仏教に関する祭祀 (さいし)、信仰、布教などのために建てられた建築。紀元前5~前4世紀の仏教勃興 (ぼっこう)当初は、礼拝 (らいはい)対象とする仏像も、それを納める仏堂もなかった。宗教施設としての構築物がみられるのはブッダ(仏陀)の没後(前486ないし前473ころ)からで、仏陀の象徴として仏舎利 (ぶっしゃり)を祀 (まつ)るストゥーパ(仏塔)が各地に建てられ、尊崇された。前3世紀に、インドのマウリヤ王朝のアショカ王(阿育王)が武力を放擲 (ほうてき)して仏教による政治を心がけ、各地のストゥーパから舎利を取り出し、領土の8万4000か所にストゥーパを建設したという。これが、単なる仏陀の墳墓としてのストゥーパから、仏教建築に発展する始まりであった。
インドその他
アショカ王が仏陀の諸聖地にストゥーパとともに多数建てた記念石柱は、現在サールナートやサーンチーなどに10基以上も残っている。これは、円柱石の上に蓮弁 (れんべん)を刻んだ鐘形をのせ、獅子 (しし)あるいはゾウ・ウシなどの彫像と、さらに法輪をのせたものである。この石柱はしだいに形が変化し、前2世紀以降には円柱が四角や八角柱に変わり、聖地には数基の石柱が立つようになった。
一方、ストゥーパは墳墓から発展したため、台基上に半球状円墳の覆鉢 (ふくばち)と、高貴の象徴に傘 (さん)を立て、周囲に石柵 (さく)を巡らして門をたてた。当初はれんが造であったが、前2世紀ごろから石が多用されるようになる。紀元後4世紀のグプタ朝に入ると台基が高くなり、彫刻で華麗に装飾されて下方に方形の基壇が加わった。
また、前2世紀末ごろからは石窟 (せっくつ)が発達して仏教窟に利用され始めている。仏教窟は奥に小形のストゥーパを祀るチャイティヤ窟と、小さな僧房がいくつか集まったビハーラ窟の2種に分かれる。チャイティヤとは本来、礼拝供養の対象物を意味し、それが小ストゥーパ形に代表された。チャイティヤは石窟だけでなく独立した建築としても存在し、円形の祠堂 (しどう)をチャイティヤ堂という。チャイティヤ窟は、前が礼拝用の方形の室で、後ろが円形の祠堂となるが、古いものには前2世紀末のバージャー石窟、また壮大なものでは後2世紀ごろのカールラー石窟が有名である。壁画で名高いアジャンタは数多い石窟からなり、チャイティヤ窟やビハーラ窟があるが、その大多数は6~7世紀のグプタ朝のものである。バージャーのビハーラ窟では前方に広場、奥に小僧房が並び、アジャンタでは広場の三方に小室が並んで僧院を形成したが、グプタ時代にはビハーラ窟の奥に祠堂が加わり、僧院に祠堂が形成されている。
このころから、ガンダーラやタキシラ地方の影響で、本尊を祀る祠堂として高塔が建設されている。祠堂はビマーナとよばれ、単独のもの、前堂を付設するものなど、いろいろの形式がある。ブッダガヤの大塔はストゥーパではなくビマーナの遺例である。現在の建物は19世紀の修理で一変しているが、5~6世紀の伝統を引くものと考えられる。
インドでは7世紀以降はヒンドゥー教やジャイナ教が盛んとなり、仏教はしだいに衰微し、13世紀からイスラムの支配となって仏教建築はほとんどつくられなくなった。
インドの近隣諸国にも仏教隆盛時の遺跡が多いが、なかでもネパールは仏陀誕生地のルンビニー園が存在したため、アショカ王建立と伝えるストゥーパも残っている。またスリランカもアショカ王時代に仏教が伝来したといわれ、11世紀にタミル人の侵攻で多くの建物が破壊されたが、遺跡にその痕跡 (こんせき)をとどめている。仏教建築としてはビマーナ形式を多数複合させたインドネシアのジャワ島に建設されたボロブドゥール(8~9世紀)や、12世紀建設のカンボジアのアンコール・ワットとアンコール・トムのバイヨン寺が著名である。なお、ビルマ(現、ミャンマー)、タイの両国では11世紀ごろに仏教が伝わって多数の寺院やストゥーパなどの仏教建築が建てられ、ビルマではパガンの11世紀のアーナンダ寺や、12世紀のマハ・ボデイ寺があり、パゴダ(鐘状のストゥーパ)ではラングーン(現、ヤンゴン)の18世紀に整備されたシュエダゴンが高塔として著名である。タイでは古い遺構としてチエンマイのワートチェッヨット(13世紀末)がよく知られている。
中国
