国史大辞典のサンプルページ一覧
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千利休(国史大辞典・世界大百科事典)
室町時代末期・安土桃山時代に出た茶の湯の大成者。抛筌斎利休宗易居士。堺の納屋衆の一人千与兵衛の子として大永二年(一五二二)に生まれ与四郎と称し、天文四年(一五三五)十四歳の時にはすでに千家の当主となっていた。彼は当時堺の町衆の間に流行していた茶の湯に興味を抱き
大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
関ヶ原の戦の戦勝により、政治の主導権を獲得し、かつ戦勝者として大名の支配を可能にした徳川氏にとっては、中央政権を樹立し、その支配権を正当化し確立することが今後の課題となった。そのため戦後一門・譜代大名の創出とその要衝配置、ならびに豊臣秀吉恩顧の大名をはじめとする外様大名
本多忠勝(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた武将。江戸時代前期の有力譜代大名。幼名は鍋之助。通称平八郎。中務大輔。天文十七年(一五四八)三河国に生まれる。父は岡崎城主松平広忠の家臣本多平八郎忠高、母は植村新六郎氏義の娘。父忠高が天文十八年安城の城攻めで討死したため
淀殿(淀・茶々)(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
豊臣秀吉の側室、秀頼の母。父は近江浅井郡小谷城主浅井長政。母は織田信長の妹お市の方。長女として小谷城で生まれた。幼名はお茶々。正確な生年月日は不明であるが、『翁草』によって生年を永禄十年(一五六七)とする説がある。天正元年(一五七三)信長に包囲された小谷城から母に伴われて
高台院(北政所・寧々)(国史大辞典)
豊臣秀吉の夫人。北政所といわれた。天文十八年(一五四九)生まれる。尾張の杉原助左衛門定利の次女で、幼名はねね(禰々)。のち一時吉子と称したこともあるが、『(備中足守)木下家譜』その他の文書には寧子とある。叔母の嫁ぎ先である尾張津島の浅野又右衛門尉長勝に養われ
大谷吉継(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。永禄二年(一五五九)に生まれる。父は豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治であるといわれている。はじめ紀之介と称し、のち吉継と改めた。豊臣秀吉に近侍して信任を受け、天正十三年(一五八五)七月、従五位下刑部少輔に叙任された。賤ヶ岳の戦に軍功をあらわし
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
石田三成(国史大辞典・世界大百科事典)
安土桃山時代の武将。幼名は佐吉、はじめ三也と名乗る。永禄三年(一五六〇)近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に生まれる。父は隠岐守正継。長浜城主であった羽柴秀吉にその俊敏さを認められ、年少のころから近侍として仕えた。秀吉の中国征伐・山崎の戦にも従い
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
七夕(世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
旧暦の7月7日に行われる年中行事。中国を中心に,日本,朝鮮にも広がる。〈しちせき〉とも読まれる。7月7日を特別の祭日とする観念は,おそらく古い農耕儀礼に起源をもつのであろうが,文献資料にのこるものとしては後漢時代の崔寔(さいしよく)《四民月令》が最も
織田信長(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一五三四-八二戦国・安土桃山時代の武将。幼名を吉法師といい、天文三年(一五三四)尾張那古野城に生まれる。父は尾張下四郡を支配する清洲城の織田家の家老織田弾正忠信秀。同十五年元服して織田三郎信長と名乗り、同二十年信秀が死ぬと、十八歳で家をつぎ、みずから
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
伊勢物語(日本古典文学全集・世界大百科事典・国史大辞典)
一昔、ある男が、元服をして、奈良の京の春日の里に、所領の縁があって、鷹狩に行った。その里に、たいそう優美な姉妹が住んでいた。この男は物の隙間から二人の姿を見てしまった。思いがけず、この旧い都に、ひどく不似合いなさまで美女たちがいたものだから、心が動揺
日本書紀(日本古典文学全集・国史大辞典・世界大百科事典・日本語大辞典)
日本書紀 巻第一 神代 上 〔一〕 昔、天と地が分れず、陰の気と陽の気も分れず、混沌として未分化のさまはあたかも鶏の卵のようであり、ほの暗く見分けにくいけれども物事が生れようとする兆候を含んで【目次】目次古典への招待凡例日本書紀(扉)日本書紀 巻第一
徳川家康(国史大辞典・世界大百科事典)
一五四二-一六一六江戸幕府初代将軍。一六〇三―〇五在職。太政大臣。三河国岡崎の城主松平広忠の子として、天文十一年(一五四二)十二月二十六日に生まれた。幼名は竹千代。母は同国刈谷の城主水野忠政の娘で、名はお大(没後に江戸の伝通院に葬られ、法名を伝通院殿
万葉集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
飛鳥・奈良時代の歌集。二十巻。〔成立〕現在見る形にまとめられたのは何時か不明。制作年代のもっとも新しい歌は天平宝字三年(七五九)正月の大伴家持の作歌だから、最終的編纂はそれ以後になる。最近の伊藤博説によれば、巻一から巻十六まで
古事記(国史大辞典・世界大百科事典・日本古典文学全集)
「ふることぶみ」とよむ説もあるが、今日一般には「こじき」が慣用されている。建国の由来と第一代神武天皇から第三十三代推古天皇までのことを記した現存最古の典籍。その素材は神話・伝説・歌謡・系譜などである。三巻。上巻のはじめに漢文の序
平家物語(日本古典文学全集・国史大辞典・世界大百科事典)
祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きをたてる。釈迦入滅の時に、白色に変じたという沙羅双樹の花の色は、盛者必衰の道理を表している。驕り高ぶった人も、末長く驕りにふける事はできない、ただ春の夜の夢のようにはかないものである。勇猛な者もついには滅びてしまう
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男