バラ科モモ亜属の落葉果樹。中国や日本で古くから栽培され多くの品種が分化している。またハナモモは花木としても重要なものである。中国の黄河上流,陝西・甘粛の両省にまたがる高原地帯(標高1200~2000m)の原産。中国から各地に伝わって変種を生じた。高さ3~8mほどの小高木で,葉は広披針形から長楕円形である。花は前年枝の葉腋(ようえき)に通常単生し,桃紅色で,葉の展開よりも先に開花し美しい。果実は野生型では径3cmほどしかないが,栽培品種は,はるかに大型で,多汁となる。
モモの品種はいろいろに分類されている。果実に細毛をもつ有毛品種群を通常はモモP.persica var.vulgaris Maxim.(英名(common)peach)といい,無毛品種群をネクタリン(油桃),果実が円盤状の品種群をバントウ(蟠桃,ザゼンモモともいう)P.persica var.platycarpa Bailey(英名peento,flat peach),矮性(わいせい)の品種群をジュセイトウ(寿星桃)P.persica var.densa Makino(英名dwarfed peach)という。また,品種群の分化した地理的・生態的特徴を加えると東洋系と欧州系に大別され,前者を華北系,華南系,バントウ系に,後者をペルシア系,スペイン系に細別することもある。この地域品種群には粘核,離核や黄肉,白肉がまざりあうこともあり,前述の分類系と一致しない。
中国での栽培歴は古く,黄肉のモモやネクタリンは7世紀ごろから栽培が始められた。現在の栽培は華北以南の各地で行われ,800以上の品種が知られている。ヨーロッパへはシルクロードを通り,ペルシア,小アジアを経てギリシア,ローマにもたらされ,ついで地中海諸国に普及してペルシア系品種群となった。一方,スペイン系品種群といわれるものはペルシア,小アジア地方から11世紀ごろにスペインにもたらされて改良され,移住民とともに新大陸に渡ってさらに改良されたものである。黄肉のモモやネクタリンは6~7世紀ごろトルキスタン地方で生じて中国とヨーロッパに伝わり,ついで新大陸にもたらされた。これが現在のヨーロッパや新大陸の諸国で栽培されている黄肉のモモやネクタリンの源である。日本では《古事記》や《日本書紀》に記載が見られるが,果樹としての栽培は江戸時代からで,当時のモモは小果で硬肉であった。大果の品種は1874年にモモとネクタリンが主としてフランスから,75年にモモの上海水蜜(すいみつ)と天津水蜜が中国から導入された。それらの品種は各地で試作されたが,日本の風土に最もよく適合した天津水蜜が一般に普及した。その後,岡山・神奈川両県下の栽培者によって上海水蜜など導入品種の偶発実生から新品種が発見されるとともに,東洋系(華南系)のモモを素材に育種も行われた。現在では日本の風土に適応した品種が多数育成,栽培されている。また,黄肉の加工用(缶詰用)品種も欧州系品種と東洋系品種との交雑により育成されている。
栽培品種には果肉色によって白肉と黄肉,核が果肉から離れるか否かによって粘核と離核の区別がある。また果肉の硬・軟によって溶質と不溶質(ゴム質)に分けられる。前者は果肉が溶けるように柔らかくて果汁が多く,生食時に甘い果汁がしたたり落ちるようになるので水蜜桃と称されることが多い。利用の目的によって生食用と加工用(缶詰用)に分けることもあり,後者には果肉が不溶質の品種が用いられる。主要品種には布目早生(6月中・下旬成熟),砂子早生・倉方早生(6月下旬~7月上旬,花粉不稔性品種),白鳳(7月中・下旬),大久保(7月下旬),白桃(8月上・中旬)があり,そのほかに地方の特産的品種として早生桃山,都白鳳,浅間白桃,志賀白桃,勘七白桃など数多くの品種が栽培されている。また,黄肉の加工用品種には錦,ファースト・ゴールドなどが,ネクタリンでは,興津,秀峰などが育成,栽培されている。近年アメリカから導入されたジュセイトウのボナンザやシルバープロリフィックなどは家庭用果樹として注目されている。
