NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 海江田信義(有村俊斎)

海江田信義(有村俊斎)

ジャパンナレッジで閲覧できる『海江田信義(有村俊斎)』の国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
海江田信義
かえだのぶよし
一八三二 - 一九〇六
鹿児島藩出身の維新政府官僚。天保三年(一八三二)二月十一日生まれる。鹿児島藩士有村仁左衛門とその妻連の長男。同藩の日下部伊三次の嗣子となり、その旧姓海江田に改姓。武次または通称俊斎といった。嘉永五年(一八五二)、江戸に出仕して水戸藩士藤田東湖らと交わり、その後、当時の鹿児島藩の下級武士であった大久保利通・西郷隆盛・伊地知正治・吉井友実らと結束して精忠組を組織した。精忠組は藩主島津斉彬ついで久光にひきたてられたが、海江田はそのなかで尊攘派として活躍した。その後、戊辰戦争のとき、東海道先鋒総督参謀として江戸開城に功績があり、軍務官判事から、刑部大丞、弾正大忠を経て、明治三年(一八七〇)奈良県知事となる。同十四年には元老院議官に就任した。さらに同二十年には子爵となり、同二十三年に貴族院議員、翌年枢密顧問官となる。同三十九年十月二十七日没。七十五歳。青山墓地に葬られる。
[参考文献]
内閣修史局編『百官履歴』上(『日本史籍協会叢書』)、海江田信義述・西河称編『(維新前後)実歴史伝』
(石塚 裕道)


改訂新版・世界大百科事典
海江田信義
かえだのぶよし
1832-1906(天保3-明治39)

幕末・明治の政治家。薩摩藩士有村仁左衛門の長男で,井伊直弼暗殺計画に加わった雄助・次左衛門兄弟の兄。はじめ茶道出仕,俊斎と称する。弟の死後その義理で日下部家を継ぎ,その旧姓海江田を名のった。通称は武次。早くから西郷隆盛らの運動に関係,1868年(明治1)の戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として江戸へ進駐したが,やがて主流からはずれ,元老院議官,枢密顧問官に終わった。
[松浦 玲]

