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  11. 鳥居元忠

鳥居元忠

ジャパンナレッジで閲覧できる『鳥居元忠』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

鳥居元忠
とりいもとただ
一五三九 - 一六〇〇
戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年(一五八二)の本能寺の変ののち、後北条氏の将北条氏勝の軍を破った功により、家康から甲州郡内の地を与えられ、また、同十八年の豊臣秀吉の小田原征伐のときには、浅野長政らを助けて岩槻城の太田氏房を攻め、その功によって秀吉から感状を与えられている。家康の関東入国に際しては下総国矢作において四万石の所領を与えられた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦のとき、家康はこの元忠を伏見城の総大将として残した。そのため、伏見城は同年七月十九日から始まる西軍の総攻撃をうけ、八月一日に落城し、そのとき元忠も戦死をとげたのである。六十二歳。墓は京都市左京区の知恩寺にある。
[参考文献]
『寛政重修諸家譜』五六〇
(小和田 哲男)


日本大百科全書(ニッポニカ)

鳥居元忠
とりいもとただ
[1539―1600]

安土 (あづち)桃山時代の武将。通称彦右衛門 (ひこえもん)。松平氏の家臣鳥居忠吉の子として生まれ、幼少より徳川家康の側近として仕えた。姉川 (あねがわ)の戦いに先駆けしたのをはじめ、各地に転戦して戦功を重ね、三方ヶ原 (みかたがはら)の戦いには負傷して片方の足が不自由になったと伝えられる。1582年(天正10)北条氏勝 (うじかつ)を甲斐 (かい)に破り、甲斐郡内 (ぐんない)地方において領地を与えられ城持 (しろもち)衆の1人として一手を預かった。その後は、徳川氏の武将として先手 (さきて)を勤め、1590年の小田原攻めでは相模 (さがみ)の築井 (つくい)城(神奈川県相模原 (さがみはら)市緑 (みどり)区)、武蔵 (むさし)の岩槻 (いわつき)城(埼玉県)を攻め下し、功により下総 (しもうさ)国矢作 (やはぎ)(千葉市)で4万石を与えられた。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いに際し、伏見 (ふしみ)城を守ったが、豊臣 (とよとみ)方の包囲にあい落城、戦死した。

[佐々悦久]



世界大百科事典

鳥居元忠
とりいもとただ
1539-1600(天文8-慶長5)

徳川家康の重臣。通称彦右衛門。三河国渡河内に生まれる。今川氏の人質となって駿府に在住中の家康に近侍した。徳川氏の5ヵ国領有時,旗本一手の将として軍功があり,武田氏滅亡後,甲州郡内の地を与えられ,関東入部のとき下総国矢作(やはぎ)4万石を領した。豊臣秀吉の執奏による官位授与を徳川氏譜代を理由に固辞したという。関ヶ原の戦のとき,伏見城を守り壮烈な戦死をとげた。
[煎本 増夫]

