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  11. 藤原不比等

藤原不比等

ジャパンナレッジで閲覧できる『藤原不比等』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
藤原不比等
ふじわらのふひと
六五九 - 七二〇
奈良時代の政治家。鎌足の第二子。史とも書く。母を車持国子の女与志古娘とし、不比等を天智天皇の皇胤とする説があるが、信用しがたい。斉明天皇五年(六五九)生まれる。幼時山科の田辺史大隅の家に養われたといわれ、不比等(史)の名はそれに由来しよう。持統天皇以後歴代の信任あつく、その女宮子は文武天皇の夫人となり、大宝元年(七〇一)首皇子(のちの聖武天皇)を生んだ。また持統天皇の信任する県犬養三千代との間に安宿媛(光明子)をもうけ、光明子が霊亀二年(七一六)、皇太子首皇子の妃となることにより、皇室と二重の姻戚関係を結んだ。文武天皇二年(六九八)、鎌足に賜わった藤原朝臣の姓は子不比等にのみ伝えることとされ、文武の死直前の慶雲四年(七〇七)四月には、歴朝に奉仕した功により食封五千戸を賜わり、不比等はうち二千戸のみを受けた。天平勝宝八歳(七五六)の『東大寺献物帳』に、草壁皇子(文武天皇の父)から不比等に賜わった黒作懸佩刀が、不比等から文武へ、文武の死後不比等へ、不比等の死後また首皇子へと継承されたとあることも、不比等と皇室との緊密な関係を物語る。政治の面では大宝元年直広壱から正三位に叙せられ、中納言から大納言となり、刑部親王のもとで『大宝律令』の編纂に活躍、和銅元年(七〇八)には右大臣に昇った。同年に始まる平城遷都の事業も、不比等が主唱した可能性が大きい。晩年には『養老律令』の編纂を主宰したが、養老四年(七二〇)八月三日、右大臣正二位、六十二歳で没(『懐風藻』は六十三歳とする)。太政大臣正一位を追贈された。『延喜式』諸陵寮には、大和国十市郡の多武岑墓を不比等の墓とする。のち天平宝字四年(七六〇)、近江国十二郡に封じられ、淡海公と称された。律令制の形成期にあって政務の運営を指導し、国家の基礎を固める上に大きく貢献するとともに、皇室との姻戚関係により、特権貴族としての藤原氏の地位を不抜のものとした。武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四人の男子はそれぞれ藤原南家・北家・式家・京家の祖となって政界に活躍し、女子も長屋王・橘諸兄・大伴古慈斐など有力な皇族・貴族の室となった。平城京における不比等の居宅は宮城の東に隣接し、のち光明子に伝領され、法華寺となった。仏教の信仰厚く、父鎌足の開いた山階寺を飛鳥の厩坂から平城京に遷し、興福寺を建立、また同寺に維摩会を興した。同寺の北円堂は、養老五年、不比等の一周忌に創建された。『懐風藻』に詩五首を載せる。
[参考文献]
上田正昭『藤原不比等』(『朝日選書』三二〇)
(笹山 晴生)

多武峯墓(とうのみねのはか)

伝不比等(淡海公)の墓は三ヵ所にある。養老四年(七二〇)八月不比等は六十三歳(『懐風藻』)で死ぬ。天平二年(七三〇)墓前祭を催すが、埋葬地の記録はない。『延喜式』諸陵寮に、近墓として「多武岑墓(贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在〓大和国十市郡〓、兆域東西十二町、南北十二町、無〓守戸〓」)」とあるが、同書内閣文庫本の書入れに「国史並貞観式云、大織冠墓云々、今文已違〓式誤也」とあるように、父鎌足の墓とかんがえられたこともあった。また『江家次第』では「八墓大和国一所(多武峯淡海公)」としている。現在、奈良県桜井市多武峯にある談山神社の十三重塔婆(現建物は天文元年(一五三二)再建、重要文化財)を、これにあてている。しかし、『公卿補任』養老四年条に「十月八日戊子、火〓葬佐保山推山岡〓、、従〓遺教〓也」とあり、『帝王編年記』には「養老四年八月三日薨、六十二、葬〓佐保山〓」とある。『聖蹟図志』によると、聖武天皇佐保山南陵の西に「淡海公」と記した小山を描いている。奈良市法蓮町北畑に通称、西淡海公・東淡海公の二基の墳墓がある。これは聖武天皇陵の西北にある陪塚で、い号・ろ号と名付ける。い号は径約三〇メートルの円墳、現在の高さ約二メートル、雑木が茂る。その東方にあるろ号は南北約二五メートル、東西約三五メートル、高さ五メートルの円墳である。野淵竜潜『大和国古墳取調書』(明治二十六年(一八九三))には『山陵廻日記』を引用し不比等の墓とするものの、い号を火葬地、ろ号を墓所とする。い号では焼土などは認められない。『奈良市史』考古編(昭和四十三年(一九六八))では藤原宮子(不比等の女)の佐保山西陵をどちらかにあてようと示唆している。いずれも談山神社、聖武天皇陵とのかかわりによって想定されており、考古学的には実証できていない。
(猪熊 兼勝)


