をはじめとする全国民を絶えまなく戦争に動員することで体制を強化する路線であり,朝鮮出兵もこれに基づいていた。しかしその破綻は朝鮮における軍事的敗北によって証明され,無事を求める声は諸階層に充満していた。家康がこの声を代表したことは,同じ3月に起きた伊集院幸侃(こうかん)(忠棟)の事件によって天下に明らかとなった。薩摩島津氏の家老であった幸侃は,三成と結んで島津氏の家臣と領民を際限ない戦争に駆り立てる先頭に立った人物であった。その幸侃を当主の家久が伏見の島津屋敷で斬り殺したのがこの事件であるが,これは体制に対する公然たる反逆であり,三成は家久を問責しようとした。ところが家康は家久をかばい,また幸侃の子忠真が事件を知って国元で起こした反乱にも家臣を派遣して平和的解決に努めさせた。家康は,三成の路線に反対であることを行動によって天下に明らかにしたのであり,このことによって家康は武将派の大名の支持を集めたのであった。

 これらの事件の直後に家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入ったが,これは〈天下殿になられ候〉と当時評されたような意味をもつ行動であった。さらに8月を過ぎると他の4大老が前後して帰国し,ひとり中央に残った家康は大坂城西丸に入り,五大老の権限を事実上一人で振るうこととなった。一方,会津に帰国した上杉景勝は城の修築や道路の補修など領内の整備に努めたが,このことは当時は一般に戦争の準備と受けとられた。

戦の経過

家康は1600年4月,使者を派遣して弁疏のために上洛するよう景勝に要求し,他方では上洛拒絶に備えて諸大名に会津攻めの動員令を下し,島津家久に伏見城の留守を命じた。景勝は上洛を拒絶し,家康は福島,池田,細川,黒田,浅野,加藤(嘉明),藤堂,山内などの諸大名を率いて東下し,7月21日江戸を出陣し,同24日下野小山で三成挙兵の報に接した。三成は,家康東下の間に他の4奉行と申し合わせ,五大老の一人毛利輝元を盟主として,7月17日家康を糾弾する〈内府ちがひの条々〉を明らかにして挙兵し,東軍の拠点伏見城を攻略して近畿を勢力下に収めた。西軍はさらに濃尾に進出を図り,これに対して東軍は福島,浅野,黒田,加藤,山内などの諸大名が先発して8月中旬には尾張に達し,同23日に木曾川を渡って西軍の守る岐阜城を攻略した。8月5日小山から江戸に帰り,9月1日に江戸をたって西上した家康は9月13日に岐阜に入り,翌14日に長良川を渡って美濃赤坂で軍議を開き,東軍の主力は三成の近江佐和山城を攻略し,大坂に向かうことを決定した。この動きを察知した西軍は,これを阻止するために15日午前1時ごろ,雨をついて主力を関ヶ原に進出させた。

 戦闘は午前7時過ぎから始まったが,この東軍9万余,西軍8万余が東西4km,南北2kmの小盆地で激突した大会戦は,小早川秀秋の裏切りもあって,午後2時ごろ東軍の勝利に終わった。石田三成,小西行長,安国寺恵瓊などはまもなく捕らえられて10月1日京都六条河原で処刑され,毛利輝元,島津義弘らは軍勢をまとめて国に帰った。九州,北陸,東北の各地で行われていた東西諸大名の間の戦闘も,関ヶ原の結果が伝わるとともに,一部を除き急速に終息した。

結果

9月15日の戦闘の経過を見ると,西軍の側には小早川の裏切りや,島津隊が攻撃の要請を受けながら戦況を傍観するなど,意思の不統一を感じさせる動きが多い。これは島津氏には伊集院幸侃をめぐる上述のような事情があり,島津氏内部の西軍派と東軍派の対立が戦闘に際して島津隊を動けなくしたと考えられる。してみれば,秀吉の死後から合戦にかけて家康が天下に明示した政治路線が諸大名に支持されたことが,家康に勝利をもたらした理由であったといえよう。こうした支持によって家康は早くも9月27日には大坂城に入り戦後処理を開始したが,その中心は諸大名の大移封であった。西軍に参加したことを理由に所領を没収された大名は90人,438万石,減封されたのは毛利輝元(安芸など10ヵ国120万石から防長2国36万石に),上杉景勝(会津120万石から米沢30万石に)など4人,220万石であり,全国2000万石弱のうちにできたこの660万石の空白地の大部分を,旧豊臣系の諸大名に加増として配分した。これには大規模な転封が伴っており,彼らが移動したあとにできた新たな空白地には,それまで関東で知行を与えられていた徳川譜代の部将が加増されて転封した。江戸の周辺や全国の要地に親藩や譜代大名を置き,外様の有力大名は遠隔の地方に置くという,江戸時代の大名配置の原型がここに完成した。
