1. 聖教要録
日本大百科全書
江戸前期の儒者・兵学者山鹿素行やまがそこうの著書。3巻。1665年(寛文5)成立、翌年刊行。本書に先だち素行の門人たちによって『山鹿語類』が編纂へんさんされてい
2. 聖教要録
世界大百科事典
江戸前期の儒者山鹿素行の著書。3巻。1665年(寛文5)刊。朱子学批判を含む文献としては日本で最初のもの。本書は後世の儒者の意見を退けて直接聖人の言葉につくこと
3. せいきょうようろく[セイケウエウロク]【聖教要録】
日本国語大辞典
江戸前期の儒学書。三巻。山鹿素行著。寛文五年(一六六五)成立。「山鹿語類」四五巻からの抜粋で、漢唐の訓詁学、宋の性理学、陽明学を排して、経書を直接に解釈して孔孟
4. せいきょうようろく【聖教要録】
国史大辞典
意向にもとづくものであったと推測されている。→山鹿素行(やまがそこう) [参考文献]広瀬豊『聖教要録』解題(『山鹿素行集』六)、堀勇雄『山鹿素行』(『人物叢書』
5. 『聖教要録』
日本史年表
1665年〈寛文5 乙巳〉 この年 山鹿素行 『聖教要録』 刊。
6. 聖教要録(著作ID:340669)
新日本古典籍データベース
せいきょうようろく 山鹿 素行(やまが そこう) 漢学 寛文五序
7. あこうじょうあと【赤穂城跡】兵庫県:赤穂市/赤穂城下
日本歴史地名大系
素行が禄一千石で仕官した。この間「武教要録」「修教要録」「治教要録」を執筆し、寛文六年には「聖教要録」等の著書で幕府の禁忌に触れて浅野氏に預けられ、著述に励みな
8. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
このころ陶工の野々村仁清活躍1665(寛文5)山鹿素行『山鹿語類』『聖教要録』。このころ浅井了意『京雀』刊行1666(寛文6)10月 山鹿素行『聖教要録』の筆禍
9. 甲子夜話三篇 2 117ページ
東洋文庫
者に候間、覚悟如レ左記置候。蒙当三千歳之今→大明周公孔子之道→猶欲レ糺二吾誤於天下→開二板『聖教要録』一之処、当時俗学腐儒、不レ修レ身、不レ勤二忠孝→況天下国家
10. 甲子夜話三篇 2 119ページ
東洋文庫
朱⑯年四十後、有レ疑二於理気心性之説4以二先レ是所レ著経解数種→悉焼レ之。寛文六年春、著二『聖教要録』三巻→刊二行干世→非二斥程朱→弁駁排諺、無忌憚岨其意蓋在レ
11. 甲子夜話三篇 2 120ページ
東洋文庫
御草案如レ例拝覧仕候。おもしろき事ども多く珍 重仕候。御文辞聯も可二申上一儀無二御坐一候。 一、『聖教要録』は定めて御収蔵可レ被レ成御坐候 と奉レ存候。い
12. 甲子夜話三篇 2 202ページ
東洋文庫
用みしと云。〔畜 極月(天保六)の中ば、響に林子の請に因ること育て、八世洲河岸の愛日楼を訪ひ、素行が『聖教要録』を携へ示したる。語話の中に、主人〔捨蔵〕の日。会
13. 甲子夜話三篇 2 207ページ
東洋文庫
全く堀内の祖師に祈願の霊験なり連、是よりして感応寺新建も創りしと云。思ふに邪説耳。〔一〇〕 響に素行の『聖教要録』のことを、著書に録
14. 甲子夜話三篇 2 208ページ
東洋文庫
此ことを肥州 とも談決して、林子に書を遣し、誰そ代として来ら しめよと云たれば、其答に、 『聖教要録』之儀に付、八之助差上候様にとの事 承知仕候。近日さし上
15. 甲子夜話三篇 2 209ページ
東洋文庫
林子の自書あり。日〔先予が書を挙て、彼の書を次に記す〕。 扱は先頃より御沙汰被レ下候山鹿之『聖教要録』 云云、頃日追々申述候通之処、一斎え御示被レ下候 御旨、昨
16. 甲子夜話三篇 2 211ページ
東洋文庫
『残筆』の所レ記、素行御轡を蒙しは、其六年〔丙午)十月なり。『先哲叢談』の所載は、寛文六年春、著一『聖教要録』三巻一刊一一行子世4これ等に拠れば、前年冬より其業
17. きんせい【近世】画像
国史大辞典
