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  11. 高台院(北政所・寧々)

高台院(北政所・寧々)

ジャパンナレッジで閲覧できる『高台院(北政所・寧々)』の国史大辞典のサンプルページ

高台院
こうだいいん
一五四九 - 一六二四
豊臣秀吉の夫人。北政所といわれた。天文十八年(一五四九)生まれる。尾張の杉原助左衛門定利の次女で、幼名はねね(禰々)。のち一時吉子と称したこともあるが、『(備中足守)木下家譜』その他の文書には寧子とある。叔母の嫁ぎ先である尾張津島の浅野又右衛門尉長勝に養われ、永禄四年(一五六一)八月、織田信長の家来木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁した。天正十年(一五八二)明智光秀が織田信長を本能寺に襲ったとき、近江長浜城にあったねねは一時難を避けて浅井郡の山中にある大吉寺に逃れたが、間もなく山崎の戦で秀吉が光秀を破ると長浜に帰り、秀吉と再会した。その後秀吉とともに大坂城に移り住み、同十三年秀吉が関白になるとねねは北政所となり、従三位に叙せられた。同十六年四月十四日後陽成天皇の聚楽第行幸があり、還御の翌十九日付をもって従一位に昇叙された。そのときの位記には「豊臣吉子」とある。秀吉の最後を飾る花見の宴が慶長三年(一五九八)三月十五日醍醐の三宝院で催されたときには北政所も行をともにし、三宝院に百貫文を寄進した。その年の八月十八日秀吉が没すと、大坂城西ノ丸にあった北政所は落飾して高台院と称し、翌四年徳川家康に西ノ丸を明け渡して京都三本木の邸に隠棲した。ついで同十年秀吉の冥福を祈るため徳川家康にはかって京都東山に高台寺を建立し、ここを終焉の地として禅床三昧の日々を送り、寛永元年(一六二四)九月六日七十六歳(『寛政重修諸家譜』三〇九では八十三歳とある)で没した。遺骸は寺内の豊公廟の下に葬られた。法名は高台院湖月心公。高台寺の建物は壮麗雄大であったが、惜しいことに寛政元年(一七八九)二月焼失し、わずかに開山堂・豊公廟(霊屋)と表門(いずれも重要文化財)を残すのみである。
[参考文献]
『高台寺文書』、渡辺世祐『豊太閤の私的生活』
(今井 林太郎)
©Yoshikawa kobunkan Inc.
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高台院(北政所・寧々)の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 97
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検索コンテンツ
1. 高台院
世界大百科事典
秀吉の関白就任で北政所と称され,88年の従一位叙位記に豊臣吉子と記され,1603年(慶長8)高台院の号を勅賜された。尾張の人杉原定利の次女。浅野長勝の養女となり ... ...
2. こうだい‐いん【高台院】
デジタル大辞泉
杉原定利の次女。名は、ねね。北政所(きたのまんどころ)とよばれ、准三后、従一位になり、秀吉死後、尼となって高台院と称した。 ... ...
3. こうだいいん【高台院】 画像
国史大辞典
三宝院に百貫文を寄進した。その年の八月十八日秀吉が没すと、大坂城西ノ丸にあった北政所は落飾して高台院と称し、翌四年徳川家康に西ノ丸を明け渡して京都三本木の邸に隠 ... ...
4. 高台院
日本史年表
1603年〈慶長8 癸卯〉 11・3 豊臣秀吉の正室に 高台院 の号を与える(御湯殿上日記)。 1624年〈寛永元(2・30) 甲子〉 9・6 没。 ... ...
5. こうだいいん【高台院】
日本人名大辞典
夫の出世にしたがい従一位にのぼり,北政所(きたのまんどころ)と称される。秀吉の死後は出家して高台院と号し,徳川家康の助けで京都に高台寺をたて,晩年をおくった。寛 ... ...
6. 高台院[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:2件 『高台院夫人』西堀一三『信長より藤吉郎女どもへの手紙』中村直勝 ... ...
7. 高台院
日本大百科全書
→北政所 ... ...
8. こうだい‐いん[カウダイヰン]【高台院】
日本国語大辞典
©きた(北)の政所(まんどころ)〔二〕 ... ...
