最近、大学の図書館で不思議な迷子が増えつつある。ウェブからプリントアウトした膨大な参考資料リストを抱え「私は何を読んだらいいのでしょう?」とカウンターに流れ着く学生たちである。
今日、ウェブ検索の発達によって、情報の自由度は比類なく高い。キーワード入力の全文検索で、答えは一発で出るはずだ。なのに、この現象はどういうわけなのだろうか。
迷子の発生源には、爆発的に伸びた「量的検索」に「質的精選」が追いつかない現状がある。ウェブの使いこなしに自信があっても、実はウェブを過信しているだけの人が少なくないようなのである。
過信は「3つの勘違い」にあらわれる。
第1の勘違いは、「誰でもできる」幻想である。
「検索エンジンが登場するまで、検索はできなかったんでしょ」と無知な放言をする学生が少なくない。検索は「登場」したのではなく、「大衆化」しただけだという歴史をもう知らないのだ。これでは、クルマの運転免許証を取っただけでF1レースを走れると思い込み、クラッシュすることになる。
私はレファレンスライブラリアンとして、もう20年以上「検索」をしている。
ペーパー検索の代表は、百科事典、書誌、図書館のカード目録などだ。長い年月、これが検索の定番だった。検索の技術は、情報の蓄積が大きくなるに比例して発達してきた。検索専門家としての知識とセンスを身につけた人も登場し、図書館などで人々をケアした。不便ではあったが、情報と検索が調和した時代が長く続いた。
検索エンジンが、その構図を変えた。IT技術が検索技術を不要にし、もう専門家など要らなくなるはずだった。
ところが、図書館のレファレンスカウンターから見える風景はどうも違うのである。
入力するキーワードが間違っている。稚拙だ。あるキーワードからもっといいキーワードへのスキップができない。連想が働かない。思いがけないキーワードの発見ができない。そもそも1つのキーワードですべてが解決すると思い込んでいる……。
これでは、検索したつもりなのに目的地に至れず、不十分なデータのかけらを携えて図書館の専門家に相談に訪れるのも当然だ。
大衆化は、誰でもできることとは微妙に違うのである。IT技術の発達は、自分自身の検索技術とセンスの向上ではない。情報戦争はF1レースである。のんびりしたドライブは誰でもできるが、学術やビジネスで「勝てる情報」を獲得するには、必要に応じて専門家を利用することを知るべきだ。
第2の勘違いは、「時間が節約できる」幻想である。
私は学生時代にこう教わった。「論文を書く8-9割の時間は資料探し。よい資料が集まったら論文作成は9割方成功したも同然」と。
最近の調査ではどうか。「知的な仕事をする人は、時間の30%を情報を探すことに費やす」という。
昔は9割必要だった時間が3割に節約できるようになったとは、なんと大きな進歩ではないか。私自身も含め、多くの人がその恩恵に浴している。
ただし、かつて情報探しに費やした多大な時間は、すべてがムダではなかった。探しながら同時に吟味、分析、検証、咀嚼していた点で、むしろ有用だったといえる。目的の本を書棚から取りだす時、隣の本のタイトルが思いがけないインスピレーションをくれたなどという有機的なつながりが、論文の幅をふくらませたりした。
これに対して、ウェブはキーワードに対してのみの答えを返してくるだけだ。無機的な検索結果の羅列を、目的地へと急いで通り過ぎる。ゼロか1かが吟味となり、無視することが分析になり代わる。検証は不安をもたらし、咀嚼は隔靴掻痒感を強める。膨大な検索結果でもまだ不足で、思考のヒントを求めてネットサーフィンを繰り返す。その間にどんどん時間がたち、徒労感だけ残るという経験に覚えはないだろうか。ウェブは、すさまじい玉石混淆の新大陸であり、旅の途中で遭難する確率が高いのだ。
図書館が提供する資料に当たってみてほしい。図書館は、精選された資料が整然と並ぶ成熟した街である。同じように資料の間を旅していても、思わぬ発見があったり、心の中に熟成されてくるものがあったりするのは、精選されているからなのだ。紙媒体か電子媒体かは問わない。量か質かがキーなのだ。
ウェブ検索は、たとえば自宅からパリのオペラ座にいきなりワープするのと似ている。知識を高め、気持ちを深める旅中の時間がなく、オペラグラスさえ持たず茫然と眺めて、オペラを語れるだろうか。
