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  11. 淀殿(淀・茶々)

淀殿(淀・茶々)

ジャパンナレッジで閲覧できる『淀殿(淀・茶々)』の国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
淀殿
よどどの
- 一六一五
豊臣秀吉の側室、秀頼の母。父は近江浅井郡小谷城主浅井長政。母は織田信長の妹お市の方。長女として小谷城で生まれた。幼名はお茶々。正確な生年月日は不明であるが、『翁草』によって生年を永禄十年(一五六七)とする説がある。天正元年(一五七三)信長に包囲された小谷城から母に伴われて妹二人(のちの京極高次室常高院および徳川秀忠室崇源院)とともに脱出し、尾張清洲城で信長の弟信包に養育される。同十年本能寺の変で信長が横死したのち、信長の三男神戸(かんべ)信孝は織田家重臣柴田勝家との関係を強化するためお市の方を勝家に輿入れさせた。勝家は、秀吉と対立しており、同十一年賤ヶ岳の戦で敗北、居城越前北ノ庄城に逃げ込み、秀吉に包囲されてお市の方とともに自害する。この時、お茶々ら三姉妹は母と別れ城を出て秀吉の庇護を受けることになる。やがて、秀吉の寵を受けることになり、同十七年にお茶々は懐妊する。喜んだ秀吉は、弟豊臣秀長を後見、細川忠興を補佐として山城淀城を改築し、お茶々に与えた。この後、淀殿と呼ばれる。この年五月二十七日男児が誕生し、「棄」(のち鶴松)と名付けられたが、同十九年八月五日に病死する。同二十年秀吉は朝鮮に侵略の兵を出し、肥前名護屋城で諸軍を統率したが、淀殿も同地に随伴した。このころ大坂城二ノ丸に移り「二の丸殿」と呼ばれていた淀殿は、陣中で懐妊し、文禄二年(一五九三)八月三日に再び男児を産む。当初「拾」と名付けられたこの男児が秀頼である。淀殿は、翌年秀頼とともに伏見城西ノ丸に移り、「西の丸殿」あるいは「お袋さま」と呼ばれる。当時の淀殿の権勢は、正室杉原氏(高台院)を別格として側室中では第一で、醍醐の花見の際、彼女に次ぐ位置にあった松丸殿(京極高吉女)との間で盃争いがあったことは有名である。慶長三年(一五九八)八月、秀吉が没すると、その遺命により、翌四年正月十日秀頼を擁して大坂城に移った。翌年の関ヶ原の戦で、淀殿に近い関係にあった石田三成らが滅び、徳川家康が覇権を握ったことから、豊臣家の地位は著しく低下した。同八年までは、全国に分布した豊臣家の蔵入地も名目的には保持されたが、家康が征夷大将軍に補任されると最終的に接収され、秀頼は摂津・河内・和泉三国を領する大名となった。しかし、朝廷の官位では秀忠に次ぎ、諸国の大名にもなお影響力を持っていた。淀殿は、徳川氏の勢力に屈服することを嫌い、徳川氏の付家老(つけがろう)的位置にあった片桐且元を退け、大野治長を重用した。同十九年には、方広寺大仏殿の鐘銘を口実に豊臣家に人質提出あるいは転封を強要した徳川氏と開戦した。一時講和が成立するが、再び戦端が開かれ、元和元年(一六一五)五月八日大坂城は落城、淀殿は秀頼とともに城中で自害した。「淀君」という呼称ははるか後世のもので、大坂城で絶大な権勢を振るったが、淀君の乱行などというのは、江戸時代の臆説である。
[参考文献]
『大日本史料』一二ノ二〇 元和元年五月八日条、渡辺世祐『豊太閤の私的生活』、桑田忠親『淀君』(『人物叢書』七)
(山本 博文)
©Yoshikawa kobunkan Inc.


世界大百科事典
淀君
よどぎみ
1567-1615(永禄10-元和1)

豊臣秀吉の側室,秀頼の母。父は近江浅井郡小谷(おたに)城(現滋賀県長浜市,旧湖北町)の城主浅井長政,母は織田信長の妹お市の方(小谷方)。幼名はお茶々。1573年(天正1)信長に包囲された小谷城から母に伴われて妹2人とともに脱出し,信長の尾張清須城に入る。82年柴田勝家に再嫁した母に従い,越前北ノ庄(福井)城に入る。83年秀吉に攻められて北ノ庄は落城,勝家に殉じた母と別れ,妹2人とともに秀吉に庇護される。やがて秀吉の寵を受け89年山城淀城に移り,〈淀の女房〉と呼ばれ,この年,秀吉の子鶴松を生む(1591病死)。93年(文禄2)大坂城二の丸で拾(ひろい)(秀頼)を生む。翌年伏見城西の丸に移る。秀吉の死の翌年の99年(慶長4)秀頼とともに大坂城西の丸に入り,以後は〈お袋さま〉と呼ばれる。1615年(元和1)5月8日大坂落城により秀頼とともに自刃。秀頼生母として大坂城中で権勢を振るったことは事実であるが,淀君の乱行というのは江戸時代の創作(生前に〈淀君〉と呼ばれたことはない)である。
[高木 昭作]

[索引語]
お茶々
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検索コンテンツ
1. 淀殿
日本大百科全書
姉妹は救出され秀吉に預けられた。88年ころに秀吉の側室となり、89年ころには山城(やましろ)の淀城に住し、世に淀殿とよび、淀の局(つぼね)と称した。この年棄丸( ... ...