9. 高台院印[図版] 画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
10. こうだいいんたてちょう【高台院竪町】京都市:上京区/正親学区 地図
日本歴史地名大系
跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。町名は近世初期、聚楽第が造営された時、当町付近に豊臣秀吉の妻、高台院が居住していたことによるという(坊目誌)。寛永一四年(一六三七 ... ...
11. こうだいいんちょう【高台院町】京都市:上京区/正親学区 地図
日本歴史地名大系
平安京大内裏の「梨本」から「縫殿寮」にかけての跡地(「拾芥抄」の宮城指図)。近世初頭の聚楽第内にあった高台院(秀吉夫人、禰々)の居宅跡で、町名はこれに起源する( ... ...
12. あしもりはん【足守藩】
国史大辞典
備中国(岡山県)足守を藩庁とした藩。藩主木下氏。外様。陣屋持。慶長六年(一六〇一)藩祖家定(豊臣秀吉正室高台院の兄)は、備中国賀陽・上房両郡のうちで二万五千石を ... ...
13. あべのむら【阿部野村】大阪府:大阪市/阿倍野区 地図
日本歴史地名大系
は「阿部野村」の表記が一般的であったようである。元和初年の摂津一国高御改帳では、豊臣秀吉夫人高台院・大坂藩松平忠明・四天王寺の三者の所領「天王寺」高七千三一三石 ... ...
14. いくのく【生野区】大阪府:大阪市 地図
日本歴史地名大系
が当区に含まれるが、集落は現天王寺区。支配については、摂津国は近世初頭には大坂藩松平忠明領・高台院(北政所)領・幕府領であり、以降は大半の村々が幕府領に転じ継続 ... ...
15. いっしんじ【一心寺】大阪府:大阪市/天王寺区/中小路町 地図
日本歴史地名大系
には観称院とある。存牟はまた大坂夏の陣の豊臣方戦没将士を寺内に葬り、元和四年豊臣秀吉の未亡人高台院は、寺地は家康寄進に相違なく、寺中において寺法違乱なきことの再 ... ...
16. いのまたむら【猪俣村】埼玉県:児玉郡/美里町 地図
日本歴史地名大系
新義真言宗(現高野山真言宗)の正円寺・高台院、同宗(現真言宗豊山派)の観蔵院・普門寺がある。現在の神社は二柱神社と東大沢神社、寺院には真言宗豊山派安養院が加わっ ... ...
17. 大蔵虎明
世界大百科事典
る名誉号である大夫号を贈られたという。以後の幼年期の活動記録は少なく,1605年(慶長10)高台院(豊臣秀吉正室ねね)大坂御成り能での父との共演が知られる程度で ... ...
18. おおくらとらあきら【大蔵虎明】[人名]
能・狂言事典
る名誉号である大夫号を贈られたという。以後の幼年期の活動記録は少なく、一六〇五年(慶長一〇)高台院(豊臣秀吉正室ねね)大坂御成り能での父との共演が知られる程度で ... ...
19. おおさかし【大阪市】大阪府 地図
日本歴史地名大系
東成・西成・住吉の三郡(現大阪市域)には幕府直轄領六千六八〇石余、松平忠明領五万一千九三四石余があり、他は高台院(北政所)領一万六千九二六石余、建部三十郎・池田 ... ...
20. おりおのむら【遠里小野村】大阪府:大阪市/住吉区 地図
日本歴史地名大系
状(足守木下家文書)では「う里うのむら」のうち一千石が高台院(北政所)領。元和初年の摂津一国高御改帳では大坂藩松平忠明領二七一石余、高台院領一千石(寛永元年まで ... ...
21. おんせんじ【温泉寺】兵庫県:神戸市/北区/湯山町
日本歴史地名大系
るように、近世初頭には実質的に温泉寺を差配しており、同一三年二月五日、羽柴秀吉の妻ね(ねね、高台院)は薬師堂建立のため一千五〇〇貫と寺領として毎年一〇〇石を阿弥 ... ...
22. かたえむら【片江村】大阪府:大阪市/生野区 地図
日本歴史地名大系
黒印状(同文書)では当村は欠郡に含まれるが、同一〇年摂津国絵図以降東成郡に記される。北政所(高台院)領は寛永元年(一六二四)まで続き、元和初年の摂津一国高御改帳 ... ...
