昭和の子どもにとって「でんぶ」は、ごはんのお供らしからぬ、ピンク色をした甘い味わいの不思議ふりかけ、あるいは雛祭のちらし寿司の具という記憶だろうか。違和感から嫌う子もいたが、茹でた魚肉をほぐし、醤油、みりん、砂糖、塩、酒などで調味したうえ、弱火で時間をかけて炒り煮した佃煮とは思わなかった。食紅で染めた桜でんぶがよく知られ、これは鯛や鱈でつくられている。ほかにもいろんな種類があり、鰹節が使われていることも多く、平目、鰈(かれい)、海老などの魚介類を用いた贅沢な品もある。
漢字では「田麩」と書き、その語源は定かではない。江戸期寛文・延宝年間1670~1674年ごろにまとめられた『古今料理集』には、「田夫は 色々をなべに入て酒をひたひたにさしてあまみの付程にとっくと煮て、其汁をよくしため〈略〉汁のなきやうに煎付て用る事也」(『日本国語大辞典』)とあり、それは現代のものと近しい。さらに遡ると、中世の京都に、干し魚を炙ってほぐし調理された「ふくめ」という献立がある。これが田麩の原型ではないかといわれている。京都には「でんぶ」に関するいわれが多く、病気の夫を元気づけようと、妻が滋養のために優れた鰹節でつくったのが最初だという発祥説や、出汁を引いた後にたくさん残る出し殻を始末する(使い切る)ため、甘辛く炒り煮しておばんざいとした話などが有名である。
「でんぶ」に関する古い記述を探した際、興味深かったのは、谷崎潤一郎の1930(昭和5)年に書かれた随筆「懶惰(らんだ)の説」(篠田一士編『谷崎潤一郎随筆集』、岩波文庫1985年発行)。でんぶが絡んでくる箇所のストーリーは、こうである。朝からビフテキを食べつつ、盛んにスポーツをして体力を養うイギリス人の老人と、座布団の上から動かないような生活をしている京大阪の旧家のご隠居を対比し、さらにご隠居と自分の祖母の食生活を重ね合わせていく構成になっている。そして、ご隠居の動かないながらも、粥(かゆ)、梅干、梅びしお、でんぶ、煮豆、佃煮といった食事の内容に、相応な消極的な摂生法で長寿を保っている、と続けている。この随筆が書かれたころは、普段の生活にまで西欧文化が浸透しつつあった時期であり、日本人らしさを再考する論調は、いま読み返してみても、少しも古びていないようである。
花かつお、砂糖、醤油、みりん、昆布、酢、煮干しを材料にしたでんぶ。 口に含むと溶けるようになくなり、ふわりと甘い。ごはんによく合う。