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1. 鳥居元忠
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安土あづち桃山時代の武将。通称彦右衛門ひこえもん。松平氏の家臣鳥居忠吉の子として生まれ、幼少より徳川家康の側近として仕えた。姉川あねがわの戦いに先駆けしたのをは
2. 鳥居元忠
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1539-1600(天文8-慶長5) 徳川家康の重臣。通称彦右衛門。三河国渡河内に生まれる。今川氏の人質となって駿府に在住中の家康に近侍した。徳川氏の5ヵ国領有
3. とりい‐もとただ【鳥居元忠】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。徳川譜代の臣。通称彦右衛門。幼い時から家康に仕え、のち下総矢作四万石。関ケ原戦で伏見城留守役となって豊臣方に囲まれ、自刃。天文八~慶長五年(
4. とりいもとただ【鳥居元忠】
国史大辞典
一五三九―一六〇〇 戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一
5. 鳥居元忠(とりいもとただ)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1035ページ
6. とりい-もとただ【鳥居元忠】
日本人名大辞典
1539−1600 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)8年生まれ。鳥居忠吉(ただよし)の子。徳川家康につかえ,姉川の戦い,三方原の戦い,長篠(ながしの)の戦
7. 鳥居元忠[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:2件 【逐次刊行物】:0件 『鳥居元忠と日本武士道』三浦周行『鳥居元忠』和田兼三郎, 鈴木禄三郎
8. 鳥居元忠遺書(著作ID:1501913)
新日本古典籍データベース
とりいもとただいしょ 鳥居 元忠(とりい もとただ) 教訓 
9. あんどう-さだまさ【安藤定正】
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臣が信玄にねがえるなか,定正は最後までしたがった。のち北条氏照につかえ,さらに徳川家康の部将鳥居元忠(もとただ)に属する。天正(てんしょう)18年豊臣秀吉の小田
10. いちのみや-さだゆう【一宮左大夫】
日本人名大辞典
天正(てんしょう)8年(1580)上野(こうずけ)(群馬県)膳(ぜん)城攻略に軍功をたてる。武田氏滅亡後は鳥居元忠につかえ,関ケ原の戦いのとき伏見城守備中に西軍
11. いちのわけめむら【一之分目村】千葉県:香取郡/小見川町地図
日本歴史地名大系
[現]小見川町一ノ分目 三之分目村の北西に位置し、銚子道が通る。慶長四年(一五九九)の鳥居元忠による矢作領検地を受け、高五九二石余が打出されている(「部冊帳」伊
12. いでぬまむら【出沼村】千葉県:香取郡/多古町地図
日本歴史地名大系
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13. いどやまむら【井戸山村】千葉県:香取郡/多古町地図
日本歴史地名大系
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14. いわがさきむら【岩ヶ崎村】千葉県:佐原市地図
日本歴史地名大系
同一八年の北条氏滅亡とともに落城したという。同年徳川家康の関東入封に伴い岩ヶ崎の城地には家臣鳥居元忠が在番したともいわれる(以上、正徳四年「根郷五箇村谷地御定納
15. いわべむら【岩部村】千葉県:香取郡/栗源町地図
日本歴史地名大系
する。南は西田部村。中世は岩部郷とよばれた。天正一八年(一五九〇)八月矢作城(現佐原市)城主鳥居元忠領となった(安興寺文書)。慶長四年(一五九九)の矢作縄では高
16. うえだじょう【上田城】長野県:上田市/上田城下
日本歴史地名大系
置かれていた。天正一三年七月、真田昌幸と徳川家康との確執が生じ、その結果家康は、大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉の三将に保科・諏訪・下条・知久・芦田・曾根・遠山・
17. えんつうじあと【円通寺跡】山梨県:大月市/岩殿村
日本歴史地名大系
を本願として堂宇を修復、寄進者には武田信友・平(小山田)信有らの名がみえる。江戸期都留郡領主鳥居元忠は岩殿七社権現その他社領の別当職を常楽坊に与え、慶長六年(一