23. かなめいし(仮名草子集) 57ページ
日本古典文学全集
社頭の破却は、社殿を釘付けにして朽ちるに任せる処置に変更されたが、これは、一説に、秀吉の妻、高台院の嘆願によるという。社殿に同じ。神社で神を祀ってある所。何とも ... ...
24. かみちょうじゃまちどおり【上長者町通】京都市:上京区
日本歴史地名大系
面する町として、元浄華院町・元土御門町・土御門町・有春町・橋本町・杉本町・須浜東町・須浜町・高台院町・高屋町・信濃町・愛染寺町・山王町・自性町・新長者町・三太夫 ... ...
25. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 133ページ
東洋文庫
「志賀島、釈迦、牟島、席内、残島」は不載。 二 賊魁の本妻の甥 小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室である高台院の兄、木下家定の五男である〇 三 土地は削られた 本章の ... ...
26. 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記 144ページ
東洋文庫
一五九三(文禄二)年、小早川隆景の養子となった。 二 四人兄弟 小早川秀秋は、木下家定(秀吉の正室であった高台院の実兄)の第五男で、もとの名 は秀俊。家定の男 ... ...
27. きた の 政所(まんどころ)
日本国語大辞典
名は禰(ねね)。尾張の人。糟糠(そうこう)の妻として功をつくした。秀吉の没後、落髪、隠棲して高台院と称し、政界の動きに隠然たる影響をもった。書言・ヘボン・言海 ... ...
28. きた‐の‐まんどころ【北の政所】
デジタル大辞泉
敬っていう語。のちには、大臣・大納言・中納言の正妻をもいった。 2 特に、豊臣秀吉の正妻の敬称。→高台院(こうだいいん) ... ...
29. 北政所
日本大百科全書
。糟糠(そうこう)の妻として内助の功あり、秀吉生母にもよく孝養を尽くした。秀吉の死後落飾して高台院(こうだいいん)と号す。1606年(慶長11)京都東山に高台寺 ... ...
30. きたのまんどころ【北政所】
国史大辞典
称するようになり、さらに、大臣・大中納言の正妻をよぶようになった。→大政所(おおまんどころ),→高台院(こうだいいん) (山中 裕) ... ...
31. きたのまんどころ【北政所】
日本人名大辞典
⇒高台院(こうだいいん) ... ...
32. きのしたいえさだ【木下家定】 画像
国史大辞典
二万五千石に加増され、姫路城主となり、大坂城の留守居をつとめた。関ヶ原の戦には、秀吉の正室北政所(のちの高台院)の守護にあたり、慶長六年(一六〇一)備中国賀陽・ ... ...
33. きのした-いえさだ【木下家定】
日本人名大辞典
木下利房,小早川秀秋の父。豊臣秀吉の正室高台院の兄。尾張(おわり)(愛知県)の人。秀吉に重用され,文禄4年播磨(はりま)(兵庫県)姫路城主。関ケ原の戦いでは高台 ... ...
34. 木下氏
世界大百科事典
近世大名。豊臣秀吉の生家木下氏と秀吉の妻(高台院)の実家杉原氏流木下氏がある。秀吉の父弥右衛門は織田信秀の足軽で尾張中村の百姓。秀吉は信長に仕え木下藤吉郎と名の ... ...
35. きのしたし【木下氏】 画像
国史大辞典
大坂冬の陣に供奉し、翌元和元年(一六一五)の大坂夏の陣の際には京都において、秀吉の正室である高台院(北政所)を守護した。同年七月二十七日、徳川秀忠より父の遺領で ... ...
36. きれむら【喜連村】大阪府:大阪市/平野区 地図
日本歴史地名大系
地によって六七六石余(天明七年「中喜連村明細帳」桑津村文書)。寛永元年まで三村ともに北政所(高台院)領で、前掲摂津国高帳、天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領 ... ...
37. 金谷上人行状記 ある奇僧の半生 200ページ
東洋文庫
正先達・先達・新先達・新客の順。一=ページ高台寺-京都市下京区下河原町。臨済宗。豊臣秀 吉の北政所高台院が亡母追福のため建立した寺。 元和八年中興。一「一ニペー ... ...
