「とも」について
Series8-4
『日本国語大辞典』の見出し項目「ふんしつ(紛失)」に(古くは「ふんじつ」とも)という注があるが、この場合の「とも」はどのように考えるべきか? (「◯◯」とも)については、以前「ひとりぼっち」か「ひとりぽっち」かがテーマになったときにも話題にしたことがありました。そのときは、「とも」を「ともいう」の略と考え、「いう」には「発音してことばの意味をあらわす」という語形にかかわる意味があることを確認しました。今回は、さらに「古くは」と限定された場合の「とも」にはどのような意味があるのかということになりますが、「ふんしつ(紛失)」の場合は、今では「ふんしつ」としかいわないが、かつては「ふんじつ」ともいった、「ふんしつ」「ふんじつ」の両語形があったというふうに考えたいと思います。
「紛失」(1) の用例をみると、全6例中、平安遺文の例以外はすべてよみの確実な例で『前田本下学集』(室町末)、浄瑠璃の『狭夜衣鴛鴦剣翅』(1739)、歌舞伎『高麗大和皇白浪』(1809)、『和英語林集成』(1867)の4例が「フンジツ」とあり、『日葡辞書』(1603-04)だけが「フンシツ(Funxit)」とあります。この並びをみると、近世までは「ふんじつ」ということが多かったように見えます。しかし、古辞書をひもとくと、『黒川本色葉字類抄』(1177-81)『東京教育大本下学集』(室町中)などには「フンシツ」とあり、幕末ごろまでは清濁併用された可能性が十分にあります[1]。江戸川乱歩が生まれたのは明治27年(1894)ですが、江戸末に生まれ育った人がまだ相当数生きていて、乱歩もその影響下にあったと考えられます。
乱歩の『吸血鬼』は昭和5年から6年にかけて(1930-31)『報知新聞』に連載された作品ですが、それを収めた春陽堂の『江戸川乱歩全集 第6巻』(1955)をみると、「紛失」には、「ふんしつ」のルビが5箇所、「ふんじつ」が2箇所に振られています[2]。現代の感覚であれば、「ふんじつ」に誤植の可能性を考えてしまいがちですが、もし乱歩自身がルビを振っていたのだとすれば、彼にとっては違和感がなかったということになり、逆に、乱歩の脳内辞書には清濁両語形が併存していたことを証明することにもなります。しかし、「紛失」を「ふんしつ」としか読まないと判断し、しかも、常用漢字の音訓にあるからとルビをとってしまうと、江戸川乱歩が「ふんじつ」を併用していたという事実はかき消されてしまうというわけです[3]。
編集や印刷の現場では、作者が用いた漢字や語形を誤読したり、当時の一般的な文字づかいに統一したりすることは、よくあることで身につまされます。しかし、それによって失われるものがあることを自覚しなければならないと思ったのも確かで、先生の著書『消された漱石』[4]でもこれが主題としてとりあげられていました。漱石は乱歩のように全集にまで手を加えることはなかったのですが、同著では、漱石の自筆原稿と加筆訂正、最初の発表の場となった新聞の組版、それをまとめた単行本とが それぞれ比較考証され、その差異を通して、漱石の癖や脳内辞書、あるいは、編集・校正・印刷といった文字社会の常識との葛藤が鮮やかに描かれていました。近代以降の文献を「虫瞰的」にとりあげるとこうなるという見本を示されていたと思います。
さて、今日ではテキストのデジタル化も進み、コーパスを構築する作業もだいぶ活発になってきました[5]。その場合、『現代日本語書き言葉均衡コーパス』や『日本語歴史コーパス』[6]のように典拠を明確にすることが大切で、一般に流布している青空文庫でも、概して底本が一つに定められています。今のところ、雑誌掲載時や単行本や文庫本の刊行時のテキストなど、いわば異本類の多様性をも示すことは望むべくもありませんが、底本が定まっていることの価値は大きいと考えます[7]。もちろん、コーパスもその規模に応じてさまざまな使い方が想定されますが、それが日々増殖するウェブのデータが対象だったとしても、定点観測することによって、ことばの通時的な流れや共時的な傾向を「鳥瞰的」にとらえる強力なツールになることは確かでしょう。
これまでは、辞典の用例を集める場合、書誌的に確かな文献に絞ったとしても、 限られた人数で網羅することに限界があったことは否めません。今や、 デジタルデータが整備されるに従い、さらに広い範囲でより客観的に判断できる環境が生まれつつあります。無意識ながらも(結果として)恣意的に集めざるを得なかった 用例を 見直せるようになり、より正確なことばの歴史や異形の併存状況などについても見極められるようになるのかもしれません。これからの辞典編集者は、あることばについて、コーパスなどを利用してより多くの用例にあたりながら意味用法を分類し、必要とあれば通時的な流れもおさえつつ、新しい用例を探すにもデジタルデータは索引と心得て原本で確認する、といった作業を続けながら考えていくことになるのでしょう。
▶︎今野真二さんの新刊『乱歩の日本語』が発売中。明治、大正、昭和の日本語を操った江戸川乱歩。そのつど、編集・校訂を加えられたテキストから乱歩の「執筆時の気分」をはかることはできるのか。それぞれのテキストを対照させながら検証する。
▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は8月19日(水)、今野教授による特別篇です。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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