18. おおつきし【大月市】山梨県
日本歴史地名大系
首され滅亡した。その後、北条氏と徳川氏の天正壬午の乱を経て、郡内は谷村城(現都留市)に拠った鳥居元忠に与えられ、以後市域は同氏の支配に属することになる。〔近世〕
19. おおのごう【大野郷】山梨県:山梨市/大野村
日本歴史地名大系
守備していたが(「家忠日記増補」など)、御坂峠を越えて侵入した北条氏忠らに対抗し、八月一二日古府中より鳥居元忠・水野勝成が打って出ると、清宗・康貞らも出陣し、黒
20. おりはたむら【織幡村】千葉県:香取郡/小見川町地図
日本歴史地名大系
負担しており、奉行は織幡長であった(永享五年六月写庭薙所役分配状)。〔近世〕慶長四年(一五九九)鳥居元忠の矢作領検地を受け、高五〇四石余が打出されており(「部冊
21. かいのくに【甲斐国】山梨県
日本歴史地名大系
一〇月の和議の結果甲斐を押えた徳川家康は(「家忠日記」など)、河内を信君の遺児信治(勝千代)に、郡内を鳥居元忠に与え、国中は直轄領として城代を平岩親吉とし(「甲
22. 甲子夜話 4 267ページ
東洋文庫
若し参拝せられば、彼寺井に中書家に云遣すべし。三楽家には未参詣せず。その故とぞ。〔吾 因に云ふ。鳥居元忠も神に祭りて、壬生の城
23. 香取[市]
世界大百科事典
の海夫注文(香取文書)には〈さわらの津〉があり,水運の要津でもあった。1590年(天正18)鳥居元忠が矢作に入城し,1602年(慶長7)奥州磐城平へ転封後は,天
24. かとりぐん【香取郡】
国史大辞典
により小田原落城、後北条氏滅び、北条氏傘下の千葉氏一族もまた滅亡。徳川家康の関東入国となり、鳥居元忠(矢作)、松平家忠(上代(東庄町・干潟町))、代官吉田佐太郎
25. かとりぐん【香取郡】千葉県
日本歴史地名大系
総町)、八月同郡助崎のうち植房村(現神崎町)などで検地が行われている。慶長四年矢作領四万石の鳥居元忠により矢作縄と称される検地が実施され、諸村の打出高が知られる
26. かとりじんぐう【香取神宮】千葉県:佐原市/香取村地図
日本歴史地名大系
〔近世の動向と社領〕天正一八年(一五九〇)千葉氏が滅亡、徳川家康の関東入部により、当社周辺は矢作城主鳥居元忠領となる。同一九年二月鳥居氏は香取村を対象としたとみ
27. かとりむら【香取村】千葉県:佐原市地図
日本歴史地名大系
香取郷とも記される。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入封後、香取社周辺の村々は矢作領四万石として家康の家臣鳥居元忠に与えられた(「諸大名旗本分限帳」内閣文庫
28. かなめいし(仮名草子集) 45ページ
日本古典文学全集
地震史料)。鳥居元忠。天文八年(一五三九)生~慶長五年(一六〇〇)没。戦国・安土桃山時代の武将。その城とは伏見城(→四〇ページ注二)のこと。慶長五年、関ヶ原の戦
29. かんのうむら【神生村】千葉県:香取郡/山田町地図
日本歴史地名大系
)の長岡村浅間大明神(現稲葉山神社)本社建立の棟札に寄進村の一として村名がみえる。慶長四年の鳥居元忠の検地により高七一七石余が打出された(「部冊帳」伊能家文書)
30. 金谷上人行状記 ある奇僧の半生 198ページ
東洋文庫
清海寺-幡豆郡吉良町のそれか。浄土宗西山派。不退院-西尾市上道日記町。浄土宗西山派。深草 義三河十二本寺の一。鳥居元忠が帰依した。一〇ニページ池立i知立町。ここ
31. くまくじんじゃ【久麻久神社】愛知県:西尾市/八ッ面村
日本歴史地名大系
「伝え云う、往古は吉良山一名八ツ面山の絶頂に西向きに鎮座ありしが、永禄年間、徳川家康岡崎在城の時、家臣鳥居元忠荒川城主をして山の東方半腹、現在の場所に奉遷せしめ
32. くりさきじょうあと【栗崎城跡】群馬県:群馬郡/倉淵村/三野倉村
日本歴史地名大系
正に三蔵五千五〇〇石を与えた。「寛政重修諸家譜」によると、松平五左衛門は慶長五年(一六〇〇)鳥居元忠らと伏見城(現京都市伏見区)を守り八月一日戦死。若狭守一生は
33. くりもとまち【栗源町】千葉県:香取郡地図
日本歴史地名大系
中心的存在となったとされる。天正一八年(一五九〇)国分氏没落のあと、佐原を中心とする矢作領に鳥居元忠が入部し、慶長四年(一五九九)矢作縄と称する検地が行われた。
34. 甲賀者
世界大百科事典
り,その後も侍分の特権を与えられていた。しかし,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で家康の部将鳥居元忠指揮下にあって伏見城を死守したものの子孫は,与力(10騎),
35. こうきょうじ【広教寺】山梨県:都留市/大幡村