2. よど‐どの【淀殿】
デジタル大辞泉
⇒淀君(よどぎみ) ... ...
3. よどどの【淀殿】
国史大辞典
同二十年秀吉は朝鮮に侵略の兵を出し、肥前名護屋城で諸軍を統率したが、淀殿も同地に随伴した。このころ大坂城二ノ丸に移り「二の丸殿」と呼ばれていた淀殿は、陣中で懐妊 ... ...
4. よどどの【淀殿】
日本人名大辞典
1567−1615 織豊-江戸時代前期,豊臣秀吉の側室。永禄(えいろく)10年生まれ。浅井長政の長女。母は小谷(おだに)(お市)の方。浅井氏滅亡後,柴田勝家に再 ... ...
5. よどどの‐くさ【淀殿草】
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6. あさい-ながまさ【浅井長政】
日本人名大辞典
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7. おいちのかた【お市の方】
日本人名大辞典
信長の命で,永禄(えいろく)10年近江(おうみ)(滋賀県)小谷(おだに)城主浅井長政にとつぐ。3女(淀殿,京極高次の妻常高院,徳川秀忠の妻崇源(すうげん)院)と ... ...
8. おおくらきょうのつぼね【大蔵卿局】
日本人名大辞典
?−1615 織豊-江戸時代前期,淀殿(よどどの)の乳母。大野治長の母。慶長19年京都方広寺鐘銘事件で,淀殿の使いとして,豊臣秀頼の陳謝使片桐且元(かつもと)に ... ...
9. おおさかじょうあと【大坂城跡】大阪府:大阪市/大坂三郷 地図
日本歴史地名大系
当城も統一政権の本拠・居城から一地方大名の居城へと性格を変えた。同二〇年五月夏の陣の敗北で、秀頼は母淀殿らとともに自刃して果て、ここに豊臣氏は二代で滅亡した。以 ... ...
10. 大坂の陣 画像
日本大百科全書
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11. 大野治長
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。母の大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)が淀殿(よどどの)の乳母(うば)であった関係から豊臣(とよとみ)秀吉に仕えた。秀吉の死後、大 ... ...
12. おおの-はるなが【大野治長】
日本人名大辞典
?−1615 織豊-江戸時代前期の武将。母は大蔵卿局。大野治房の兄。豊臣秀吉・秀頼につかえ,淀殿(よどどの)の信頼をえる。慶長4年徳川家康暗殺計画の容疑で一時下 ... ...
13. 『おきく物語』
日本史年表
1837年〈天保8 丁酉〉 この年 淀殿侍女おきく筆・朝川善庵跋 『おきく物語』 板行。 ... ...
14. おだながます【織田長益】 画像
国史大辞典
安堵されたほか、さらに新恩として大和山辺郡で所領を与えられ、合わせて三万石を領した。長益は豊臣秀頼の生母淀殿の叔父にあたるので、その後大坂城中にあって秀頼を輔佐 ... ...
15. おだわらせいばつ【小田原征伐】 画像
国史大辞典
眼下に見下ろす位置にあり、秀吉はここに八十余日を費やして大本営を築くとともに、みずから上方より淀殿を招き・傘下の大名たちにも家族を呼びよせさせて持久戦の策をとっ ... ...
16. おちゃちゃ【お茶々】
日本人名大辞典
⇒淀殿(よどどの) ... ...
17. おなべのかた【お鍋の方】
日本人名大辞典
夫の死後,信長の側室となる。2男1女をもうけ,安土城の奥向きをとりしきった。晩年は豊臣秀吉の側室淀殿から50石の知行をうけ京都にすんだ。慶長17年6月25日死去 ... ...
18. おのの-おつう【小野お通】
日本人名大辞典
とつたえられてきたが,現在では否定されている。九条稙通(たねみち)に歌をまなび,豊臣秀吉の側室淀殿につかえた女性とか,美作(みまさか)(岡山県)の農家出身で歌を ... ...