[高木 昭作]

[索引語]
徳川家康 石田三成 天下分け目の戦 五大老 五奉行 前田利家 毛利輝元 上杉景勝 宇喜多秀家 伊達政宗 福島正則 蜂須賀家政 伊集院幸侃 伏見城 島津家久 毛利輝元 小早川秀秋 移封


国史大辞典
関ヶ原の戦
せきがはらのたたかい
慶長五年(一六〇〇)に美濃関ヶ原で起った豊臣政権の主導権を争う戦闘。慶長三年八月豊臣秀吉が病没した後、遺児秀頼の成人までは五大老と五奉行による政務代行という体制をとることになったが、五大老筆頭の徳川家康は、政権内部の地位とその軍事的実力を背景に、伊達・加藤・福島・蜂須賀氏らと婚姻を約すなど当初から秀吉の遺命に叛く行動をとる。翌四年閏三月三日家康と並ぶ声望を持つ五大老前田利家が死ぬと、それを契機に五奉行中の実力者石田三成は加藤清正・黒田長政ら三成を敵視する秀吉子飼いの七武将に襲撃され、家康の助けを借りて佐和山に逃げ帰る。この事件により、家康は政務に関してほぼ独裁権を握り、また、三成を生かすことによって将来の武力的衝突の核を残し、独自の政権を創出するための布石とした。中央では、七月五大老の一人上杉景勝の帰国を機に、前田利長・宇喜多秀家・毛利輝元の三大老が相ついで帰国し、秀吉の縁戚で五奉行筆頭の浅野長政も領国甲斐に蟄居となった。よって、伏見には官僚的な三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)と家康のみが残った。九月二十七日家康は大坂城西ノ丸に入って秀頼周囲の勢力を牽制する一方、福島・伊達・最上・黒田・藤堂などの有力諸大名に総数百八十通に及ぶ書状を送って自己の指導力を強めようとした。また、島津氏の家臣の反乱(庄内の乱)に積極的に介入しその援助と称して大半の九州大名を軍事動員した。あけて慶長五年正月家康は上杉景勝の上洛を促したが、景勝は領内の仕置などを理由にそれを拒否した。五月家康はこれを口実に会津遠征軍派遣を決め、三奉行らの反対を無視して六月十六日伏見城に入り、十八日には伏見を発した。この家康の行動の目的は、一時上方を離れて三成の挙兵を促すことであった。七月二日江戸城に到着した家康は七日軍令を発し、十三日先発の榊原康政らが、そして二十一日には家康も江戸を発ち、二十四日に下野小山に着いた。そのころ上方では、石田三成が越前敦賀城主大谷吉継の援助を得、毛利輝元を総大将に戴いて挙兵した。七月十七日には長束・前田・増田の三奉行連署で家康への弾劾状を発給させ、これに檄文を添えて諸大名に送りその糾合をはかった。これに応じて大坂に参集した大名は、毛利一門の毛利秀包・吉川広家・小早川秀秋らのほか、宇喜多秀家・生駒親正・脇坂安治・蜂須賀家政・長宗我部盛親・小西行長・島津義弘・同豊久・福原長堯・毛利高政・鍋島勝茂・立花宗茂・高橋元種・同直次・秋月種長・相良頼房らで、総勢九万三千七百人に及んだ。三成らの西軍は、七月十九日家康の留守居鳥居元忠らの守る伏見城を包囲し八月一日これを抜いた。また、七月二十二日からは東軍についた細川忠興の父幽斎の守る丹後田辺城を小野木公郷ら一万五千を以て攻撃させたが、彼らの士気はあがらず九月十三日の勅命講和まで攻めあぐねた。伏見城を落とした三成は八月九日美濃の垂井に到着し、十一日大垣に入城した。またこの間岐阜城の織田秀信を誘ってこれを味方につけた。一方小山に在陣していた家康は諸将に上方の異変を告げ、去就は各人に任せるとしたが、福島正則の意見に従い打倒三成に決し、さらに遠江掛川城主山内一豊の主唱により東海道に城地を有する者はこれを家康に明け渡すこととした。福島・池田輝政ら東軍の先鋒隊は尾張清須付近に集結し、八月二十二日岐阜城攻撃を開始し、二十三日織田秀信を降伏させ、犬山城も落とし、一部隊は合渡にいた西軍を破った。