日本歴史地名大系
曹洞宗に改宗して石心は曹洞開山と称された(甲斐国志)。武田氏滅亡後の天正一〇年(一五八二)一一月二三日、鳥居元忠は寺中門前・山林における伐採・狼藉停止の制札(広
36. こうざきまち【神崎町】千葉県:香取郡地図
日本歴史地名大系
氏の祖となった。天正一八年(一五九〇)の徳川家康の関東入国後、町域は矢作領四万石を与えられた鳥居元忠領になったとされ、慶長四年(一五九九)領内の検地(矢作縄)が
37. こうざきむら【神崎村】千葉県:香取郡/神崎町地図
日本歴史地名大系
取郡神崎郷とみえ、郷内二〇石が神崎神社に寄進された。慶長四年(一五九九)矢作領四万石を領する鳥居元忠の検地を受け、当村は高七八二石余が打出されている(「部冊帳」
38. こう‐じょう[‥ジャウ]【功状】
日本国語大辞典
〔名〕功績。また、功績を記した書状。*日本外史〔1827〕一八・徳川氏正記「鳥居元忠〓首功
39. こうふはん【甲府藩】
国史大辞典
同六月本能寺の変後、相模北条氏と戦った徳川家康の支配下となり、同年暮より平岩親吉を甲府城代とし、郡内谷村城の鳥居元忠とともに国内を統治させた。同十八年八月家康が
40. 西遊草 清河八郎旅中記 79ページ
東洋文庫
依厚く寺運隆盛だったが、室町以後荒廃Q六 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦が起こるや、 徳川家康は鳥居元忠等二千人を伏見城にとど めて東征。大坂方は四万の兵を以っ
41. さかきばらやすまさ【〓原康政】画像
国史大辞典
のち家康の一字を賜わり、康政を名のった。七年今川氏真の武将小原鎮実のよる吉田城を攻め、本多忠勝・鳥居元忠らとともに旗本の先手をつとめた。元亀元年(一五七〇)の姉
42. さくみくらむら【谷三倉村】千葉県:香取郡/多古町地図
日本歴史地名大系
の作三倉水帳写(同文書)によると田二一町二反余・畑一町余・屋敷三反余。慶長四年(一五九九)に鳥居元忠の検地を受けたと考えられる(「部冊帳」伊能家文書)。元禄一三
43. さの-つなまさ【佐野綱正】
日本人名大辞典
豊臣秀次(ひでつぐ),徳川家康につかえる。関ケ原の戦いの直前,家康の命で落城を覚悟して伏見城を死守する鳥居元忠にしたがい慶長5年7月29日戦死した。47歳。通称
44. さわむら【沢村】千葉県:香取郡/栗源町地図
日本歴史地名大系
天正一七己丑九月」とみえる。天正一八年(一五九〇)国分氏の矢作城(現佐原市)落城の際、遺臣が立籠って鳥居元忠勢と交戦、堂宇が焼失したとされる(「当山旧記」真浄寺
45. さわらし【佐原市】千葉県地図
日本歴史地名大系
得て香取海の沖之島の開発を始め、十六島新田開発の端緒となった(佐原市史)。慶長四年(一五九九)矢作領主の鳥居元忠が領内検地を実施。同七年元忠の子忠政が陸奥磐城(
46. さんのわけめむら【三之分目村】千葉県:香取郡/小見川町地図
日本歴史地名大系
富田村の北西に位置し、東に利根川の遊水池八丁面が広がる。銚子道が通る。慶長四年(一五九九)の鳥居元忠による矢作領検地を受け、高二三〇石が打出されている(「部冊帳
47. しま-かんざえもん【島勘左衛門】
日本人名大辞典
城攻めをはかる三成をいさめる。ききいれられなかったため,慶長5年7月同志3人と伏見城にゆき,鳥居元忠に攻撃を予告したのち城方の兵とたたかい,討たれた。
48. 下総国
世界大百科事典
境に西は武蔵国葛飾郡となる。 近世 所領配置 徳川家康の関東入国直後に当国に配置された万石以上の諸将は,鳥居元忠(矢作4万石),酒井家次(臼井3万石),小笠原秀
49. しもうさのくに【下総国】画像
国史大辞典
関東で二百四十万二千石を領有、このうち下総国は十一郡三十九万三千二百五十五石(『当代記』)。矢作に鳥居元忠、結城に結城秀康、臼井に酒井家次、古河に小笠原秀政、関
50. しもうさのくに【下総国】千葉県地図
日本歴史地名大系
藩領などがあった。〔東下総の支配領主〕東下総では一万石以上を与えられたのは矢作(現佐倉市)の鳥居元忠(四万石)、多古(現多古町)の保科正光(一万石)、足戸(網戸
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松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
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一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
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