繁殖は芽接ぎで,台木には同じ品種の実生を利用する共台や野生モモの実生を用いる。近年はセンチュウ抵抗性や矮性台木の開発が進められている。モモは自家結実性であるが,花粉不稔品種があるので,結実確保のため稔性花粉をもつ品種を受粉樹として混植するか,人工受粉を行う。摘果は20~30葉当り1果を残す。病害虫防除と外観の向上を目的に袋掛けを行うが,近年は無袋栽培が多い。剪定(せんてい)は休眠期間中に行い,枝が側方に開いた形に仕立てる。縮葉病,黒星病,灰星病などの病害,シンクイムシ類,アブラムシ,コスカシバなどの害虫が加害,発生するので,適期に薬剤防除を行う。日本の主産地は岡山,山梨,福島,長野,和歌山,山形の各県である。
日本のモモは白肉品種が多く,主として生食に用いるが,シロップ漬缶詰,ネクター,ジャムなどの加工原料にも用いられる。缶桃と称される黄肉の品種は,加工用(缶詰用)品種であるが,ネクターやジャムなどにも用いられる。
古くから栽植されていたモモに,花色の濃い品種や重弁などの花形の変化した品種が多数作出されたのは,江戸時代である。《花壇綱目》(1681)には9品種が記録されていて,このころより観賞用の花木としてのハナモモの育成が盛んになったらしい。現在でも八重咲きで白に赤の絞りがはいる源平,早咲きで濃赤色の寒緋(かんひ),濃桃色でキクに似た八重咲きの菊桃(きくもも),白色の寒白(かんぱく)などの花変りのほかに,しだれになったものや,小型で開花する一才物の一才桃など多くの品種が残されている。ハナモモは,果実のできるものでも熟期が遅く,小さくて食用には適さない。
《尚書》に,殷を亡ぼしたあと周の武王は,牛を桃林に放って軍備撤廃を示したとあり,また《詩経》のいくつかの篇にも桃がうたわれて,古くより桃は人々に親しい果樹であったが,また単に食用に供するだけにとどまらぬ,象徴的な意味あいを強く帯びたものでもあった。《詩経》桃夭(とうよう)の詩は,桃の花や実をうたって結婚をことほぐ歌謡であるが,桃が多くの子(み)をならせることにあやかり,結婚した女性も多産であるようにとの類感呪術(じゆじゆつ)的な心情を基礎にしたものであった。桃などの果実を用いて,とくに女性が男性に恋情を伝えるという《詩経》以来のちのちまでの風習(例えば美男の潘岳が街に出ると,女性たちが彼に果物を投げたという)も,多産をめぐる呪術の展開した形態であろう。桃のほか,そうした風習に結びつく李(すもも),棗(なつめ),石榴(ざくろ)などがいずれも多子を特徴とすることが,この推測を助ける。
多子という特徴は,より根本的にいえば,桃が強い生命力をもつということになろう。その生命力は,早くは桃に魔よけの力があるという形で表現され,時代を下っては仙果として桃が文芸や造形美術の中に出現することになる。桃の枝や棒を死のけがれを払うために用いるという記事は《左伝》《周礼》《礼記》などに見える。漢代には桃の木で作った人形を新年の門口に懸けて邪気を払うという風習が盛んになり,のちには必ずしも桃の木に限らぬが〈桃符〉と呼ばれるお札が正月の門口に貼られた。桃を仙果だとし,それを食べることにより長生が得られるという伝承は,南北朝以降,道教的な色彩の強い文芸の中に多く出現する。《漢武故事》や《漢武帝内伝》などがそうした中でも早いもので,漢の宮廷を訪れた西王母が武帝に3000年に1度だけ実を結ぶ桃の実を与えて食べさせる。このように桃はとくに西王母との結びつきが強く,《西遊記》で孫悟空がめちゃくちゃにする蟠桃会(ばんとうえ)も西王母が主宰するものであった。このような桃の持つ超越的な生命力付与の能力は,それが現実の果樹であることを超え,世界樹としての桃にその原形があると考えられたことによるであろう。