沢渡まで出陣していた三成はあわてて大垣に戻った。北陸方面では、前田利長が家康に応じ山口宗永の大聖寺城を攻略して越前に出撃しようとしたが、能登七尾の前田利正の反対により金沢に兵を帰した。伊勢方面では八月中旬から東軍についた阿濃津城の富田信高が西軍の攻撃をうけ二十五日落城、松坂城の古田重勝も和を乞うた。一人長島城の福島正頼は奮戦して持ちこたえ、攻撃中の西軍は家康西上の報を受け主力を美濃に向けた。大津城の京極高次ははじめ西軍に応じて北陸方面に出兵したが、家康とも通じており九月四日密かに大津城に戻った。そこで西軍は立花宗茂らをさし向け、毛利元康を将とする討伐軍を編成して九月十二日から攻撃を開始し、関ヶ原合戦当日の十五日朝にようやく落としたが、ここに大軍を釘付けにされた。家康は先鋒軍の働きを確認した上で九月一日江戸を発し、十一日清須に到着した。大垣城の西軍は家康の到着を知り、士気を鼓舞するため十四日三成家臣島清興・蒲生郷舎らが杭瀬川を隔てて駐屯する東軍の中村一栄・有馬豊氏を挑発し、深追いした野一色頼母らを討った(杭瀬川の戦)。その日夜、西軍は家康が大垣城を素通りして三成の居城佐和山を衝くとの情報を得、福原長堯以下七千五百ばかりを大垣に残し、大雨の中を南宮山の南を迂回して関ヶ原に先廻りしようとした。西軍移動の報告をうけた家康は諸隊に出動を命じ関ヶ原に向かった。関ヶ原ではすでに諸隊が展開を終え、天満山に布陣した宇喜多秀家を中心に北方の笹尾山に石田三成、その南に島津義弘・小西行長、そして南方の松尾山に前日から小早川秀秋が陣しており、そのふもとに脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保、その北に宇喜多と並ぶように大谷吉継・戸田重政・木下頼継・平塚為広らが布陣していた。そして、南西かなり離れた南宮山に毛利秀元と吉川広家らが陣していた。東軍の先鋒が関ヶ原に到着したのは十五日の明け方で、直ちに丸山から関ヶ原の西端にわたって展開し、家康は関ヶ原東南の桃配山に本陣を据えた。午前七時すぎ東軍の松平忠吉・井伊直政が福島正則隊の側から宇喜多隊に攻めかけたのを契機に戦端が開かれた。福島隊も即座に宇喜多隊に鉄砲を放ち宇喜多隊もこれに応戦した。藤堂高虎・京極高知らは大谷吉継を攻撃、寺沢広高もこれに合流した。松平忠吉・井伊直政・本多忠勝らは小西行長を攻撃した。石田三成の隊には黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・田中吉政・金森長近らの諸隊が先を争って攻撃をしかけ一時優勢に立ったが、石田隊の反撃にあい、戦局は一進一退となった。そのころ、福島隊は宇喜多隊の猛反撃にあい退却を始めたが、正則の叱咤により前の位置まで押し返した。大谷吉継も藤堂・京極・織田らの隊を防いで奮戦した。この混戦の中で三成は、かねての約束どおり天満山に狼火をあげ、松尾山の小早川秀秋や南宮山の毛利秀元・吉川広家に進撃の合図をしたが、東軍にも通じている小早川・吉川の隊は動かなかった。勝敗は正午になっても容易に決せず、焦った家康は内応の約束のある小早川秀秋を動かすために松尾山に向かって鉄砲を一斉射撃した。切羽詰まった秀秋は西軍に対して攻撃するよう全軍に指令し、松尾山をくだって大谷隊に攻めかかった。大谷吉継は秀秋の裏切りを予測していたのでこれをよく防いだが、脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が寝がえって大谷隊を攻撃するに至って防ぎきれず、ついに自害した。大谷隊の潰滅につづき、小西隊も潰れ、宇喜多隊も敗走した。石田隊はよく東軍諸隊の攻撃を防いで戦っていたが、小西・宇喜多の敗走の後ついに潰滅し、三成は伊吹山に逃走した。最後まで動かなかった島津隊は、西軍の敗北が決定的になった後全軍を一丸にして敵中央を突破して追撃してきた松平忠吉隊と戦いながら逃走した。一方南宮山の西軍は、長束正家・安国寺恵瓊らの勧告を吉川広家が聞かず、動けないうちに敗報が届いた。