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  11. 徳川秀忠
国史大辞典

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徳川秀忠
とくがわひでただ
一五七九 - 一六三二
江戸幕府第二代将軍。一六〇五―二三在職。法号台徳院殿。徳川家康の三男。母は家康の側室西郷氏於愛の方(宝台院)。天正七年(一五七九)四月七日遠江浜松城に生まれた。童名長松君、のちに竹千代と改めた。長兄信康が自害、次兄秀康が羽柴(豊臣)秀吉の養子になったため、世子の地位についた。同十八年正月上洛、十五日秀吉に拝謁を遂げ、元服して秀吉の偏諱を受け秀忠と名乗り、従四位下侍従に叙任された。同十九年正四位下少将を経て参議兼右近衛権中将、文禄元年(一五九二)九月九日従三位権中納言に進んだ。慶長五年(一六〇〇)会津の上杉景勝攻撃には先鋒としてかの地に向かい、途中下野小山にて上方における石田三成の挙兵を聞き、父家康とともに西上した。この時家康は東海道を、秀忠は東山道をとったが、同年八月石田方の真田昌幸に進軍を妨害され、昌幸を信濃上田城に攻めた。そのため時間を空費し、関ヶ原にて東西両軍の会戦迫るとの飛報を受け関ヶ原に向かうも時すでに遅く、ついに合戦に参加することができなかった。このため、家康の勘気をこうむり、諸将の調停によってようやく赦された。同六年三月二十八日従二位権大納言、同八年二月十一日家康が征夷大将軍に任じられるとともに、右近衛大将・右馬寮御監を兼ねた。この年、秀忠の長女千姫は、秀吉の遺児秀頼に入輿した。同十年二月二十四日、供奉の輩十万余人を率いて、江戸より上洛の途を進め、三月二十一日入洛、四月七日家康が将軍職を秀忠に譲る旨奏聞し、十六日に徳川氏第二代目の征夷大将軍に任じられた。この日あわせて淳和・奨学両院の別当、源氏長者、正二位内大臣に任じられ、牛車随身兵仗を賜わった。同十一年九月二十三日には新営なった江戸城に移る。同十二年には朝鮮通信使が来日し、五月六日拝謁を受け、また、同十四年には、島津家久の琉球侵攻を許し、これを服属させ、島津氏に与えた。ただし、この時期は、駿府の家康が実権を持ついわゆる「大御所時代」であって、秀忠はおもに東国を中心とした大名の統率にあたっている。同十九年三月九日従一位右大臣に叙任。この年の大坂冬の陣および翌年五月の大坂夏の陣では、家康とともに出陣し、ついに秀頼を自害させ、豊臣氏を滅ぼした。元和二年(一六一六)四月十七日の家康没後は名実ともに主権者となり、同五年広島城修築を理由に豊臣氏の旧臣である福島正則を改易するなど、一代の内にのべ四十一名の大名の改易を断行した。この中には、家康の遺老本多正純など譜代や一門に対するものも多い。朝廷との関係では、同六年娘和子(東福門院)を入内させ、寛永四年(一六二七)紫衣事件を通して後水尾天皇を退位に追い込み、孫にあたる幼女を即位させた。明正天皇である。また、対外政策については、中国船以外の外国船来航を長崎・平戸に限定し、武器輸出の禁、海賊行為の禁などの原則を堅持した。キリスト教に対しては家康の晩年の政策を引き継ぎ、弾圧を強めた。元和九年七月二十七日には長男家光に将軍職を譲り、大御所となって西ノ丸に移徙したが、なお実権を握り、土井利勝を信任して幕府権力の強化に努めた。寛永三年八月十八日従一位太政大臣。同九年正月二十四日没。年五十四。三縁山増上寺(東京都港区)に葬る。室は豊臣秀吉の養女、実は浅井長政の三女於江(崇源院)で、秀吉の側室淀君の末の妹にあたる。→慶長・元和期(けいちょう・げんなき)
[参考文献]
『徳川幕府家譜』(『徳川諸家系譜』一)、藤野保『新訂幕藩体制史の研究』、高木昭作「江戸幕府の成立」(『(岩波講座)日本歴史』九所収)、藤井譲治「秀忠大御所時代の“上意”と年寄制」(岸俊男教授退官記念会編『日本政治社会史研究』下所収)

(山本 博文)


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検索コンテンツ
1. 徳川秀忠
日本大百科全書
江戸幕府第2代将軍(在職1605~23)。家康の第3子。母は西郷(さいごう)氏お愛の方(宝台院)。天正(てんしょう)7年4月7日遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松 ...
