1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
震源地は相模湾北部(東経139.3度、北緯35.2度)の地点で、地震の強さは最大震度7、規模はM7.9であった。ちょうど昼食時であったため、地震による家屋の倒壊によって134か所から出火し、9月3日午後2時に鎮火した。その間、大火災のために気温が上昇、東京では1日夜半には46℃に達し、初震以来5日午前6時までに人体に感じた余震は936回を数え、各地に津波が襲来した。そのため日本の心臓部である京浜地帯は壊滅的な打撃を受け、被害は東京府を中心に神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡、山梨の1府6県に及んだ。東京市役所編『東京震災録 前輯(ぜんしゅう)』(1926)によれば、被災者は約340万人(1府6県の人口の29%、うち横浜市は人口の93%、東京市は人口の75%)、死者9万1344人、行方不明1万3275人、重傷1万6514人、軽傷3万5560人、全焼38万1090世帯、全壊8万3819世帯、半壊9万1232世帯、損害額は推定約55億円余にも及んだ。1922年度の一般会計予算が約14億7000万円であるのと比較すれば、その損害額がいかに莫大(ばくだい)であったかがわかるであろう。
第一次世界大戦後の日本は、対内的には、大正デモクラシー運動の高揚による民衆運動の組織化と、それに反発する右翼の台頭、原敬(はらたかし)首相暗殺と元老山県有朋(やまがたありとも)の死を契機とする天皇制支配体制の動揺、戦後恐慌による打撃などを通じて、危機が深刻化していた。また対外的には、ベルサイユ・ワシントン体制下における英米との対立の深化、朝鮮と中国の反日民族解放運動の激化、シベリア出兵の惨敗などにより国際的に孤立化しつつあった。こうした状況のもとに突発した関東大震災は、自然の大災害としてばかりでなく、経済、政治、社会の各方面に決定的な影響を与えた点に大きな歴史的意義があった。
大震災翌日の9月2日に成立した第二次山本権兵衛(ごんべえ)内閣は、超然内閣ではあったが、後藤新平(ごとうしんぺい)内相、井上準之助(じゅんのすけ)蔵相、犬養毅(いぬかいつよし)逓相らを擁する人材内閣として登場し、同日、東京周辺に戒厳令を敷くとともに非常徴発令を発して、救援、復興活動に乗り出した。まず経済面では、7日に暴利取締令と30日間の支払猶予令(モラトリアム)を施行して経済界の混乱をひとまず回避し、11日に米穀輸入税免除令、12日に生活必需品ならびに土木建築用器具機械材料輸入税減免令、22日に臨時物資供給令および同特別会計令などの勅令を公布した。さらに政府は、27日には、震災地を支払地とする手形の再割引を日本銀行が引き受け、その際日銀が受ける損害のうち1億円を限り政府がこれを補償するという日銀震災手形割引損失補償令を公布して銀行の救済を行った。しかし日銀の震災手形割引高は、翌1924年3月末までに4億3081万円、被割引銀行は105行に上り、これが通貨膨張の要因となるとともに、のちには震災手形の多くが回収不能となり、1927年(昭和2)3月の金融恐慌爆発の直接の原因となった。また政府は、被災商工業者への融資などを行ったが、これらの資金は震災後公債と英米外債の募集によって調達され、財政圧迫の原因をつくった。
一方復興については、遷都論の広がりによる市民の動揺を防ぐため、9月12日に帝都復興に関する詔書が出され、19日には帝都復興審議会官制、27日には帝都復興院官制がそれぞれ公布され、震災復興計画が立案遂行された。さらに12月24日には特別都市計画法が公布され、東京と横浜の都市計画が規定された。