ていたことも、その研究の発展にとって有利な条件であった。ただしこの点に関しては、山鹿素行が『聖教要録』を著わして朱子学を批判したため寛文六年(一六六六)に幕府の
18. きんせいしゃかいけいざいがくせつたいけい【近世社会経済学説大系】
国史大辞典
・物価余論・物価余論簽書・復古法・垂統秘録・混同秘策 山鹿素行集(内田繁隆解題) 謫居童問・聖教要録・山鹿語類・中朝事実・配所残筆 二宮尊徳集(八木沢善次解題)
19. 近世の日本・日本近世史 52ページ
東洋文庫
あるが、朱子の説にも穏当ならざる所あるを悟り、晩年に『大疑録』を著わした貝原益軒、ならびに『聖教要録』を著わして、孔子没して聖人の統ほとんど尽くと唱えた山鹿素行
20. 近世の日本・日本近世史 54ページ
東洋文庫
すなわち日本を中心として考えていたという事、それからして彼が『聖教要録』のために罪を受けた次第などをもよく説かれております。素行の『聖教要録』、益軒の『大疑録』
21. 近世の日本・日本近世史 237ページ
東洋文庫
ぶもの。後の二著にくらべて小篇であるが、内容は充実していて少しも遜色はない。素行全集のほか『聖教要録』と共に岩波文庫にも収められている。本書の刊本は数種あるが、
22. 慊堂日暦 3 146ページ
東洋文庫
十六歳にて北条安房守氏長に従って韜略を学ぶ。氏長は小幡勘兵衛景憲の弟子なり。四十以後は程朱理気心性の説を疑い、聖教要録を著してこれを非斥す。禄千石を以て赤穂侯浅
23. こくみんせいしんぶんかけんきゅうじょ【国民精神文化研究所】
国史大辞典
長) (二)武教全書・武教要録 (三)修教要録 (四)・(五)武教七書諺義 (六)中朝事実・聖教要録・謫居童問 (七)家譜年譜・年譜資料・東海道日記・東山道日記
24. 新編 日本思想史研究 村岡典嗣論文選 448ページ
東洋文庫
~1942.9.30)。津田左右吉の後任。聴講者に丸山真男。六月十八日 校訂書・山鹿素行著『聖教要録・配所残筆』(岩波文庫) 十月二十八日『増訂日本思想史研究』
25. じだいのとくしょく【時代の特色】 : 近世
国史大辞典
ていたことも、その研究の発展にとって有利な条件であった。ただしこの点に関しては、山鹿素行が『聖教要録』を著わして朱子学を批判したため寛文六年(一六六六)に幕府の
26. せい‐じょう[‥ジャウ]【性情】
日本国語大辞典
之所
之也。性情也。雅正也」*
聖教要録〔1665〕下・心「古人指
性情
27. 先哲叢談 201ページ
東洋文庫
その外此赦 に逢ふもの若干なり」o (5) 山鹿素行(元和八・=ハ…1貞享二・一六八五)。 『聖教要録』(寛文五年刊)により配流。第三条遷庵、博学にして著書
28. 増補 世界の一環としての日本 1 151ページ
東洋文庫
の主張をねらつてゐるといふことを見落としてはならぬ。学者が学問に泥み、「学の蔽」(山鹿素行「聖教要録」)を覚らず、学が「知の戦」(西周「知論」)であることを忘れ
29. たっきょどうもん【謫居童問】
国史大辞典
仮名交り文で書かれているが、児童を対象とする初学者用の平易な啓蒙書ではなく、三年前に成った『山鹿語類』『聖教要録』よりも古学的、実学的聖学が要領よく明快に説かれ
30. にち‐よう【日用】
日本国語大辞典
日用之常を行を礼と云」*清原国賢書写本荘子抄〔1530〕七「日用の間命をもて、規矩法度とせず」*
聖教要録〔1665〕中・道「道有
所
31. にほんかがくこてんぜんしょ【日本科学古典全書】
国史大辞典
『日本科学古典全書』」が収められている。刊行巻の収載書目は次のとおりである。 1科学思想篇 聖教要録(山鹿素行)・多賀墨郷君にこたふる書(三浦梅園)・戯示学徒(
32. 日本教育史 2 23ページ
東洋文庫
純粋の朱子学者にあらず。徳川氏にては、専ら朱子学を尊び、霊元天皇の寛文六年には、山鹿高祐が、聖教要録を著し、朱子の学を駁し、之を刊行するを以て、幽囚せられ、光格