日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原不比等
ふじわらのふひと
[658/659―720]

飛鳥(あすか)・奈良時代の政治家。藤原鎌足(かまたり)の第2子。武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)、宮子(みやこ)(文武(もんむ)天皇夫人)、安宿媛(あすかひめ)(光明(こうみょう)皇后)の父。名を史とも書く。理由あって山科田辺史大隅(やましなのたなべのふひとおおすみ)の家に養われたからとも伝える。689年(持統天皇3)判事とあるのが初見。大宝律令(たいほうりつりょう)の撰定(せんてい)に参加。そのころ、すでに美努(みの)王に嫁して葛城(かつらぎ)王(後の橘諸兄(たちばなのもろえ))ら三児を産んでいた県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)と結婚。その宮廷における隠然たる勢力にも助けられて、しだいに政界に進出、中納言(ちゅうなごん)から大納言、ついで補佐の功により食封(じきふ)5000戸を賜ったが、辞退して2000戸にとどまる。708年(和銅1)には右大臣に進み、また女(むすめ)の安宿媛を皇太子首(おびと)皇子(後の聖武(しょうむ)天皇)の妃に納(い)れ、専権的傾向を強くする。718年(養老2)自ら中心となって養老(ようろう)律令の編纂(へんさん)に着手したが、完成を待たずに720年に没した。太政(だいじょう)大臣・正(しょう)一位を贈られ、佐保(さほ)山に火葬したともいう。またのち760年(天平宝字4)にはその功および皇家の外威(がいせき)を理由に、斉太公の故事に倣い、近江(おうみ)12郡に封じて淡海(たんかい)公と称された。なお生前には山階(やましな)寺の維摩会(ゆいまえ)を復興した。
[岸 俊男]



世界大百科事典
藤原不比等
ふじわらのふひと
659-720(斉明5-養老4)

奈良時代初期の重臣。史(ふひと)とも表記。鎌足の次男で,母は車持君国子(くるまもちのきみくにこ)の娘の与志古(よしこ)。幼時は山科(京都市山科区)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で育ったので,史と名づけられたという。父の死後3年目に起こった壬申の乱では,田辺一族から近江方の将軍となった者も出たが,不比等自身はまだ少年であったし,乱後の天武朝には,姉妹の氷上(ひかみ)や五百重(いおえ)が天武夫人(ぶにん)としてそれぞれ但馬(たじま)皇女や新田部皇子を生んだためもあって,順調に官途を歩みだしたらしく,持統朝で判事(はんじ)に任命されたときには,数え年31歳で直広肆(じきこうし)(従五位下相当)に昇っていた。判事任命は,父と同じように法律にも関心のあったことを思わせるが,文武朝での大宝律令制定のさいには刑部(おさかべ)親王を補佐し,施行と同時に正三位大納言に昇った。時に42歳。この間,娘の宮子(みやこ)を文武夫人とし,父に賜った藤原という氏を自分の子孫に限定するために,698年(文武2),他の藤原一族はすべて元の中臣という氏に戻らせることに成功し,また文武没後の713年(和銅6)のことであるが,文武天皇の他の配偶者からは嬪(ひん)/(みめ)という称号を剝奪して配偶者を宮子に限定し,その翌年には文武と宮子との間に生まれた首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を立太子させ,さらに自分と後妻の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)との間に生まれた光明子を716年(霊亀2)には皇太子夫人とするなど,他氏を排除しながら自分の一家と皇室との結びつきを深めていった。

朝廷では先輩である左大臣正二位石上麻呂(いそのかみのまろ)が717年(養老1)に没すると右大臣正二位のまま首班となり,数人の下僚とともに養老律令の制定に着手したが,完成しないうちに720年8月に病没,10月に太政大臣正一位を贈られ,760年(天平宝字4)8月には淡海公(たんかいこう)の称号が贈られた。女子には宮子,光明子のほかに長屋王(ながやおう),橘諸兄(たちばなのもろえ),大伴古慈斐(おおとものこしび)にそれぞれ嫁した3人が知られ,男子では武智麻呂(むちまろ),房前(ふささき),宇合(うまかい),麻呂(まろ)の4人が不比等没後の政界でそろって活躍した。なお《懐風藻》には不比等の五言詩5首が収められている。
[青木 和夫]