また、大垣城では相良頼房・秋月種長らが同志の熊谷直盛・垣見家純・木村勝正らを討って、東軍に下った。この戦いに勝利した家康は、内応した小早川・脇坂・朽木を先鋒に三成の居城佐和山を落とし、毛利輝元と和談して大坂城から退去せしめた。これによって、東北・山陰・四国・九州の各地で起っていた小戦闘も終熄した。九月二十一日石田三成は伊吹山中で捕えられ、小西行長・安国寺恵瓊らとともに京都六条河原で処刑された。家康は石田・宇喜多・小西・長束らの領地を没収し、地位保全を約した毛利氏を防長二国に押し込め、上杉・佐竹を減知の上本領を移して勢力を削ぎ、それらの没収地六百六十二万石余のうち八〇%の五百二十万石を旧豊臣系の諸大名に加増として配分した。しかし、それは大規模の転封を伴うもので、そのため空白となった関東から畿内を結ぶ諸国には家康の譜代の部将が加増(合計百十万石)されて配置され、江戸幕府の大名配置の原型が完成した。これは、外様大名に対する軍事的警戒を露骨に示すもので、福島正則などは加増されながら尾張清須から安芸広島に移され毛利氏の押えとして利用された。これによって家康の実力は圧倒的なものとなったが、なおこの時点では豊臣政権の五大老の立場で行動しており、独自の権威を持つのは慶長八年の征夷大将軍補任を待たなければならなかった。
 関ヶ原の戦に関する史料としては、まず戦記があげられる。全般的な戦いを概観するには、太田牛一の『関ヶ原軍記』、酒井重忠の著わした『関ヶ原記』、阿部忠秋の同名の書、酒井忠勝の見聞をもとに林道春・春斎が編纂した『関ヶ原始末記』、それをもとにして種々の他書を参考にしつつ宮川尚古が編んだ『関ヶ原軍記大成』、作者未詳の『石田軍記』などが便利である。また、参加した大名個人の動きを中心に編まれた『黒田長政記』『清正記』『脇坂記』『細川忠興軍功記』などは、成立も比較的早く、当時の見聞や体験がもとになったと考えられるので利用できる。しかし、最も信頼できるものが当時の古文書・記録であることはいうまでもない。古文書は、中村孝也の『徳川家康文書の研究』に家康の発給した文書とその関連文書が収められている。合戦に参加した大名家の文書については、『島津家文書』『毛利家文書』などに関連史料が多く見える。また、後世の編纂物ではあるが、『寛政重修諸家譜』やそれぞれの家の家譜や家記に当時の動静が記されており、古文書が収録されていることもある。一方記録では、『義演准后日記』『時慶卿記』『言経卿記』などに当時の風聞が記されているが、あまり詳しい記事はない。家康の侍医板坂卜斎の随行記である『慶長年中卜斎記』は、この時期の家康の動きを知る上での重要史料である。また、作者は不詳であるが、『当代記』は、この時期の全般的政治情勢が広く記されている。合戦に参加した諸家の家臣の覚書・書上・聞書の類は、質・量ともに一級史料であり、たとえば島津家では『旧記雑録』や『旧典類聚』の中に多数収録されている。また、格別に覚書が残っていなくとも関係大名の家臣の由緒書などに関ヶ原での動きが記されている場合が多く、このような史料はいまだ十分には発掘されていない。また、当時の武将の逸話などについては、『老人雑話』『落穂集』『常山紀談』などがあり、参謀本部編の『日本戦史』関原役の補伝には、そのような逸話が集められている。なお、藤井治左衛門の『関ヶ原合戦史料集』は、永年にわたって蒐集した戦いに関する史料を綱文をたて編年に並べている。
[参考文献]
井上一次『関ヶ原の戦』(『大日本戦史』三)、原田伴彦『関ヶ原合戦前後』、松好貞夫『関ヶ原役―合戦とその周辺―』、二木謙一『関ケ原合戦』(『中公新書』六四二)、桑田忠親「関ヶ原の戦」(『日本の合戦』七所収)
(山本 博文)
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5. 明石藩
日本大百科全書
勝(はちすかまさかつ)、1578年高山右近(うこん)が一時居城とした。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、池田輝政(てるまさ)が播磨一国52万石を領知した。同年 ...