第3の勘違いは、「量が質を保証する」幻想である。
私が図書館に勤め始めた頃、毎日10冊ずつ読んで全部読了するには300年以上かかる蔵書があるといわれ、畏敬の念を抱いたものだ。それが、今やウェブ上には、1人で全部読み終えるには10億年かかるデータがあるそうだ。
300年も10億年も、100年前後しか生きられない私たちには同じことだ。必要な情報を選び取る能力が大事である。
検索エンジンを使えば、誰でも1000件とか1万件とか、目もくらむ量の情報にヒットできる。けれど、目的の「1」を探す時、分母は「10」とか「20」が適性規模である。分母が1000(0.1%)や1万(0.01%)と増すほどに、「1」は見つかりにくくなる。つまり、膨大にヒットするのは、実はまったくヒットしないと同様なのである。
しかも、ウェブのキーワードは統制されていないから、表記の揺れや言い回しの違いで検索もれだらけになる。
まして、ウェブは、目の前にないデータは探せない。図書館の専門家は、「そういえば、こんなデータもありますよ」と地球儀をぐるりと回すような発見をさせてくれる。だが、ウェブにはそんなライブラリアンはおらず、ロボットがいるだけである。
「たくさんヒットするから」と喜ぶのは間違いだ。「全然精選されてないから」自分で考え、検索術を変えなければならない。
みんなが欲しがる情報が、あなたの必要な情報とは限らないのだ。
以上のことは、ウェブの瑕瑾(惜しむべき小さな傷)なのだろう。瑕瑾なのだから、そこで迷子になり、ウェブの大きな世界を使えない人になるのは惜しい。
ペーパー検索の時代のインデックスでさえ、縦横に使いこなすには年季と技術が必要だった。まして、Yahoo!やGoogleのインデックス数は200億とも300億ともいわれ、使いこなすのは容易ではない。
全文検索は画期的に便利ではあるが、頼りすぎて「3つの勘違い」に陥らないために、次の3点に立ち返ろう。
(1) 最初に出合ったデータだけで簡単に満足しない
検索は目的のかなりの部分を形成すると考え、時間を惜しまないことだ。
(2) ワープを夢見ない
キーワードや検索方法がまずかったために思わしい結果が出ないことが多い。安易にあきらめたり、「情報がないんだ」と決めつけたりせず、旅するように検索をしてほしい。
(3)図書館や専門家をうまく使う
自分のもてる知識と経験を総動員して検索しても思わしくなかったら、人の発想を借りる。2006年につくられたデジタル情報は161エクサバイト(1610億ギガバイド)ともいわれ、過去に印刷されたすべての本の300万倍の情報量に相当するという。一人で太刀打ちしようと思わないことだ。
私は新入生にはこう教える。「いきなり検索エンジンに行かないで、信頼できるサイトからスタートするのが結局一番効率的だ」と。よい情報のありそうなところから探し始めるのが、検索の定石である。
その点、ジャパンナレッジは頼りになる。しっかりした編集がかかった情報源のよさを、学生に実感してもらえる。関連リンクで厳選サイトを紹介してくれているのもよく、『現代用語の基礎知識』『imidas』など定番の用語辞典が使えるのも便利だ。
ジャパンナレッジは、便利であると同時に、人類が営々と築いてきた知の体系への正門入り口でもある。
図書館も知の体系を具現化する装置の一つなのだが、百科事典も知の小宇宙である。百科全書派が活躍した時代から今日まで、定評のある百科事典は精選された叡智の集成であった。その道の碩学が責任を持って記述している。『日本大百科全書』も各項目末尾に執筆者の署名入りだ。責任をもって編集されている証であろう。
まもなく「言葉の小宇宙」である『日本国語大辞典』がジャパンナレッジに登場するとのことである。ますます便利になりそうだ。
中央大学図書館は「ユビキタスライブラリー」を目標に掲げ、利用者がいつでもどこからでも、図書館の所蔵する情報にアクセスできる環境を目ざしている。そこで情報の鉱脈を発見し文化の一翼を担う研究成果を生みだしていくか。安易なコピーアンドペーストに陥るか。その分岐が、個人にも時代にも問われている。