山本内閣は9月7日に治安維持令を公布して人心の動揺を抑え、11月15日まで戒厳令を解除せず、東京、神奈川、埼玉、千葉の1府3県の人民の市民的・政治的自由を完全に剥奪(はくだつ)した。大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞(ふてい)鮮人暴動」などのデマが広がったが、デマの出所の一部は警察や軍隊であった。恐怖におののく民衆はこれらの悪質なデマに惑わされ、各地で自警団を組織し、官憲といっしょになって多数の朝鮮人や中国人を虐殺した。自警団のなかには、警察の指導のもとに組織されたものも多かった。内務省警保局の調べによる犯人の判明している被害死者数は、朝鮮人231名、中国人3名、日本人59名であり、吉野(よしの)作造が伝える朝鮮罹災(りさい)同胞慰問班の10月末までの調査では2613名であった。しかし実際には約6000名の朝鮮人が虐殺されたと推定されている。また中国公使館の調査によれば、中国人の行方不明者は約160~170名という。さらに陸軍と警察は、混乱に乗じて社会主義者や先進的労働者の撲滅を企て、3日夜から4日未明(一説には4日夜から5日未明)にかけて平沢計七・川合義虎(かわいよしとら)ら10名の労働者が軍隊に虐殺された亀戸事件(かめいどじけん)、16日には無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)・伊藤野枝(いとうのえ)夫妻らが甘粕正彦(あまかすまさひこ)憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が引き起こされた。しかしこのような白色テロに対する責任追及と批判の声は全体として弱く、学者・評論家では吉野作造、三宅雪嶺(みやけせつれい)ら、政治家では田淵豊吉(たぶちとよきち)、永井柳太郎(りゅうたろう)ら少数にとどまり、労働団体では日本労働総同盟、新聞・雑誌では『東京朝日新聞』『時事新報』『中央公論』『太陽』『改造』などにすぎなかった。しかもその間、軍部と警察は、治安維持と被災者救援活動を通じて民衆の間に威信を回復し、内村鑑三(かんぞう)や美濃部達吉(みのべたつきち)らさえ軍隊や戒厳令の施行に謝意を表するという状況が支配的となった。
こうしたなかで財界人の間では、大震災は、近年ぜいたくと放縦に慣れ、危険思想に染まりつつある国民に対する天罰であるという「天譴論(てんけんろん)」が唱えられていた。11月10日には「国民精神作興ニ関スル詔書」が発布され、天皇は「浮華放縦(ふかほうしょう)ノ習」と「軽佻詭激(けいちょうきげき)ノ風」を戒め「質実剛健」の国民精神を作興せよと国民に呼びかけ、思想善導政策の先鞭(せんべん)をつけた。さらに12月27日の虎の門事件は、民衆の間に「主義者」に対する恐怖心と嫌悪感を植え付け、しかもこの年には、中国の旅順大連(りょじゅんだいれん)回収運動の高揚と、アメリカの排日移民法制定の動きに触発され、世論が排外主義の方向へ向かい始めた。こうして1918年(大正7)の米騒動以来高揚を続けてきた大正デモクラシー運動は、関東大震災を契機に屈折と敗北の過程に入った。その後1924年1~5月の第二次憲政擁護運動を経て、6月に第一次加藤高明(たかあき)内閣が成立し、翌1925年3月の議会で普通選挙法と治安維持法が抱き合わせで可決され、ここに政党政治が確立した。しかし政治の民主化を求めてやまなかった大正デモクラシー運動は、普通選挙法の制定によって目標の一部を達成したが、治安維持法の成立によって政治的自由の実現を阻止されて敗北し、やがて政党政治も満州事変と五・一五事件によって没落させられるに至るのである。このような後の流れをみると、関東大震災は単なる天災ではなく、歴史の流れを変える決定的な転換点となった災害であったといえよう。