[索引語]
藤原史 淡海公 藤原武智麻呂 藤原房前 藤原宇合 藤原麻呂
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[659〜720]奈良初期の公卿。鎌足(かまたり)の二男。諡号(しごう)、文忠公・淡海公。右大臣。大宝律令・養老律令の編纂(へんさん)に参加。娘の宮子は文武天皇 ...
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31. 妹背山婦女庭訓(浄瑠璃集) 347ページ
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40. おおとものこしび【大伴古慈斐】
国史大辞典
持統天皇九年(六九五)生まる。吹負の孫、祖父麻呂の子。少にして才幹があり学才もあった。それを見込んでか藤原不比等はその女を妻とさせた。天平勝宝八歳(七五六)五月 ...
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42. 大伴安麻呂
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43. おおとものやすまろ【大伴安麻呂】
国史大辞典
同三年朝政に参議し、兵部卿を経て、慶雲二年(七〇五)大納言、大宰帥をかねた。このころ石上麻呂・藤原不比等につぐ重臣であった。和銅七年(七一四)正三位大納言をもっ ...
44. おおとりごう【大鳥郷】大阪府:和泉国/大鳥郡
日本歴史地名大系
賜姓されている。〓登の姓は聖武の諱の首と藤原不比等の名を避けるために、首と史を廃して一時期称された姓である。「行基大僧正舎利瓶記」によると行基 ...
45. 諡
日本大百科全書
第二のほう、すなわち人臣では、(1)太政(だいじょう)大臣になった人に諡号を賜ったのが例(藤原不比等(ふひと)の文忠公など)であるが、入道した人には諡はない。( ...
46. 諡
世界大百科事典
いる(土御門天皇,東山天皇の名のごとき)。 臣下の場合は,国家に大功のあった人に贈られる。藤原不比等に贈られた漢風諡は,文忠公であった。太政大臣の官にあった者は ...
47. 刑部親王・忍壁親王
日本史年表
700年〈文武4 庚子⑦〉 6・17 刑部親王 ・ 藤原不比等 らに律令(『大宝律令』)を撰定させ、禄を賜う(続紀)。 703年〈大宝3 癸卯④〉 1・20  ...
48. おさかべ‐しんのう[:シンワウ]【忍壁親王・刑部親王】
日本国語大辞典
父とともに東国で戦う。川島皇子、広瀬王、竹田王などと「帝紀」および上代の諸事を撰し、また、藤原不比等などと「大宝律令」を制定。慶雲二年(七〇五)没。オサカベシン ...
49. かいふうそう【懐風藻】
国史大辞典
托した官人集団の詩が、『懐風藻』の詩であった。その中できわだって詩数も多く、本格的な詩を残すのが藤原不比等とその三子、総(房)前・宇合・万里(麻呂)で、『万葉集 ...
50. 海竜王寺
日本大百科全書
律宗の寺。総国分尼寺法華寺の隣地にある。731年(天平3)光明(こうみょう)皇后御願寺で、藤原不比等(ふひと)の旧殿を改めて仏閣とし、735年入唐(にっとう)僧 ...
「藤原不比等」の情報だけではなく、「藤原不比等」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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日本紀私記(国史大辞典)
奈良時代から平安時代中期(後期は院政期)にかけて、宮廷で行われた『日本書紀』の講読の覚え書。別称『日本書紀私記』。『本朝書籍目録』には、養老五年(七二一)私記(一巻)・弘仁四年(八一三)私記(三巻、多人長撰)・承和六年(八三九)私記(菅野高平撰)
日本紀講筵(世界大百科事典)
主として平安時代前期に,数回にわたり宮廷で公式の行事として行われた《日本書紀》の講読・研究の会。《釈日本紀》開題に引く〈康保二年外記勘申〉によれば,養老5年(721),弘仁3-4年(812-813),承和10-11年(843-844),元慶2-5年
続日本後紀(世界大百科事典・日本国語大辞典・国史大辞典)
日本古代の史書。六国史の第4。20巻。仁明天皇1代,833年(天長10)から850年(嘉祥3)にいたる18年間の歴史を記す。文徳天皇の命により,藤原良房,春澄善縄らが編纂にあたり,清和天皇の869年(貞観11)に完成奏上。以前の国史の体裁を追いながら
日本後紀(世界大百科事典・国史大辞典)
日本古代の官撰の史書。六国史の第3。40巻。792年(延暦11)から833年(天長10)まで,桓武,平城,嵯峨,淳和の4天皇,43年間のことを記す。仁明天皇の840年(承和7),藤原緒嗣(おつぐ)らの手で完成。応仁・文明の戦乱で散逸し,10巻のみ現存
藤原不比等(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
六五九-七二〇奈良時代の政治家。鎌足の第二子。史とも書く。母を車持国子の女与志古娘とし、不比等を天智天皇の皇胤とする説があるが、信用しがたい。斉明天皇五年(六五九)生まれる。幼時山科の田辺史大隅の家に養われたといわれ
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