6. あか‐ぞなえ【赤備え】
デジタル大辞泉
すべての将兵の武具を赤色にした軍勢。徳川の臣で関ヶ原の戦いで武功をたてた井伊直政の手勢など。  ...
7. 秋田(市)
日本大百科全書
安東実季(あんどうさねすえ)が湊(みなと)城を拠点にこの地を支配し、のちに秋田氏を名のった。その後、関ヶ原の戦いで、1602年(慶長7)に佐竹義宣(さたけよしの ...
8. 秋田藩
日本大百科全書
(秋田県)を支配した藩。久保田(くぼた)藩ともいう。藩主佐竹(さたけ)氏。外様(とざま)。関ヶ原の戦いの結果、1602年(慶長7)佐竹義宣(よしのぶ)が常陸(ひ ...
9. 安芸国
日本大百科全書
果たした豊臣(とよとみ)政権下に入り、山陰山陽9か国112万石の大大名となった。 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は防長2国に削封(さくほう)され ...
10. 秋元泰朝
日本大百科全書
1580年(天正8)武蔵国深谷に生まれ、1592年(文禄元)父とともに徳川家康に拝謁し、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに従軍。1602年武蔵国足立郡に知行地5 ...
11. 浅尾藩
日本大百科全書
。初代広定(ひろさだ)は生国尾張(おわり)、豊臣(とよとみ)秀吉に仕えて1万石を領したが、関ヶ原の戦いのとき石田三成(みつなり)方に加担、敗れて高野山(こうやさ ...
12. 浅野氏
日本大百科全書
1587年若狭(わかさ)一国、1593年(文禄2)甲斐(かい)一国21万石余、1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、長政の子幸長(よしなが)が家康より紀伊国和歌山 ...
13. 浅野長政
日本大百科全書
て渡海、1593年(文禄2)甲斐(かい)(山梨県)22万石に移封、翌年五奉行の一人となる。関ヶ原の戦いには東軍方に参加。江戸にて没し、高野山悉地院(こうやさんし ...
14. あさの‐ながまさ【浅野長政】
デジタル大辞泉
はじめ織田信長に仕え、のち豊臣秀吉に重用されて甲斐(かい)22万石を領し、五奉行の一人となる。関ヶ原の戦いには徳川方に属した。  ...
15. 浅野幸長
日本大百科全書
1595年石田三成(みつなり)の讒言(ざんげん)で一時能登(のと)(石川県)に流された。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いには徳川家康の先鋒(せんぽう)として岐阜 ...
16. あさの‐よしなが【浅野幸長】
デジタル大辞泉
[1576~1613]江戸初期の武将。長政の子。はじめ父とともに豊臣秀吉に仕えたが、関ヶ原の戦いには徳川方に属し、功により紀伊37万石を領した。  ...
17. 足守藩
日本大百科全書
豊臣(とよとみ)秀吉の正室)の兄家定(いえさだ)。秀吉に仕え姫路2万5000石を領したが、関ヶ原の戦いののち備中賀陽(かよう)、上房(じょうぼう)両郡のうちで2 ...
18. 安土桃山時代
日本大百科全書
滅ぼしたとき、とする説もある。桃山時代はそれ以降、終期は秀吉が没した1598年(慶長3)8月、あるいは関ヶ原の戦いによって徳川氏の覇権が確立された1600年(慶 ...
