江戸中期に始まる17音の短詩。雑俳(ざっぱい)の一様式である前句付(まえくづけ)から、付句(つけく)の五・七・五だけが独立して詠まれるようになったもの。人の見逃しがちな、人事・世相・歴史などの断面をおもしろく指摘してみせる句風で、俳諧(はいかい)にも詠み残されたような、ごく卑俗な題材まで、諸事百般余すところなく句の対象とするところが特色である。
前句付の点者、柄井川柳(からいせんりゅう)の号にちなむ。古くは、「前句(まえく)」「川柳点(せんりゅうでん)」「川柳句」「川柳」「柳樽(やなぎだる)」「狂句(きょうく)」などとさまざまによばれていたが、明治以降「川柳」に定着する。なお、「川柳」の呼称は、人名の柄井川柳とも紛らわしく、時代による性格の変化を十全に表しえないため、歴史的には、「前句付」、「川柳風狂句」(この時代までは「雑俳」の一様式)、「新川柳」、「現代川柳」と区別するのが適切であろう。
柄井川柳は、1757年(宝暦7)前句付の点者を始める。そして、65年(明和2)に、その前句付入選句のなかから、付句だけでも句意のわかる句を選んだ『柳多留(やなぎだる)』という抜粋付句集が出版され、この前句を省略した付句のみの句集が大好評を博し、やがて川柳評の前句付はしだいに、前句と付句との関連性を希薄にしてゆくようになる。この時期の句は、いわゆる「古川柳(こせんりゅう)」として人口に膾炙(かいしゃ)されている佳句が多いが、その句風は川柳評独自というよりも、これ以前の前句付や同時代の他評前句付、また江戸座(えどざ)の俳諧などと類似の句風である。
はなれこそすれはなれこそすれ
子が出来て川の字なりに寐(ね)る夫婦(『川柳評万句合』宝暦8年)
1777年(安永6)ごろから、川柳評は前句と付句との関連がなくなり、87年(天明7)からは、前句の出題も完全になくなって、付句だけが単独に詠まれる形式となる。この時期以降は滑稽(こっけい)味の強い句が増え、とくに柄井川柳没後は、狂句とよぶにふさわしい句調となる。表現的には、この時期以降、川柳評独特のものが生まれ、前句題のかわりに、「浅黄裏(あさぎうら)(=野暮(やぼ)な田舎(いなか)侍)」「相模下女(さがみげじょ)(=好色野鄙(やひ)な下女)」「居候(いそうろう)」など、俳諧の季題に相当するような滑稽な類型的表現が定着する。
居候ある夜の夢に五はい食ひ(『柳多留』82編)
1900年ごろ(明治30年代後半)、阪井久良岐(さかいくらき)、井上剣花坊(いのうえけんかぼう)によって、川柳革新運動がおこり、文学的営為としての新川柳が意識される。やがて、川上三太郎(かわかみさんたろう)、前田雀郎(まえだじゃくろう)、村田周魚(むらたしゅうぎょ)、岸本水府(きしもとすいふ)、麻生路郎(あそうじろう)、椙元紋太(すぎもともんた)などの川柳作家が輩出、俳句と並んで川柳は大衆に広まった。
憧(あこが)れを画(えが)けと空はただ青し 剣花坊
新川柳時代のさまざまな傾向が推し進められ、伝統的傾向、社会諷詠(ふうえい)的傾向、革新的傾向など、その句風はきわめて多様化してきた。とくに前衛的な流派は、俳句や現代詩などと区別がつけがたくなっている。
母を捨てに石ころ道の乳母車 時実新子(ときざねしんこ)
川柳と俳句は、五・七・五の同形式であるが、俳句は俳諧の発句(ほっく)が独立したものであり、川柳は雑俳の付句が独立したものである。つまり、俳句のもつ、季語・切れ字の約束、句調の重さなどという特色は、発句の性格を受け継いだものであり、川柳のもつ、自由な題材、句調の軽さ、連用形による終止などの特色は、付句の性格を受け継いだものといえる。
前句付(まえくづけ)から独立した雑俳様式の一つ。川柳風狂句。17音を基本とする単独詠だが,発句(ほつく)のように季語や切字(きれじ)を要求せず,人事人情を対象にして端的におもしろくとらえる軽妙洒脱な味を本領とする。江戸の柄井川柳が《柳多留(やなぎだる)》(初編1765)で前句付の前句を省く編集法をとったため,しだいに付け味よりも付句一句の作柄が問題とされ,やがて5・7・5単独一句で作られるようになり,初代川柳の没後,〈下女〉〈居候〉などの題詠として前句付様式から離脱独立した。〈川柳〉の名称が一般化したのは明治の中ごろからである。
初代川柳は選句の基準として3分野を設定し,〈高番(こうばん)〉(古事,時代事),〈中番(なかばん)〉(生活句),〈末番(すえばん)〉(恋句,世話事,売色,下女)に分けており,以後,代々の川柳もこれを踏襲している。まさに〈人の挙動(ふるまい),心のよしあし,尊卑の人情,上下の人心の有様,其外,世の事情をざれ句にいへるもの〉(《塵塚談》)であって,世態人情を軽妙にうがち諷する詩風を樹立したが,初代の死と寛政改革とが重なって打撃をうける。〈役人の子はにぎにぎを能(よく)覚え〉(《柳多留》初編),〈坪皿の明くを見て行くしち使〉〈寝ごい下女車がゝりを夢のやう〉(同三編)など,政治,博奕(ばくち),好色の句が《柳多留》の再板本ではさし替えられており,自由な発想も政治的圧力に封ぜられた。さらに天保改革にあたって5世川柳の腥斎佃(なまぐさいたつくり)(1787-1858)は〈敬神愛国,勧善懲悪〉という道徳を至上の目標に掲げるなど,初期の批判的詩精神を消失してしまった。皮肉なことに,川柳風狂句は前句付様式から独立をかちえたと同時に,そのはつらつとしたエネルギーを失ったことになる。しかし狂句人口は増加し,江戸を中心に,北は山形,米沢へ,東は相模,松本,名古屋,飛驒,京,大坂に拠点ができ,全国的な支持を受けて広まったが,やがて知的遊戯におちた狂句をきらい,初代の古川柳への復古をとなえる明治の新川柳運動の標的にされることになる。
→雑俳(ざっぱい)
1903年(明治36)井上剣花坊,阪井久良伎(くらき)の,川柳は《柳多留》(初編)に戻れという提唱で近代川柳は始まる。2人はそれぞれ《日本》《電報》両新聞に拠って普及につとめた。剣花坊門の村田周魚は《川柳きやり》(1920),川上三太郎は《川柳研究》(1929)を発刊し,久良伎門の前田雀郎は24年丹若会を結成,今井卯木が1909年関西川柳社を創立,西田当百,岸本水府の《番傘》(1913),麻生路郎(じろう)の《川柳雑誌》(1924),椙元(すぎもと)紋太の《ふあうすと》(1929)が生まれるに至った。吟社の数は現在では全国800余社を数えるに至っている。
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