2. 徳川秀忠[百科マルチメディア]
日本大百科全書
徳川秀忠画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) 〓東京大学史料編纂所 ...
3. 徳川秀忠
世界大百科事典
1579-1632(天正7-寛永9) 江戸幕府2代将軍。徳川家康の三男。母は西郷氏於愛の方。幼名長松(長丸とも),また竹千代。法号台徳院。長兄信康が自害,次兄秀 ...
4. とくがわ‐ひでただ【徳川秀忠】
デジタル大辞泉
[1579〜1632]江戸幕府第2代将軍。在職1605〜1623。家康の三男。関ヶ原の戦いでは父の不興を買ったが、家康の死後はその遺命を守り、武家諸法度の制定な ...
5. とくがわ‐ひでただ【徳川秀忠】
日本国語大辞典
江戸幕府第二代将軍。家康の三男。幼名長松、のち 竹千代。慶長一〇年(一六〇五)将軍となる。元和九年(一六二三)まで将軍職にあって家康の遺命を守り、諸法度の制定、 ...
6. とくがわひでただ【徳川秀忠】
国史大辞典
一五七九―一六三二 江戸幕府第二代将軍。一六〇五―二三在職。法号台徳院殿。徳川家康の三男。母は家康の側室西郷氏於愛の方(宝台院)。天正七年(一五七九)四月七日 ...
7.&nbnbsp;徳川秀忠
日本史年表
4・16 秀忠 、征夷大将軍に任じられる(公卿補任)。 1610年〈慶長15 庚戌②〉 5・4 徳川秀忠 、メキシコとの通商を許可(異国往復書翰集)。 1614 ...
8. とくがわ-ひでただ【徳川秀忠】
日本人名大辞典
1579−1632 江戸幕府2代将軍。在職1605-23。天正(てんしょう)7年4月7日生まれ。徳川家康の3男。母はお愛の方(宝台院)。慶長10年将軍職をゆずら ...
9. 徳川秀忠[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『東武実録考附江城年録』池田晃淵 ...
10. 葵紋1[図版]
国史大辞典
徳川家康 徳川秀忠 徳川家光 徳川家康 徳川家綱 徳川綱吉 徳川家宣 徳川吉宗 御紋控書 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
11. Tokugawa Hidetada 【徳川秀忠】
Encyclopedia of Japan
1579−1632 Second shogun of the Tokugawa shogunate (1603−1867); third son of its  ...
12. 德川秀忠嚴守時刻 (見出し語:德川秀忠)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 20ページ ...
13. 德川秀忠爲征夷大將軍 (見出し語:德川秀忠)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 16ページ ...
14. 德川秀忠謹愼 (見出し語:德川秀忠)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1233ページ ...
15. 徳川秀忠印[図版]
国史大辞典
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16. 徳川秀忠花押[図版]
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
17. 徳川秀忠室[文献目録]
日本人物文献目録
⇒崇源院 ...
18. 徳川家康、徳川秀忠の指物と馬印[百科マルチメディア]
日本大百科全書
右から、徳川家康の幟(のぼり)、馬印(うまじるし)、徳川秀忠の幟、大馬印。『御馬印』 巻1 寛永年間(1624~1644) 〓国立国会図書館 ...
19. 明正天皇欲太上天皇尊號於德川秀忠 (見出し語:太上天皇【篇】)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1555ページ ...
20. あおなしむら【青梨子村】群馬県:前橋市
日本歴史地名大系
南は北原村・西国分村(現群馬郡群馬町)、西は金古村(現同上)。元和三年(一六一七)五月二六日の花房右馬介宛の徳川秀忠知行宛行状(記録御用所本古文書)では「上野軽 ...
21. あおのはんじんやあと【青野藩陣屋跡】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/青野村
日本歴史地名大系
西軍の小早川秀秋を寝返らせた功により二万石を与えられ、その子正次は元和二年(一六一六)召されて将軍徳川秀忠に仕え、不破郡青野において五千石の采地を与えられ青野に ...