1923年(大正12)9月1日11時58分,神奈川県中部から相模灘東部,房総半島南端にかけての一帯を震源域として発生したマグニチュードM7.9の大地震(関東大地震)に伴う日本史上最大の地震災害。震央は神奈川県西部の東経139.2°,北緯35.4°に求められているが,これは震源域の北西端に当たる。上記のマグニチュード値は日本の観測資料による値で,全世界の資料を用いた表面波マグニチュードは8.2となる。この地震は相模トラフから北東に傾く断層の右ずれ逆断層運動によって起こった。この断層はユーラシアプレートと,その下に相模トラフからもぐり込むフィリピンプレートとの,境界面に当たると考えられる。地震は南関東一帯に著しい地殻変動を伴い,房総半島南半,三浦半島から神奈川県の相模湾岸は隆起し,隆起量は房総半島先端で1.8m,三浦半島で1.4mに達した。また,丹沢山付近を中心とする神奈川県中西部一帯は最大80cmの沈降を示した。水平方向へは房総半島,神奈川県一帯の地殻が南東に最大約5m移動した。相模灘の海底で100mに及ぶ昇降があったという報告もあるが,現在の地学の常識からみて考え難いので,測定の誤りではないかといわれている。地震に伴った地殻変動と世界各地の地震計による観測から,この地震を起こした断層の寸法は長さ約100km,幅約50km,ずれは約5m,断層面の破壊は北西から南東へ約2km/sの速度で進行したものとみられている。なお,三浦半島や房総半島南部では,いくつかの小断層のずれが地表に現れたが,これらは地震を起こした主断層ではなく,二次的なものと考えられている。
この地震は北は函館,西は広島まで人体に感じられたが,被害が生じたのは神奈川,東京,千葉,埼玉,山梨,静岡の各府県のほぼ全域と,長野,群馬,栃木の各県の一部である。特に神奈川県,東京府と,千葉県の房総半島南東部,静岡県東部と山梨・埼玉両県の一部では震度6に達した。当時は震度7という階級がなかったが,神奈川県南部,房総半島南東部では家屋の倒壊が30%を超えているので,現行の震度では7となる。地震そのものの規模は最大級ではなかったが,人口密度の高い地域が被災し,特に東京,横浜などで大火災が発生したため,災害は甚大で,死者9万9331人,行方不明4万3476人,家屋全壊12万8266,半壊12万6233,焼失44万7128,流失868を数えた。死者・行方不明の合計は14万2807人,うち東京府で10万7519人,神奈川県で3万3067人,その他の県で2221人である。東京と横浜ではそれぞれ全戸数の70%と60%が焼失した。その他,横須賀,鎌倉,浦賀,厚木,秦野,真鶴などの市・町でも火災が発生した。東京における死者の多くは火災による焼死,水死(火に追われ川に入ったため)であり,特に本所の被服厰跡地では避難していた約4万人のうち3万8000人が,火災による旋風により焼死または窒息死した。家屋の倒壊は神奈川県で多く,全壊家屋の半数以上を同県が占め,小田原,鎌倉などでは全壊率が50%を超えた。東京では本所,浅草,深川,下谷,神田の各区など下町に倒壊家屋が多かったが,木造家屋の全壊率は本所区の13%が最高で,日本橋,京橋,四谷,麴町,本郷,小石川の各区では1%に満たなかった。また相模湾沿岸は2~10mの大津波に襲われ820戸が流失した。山崩れも多く,特に神奈川県根府川の土石流は大災害を伴った。
この地震は前震がまったく記録されず,また海岸の昇降など目だった前兆的地殻変動も観測されていない。ただし,地震前の2年間に南関東でM6.0ないし7.0の地震が4回あり,小被害を生じているので,地震活動はやや高まっていたとはいえる。
