特別篇
3シリーズ目「書くのか、読むのか」で話題にした『日本国語大辞典』の「辞書」欄、「表記」欄についてもう少し述べておきたい。「辞書」欄で採りあげられている辞書は17、そのうち『下学集』『和玉篇』『文明本節用集』『伊京集』『明応五年本節用集』『天正十八年本節用集』『饅頭屋本節用集』『黒本本節用集』『易林本節用集』は室町時代に編まれた辞書である。また『日葡辞書』はイエズス会の宣教師が日本人の信者の協力を得て編んだ辞書で、出版されたのは1603年であるが、内容としては室町時代の日本語を反映したものとみるのが自然である。これを加えると17のうち10が室町時代の辞書ということになる。名称でわかると思うが、『文明本節用集』以下『易林本節用集』までの7つは『節用集』という辞書のテキストである。時代でみれば、江戸時代の辞書は『和漢音釈書言字考合類大節用集』1つ、明治時代の辞書は『和英語林集成(再版)』と『言海』の2つである。
『日本国語大辞典』は適切に辞書を採りあげていると思う一方で、それぞれの辞書が編まれた時期をきちんと理解しておく必要があるとも思う。そして、また欲を言えば、であるが、江戸時代の辞書、明治時代の辞書を「増強」するということは一つの課題かもしれないと思う。ただ、それでは江戸時代はこれを加えればよいとか、明治時代はこれを加えればよいという誰もが納得するような「決定版」の辞書があるかというと、そうでもない。江戸時代の辞書を1つ採りあげるとすれば『和漢音釈書言字考合類大節用集』だろうし、明治時代の辞書を2つ採りあげるとすれば、『和英語林集成(再版)』と『言海』であろう。そこはそうなのであるが、では江戸時代の辞書を、例えばあと2つ加えるとしたら、明治時代の辞書をあと2つ加えるとしたら、というとおそらく見解が分かれる。それは「決定版」の辞書が上記以外にはないからともいえよう。そうした意味合いにおいても難しさはある。難しさはあるが、江戸時代に編まれた辞書、明治時代に編まれた辞書をあと2つずつ加えれば、「辞書」欄は飛躍的に「増強」され、そこから得られる「知見」も飛躍的に増えるのではないかと思う。
「辞書」欄の「ありかた」は『日本国語大辞典』全体の「ありかた」と無関係ではないように感じる。そしてそれは『日本国語大辞典』の初版が編まれた時期の「心性」としては当然だったのだろうとも思う。
『日本国語大辞典』の初版は昭和47(1972)年から昭和51(1976)年にかけて全20巻A4変型の判型で刊行されている。今から47年前、半世紀ちかく前の刊行ということになる。1972年は明治最後の年、明治45(1912)年の60年後にあたる。つまり明治45年生まれの人がまだ60歳だったということだ。明治はすぐそこにあり、まだ「歴史」として語るような存在ではなかったともいえよう。あるいは江戸時代も身近に感じられていたかもしれない。そういう時期に編まれた辞書が室町時代、江戸時代までの文献に「厚く」みえるのは当然であろう。
筆者が大学の学部生だったのは、今から38年ほど前のことになる。その当時は「国語史」という科目名称だったが、「日本語の歴史」についての科目があった。その科目では、奈良時代から江戸時代までずっと述べられてきて、明治時代は扱わないというわけではなかったと思うが、「あとは読んでおいてください」という感じがないでもなかった。
100年前が基準というわけでもないが、2019年の100年前1919年は大正8年だ。明治が終わった1912年からもはや100年以上が経った。明治生まれの方もだいぶ少なくなっているはずだ。そうなってきて明治を「歴史」としてとらえ、「歴史」として語ることが本格的になるのだろう。
中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、昭和6(1931)年の作で、第1句集『長子』(1936年、沙羅書店)に収められている。中村草田男は明治34(1901)年生まれなので、30歳の時の句ということになる。これは明治生まれの中村草田男がそう感じたということで、「そう感じた」を「主観」と表現するなら、明治生まれの人の「主観」の表明だ。しかし、明治最後の年から100年以上たった現在は「客観的」にみて、明治から「離れている」といえよう。つまり明治は確実に「遠く」なった。
『日本国語大辞典』第3版がいつ出版されるか現時点ではわからない。しかし例えば、これからの10年間で出版されるとしても、明治が遠いことには変わりはない。というよりも、明治はどんどん遠くなっていく。『日本国語大辞典』第3版が「日本語アーカイブ」としての役割をも担うとすれば、やはり明治時代、大正時代の日本語を適切にとりこむということが「課題」となるだろう。そのことによって、江戸時代までの日本語の「景観」も少し変わってくるのではないかというのが、筆者の予想だ。
それは、明治時代の文献を読んでいると、明治時代の文献がそれまでの日本語の「湧水池」のように感じられることがあるからだ。明治時代の文献は多数残存している。そのために、言語をめぐるいろいろなことがらが具体的に確認できることがある。そのことによって、明治時代でこうなら、江戸時代にはこうだったに違いないというような推測ができる場合もある。それが「湧水池」だ。「増強」された『日本国語大辞典』第3版を是非みたいものだ。
▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回(9/4)から第4シリーズがスタート。今野真二さんの担当でお送りします。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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