22. あおやぎむら【青柳村】群馬県:館林市
日本歴史地名大系
もって命じることなどを言渡した(「北条家掟書」松本稔氏所蔵文書)。慶長七年(一六〇二)当地など高五千石が徳川秀忠に仕える近藤秀用領となり、秀用は鉄砲足軽五〇人を ...
23. 青山忠俊
世界大百科事典
1578-1643(天正6-寛永20) 江戸初期の老中。通称藤五郎。伯耆守。父は幕府重臣の忠成。幼少のころより徳川秀忠に近侍。のち家光の傅(もり)となり父の遺領 ...
24. あおやま‐ただとし【青山忠俊】
デジタル大辞泉
[1578〜1643]江戸初期の老中。武蔵岩槻城主。徳川秀忠に近侍し、のち家光の補導役となったが、諫言が勘気にふれて改易された。  ...
25. あおやまただとし【青山忠俊】
国史大辞典
通称は藤五郎、官職名は伯耆守。忠成の次男。天正六年(一五七八)二月十日、遠江浜松に生まれる。幼少から徳川秀忠に近侍し、慶長十二年(一六〇七)徳川家光の傅となる。 ...
26. あかさかしんまちいつちようめ【赤坂新町一丁目】東京都:港区/旧赤坂区地区地図
日本歴史地名大系
東が赤坂田町二丁目、西が赤坂一ッ木町。往古には豊島郡人継村農地で、寛永一七年(一六四〇)千代姫(将軍徳川秀忠長女千姫)付の高田九兵衛・三宅五兵衛・中尾太兵衛の三 ...
27. あかしぐん【明石郡】兵庫県:播磨国
日本歴史地名大系
が一〇万石で明石に封ぜられ、うち明石郡は五万石・一〇八村であった(播州明石記録)。忠真は将軍徳川秀忠の命で同五年に明石城の築城に着手、城下の町割も進められた。正 ...
28. あかしし【明石市】兵庫県
日本歴史地名大系
船上城は姫路城の支城とされた。元和三年(一六一七)池田氏が因幡国鳥取に転封後小笠原忠真が入部、同四年将軍徳川秀忠より新城の築城の命があり、明石川河口東岸の洪積台 ...
29. あかしじょう【明石城】
国史大辞典
置いている。この城は、元和三年(一六一七)十万石を拝領して明石へ入部した小笠原忠真が、翌年、二代将軍徳川秀忠の命をうけて築いたもので、工事の監督には岳父の姫路城 ...
30. あかしじょうあと【明石城跡】兵庫県:明石市/明石城下
日本歴史地名大系
当初明石川西岸の船上城に入った。同城は一国一城令により屋敷構とされていたことから、同四年将軍徳川秀忠より忠真の義父姫路藩主本多忠政とともに新城築城を命じられた。 ...
31. あかしじょうか【明石城下】兵庫県:明石市
日本歴史地名大系
〔城下町の成立と発展〕元和三年(一六一七)明石に入部して船上城を居所としていた小笠原忠真は、同四年将軍徳川秀忠より義父姫路藩主本多忠政とともに新城築城を命じられ ...
32. あかべむら【赤部村】奈良県:北葛城郡/広陵町
日本歴史地名大系
同藩の二割半無地高増政策により六二三・六五石となる。多武峯領・法隆寺領には変化がない。二代将軍徳川秀忠の法隆寺宛知行目録には「安賀辺村之内二十二石」とある。享保 ...
33. あきづきはんじんやあと【秋月藩陣屋跡】福岡県:甘木市/秋月町
日本歴史地名大系
秋月・甘木の商人・職人を野町村に移して小杉新町を建設している。〔藩政の展開〕 寛永二年黒田長興は将軍徳川秀忠に拝謁するため江戸に上ろうとしたが、本藩の福岡藩(二 ...
34. あきのくに【安芸国】広島県
日本歴史地名大系
とくに慶長六年検地は、領国支配の基礎を確立したといえるが、その総石高とされる元和三年(一六一七)九月の徳川秀忠領知判物(「広島県史」所収)によれば、安芸国二五万 ...
35. 浅井氏 系図[図版]
国史大辞典
鶴千代 久政 長政 万福丸 女子 (豊臣秀吉側室 淀君 茶々) 初子 (京極高次室) 達子 (徳川秀忠室) (c)Yoshikawa kobunkan Inc. ...
