特別篇
『十善法語』も慈雲尊者も一般的にはなじみがないと思われるので、今回はそうしたことについて紹介してみたい。『日本国語大辞典』は「慈雲」「十善法語」について次のように説明している。
じうん【慈雲】
〔一〕鎌倉・南北朝時代の臨済宗の僧。諱(いみな)は妙意。勅号は清泉禅師。勅諡は慧日聖光国師。国泰寺派の始祖。信濃の人。一二歳のとき、五智山で出家し、越中に東松寺を創建して教化につとめ、後醍醐天皇から国泰寺の号を授けられ、勅願所となった。文永一一~貞和元年(一二七四~一三四五)
〔二〕江戸中期の真言宗の僧。諱は飲光(おんこう)。慈雲尊者、慈雲律師、葛城尊者などと尊称。正法律の開祖。大坂の人。内外の諸学に通じ、「梵学津梁」千巻のほか、「十善法語」「南海寄帰伝解纜鈔」などを著わす。享保三~文化元年(一七一八~一八〇四)
じゅうぜんほうご【十善法語】
慈雲尊者飲光(おんこう)が十善戒の意味内容および功徳を、多くの典籍を引用しながら親しみ深く説いた法語。一二巻。安永二年(一七七三)から翌年にかけて京都阿弥陀寺で定期的に講義されたものが、同四年にまとめられたものという。口語体本・文語体本の二種がある。
〔二〕の慈雲が『十善法語』をあらわした慈雲である。シリーズ22の「『十善法語』の場合①」で述べたように、『十善法語』は「口語体本」と呼ばれているテキストが文政3(1820)年、文政7(1824)年、嘉永4(1851)年に出版されている。「文語体本」は出版されず、写本で伝わっていると思われる。下の画像は筆者が所持している本の巻1の冒頭箇所だ。句読点、濁点を補って翻字を示す。漢字字体は保存しない。繰り返し符号は「々々」に置き換えた。
『慈雲尊者全集』第12輯の「本文」を示す。
十善法語巻第一 不殺生戒
安永二年癸巳十一月廿三日示衆
師云。人の人たる道といふはこの十善にあるぞ。人たる
道を全クして。賢聖の地位にも到るべく。高く仏果をも
期すべきことなり。この道をうしなへば鳥獣にも異ならず木
頭にも異ならぬなり。阿含経。正法念処経。婆娑論。
成実論等。大般若経。梵網経。瑜伽論。智度論等。
もろ々々の大小乗経論の通説なり。華厳十地品中。離垢
『慈雲尊者全集』の「本文」は「京都水薬師寺」蔵本であるが、筆者所持の本と異なる箇所に下線を施した。筆者所持の本に脱字と思われる箇所もあるが、それ以外は漢字を使うか、使わないかといった、文字化のしかたの違いといってよく、両本の「本文」は(この箇所に関しては、ではあるが)ちかいといってよいだろう。そしてまた、「コノ」を「此」と文字化するか、「この」と文字化するか、「モロモロ」を「諸」と文字化するか「もろ々々」と文字化するかといった異なりは、テキストによって異なるといってもよい。
慈雲尊者自筆のテキストがあって、それを直接一字も違えず書写したことを謳うテキストがあったとしても、「一字も違えず」書写されていると言い切れるかどうかということは、紀貫之自筆の『土左日記』の書写において確認されている。「京都水薬師寺」蔵本は、「首尾皆尊者の御直筆といふには非ざれども。殆ど御直筆に同じく。尤も依憑とするに足れり」(『慈雲尊者全集』第11輯、454頁)と述べられており、多くのテキストがこのテキストに何らかのかたちでつながることは予想できるが、そうであっても、写本間に、「揺れ」があることもまた自然なことといえよう。
ある写本を底本としている「活字本文」から用例を採取するにあたっては、その「活字本文」を正確に引用しているかということがまずある。その引用が不正確でもいいということにはならないが、底本が写本であれば、その写本と異なる「本文」をもつ写本は当然あろうし、上記のような文字化に関しての違いであれば、異なる箇所は多数になってもおかしくはない。
下の画像は筆者が所持している文政7年刊のテキストで「口語体本」と呼ばれているものの、冒頭箇所。
文末を「ジャ」としている箇所が多いが、(これも、あげている範囲では、ということになるが)文章の結構がまったく異なるわけではない。下線部は「文語体」テキストにみられない。
▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は3月1日(水)、新シリーズが始まります。清泉女子大学教授今野真二さんの担当です。
ジャパンナレッジの「日国」の使い方を今野ゼミの学生たちが【動画】で配信中!
“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
『日国』に未収録の用例・新項目を募集中!
会員登録をしてぜひ投稿してみてください。
辞書・日本語のすぐれた著書を刊行する著者が、日本最大の国語辞典『日本国語大辞典第二版』全13巻を巻頭から巻末まで精読。この巨大辞典の解剖学的な分析、辞書や日本語の様々な話題や批評を展開。