[索引語]
有村仁左衛門
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


海江田信義(有村俊斎)の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 25
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 海江田信義
世界大百科事典
1832-1906(天保3-明治39) 幕末・明治の政治家。薩摩藩士有村仁左衛門の長男で,井伊直弼暗殺計画に加わった雄助・次左衛門兄弟の兄。はじめ茶道出仕,俊斎 ...
2. かえだのぶよし【海江田信義】
国史大辞典
七十五歳。青山墓地に葬られる。 [参考文献]内閣修史局編『百官履歴』上(『日本史籍協会叢書』)、海江田信義述・西河称編『(維新前後)実歴史伝』 (石塚 裕道)  ...
3. かえだ-のぶよし【海江田信義】
日本人名大辞典
1832−1906 幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)3年2月11日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。江戸で藤田東湖にまなぶ。安政の大獄に際し,僧月照 ...
4. 海江田信義[文献目録]
日本人物文献目録
『維新前後実歴史談 10冊』西河称記『遺老の実歴談に就て』大久保湖舟『実歴談』海江田信義『島津家訪問録 故子爵海江田信義翁ノ談話』- ...
5. 有賀長雄
世界大百科事典
84年元老院書記官となり,86-87年ヨーロッパに留学,ウィーンでローレンツ・フォン・シュタインの海江田信義に対する講義を通訳してシュタインに心酔,帰国後《帝国 ...
6. ありむら-しゅんさい【有村俊斎】
日本人名大辞典
海江田信義(かえだ-のぶよし) ...
7. ありむられん【有村連】
国史大辞典
一八〇九―九五 江戸時代後期の女性。海江田信義(俊斎)・有村雄助・次左衛門の母。連は戸籍面。蓮寿尼。鹿児島藩医森元高視の女として文化六年(一八〇九)六月十日( ...
8. おおむらますじろうあんさつじけん【大村益次郎暗殺事件】
国史大辞典
犯人の大半は逮捕され、京都府・刑部省によって梟首刑の判決をうけた。だが、弾正台京都府支台の海江田信義らは、反欧化的意識と反長州藩意識から、刑の執行を妨害し、ここ ...
9. かとうひろゆき【加藤弘之】
国史大辞典
ところが民撰議院設立建白書がだされたころから、批判の鋒先を急進派に向け、そのうえ明治十四年、海江田信義からきびしい批判を蒙ったのをきっかけに、『真政大意』『国体 ...
10. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 24ページ
東洋文庫
変えたため、かえって行列にふれる結果となった。攘夷熱のたかかった藩士奈良原喜左衛門や有村武次(海江田信義)らは、その一人を無礼者と斬り殺し、他の二人を負傷させた ...
11. くさかべいそうじ【日下部伊三治】
国史大辞典
同年十二月十七日、厳寒の中に痩死した。年四十四。信政また年二十六にして獄中に憤死。没後の養子が子爵海江田信義なるにより、墓は有村次左衛門らと同じ東京都港区青山墓 ...
12. 西郷隆盛[文献目録]
日本人物文献目録
盛詳伝 3冊』村井弦斎, 福良竹亭『当代名流五十家訪問録』海江田信義『情之南洲』山崎忠和『西郷従道 付西郷隆盛と藤田東湖』海江田信義(談), 安田直(編)『西郷 ...
13. シュタイン【Lorenz von Stein】
国史大辞典
みたが、老年を理由に辞退されてそのことは実現しなかった。伊藤の帰国後、山県有朋・黒田清隆・海江田信義・谷干城・藤波言忠らの政府要人も渡欧して彼の教えを受けた。シ ...
14. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 332ページ
東洋文庫
ろう。このほか田辺太一の『幕末外交談』(明治三一年刊、最近この『東洋文庫』に収録された)、海江田信義の『実歴史伝』(明治二〇年)なども質問の材料となっている。以 ...
15. てんぷじんけんろん【天賦人権論】
国史大辞典
権思想を前提としてはじめて理解されるのである。はじめ天賦人権論を紹介・唱道した加藤弘之が、海江田信義の攻撃をきっかけとして説を変え、明治十五年十月に『人権新説』 ...
16. 徳川慶喜公伝 1 196ページ
東洋文庫
準蔵・木村三穂介・薩州の鎌田出雲(正純)・堀仲左衛門(伊地知貞馨)・久木山泰蔵・有村俊斎(海江田信義)等之に与りしもの」如し)は相謀り、薩人にして水戸に縁故深き ...
17. 徳川慶喜公伝 2 15ページ
東洋文庫
兵衛(寛胤、肥後藩士)平野次郎等と交はり、遂に薩摩に入りて大久保一蔵(利通)有村俊斎(後に海江田信義と改む)の諸士に会見し、叡慮のある所を語りて、尊撰の大義を説 ...
18. にほんしせききょうかいそうしょ【日本史籍協会叢書】
国史大辞典
) (維新前後)実歴史伝(海江田信義、西河称編)(全三冊) 陰陽暦対照表(外務省文書課編) 梅田雲浜関係史料 雲浜遺稿・文詩和歌 ...
19. 後は昔の記他 林董回顧録 214ページ
東洋文庫
はウイン大学の教授で、伊藤博文のほか、有栖川宮・小松宮、それに随行した人びと、さらに は海江田信義など多くの日本人が訪ねて講義をぎいた。 なお、次項 ...
20. 幕府衰亡論 156ページ
東洋文庫
失い、行列にふれる結 果となった。そのために、同藩撰夷派の奈良原喜 左衛門や有村武次(後に海江田信義と改める)ら が、無礼であるとして、一行の中の先頭のリチャ  ...
21. 幕末外交談 2 84ページ
東洋文庫
も旗艦に乗り組み、キューパー提督指揮の下に横浜を出港して、鹿児島へ向かった。『実歴史伝』 海江田信義述、西川称編、明治二十四年刊。維新前後の薩藩の事情を細かくの ...
22. 幕末外交談 2 4ページ
東洋文庫
て渡欧,のち勘定奉行,長崎奉行,外国事務総裁,若年寄を歴任した。 か かいえだのぶよし 海江田信義 1832-1906薩摩藩士。旧名有村俊斎。初名武次。西郷隆 ...
23. めいじぶんかぜんしゅう【明治文化全集】
国史大辞典
院集説(明治文化全集編輯部編)・憲法制定之由来(穂積八束)・西哲夢物語・須多因氏講義筆記(海江田信義) 2自由民権篇 自由之理(ミル、中村正直訳)・真政大意(加 ...
24. ヤング・ジャパン 3 横浜と江戸 146ページ
東洋文庫
うとして、薩摩に逃れたが、 藩は滞在を許さなかったため、投身自殺した。 二 海江田 海江田信義。有村仁衛門の子。俊斎とい い、後海江田家の養子となる。 ...
25. 1906年〈明治39 丙午〉
日本史年表
佐野経彦(73、神理教教祖)。 10・24 平岡浩太郎(56、政治家)。 10・27 海江田信義(75、官僚)。 11・12 諸戸清六(61、実業家)。  ...
「海江田信義(有村俊斎)」の情報だけではなく、「海江田信義(有村俊斎)」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

海江田信義(有村俊斎)と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)


「海江田信義(有村俊斎)」は西郷どんに関連のある記事です。
その他の西郷どんに関連する記事
海江田信義(有村俊斎)(国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
鹿児島藩出身の維新政府官僚。天保三年(一八三二)二月十一日生まれる。鹿児島藩士有村仁左衛門とその妻連の長男。同藩の日下部伊三次の嗣子となり、その旧姓海江田に改姓。武次または通称俊斎といった。嘉永五年(一八五二)、江戸に出仕して水戸藩士藤田東湖らと交わり、その後
お由良騒動(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸時代末期、鹿児島(薩摩)藩のお家騒動。嘉永朋党事件、近藤崩れ、高崎崩れともいう。藩主就任をめぐる島津斉彬派と久光派の抗争。 藩財政立て直しのため、10代藩主、斉興と斉興を後見していた元藩主重豪(8代)は1828年(文政11)、調所広郷を財政改革主任(後に家老)に抜擢
島津久光(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末・明治初期の政治家。文化14年10月24日、薩摩島津氏27代当主斉興の三男に生まれた。母は側室お由良。山城、周防、和泉、三郎などと称した。一門重富島津家を嗣ぐ。1858年(安政5)長男茂久(のち忠義と改名)が29代当主となったので、久光が藩政の実権を握った。1861年(文久1)
島津斉彬(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸末期の薩摩藩主。斉興の長男。文化6年9月28日江戸に生まれる。異母弟久光を推す一派との家督争い(お由良騒動)を経て1851年(嘉永4)43歳で藩主となった。その間曽祖父重豪の感化もあって洋学に傾倒し、蘭医シーボルトに会見、川本幸民、箕作阮甫、高野長英、杉田成卿


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