33. にほんしそうたいけい【日本思想大系】
国史大辞典
(中国弁(同)・中国論集(佐藤直方))・学談雑録(同)・雑談筆記(若林強斎) 32山鹿素行 聖教要録・山鹿語類(巻二一・三三・四一)・配所残筆 33伊藤仁斎・伊
34. にほんりんりいへん【日本倫理彙編】
国史大辞典
大塩中斎(平八郎)『古本大学刮目』『儒門空虚聚語』など四種を収録。古学派の部の第四巻は山鹿素行『聖教要録』など四種、第五巻は伊藤仁斎『語孟字義』『童子問』『仁斎
35. はんこう【藩校】 : 弘前藩
国史大辞典
古所・漢英学寮・医学校の設置など時勢に応じた学問が奨励された。儒学教科書のほか『中朝事実』『聖教要録』『稽古館暦』などが刊行されている。
36. 筆禍
世界大百科事典
あるように,木版印刷が盛行する江戸時代初期から,出版物の取締りがはじまっている。山鹿素行が《聖教要録》,林子平が《海国兵談》により,それぞれ幕府から処罰をうけた
37. ひろさきはん【弘前藩】画像
国史大辞典
古所・漢英学寮・医学校の設置など時勢に応じた学問が奨励された。儒学教科書のほか『中朝事実』『聖教要録』『稽古館暦』などが刊行されている。 [参考文献]『弘前市史
38. 山鹿素行
日本大百科全書
『語類』聖学篇へんの要約ともいえる1665年(寛文5)に著された『聖教要録』では、古学転回後の素行学が体系的に展開された。しかし『聖教要録』は「不届成ふとどきな
39. 山鹿素行
世界大百科事典
過ぎるころから,当時の儒学の主流であった朱子学に疑問をもつようになり,65年(寛文5)には《聖教要録》を著して朱子学を批判したが,〈不届なる書物〉を刊行したとの
40. やまが‐そこう【山鹿素行】
日本国語大辞典
大名・旗本に兵学の弟子が多かった。赤穂藩江戸屋敷に仕えて朱子学を奉じたが、後、古学を提唱し、朱子学を批判した「聖教要録」によって赤穂に配流された。延宝三年(一六
41. やまがそこう【山鹿素行】
国史大辞典
聖学あるいは聖教とよび、翌年から門人に大部の『山鹿語類』を編集させるとともに、その新しい学問の理論を『聖教要録』にまとめ、同五年に刊行した。このため翌年十月には
42. やまが-そこう【山鹿素行】
日本人名大辞典
のり),北条氏長に武芸,兵学をまなぶ。「武教全書」などをあらわし山鹿流兵学を完成。寛文5年「聖教要録」で朱子学を批判し,播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩
43. 山鹿素行[文献目録]
日本人物文献目録
行の国体観』納富康之『近世日本経済倫理思想史』東晋太郎『「聖教要録」 解説』三枝博音『山鹿素行 経済道義の創建者』東晋太郎『聖教要録』宇野哲人『山鹿素行』堀勇雄
44. やまがりゅう【山鹿流】
国史大辞典
離れなかった。素行の学は古学といわれ、日本の古代、中国の易学にさかのぼって、その深源を探究した。著書『聖教要録』は朱子学を基準とする幕府の忌諱に触れ、寛文六年(
45. ゆうほうどうぶんこ【有朋堂文庫】
国史大辞典
中江藤樹文集 翁問答・鑑草・藤樹先生精言・文武問答・藤樹先生遺稿・藤樹先生書簡雑著 山鹿素行文集 聖教要録・武教小学・士道・中朝事実・配所残筆 集義和書(熊沢蕃
46. れい‐ちょう[‥チャウ]【霊長】
日本国語大辞典
ni (レイチャウニ) ツクリタマイ」*聖教要録〔1665〕上・知至「人者万物之霊長也。有
47. 【山鹿素行】やまがそこう(かう)
新選漢和辞典Web版
学び、北条氏長(ほうじょううじなが)に兵学を学んだ。朱子学を疑って、赤穂(あこう)に流された。「聖教要録」「中朝事実」などの著がある。(一六二二~一六八五)
48. 1665年〈寛文5 乙巳〉
日本史年表
朱舜水 を招請(水戸紀年)。 近衛基熙、 『基熙公記』 を記す(~享保7年8月)。 山鹿素行 『聖教要録』 刊。 【死没】 3・20 黒田長興(56、筑前秋月