19. あづちももやま‐じだい【安土桃山時代】
デジタル大辞泉
織田信長がはじめて入京した永禄11年(1568)から、また一説に天正元年(1573)から、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝った慶長5年(1600)までの約30年間。美 ...
20. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
大坂城に移る。石田三成、徳川家康不和1600(慶長5)6月家康、上杉氏討伐のため大坂出発。9月関ヶ原の戦い、三成ら西軍敗北1601(慶長6)3月家康、大坂城より ...
21. 尼崎藩
日本大百科全書
江戸時代、摂津尼崎(兵庫県尼崎市)周辺を領有した藩。尼崎郡代であった建部(たけべ)氏が、関ヶ原の戦い後も引き続き徳川氏の郡代を務めていたが、1615年(元和1) ...
22. 天草四郎
日本大百科全書
父益田甚兵衛好次(ますだじんべえよしつぐ)は、天草大矢野の産で、領主小西行長(ゆきなが)に仕えたが、関ヶ原の戦いで改易されたので宇土(うと)郡江辺村で帰農した牢 ...
23. 有馬氏
日本大百科全書
吉(とよとみひでよし)に仕えて播磨(はりま)三木満田城に移ったが、その子則頼(のりより)が関ヶ原の戦いに東軍に属して加増を受けた。ついで9代豊氏(とようじ)が遠 ...
24. 有馬晴信
日本大百科全書
もとに「日本イエズス会版」が刊行された。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では小西軍に従軍したが、関ヶ原の戦いでは、のち東軍に属して所領安堵される。160 ...
25. 阿波国
日本大百科全書
翌年に吉野川デルタ上に徳島城が完成し、居城は一宮から徳島に移された。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに際して豊臣秀頼(ひでより)に阿波を返上した家政は出家して ...
26. 安国寺恵瓊
日本大百科全書
には目付(めつけ)または奉行(ぶぎょう)として功があり、慶長初年には伊予で6万石を領した。関ヶ原の戦いには主脳として西軍に加わったが、ともに南宮山(なんぐうさん ...
27. あんこくじ‐えけい【安国寺恵瓊】
デジタル大辞泉
の臨済宗の僧。安芸(あき)の人。豊臣秀吉の信任を得て寺領を与えられ、東福寺・安国寺を復興。関ヶ原の戦いには石田三成側につき、捕らえられて斬られた。恵瓊。  ...
28. 井伊直政
日本大百科全書
直政は「赤鬼」の異称があった。関東入部後、上野(こうずけ)国(群馬県)箕輪(みのわ)城12万石を封与、関ヶ原の戦い後、近江(おうみ)国(滋賀県)佐和山(さわやま ...
29. いい‐なおまさ【井伊直政】
デジタル大辞泉
[1561~1602]安土桃山時代の武将。徳川家康に仕えた。長久手・小田原合戦に勇名をはせ、関ヶ原の戦いにも功を立てた。  ...
30. 伊香保温泉
日本大百科全書
ね我(あ)が上(へ)には故(ゆえ)はなけども児(こ)らによりてそ」など9首が詠まれている。関ヶ原の戦い(1600)ののち、長尾氏の遺臣12人が土着して郷士となり ...
31. 池田氏
日本大百科全書
吉に仕えたが、徳川家康の娘富子(良正院、督姫(とくひめ))を継室に迎えて家康の信任を得た。関ヶ原の戦いの恩賞として播磨(はりま)52万石を賜って姫路藩主となり、 ...
32. 池田輝政
日本大百科全書
めとったが、94年(文禄3)家康の次女督姫(とくひめ)富子(法号良正院)を継室(けいしつ)に迎えた。関ヶ原の戦いでは家康に味方し、その戦功で播磨(はりま)(兵庫 ...
33. いけだ‐てるまさ【池田輝政】
デジタル大辞泉
[1564~1613]安土桃山時代から江戸初期にかけての武将。初め織田信長に、のち豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いでは徳川家康に従って功をあげ、播磨(はりま)を領 ...
34. 生駒氏
日本大百科全書
文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に出陣。また秀頼(ひでより)の補佐役としても重きをなす。関ヶ原の戦いでは親正の子一正(かずまさ)は東軍に、孫正俊(まさと ...