38. きんせい【近世】 画像
国史大辞典
飾る木・金・漆の諸工芸もそれにふさわしかったことは、やはり遺構を見れば納得できるし、家具調度の類も秀吉室の高台院湖月心公の遺物である高台寺の蒔絵調度をみればわか ... ...
39. 近世俳句集 41ページ
日本古典文学全集
母追福のために建立した寺町の康徳寺を、秀吉の没後、徳川家康の許しを得て移築し、北政所の法号、高台院をとって寺号としたもの。春暖かくなって、ひと雨降るごとにつぼみ ... ...
40. ぎおんまわり【祇園廻り】京都市:東山区 地図
日本歴史地名大系
その沿革を同書は「旧記無之」としつつも、「下河原舞芸者ハ、往昔、白拍子之余流ニテ故豊太閤北政所高台院、慶長十乙巳年之頃、高台寺造立移住之節、是迄政所住居江罷出候 ... ...
41. こうぞうす【孝蔵主】
日本人名大辞典
出家して孝蔵主と称し,豊臣秀吉と北政所(きたのまんどころ)(高台院)につかえ,奥向きの奏者として大坂城内で権勢をふるう。秀吉の死後,高台院にしたがい京都にすむ。 ... ...
42. 高台寺 画像
日本大百科全書
うじゅ)禅寺という。豊臣(とよとみ)秀吉の正室北政所(きたのまんどころ)は秀吉の死後落飾して高台院湖月尼といい、一寺を建てて秀吉の冥福(めいふく)を祈ろうとした ... ...
43. 高台寺
世界大百科事典
豊臣秀吉の妻の北政所(きたのまんどころ)は秀吉の没後大坂から京都に移り,尼となって高台院と称した。この高台院が,秀吉の菩提を弔う所として,徳川家康の援助のもと1 ... ...
44. こうだい‐じ【高台寺】 地図
デジタル大辞泉
宗建仁寺派の寺。もと曹洞宗。山号は鷲峰山。慶長10年(1605)、豊臣秀吉の菩提を弔うため、高台院の志に基づき徳川家康が創建。 ... ...
45. こうだい‐じ[カウダイ:]【高台寺】
日本国語大辞典
)、または岩栖不動山。慶長一〇年(一六〇五)豊臣秀吉の正室北政所(きたのまんどころ=出家して高台院)が秀吉の冥福を祈るために創建。桃山建築の粋を集めた霊屋(たま ... ...
46. こうだいじ【高台寺】
国史大辞典
品として重要文化財に指定されている。このほか豊臣秀吉や高台院の画像、秀吉の消息や陣羽織(いずれも重要文化財)なども伝わっている。→高台院(こうだいいん),→高台 ... ...
47. こうだいじ【高台寺】京都市:東山区/祇園廻り/高台寺門前町 地図
日本歴史地名大系
同年秀吉薨ず。夫人悲哀に堪えず。落飾し、高台院快陽心公尼と称す。(坊目誌)とある。両書は創建年代等を異にするが、康徳寺は天正―慶長(一五七三―一六一五)にかけて ... ...
48. こうだいじきたもんぜんちょう【高台寺北門前町】京都市:東山区/祇園廻り/鷲尾町 地図
日本歴史地名大系
其南側の地に今の高台寺裏門より半町西正門を建設し、居館に達す所謂高台院是なり寛永元年門を廃し、居館を更め永興院と為す。と述べる。秀吉北政所高台院の邸跡にもあたっ ... ...
49. こうだいじ‐まきえ[カウダイジまきヱ]【高台寺蒔絵】
日本国語大辞典
〔名〕京都高台寺の豊臣秀吉と同夫人高台院の霊屋(おたまや)内を装飾した蒔絵と、同寺所蔵の秀吉・高台院遺愛の調度類に施された蒔絵。また、その系統のもの。菊桐紋の意 ... ...
50. 高台寺蒔絵
日本大百科全書
代表する蒔絵様式の一つ。豊臣(とよとみ)秀吉と夫人高台院とを祀(まつ)る京都・高台寺の霊屋(たまや)内を装飾した蒔絵と、同寺所蔵の秀吉・高台院夫妻遺愛の蒔絵調度 ... ...
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