世界樹としての桃の伝承はおそらく古くまでさかのぼるのであろうが,文献的には漢代以降の記録に見える。例えば世界の東南の果てに桃都山があり,そこには枝の間隔が3000里もある桃都樹が生えているとされる。あるいは東海中の度朔山には3000里に蟠(わだかま)る桃の大樹(蟠桃とも呼ばれる)があり,その枝の東北部分のすきまが門になっていて,万鬼が出入りする(すなわち鬼門)。その門に神荼(しんと)・鬱塁(うつるい)の二神がいて悪鬼の侵入を防ぐが,それが上述の門口に桃の人形を懸ける風習の起源になったと説明される。また初期の道教経典に,天地の中央の玉京山に高さ390万億里の桃の木が生えるとあるのも,世界樹としての桃である。世界樹は宇宙の軸として現世と超越的な世界とを結ぶ機能をもつが,陶潜(淵明)〈桃花源記〉に,桃の咲き乱れる中を通って別天地(桃源郷)を訪れたとあるのも,桃が異世界との通路となるという神話的な思考を反映したものであろう。
隋代以前に中国では失われていた《如意方》という医書には,〈美色細腰にする術〉として,3樹の桃花を陰干しにして篩(ふるい)にかけ,食前に1日3回服用する処方があり,宋斉の釈僧,深(じん)は,これを酒で服用する処方を残している。また,5~6世紀の陶弘景が著した《千金翼方》には,東に向かって伸びた枝を日の出前に採り,3寸の木人をつくり,着物を着せて身につけていると物忘れをしないという呪術があり,三尸(さんし)を除く方法でも盛んに桃が使われている。
桃は奈良時代初頭に渡来したと考えられ,ケモモと称されていた。それまで〈モモ〉と呼ばれたのは楊桃(やまもも)であったが,のちには単に〈モモ〉といえば桃をさすようになった。しかし桃が魔よけの力をもつとする中国の思想は,実際に桃が渡来する以前に日本に伝わっていたとされ,記紀には伊弉諾(いざなき)尊が黄泉国(よみのくに)から逃げ帰った際に,桃の樹下に隠れ,桃の実を投げて黄泉軍(よもついくさ)を撃退させたとある。平安時代になると桃も栽培され,《延喜式》には12月晦日の宮中の追儺(ついな)には,陰陽寮から桃の杖(つえ)と弓,葦矢(あしや)が配られ,疫鬼を駆逐したとあり,また正月の卯杖にも桃が使われたとある。桃の弓は近年でも神社の神事で使われることがあり,千住の飛島神社では4月8日の花祭に桃の木で木札を作り配ったという。桃が魔よけの力をもつのは,日本ではその形が女陰に似ているとか,桃は兆の字の如く多産の象徴であるとか,桃(とう)が逃(とう)や刀(とう)の語音に通じ魔を払う力があるからとかいわれる。また3月3日を桃の節供といい,桃の花を飾ったり,魔よけに桃酒を飲む風がある。この桃酒は毒を下し,病を払って,安産するともいう。三月節供と桃との結びつきはすでに平安時代に見られ,5月の蓬(よもぎ)・菖蒲(しようぶ),9月の菊と同様に,桃の呪力で病魔や災厄を払おうとしたのであろう。五島列島の福江島では厄払いの〈串のだんご〉を桃の木にさしたという。そのほか,鬼門に桃を植えるとよいとか,大根畑に桃の木をさすと虫がつかないともいい,また桃の木を歯にあてて虫歯よけのまじないにしたり,桃の葉を入れた湯に入って,あせもを治したりする。青森県下北地方では,イタコが口寄せやオシラ遊びをするときに桃の木を飾るので,ふだんは死霊がくるといって家に飾るのを忌んでいる。屋敷のまわりに桃を植えると,早死するとか病人が絶えないといって嫌ったり,八朔(はつさく)の桃祭に桃を食べるとうじ(蛆)になるといった俗信もあるが,それだけ桃が神聖視されていることを示しているといえよう。
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