35. 石田軍記
日本大百科全書
豊臣秀頼(とよとみひでより)誕生、同秀次(ひでつぐ)讒言(ざんげん)、秀次自殺、徳川家康会津進発、三成謀反、関ヶ原の戦いのことなど、さらに三成ら刑死に至るまでの ...
36. いしだ‐みつなり【石田三成】
デジタル大辞泉
太閤検地など内政面に活躍。文禄4年(1595)近江佐和山城主となり19万4千石を領したが、秀吉の死後、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れ、処刑された。  ...
37. 石田三成陣跡[百科マルチメディア]
日本大百科全書
関ヶ原の戦いで西軍の将石田三成(みつなり)が陣を構えた笹尾山。西軍の布陣北端にあたる。この山の麓(ふもと)で、関ヶ原の戦い最大の激戦が繰り広げられた。山上には「 ...
38. 伊集院
日本大百科全書
枕崎(まくらざき)へのバスが発着する。鹿児島三大行事の一つである妙円寺詣(みょうえんじまい)りは、関ヶ原の戦いでの島津軍の奮戦の故事にちなみ毎年10月第4土・日 ...
39. 出石藩
日本大百科全書
、政固と継いで廃藩置県(1871)に及んだ。小出氏はもと豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、吉政は関ヶ原の戦いに徳川方に属して本領安堵(あんど)された家筋、仙石氏も秀吉 ...
40. 出雲国
日本大百科全書
利(もうり)氏の攻撃を受け、1566年(永禄9)滅亡し、以後出雲は毛利の支配下となった。 関ヶ原の戦い後、堀尾吉晴(ほりおよしはる)が入国、松江城を築いて本拠を ...
41. 板倉勝重
日本大百科全書
。家康に重用され、駿府(すんぷ)町奉行(ぶぎょう)や、関東移封後は江戸の町奉行などを歴任。関ヶ原の戦い以降は京都関係の政務を担当、1603年(慶長8)の江戸開幕 ...
42. 一領具足
日本大百科全書
、元親(もとちか)はこれを地域ごとに「衆」として組織し、社寺造営など軍役以外にも動員した。関ヶ原の戦い後山内(やまうち)氏の入国にあたり一部の一領具足は浦戸一揆 ...
43. 一刀流
日本大百科全書
(小野派の祖)の両名が傑出している。なかでも典膳は一刀斎の嫡伝を受け、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いのとき、200石をもって徳川家康に召し出され、のちに2代将 ...
44. 伊藤一刀斎
日本大百科全書
その後の動静もまったく不明であるが、一説に帰西して敦賀の大谷刑部少輔吉継(よしつぐ)に仕え、関ヶ原の戦いに参加したというが、確証はない。渡邉一郎 ...
45. 伊奈忠次
日本大百科全書
関所の取締りなども奉行した。99年(慶長4)従(じゅ)五位下備前守(びぜんのかみ)に叙任、翌1600年の関ヶ原の戦いには小荷駄(こにだ)奉行を務めた。また、01 ...
46. 稲富流
日本大百科全書
浅野幸長(よしなが)、京極高知(きょうごくたかとも)らの諸大名にも教授したという。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの当初、大坂の細川邸の留守を預けられたが、忠興 ...
47. 因幡国
日本大百科全書
められて山名氏は滅び、因幡には宮部、亀井、垣屋、木下の諸大名が入った。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いにより、池田、山崎、亀井の諸大名が分割統治したが、1617 ...
48. 稲葉山城
日本大百科全書
信孝(のぶたか)とかわり、池田輝政(てるまさ)を経て信忠の子秀信(ひでのぶ)が入り、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに際し落城、翌年、奥平信昌(おくだいらのぶ ...
49. 犬山藩
日本大百科全書
尾張(おわり)国丹羽(にわ)郡犬山城(愛知県犬山市)に藩庁を置く小藩。関ヶ原の戦い後小笠原吉次(おがさわらよしつぐ)が入封。ついで1607年(慶長12)平岩親吉 ...
50. 茨城(県)
日本大百科全書
(たいこう)検地の結果、54万5800石の領地を認められ、常総第一の大名となった。しかし、関ヶ原の戦いに態度をあいまいにしたため、1602年(慶長7)徳川家康に ...
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