『日本国語大辞典 第二版』をめぐる往復書簡 来るべき辞書のために 『日本国語大辞典 第二版』をめぐる往復書簡 来るべき辞書のために

写真:五十嵐美弥
50万項目、100万用例、全13巻の『日本国語大辞典 第二版』を、2年かけて読んだという清泉女子大学の今野真二教授。初版企画以来40年ぶりに改訂に挑んだ第二版編集長、佐藤宏氏。来たるべき続編に向けて、最強の読者と最強の編集者による『日国 第二版』をめぐるクロストーク。今野3回×佐藤1回の1テーマ4回シリーズでお送りします。

シリーズ 3 「書くのか、読むのか 」目次

  1. 1. 今野真二:「亜鉛」は「トタン」と読まれていた? 2019年06月19日
  2. 2. 今野真二:振仮名という回路 2019年07月03日
  3. 3. 今野真二:書き方のバリエーション 2019年07月17日
  4. 4. 佐藤宏:漢字表記の多様性をどのようにとらえるか 2019年08月07日

書くのか、読むのか
Series3-2

振仮名という回路

今野真二より

 前回は『日本国語大辞典』の見出し「あえん[亜鉛]」の「語誌」欄の(2)に「近代の小説詩歌でも「亜鉛」を「トタン」と読ませている例が多い」とあることを起点として、読み手にはそうみえるが、この現象は「「トタン」という語に漢字列「亜鉛」をあてて文字化した」とみたい、ということを述べた。繰り返しになるが、漢字列「亜鉛」を「トタン」と ませているのではなくて、「トタン」という語を漢字列「亜鉛」を使っていた、ということだ。

 「語誌」欄の「読ませている」は現代日本語を母語とする人の「心性」が無意識に現われている表現ではないかと感じる。つまり、現代日本語においては「アエン」という語を「亜鉛」と書くのが相当に一般的である。だから「亜鉛」とあればそれは「アエン」という語を書いたものにきまっている。しかるに、「近代の小説詩歌」ではそうではないことがある。だから現代日本語側からみれば「亜鉛」「トタン」と「読ませている」とみえるということではないだろうか。「「亜鉛」「トタン」と」まではそれでよくて、最後だけ「読ませている」ではなくて「(と)いう語を書く文字列として採用した」とでもすれば、それが前回述べたかったことになる。

 現代日本語を母語とする人が現代日本語をもとにして「内省」を行なうことは自然なことで、それはそれで大事だ。だからそのことを否定するわけではない。そうではなくて、自身がそうしているということを認識していればよい、ということだ。そう認識することで観察している対象と少し「距離」を保つことができる。

 拙書『『日本国語大辞典』をよむ』(2018年、三省堂)第二章「用意と準備」では、「ヨウイ(用意)」という早くから使われていた漢語が、あとから日本語の語彙体系に入ってきたと思われる漢語「ジュンビ(準備)」と結びつきを形成した、ということを述べた。そこで、『五大洲中海底旅行』(明治20:1887年、文事堂)の「准備(右振仮名ようい)」(上14ページ)の例と『恋情花之嵐』(明治20:1887年、村上真助出板)の「準備(右振仮名ようい)」(83ページ)の例とをあげた。これら2文献は『日本国語大辞典』においては使われていないと思われる。これらは、本格的な洋本の装幀が定着する明治20年頃まで、ボール紙を表紙に使った簡易的な製本で出版された「ボール表紙本」と呼ばれる一群の書物に該当する。装幀に基づくネーミングであるので、書物の内容は外国の小説の翻訳や日本の古典文学、当時はやった政治小説等さまざまであるが、ほとんどすべての漢字に振仮名が施されていることが多い。

 振仮名と漢字列との結びつきに注目すると、当該時期の「書き方=表記」をうかがう資料にもなるし、当該時期の語と語との結びつきをうかがう資料にもなる。『五大洲中海底旅行』をみると、「光景(ありさま)」(上7ページ)、「報道(しらせ)」(上9ページ)、「欠隙(あな)」(上10ページ)、「景情(ありさま)」(上21ページ)、「許可(ゆるし)」(上19ページ)、「瞬時(しばし)」(上23ページ)、「光輝(ひかり)」(上29ページ)などがすぐに目に入ってくる。

 和語「ユルシ」を漢語「キョカ(許可)」に通常使う漢字列を使って文字化する。それを成り立たせているのは、和語「ユルシ」の語義と漢語「キョカ」の語義との重なり合いである。それは和語と漢語との「語と語との結びつき」ということだ。その「結びつき」が成り立っているからそのように文字化することができる。場合によっては、それほど「結びつき」が成り立っていないこともあるだろう。その場合は「書き手の工夫」ということになる。工夫しすぎて「結びつき」がぴんとこないと……大丈夫。振仮名を施してあれば、いかなる語を書いたものかはわかる。振仮名はこうした「書き手の工夫」を間違いなく「読み手」に伝えるための「回路」でもあった。振仮名によって、表現の幅が確保されていたといってもよい。

 上記のようなことが理解できれば、先にあげた例はむしろそれほど「珍しい」例ではないことになる。『五大洲中海底旅行』には「強硬(じやうぶ)」(上99ページ)、「苦慮(しんぱい)」(上111ページ)、などがある。これらは、「ジョウブ(丈夫)」「シンパイ(心配)」という漢語を通常その漢語にあてる漢字列ではなく、別の漢語にあてられる漢字列「強硬」「苦慮」を使って書いた例にあたる。振仮名を使わずに「強硬」「苦慮」と書けば、通常は「キョウコウ」「クリョ」という漢語を書いたものと「読み手」は理解する。したがって、「強硬」「苦慮」が「キョウコウ」「クリョ」ではなく、「ジョウブ」「シンパイ」という漢語を書いたものだと「読み手」にわかってもらうためには振仮名が必須のものとなる。そこまでして……というのが現代の感覚かもしれない。それを「表記の工夫に対しての情熱」とみるのが妥当かどうかはまた考えたいが、一ついえることは、「語とそれをあらわす漢字列との関係」は、現代はかなり固定的であるが、明治期などではそうではなかったということだ。「語とそれをあらわす漢字列との関係の「非固定性」」を背景にして、(現代からみれば)自由な書き方が展開していたのが「過去の日本語」ということになる。

▶6月1日に清泉女子大学で行なわれた、今野真二さんと佐藤宏さんによるトークイベント「来たるべき辞書のために」の模様はイベントレポートページをご覧ください!

▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)更新です。次回(7/17)は今野真二さんの担当でお送りします。

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日本国語大辞典

“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった

筆者プロフィール

今野真二こんの・しんじ

1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。

佐藤 宏さとう・ひろし

1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。

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辞書・日本語のすぐれた著書を刊行する著者が、日本最大の国語辞典『日本国語大辞典第二版』全13巻を巻頭から巻末まで精読。この巨大辞典の解剖学的な分析、辞書や日本語の様々な話題や批評を展開。

今野真二著
三省堂書店
2800円(税別)