36. あさいながまさ【浅井長政】
国史大辞典
るが、落城寸前室お市と三人の娘は信長に引き取られ、のち長女茶々は豊臣秀吉側室淀君、三女達子は徳川秀忠室となった。文禄三年(一五九四)二十一回忌にあたり茶々は菩提 ...
37. あさくさかみへいえもんちよう【浅草上平右衛門町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
に従って遠州浜松(現静岡県浜松市)から下向した三枝平右衛門が当所に居住。元和二年(一六一六)徳川秀忠から町屋を起立し、平右衛門町と名付けるよう命じられ、町年寄立 ...
38. あさくさきたきよしまちよう【浅草北清島町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
家康は慶長九年円誉の見た霊夢により寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を与え、寺が建立された。二代将軍徳川秀忠・三代将軍徳川家光も円誉を重んじ、銅鐘を寄進 ...
39. あさくさしんたにまち【浅草新谷町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
)へ移転。幸龍寺は初め遠江浜松(現静岡県浜松市)で建立されたといい、開山は玄竜院日幸、開基は徳川秀忠の乳母正心院日幸。天正一九年(一五九一)湯島辺りに建立され、 ...
40. あさくさたじまちよう【浅草田島町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
替地を与えられて移り、堂舎等を造営した。同年家康から制札を与えられ、同八年四月六日には家康・徳川秀忠らを檀那として鐘が造立された。明暦の大火で焼失し、浅草北寺町 ...
41. あさくら-のぶまさ【朝倉宣正】
日本人名大辞典
1573−1637 織豊-江戸時代前期の武将。天正(てんしょう)元年生まれ。朝倉在重(ありしげ)の兄。徳川秀忠につかえ,小田原攻め,上田攻めに従軍。上田七本槍( ...
42. 浅野氏
日本大百科全書
封知は宗家へ返された。(3)播磨(はりま)赤穂(あこう)浅野氏 長政の三子長重(ながしげ)が徳川秀忠(ひでただ)より2万石、1622年(元和8)常陸(ひたち)笠 ...
43. 浅野氏
世界大百科事典
7代長厚に及び居館を安芸国吉田に移すが,1869年(明治2)版籍奉還により廃家。長政の3子長重は徳川秀忠に仕えて2万石を領したが,長政の死後その隠居料を与えられ ...
44. あさのし【浅野氏】
国史大辞典
『済美録』、『芸藩輯要』、『広島市史』、『新修広島市史』 (三)播磨国赤穂藩主  長政の三子長重は徳川秀忠に仕えて二万石を領していたが、長政の死後その隠居料所の ...
45. あさの-ながしげ【浅野長重】
日本人名大辞典
1588−1632 江戸時代前期の大名。天正(てんしょう)16年生まれ。浅野長政の3男。徳川秀忠につかえ,下野(しもつけ)(栃木県)真岡(もおか)藩主となり,慶 ...
46. あさのながまさ【浅野長政】
国史大辞典
また家康の政略もあって翌四年十月武蔵府中に蟄居せざるを得なかった。関ヶ原の戦には家康に従い、徳川秀忠に属することを命ぜられ、美濃大井に出兵した。戦後は江戸に居住 ...
47. あざぶがぜんぼうちよう【麻布我善坊町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
ぼ谷とあり、ついで龕前房谷の文字がみえる(貞享四年「江戸鹿子」など)。寛永三年(一六二六)の徳川秀忠夫人お江の増上寺から六本木の火葬地に至る葬儀経路にあたり(文 ...
48. あざぶこうせんじもんぜん【麻布光専寺門前】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
東が麻布深広寺門前代地、西と南が同竜土六本木町、北が大行院。寛永六年(一六二九)光専寺が将軍徳川秀忠夫人の火葬地跡近くを三回忌後に拝領。同年からおいおいに門前に ...
49. あざぶさくらだちよう【麻布桜田町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
。霞ヶ関の時代に徳川家康の奥州・関ヶ原の陣には人馬・長持、大坂冬・夏の陣には人馬を差出した。徳川秀忠の鷹狩にも城内で役立ち、御鷹隠しの人馬も差出していた。移転後 ...
50. あざぶろつぽんぎちよう【麻布六本木町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
大久保邸は延宝年間(一六七三―八一)のはじめから存在した(沿革図書)。寛永三年(一六二六)二代将軍徳川秀忠夫人お江(お江与・逵子、崇源院、徳川家光生母)が没し、 ...
「徳川秀忠」の情報だけではなく、「徳川秀忠」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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