「ジャパンナレッジ」を知ったきっかけは、今から半年ほど前に『字通』のことをネットで調べているときでした。それ以来JKは、原稿の執筆時はもちろん、普段の生活で出てくるさまざまな疑問を解決するのにも活躍しています。
私の専門は日本の古典文学です。今までに『蜻蛉日記』関連の本を数冊上梓し、現在は『更級日記』の易しい注釈書を執筆しているところです。調べ物の中心は当然、古典に関するものが多くなります。「ジャパンナレッジ」のコンテンツでいちばん利用するのは、百科事典(『日本大百科全書』)です。
百科事典を調べていてその存在の大切さに気づかされたのが、各項目の末尾に執筆者の氏名が明記してあることです。しかも、その分野をしっかり研究された執筆者がちゃんと選ばれています。古典文学の執筆者は大変充実した陣容です。物を書く人間としてこれほど安心させられることはありません。しっかりした研究者が書いた記事であるという担保が、何よりも大切なのです。
中身についても、季節の風物など、ひとつの“読み物”としても面白いものが多い。ひそかに、日本文学について、いつでもどこでも読めるような、自分だけの、作品ごとの辞書を作ってみるもの面白いだろうと考えています。
「ジャパンナレッジ」に触発されて入会したのがJKセレクトシリーズの「日本歴史地名大系」です。月額2万円近い利用料は非常に高価ではありましたが、内容にはとても満足しています。
デジタル化された辞書や事典では、当然ながら内容の全文を検索することができます。当たり前といえばそうなのですが、紙の辞書では到底なしえなかった新たな辞書・事典の可能性をこの「日本歴史地名大系」には感じました。
それは、このサイトだけの機能である“キーワード分布図”と“キーワード集計表”です。今までの辞書ではありえない、非常にユニークなアプローチで、文科系の学問に数学的な分析手法を持ち込む画期的なツールです。小さな事典・辞書では有効ではないかもしれませんが、全部で50冊を超える「日本歴史地名大系」のようなコンテンツでは、こうした分析手法は今までは発見できなかった新たな発見をもたらしてくれるかもしれません。ほぼ畿内が中心と思われていた『蜻蛉日記』でも、長崎県や青森県、宮城県に関連した事跡のあることがひと目でわかるのです。
このような分析手法の結果が有効であるためには、当然のことながら、記事の中身の質が高いものでなくてはなりません。この点からも「日本歴史地名大系」には感心させられました。ひとつ例を挙げてみましょう。「末の松山」という項目があります。「末の松山」とは、数多くの和歌にも詠まれている陸奥(みちのく)の古地名なのですが、多くの事典/辞書では、ある程度の場所の特定や由来が載っている程度です。一方、「日本歴史地名大系」で調べると、場所の特定や由来にとどまらず、その地がどういった和歌に詠まれたのか、詠まれた時代ごとの背景、詠まれた和歌、和歌史までふまえて書かれています。さらに、研究に必要と思われる歴史的な資料がきっちりと押さえてあり、それら資料が時代ごとにどう受け継がれていったのかが、細かく解説されています。これには驚きました。まさにプロのための道具です。本音を言うと、あまり他の人に宣伝せずに自分だけで独占してしまいたいくらいですが(笑)。
最近、大学に限らず高等教育機関では、日本文学や歴史などの学科が危機的な状況にあります。お金にならない、つまり実利的ではない学問は必要ないというわけです。専門の学部・学科は大学からどんどん姿を消しつつあるのが現状です。一方で、英語については小学生から義務化が始まるような議論もありますし、大学受験からは古典や漢文が消えつつあります。英語はどんどん教えるけれど、自国語である国語は教えないというのは、明らかにヘンです。ことばはすべての基本です。考えを規定し、感情を生み出し、相手のことを理解する最低限の道具です。
最近の学生を見ていて、相手の感情の裏側を読みとることができなくなってきているのではないかと思うことがよくあります。これは、文章を書くという作業が欠如しているからだと私は考えています。話しことばと書きことばは違います。何度でも人の目に触れる書きことばは、相手の立場や感情を頭の中に思い描きながら組み立てていきます。人が怒っている、笑っている、喜んでいる、その裏側に何があったのかを読みとる力、それが「書く」という作業と密接に結びついているのだと私は考えます。多発するいじめや自殺など、巷間起こっているさまざまな問題は、案外、こんなところに原因があるのかもしれません。そうした意味では、メールの交換がこれほど頻繁に行なわれるのはいいことなのかもしれませんね。そこで使われることばを辞書や事典で調べて、正しく美しい日本語が交わされるようになれば、より豊かな世の中になるように思います。