19. 甲子夜話 4 235ページ
東洋文庫
大坂落城の時、朱三矢倉の饒 蔵二間に五間の所を三つに仕切、両方に秀頼公と 淀殿、天樹院殿とを分ち置、中の仕切に女中を籠 置。この時淀殿は天樹院殿の御振袖を自ら膝 ... ...
20. 甲子夜話 4 263ページ
東洋文庫
書末に何人か論弁を加へたり。これ却て此物語の贅疣なり。おきく物語田中意徳〔池田家の医也〕祖母は、大坂にて淀殿に仕へし人にて、名を菊とぞ云ける。落城の日〔元和元年 ... ...
21. 甲子夜話 4 264ページ
東洋文庫
又々金とらせる間、連行くれとたのむ。いざ此方へと同道いたし参るうちに、要光院殿〔京極若狭守殿母儀、淀殿の御兄弟なり〕士におはれたまひ、後より御足をおさへて御のき ... ...
22. 甲子夜話 4 265ページ
東洋文庫
後備前へまいりて居り被レ申候。右そば焼いたしに遣候女は、いかになりけるやらん、不二知申一候。人の語に、秀頼公、淀殿、其外大蔵卿おもだちし局中は、みな山里へまいら ... ...
23. 甲子夜話 4 266ページ
東洋文庫
一、此菊、淀どのに御奉公申事は、菊親を山口茂左衛門と云、其親を山口茂介と云て、浅井長政に仕ふ。此淀殿は長政の娘故、幼少より御奉公申候。茂左衛門、後に藤堂和泉守高 ... ...
24. 甲子夜話三篇 2 9ページ
東洋文庫
行ぎ、谷に下り、夫より溜池の端に在りと。同上)。(一彦太郎又話る。彦根侯上邸の玄関は、大坂城にて、淀殿の能舞台なりしを、落城の後この方に引移したりと。然るゆゑか ... ...
25. 甲子夜話三篇 5 87ページ
東洋文庫
大阪落城のときのことを於菊が語れる中に、「此方へと同道致し参る中に、要光院殿〔京極若狭守殿母様。淀殿の御兄弟なり〕侍に負はれ給ひ、後より御足をおさへて御逃侯。其 ... ...
26. 甲子夜話続篇 3 21ページ
東洋文庫
或云。婦の姦より然りと。〔芙〕 或僧日。京の高台寺に三間四面の堂あり。中に太閤秀吉の像〔官服〕と淀殿の像〔法躰の服〕とを置く。結構壮麗の蒔絵にせり。世に高台寺蒔 ... ...
27. 甲子夜話続篇 5 187ページ
東洋文庫
土地之人民申侯。 大仏、太さ、丈十六間、手之広き弐間、四方八畳 敷たけ有レ之候。秀吉人形高さ一丈。淀殿人形八尺。 利休八尺。耳塚之図壱丈。唐人二人八尺づ・、関羽 ... ...
28. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 72ページ
東洋文庫
塩づけにしたように〕塩がまたその〔秀吉の〕腹につめられたのであります。 注 一 その子 豊臣秀吉とその側室淀殿の間に生まれた、幼名お拾、のち秀頼。この時六歳であ ... ...
29. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 161ページ
東洋文庫
一「賊中封疏」二八頁注九参照。 二 秀吉の愛妾 浅井長政の長女。秀吉の妾となって淀城に住んだことから淀君(淀殿ともいう)と 呼ばれた。秀頼を生んだのは一五九三 ... ...
30. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 164ページ
東洋文庫
を召し〔寄せ〕て後事を托した。家康には、秀頼の母〔淀殿〕を室として政事を後見し、〔秀頼の〕成人を待ってのち、政権を返すようにさせた。加賀大納言〔前田利家〕の子肥 ... ...
31. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 172ページ
東洋文庫
家康は、弾正を追放し、その食邑の甲斐州に帰らせた。 家康はまた、秀吉の遺命をたてに、秀頼の母〔淀殿〕を室にしょうとした。秀頼の母は、すでに大野 ... ...
32. きく【菊】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代前期,淀殿の侍女。慶長20年の大坂落城に際して京都に脱出,のち備前の田中氏と結婚し,延宝6年(1678)83歳で死去したといわれる。17世紀末ご ... ...
33. 京極高次
日本大百科全書
母はオルガンティノに受洗した京極マリアで、高次も晩年は信徒になったという。また、室の初(はつ)は淀殿(よどどの)の妹である。慶長(けいちょう)14年5月3日、小 ... ...
34. きょうごくたかつぐ【京極高次】 画像
国史大辞典
ついで文禄四年(一五九五)大津城に転じ六万石の大名となった。これらの優遇は妹(松丸殿)・室(常高院、淀殿の妹)との閨閥関係によるものであった。しかし高次は秀吉の ... ...