関東大震災による大混乱のなかで起こった諸事件は,その後の日本の歩みに重大な影響を及ぼした。第1次世界大戦で急激に発展した日本では,普選運動,労農運動など民主化を求める民衆運動が広がり,社会主義運動も台頭してきた。前年のワシントン会議を機に軍縮論も高まり,シベリアや中国山東省からの撤兵がおこなわれ,日ソ復交も日程にのぼった。しかし,中国の国権回復運動が広がり,中国,朝鮮の民族解放運動に対するコミンテルンの影響が強まると,軍部や国家主義者は巻返しに出た。政府は前年(1922)に過激社会運動取締法案の制定を企て審議未了となったが,その年7月に結成された日本共産党に対しては,この年5月の早稲田軍教事件をきっかけに第1次検挙をおこなった。民衆運動の台頭に適応して民主化の方向で政治体制の再編成をすすめるか,それとも治安立法を強化して民衆運動にくさびを打ちこむかという二つの方向が競り合っていた。
大震災は京浜地方を大混乱に巻き込んだ。地震の瞬間に電話は切断され交通機関は破壊され,水道,電気もとまった。東京では大火災が丸ノ内官庁街の一部を含めて下町一帯を焼き払い,3日未明まで燃え続けた。大戦景気で大都市が膨張したのに都市計画が実施されず,木造家屋が密集し,街路も公園も狭く,そのうえ避難民の持ち出した荷物が火を呼び多数の木の橋が燃え落ちたことなどが焼死者を増やした。10万人近い罹災民が上野公園,皇居前広場,日比谷公園等に群がり,ただならぬ状況となった。一方,横浜では全市が壊滅し,幾日間も救援が及ばなかった。
震災の当日は加藤友三郎首相の死による政変の最中で,水野錬太郎内相らの閣僚が職務をとっていた。彼らは,米騒動や朝鮮三・一独立運動の経験から民衆暴動を恐れていた。陸軍では地震直後に非常警備を開始し,まもなく政府も出兵を請求した。2日になると朝鮮人来襲の流言が急激に広がり,東京市と周囲の5郡に戒厳令の一部が施行された。警察,軍隊は各地に自警団をつくらせ,朝鮮人を狩り立て,大規模な虐殺事件(朝鮮人虐殺事件)を引き起こした。戒厳令施行の直後には第2次山本権兵衛内閣が成立した。3日には戒厳区域が東京府,神奈川県に拡大され,地方師団が続々と到着した。不安におびえる民衆に安心感を与えることで,軍部は勢力盛返しをはかったのである。社会主義者に対する攻撃が強化され,亀戸(かめいど)事件が起こった。朝鮮人暴動がデマと判明したのちには,虐殺事件を正当化するために朝鮮人の暴行事実を極力調査して赤化分子が背後で扇動したと宣伝する方針がとられ,社会主義者が続々と検束された。7日には緊急勅令で〈治安維持の為にする罰則に関する件〉が公布され,言論をきびしく弾圧した。これは過激社会運動取締法案にかわる治安立法としての意味をもち,つぎの臨時議会で事後承認され,治安維持法の露払いとなった。9月中旬には軍隊による直接警備を逐次解除して警察に移す方針がとられたが,そのなかで軍部は中国人の知識青年で社会運動家の王希天殺害事件と無政府主義者大杉栄夫妻らを殺害した甘粕事件とを起こした。これらの事件は報道を禁止され,新聞記者等の活動で逐次これを解除したが,真相は隠された。甘粕事件は曲りなりにも軍法会議にかかったが,亀戸事件は戒厳令下の当然の措置とされ,王希天は行方不明とされ,朝鮮人虐殺事件はごく一部の自警団が裁判にかけられただけで,それらの刑も軽かった。軍隊,警察としての責任は問われることもなく,また世論や民衆の側からの批判や抗議も弱かった。他方で虐殺事件を正当化しようとする宣伝や工作がすすめられ,言論統制も強化された。
震災後の保守化した風潮のなかで支配層は〈天譴(てんけん)論〉を唱えた。震災は大戦後のぜいたくや自由放縦に対する天罰であり戒めだとしたのである。これをうけて11月10日には国民精神作興詔書が出されて国民の思想統制がすすめられた。11月16日には戒厳令が解除されたが,東京警備司令部がおかれ憲兵隊が大増強された。社会主義運動に対する弾圧もつづき,群馬県や長野県の社会主義青年グループが秘密結社を組織しているなどの理由でつぎつぎに検挙された。震災下の血なまぐさいテロに加えて民衆に白眼視されたことは社会主義運動に衝撃を与えた。翌年2月には日本共産党は解党し,日本労働総同盟も方向転換を宣言する。
関東大震災による物的被害は,東京市統計課の推計では1府6県合わせて55億0600余万円に達し,前年度の一般会計予算の3倍半を超える。項目別では商品20億余円,建物18億余円を筆頭に家財,工場,在庫品,電気施設,堤防,道路,橋梁,上水道,船舶,河港,下水道の順で続く。経済活動の停止による損害や救護費は含まない。救護費は国の支出分が2300万円,義援金が国内3700万円,外国2200万円,その他を含め計8500万円で,義援金に大幅にたよっている。政府は経済活動の混乱を防ぐため9月7日に支払猶予令(モラトリアム)を出し,罹災地一帯の金銭債務で9月中に期限の到来するものは,給料賃金や100円以下の預金支払を除いて30日間支払を延期させ,寛大な条件で銀行に融資して営業を再開させた。同27日には震災手形割引損失補償令を出し,9月1日以前に銀行が割り引いた手形を日本銀行に再割引させ,これで日銀が損失をうけた場合は1億円を限度として政府が補償することとした。日銀が再割引した震災手形は4億3000万円にのぼり,その約半数が支払不能となり,これが昭和恐慌の原因となった。火災保険には地震による火災の損害については支払わないとの約款があったが,前例のないことなので保険金支払要求運動が起こり問題化した。そのため政府が援助して小口保険で1割程度の見舞金が翌年5月に支払われた。
震災直後には遷都論も起こったが,9月12日に帝都復興に関する詔勅が出され,さきに東京市長として8億円の大改造計画を立てた後藤新平内相が40億円の理想的な復興計画案をつくり,これが諸官庁の復旧事業を別にして13億円で横浜市を含めて帝都復興事業をおこなう案となったが,大蔵省で7億円に削られた。ついで開かれた帝都復興審議会では軍備や農村対策を重視する保守派の反対で6ヵ年継続事業5億7000万円に減らされ,さらに臨時議会ではそのうち1億余円が東京,横浜両市の負担とされた。各省の復旧費は7億円であった。こうして復興計画は縮小されたものの,震災前に比べると東京と横浜の道路,公園などが格段に整備された。震災の打撃で下町を基盤とする伝統的な商工業は衰退し,震災後の緊縮財政のもとで資本の集中と大企業による合理化がすすんだ。東京では丸ノ内のオフィス街と山手の郊外住宅地域が急激に発展し,サラリーマンの時代となった。山手環状線とこれにつづく私鉄網が完成し,新宿,渋谷,池袋等の副都心が発展した。京浜南部の臨海埋立地には重化学工業を中心に続々と大工場がつくられ,京浜工業地帯として整備された。しかし団結権や耕作権など勤労民衆の権利は保障されず,サラリーマンの層もうすく,〈大学は出たけれど〉の嘆きとなった。小市民のモダン生活は街頭だけのことで,地域には絶対主義的な国家構造の基礎としての〈イエ〉と〈ムラ〉とが根をはっていた。大都市を中心に大衆文化も発達したが,そこにはかげりがあった。1925年には大衆雑誌《キング》が創刊されたが,色濃く通俗道徳が流しこまれていたし,ラジオ放送も発足したが,それは政府のきびしい監督下におかれた。震災の打撃をうけた新聞界でも,大新聞の制覇と新聞の企業化がすすみ,政治批判の機能は低下した。関東大震災は重苦しい大衆社会の幕あけとなった。
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