35. 慊堂日暦 2 171ページ
東洋文庫
この夜は定めて三島に宿せんか。終日端居して生徒の文を定む。○黒花百合(万寿菊、サソ.ハテウジ)佐々成政がこれを淀殿に進む。越後に産するところと云うは、定めてこれ ... ...
36. 慊堂日暦 2 286ページ
東洋文庫
なしたちまち晴れて大いに熱く、屋畔に小毛盤を生じ、落ちて人の肌膚に入り、痒痛は忍ぶべからず。俗に淀殿虫という。通名イラムシ。○心経賊高野大師は英遭超群の資を以て ... ...
37. 慊堂日暦 5 148ページ
東洋文庫
慶長十九年九月、阿蘭佗耶楊子は虎子二匹を上り、江戸若君に賜う。』二位局。渡辺筑後守の母、慶長元年三月、淀殿の使に大御所へ来る。』鮭延紀伊。最上駿河守の使者。玉露 ... ...
38. さんまいばしじょうあと【三枚橋城跡】静岡県:沼津市/旧駿東郡地区/沼津町
日本歴史地名大系
落している(同年四月一日「豊臣秀吉朱印状」島垣文書など)。北条氏が降ったのちの同年七月一〇日、秀吉は帰洛する淀殿が同月一五日に当城に到着することを告げている(同 ... ...
39. しきこうどう【四季講堂】滋賀県:大津市/北部地域/延暦寺/横川
日本歴史地名大系
、四季講堂の古跡に仮に一宇を建て大師の影像を安置したと伝える。慶長九年(一六〇四)豊臣秀頼の母淀殿が願主となり横川中堂とともにこの四季講堂も改修がなされた。寛永 ... ...
40. しょうえいに【正栄尼】
日本人名大辞典
?−1615 織豊-江戸時代前期の女性。豊臣家につかえ,淀殿に近侍。慶長19年の大坂冬の陣ののち大蔵卿局(つぼね)とともに駿河(するが)(静岡県)駿府(すんぷ) ... ...
41. しょくほうせいけん【織豊政権】
国史大辞典
異なった政策の存在が生じ、知行給与や大名世襲などの措置にいくつかのくいちがいがみられた。子のない秀吉が側室淀殿との間に実子秀頼を得て、政権内部に豊臣家の後継資格 ... ...
42. 常高院
日本大百科全書
近江小谷(おだに)城主浅井長政(あさいながまさ)と織田信長の妹お市の方(小谷の方)の間に生れた三姉妹の一人。姉は淀殿(よどどの)、妹はお江(ごう)の方(徳川秀忠 ... ...
43. じょうこういん【常高院】
国史大辞典
父は戦国の武将近江小谷城主浅井長政、母は織田信長の妹お市の方(小谷の方)。生年は未詳。姉に豊臣秀吉の側室淀殿、妹に二代将軍徳川秀忠の室江(ごう、崇源院)がある。 ... ...
44. じょうこういん【常高院】
日本人名大辞典
−1633 織豊-江戸時代前期,浅井長政の次女。母は小谷(おだに)(お市)の方。豊臣秀吉の側室淀殿(よどどの)の妹。徳川秀忠の正室崇源院(すうげんいん)の姉。父 ... ...
45. 崇源院
日本大百科全書
1573年(天正1)、信長によって包囲された小谷城落城の際、母、二人の姉、お茶々(豊臣秀吉側室淀殿(よどどの))、初(京極高次(きょうごくたかつぐ)室常高院(じ ... ...
46. 崇源院
世界大百科事典
室。江与の方。於江,小督,達子ともいう。浅井長政の三女,母は織田信長の妹小谷方。豊臣秀吉の側室淀殿,京極高次の室常高院の妹にあたる。はじめ尾張大野城主佐治与九郎 ... ...
47. すうげんいん【崇源院】
国史大辞典
城主浅井長政、母は織田信長の妹小谷の方お市。天正元年(一五七三)に生まれる。姉に豊臣秀吉の側室淀殿、若狭小浜城主京極高次の室お初(常高院)がある。同年八月、浅井 ... ...
48. すうげんいん【崇源院】
日本人名大辞典
徳川秀忠の正室。天正(てんしょう)元年生まれ。浅井長政と小谷(おだに)(お市)の方の3女。豊臣秀吉の側室淀殿(よどどの)の妹。文禄(ぶんろく)4年秀吉の養女とし ... ...
49. たいこうけんりょくとぶけのこっか【太閤権力と武家の国家】 : 織豊政権
国史大辞典
異なった政策の存在が生じ、知行給与や大名世襲などの措置にいくつかのくいちがいがみられた。子のない秀吉が側室淀殿との間に実子秀頼を得て、政権内部に豊臣家の後継資格 ... ...
50. 茶々
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→淀殿 ... ...
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