中国への仏教の初伝は後漢 (ごかん)の明帝 (めいてい)(在位57~75)のころとされ、65年に楚 (そ)王英が浮屠祠 (ふとし)を建てたのが始まりである。浮屠は仏陀の音訳であるが、当時の建築形態などは明らかでなく、建物のようすがわかるのは2世紀末に徐州の牧の陶謙のもとで窄融 (さくゆう)がつくった浮屠祠で、これは九輪を頂く重楼を中心として周囲に回廊を巡らしたものという。本尊は塗金の仏像であったといわれ、重楼の上部はストゥーパ形式、初重はビマーナ的なものであった。
3~4世紀ころから仏舎利信仰の盛行に伴い、重楼に仏舎利だけが祀られてストゥーパの性格が強まり、本尊には別に仏殿が建てられるようになった。4世紀末に北魏 (ほくぎ)の首都平城に建った寺院では、五重塔、耆闍崛山 (ぎしゃくっせん)、須弥山 (しゅみせん)を祀る仏寺のほか、講堂、禅堂、僧房を構えたことが『魏書 (ぎしょ)』にみえ、いわゆる仏教寺院の伽藍 (がらん)が整備されたことが知られる。
一方、仏教石窟もインドから中央アジアを経て伝わり、4世紀には敦煌 (とんこう/トゥンホワン)の莫高窟 (ばっこうくつ)が始まり、5世紀になると平城郊外に雲崗 (うんこう)石窟や洛陽 (らくよう/ルオヤン)遷都による竜門石窟、このほか涼州の天梯山 (てんていざん)石窟、甘粛 (かんしゅく/カンスー)省天水 (てんすい/ティエンショイ)の麦積山 (ばくせきざん)石窟などもある。中国の石窟はインドと異なりビハーラ窟がなく、チャイティヤ窟も5世紀までのものしかない。その後も石窟は掘られたが、仏殿・仏像を彫刻するものが多い。6世紀には蘭州 (らんしゅう/ランチョウ)小積石山の炳霊寺 (へいれいじ)石窟、河南 (かなん/ホーナン)省の鞏県 (きょうけん)石窟、太原 (たいげん/タイユワン)の天竜山石窟、河北 (かほく/ホーペイ)省磁県の響堂山石窟なども開掘され、後代も続いて掘られたが、石窟前面に建つ木造楼閣の現存する遺構は少ない。
完備した伽藍では516年、霊太后胡 (こ)氏(宣武 (せんぶ)帝后)が洛陽に建てた永寧寺が名高い。この伽藍には九重塔や、丈六の本尊を祀る仏殿があり、1000余間に及ぶ僧房や鐘楼・経楼の楼観があったという。周囲には回廊が巡り、四方に門が開かれていた。この寺院は20年も存続せず、534年に九重塔が焼失したときは、火が3か月も消えなかったという。仏殿は宮城の大極殿の外観に似ていたといわれ、主要な仏寺建築は宮廷建築を模倣したことが知られる。当時の建築としては6世紀前半の河南省登封 (とうほう/トンフォン)市の嵩岳寺塼塔 (すうがくじせんとう)が知られ、十二角十六重で総高40メートル余もある。
隋 (ずい)代の建築では石造の山東 (さんとう/シャントン)省済南 (さいなん/チーナン)の神通寺四門塔が残る。唐代では8世紀初頭の西安 (せいあん/シーアン)慈恩寺大雁 (だいがん)塔が有名で、高さ64メートル、塼 (せん)造の四角七重塔である。対する西安薦福寺 (せんぷくじ)小雁塔は四角十三重塔であるが、高さは約40メートルである。唐代の木造建築には山西 (さんせい/シャンシー)省五台 (ごだい/ウータイ)県の南禅寺大殿(782建立)や仏光寺大殿(857建立)がある。
唐代以降ではやはり塼造建築に残るものが多く、なかでも10世紀五代の杭州 (こうしゅう/ハンチョウ)の霊隠寺石塔や、南京 (ナンキン)の棲霞寺 (せいかじ)舎利塔は、石造ながら木造塔の構成をみせている。また10世紀末の宋 (そう)の上海 (シャンハイ)竜華塔や、蘇州 (そしゅう/スーチョウ)の羅漢院双塔も優品である。木造では984年の遼 (りょう)代の天津 (てんしん/ティエンチン)独楽寺山門と観音閣 (かんのんかく)が著名。とくに観音閣は内部に高さ16メートルの観音菩薩 (ぼさつ)の大塑像が立ち、中央を二重分吹抜けとする。
遼代の建築では山西省大同 (だいどう/タートン)の1038年の下華厳寺 (しもけごんじ)薄伽教蔵殿が周囲に建築模型としての経棚を造り付けており、同じく大同の金代1140年改修の上華厳寺大雄殿とともに有名。中国では仏教建築中、仏塔の遺存がもっとも多く、福建 (ふっけん/フーチエン)省泉州 (せんしゅう/チュワンチョウ)の開元寺双塔は13世紀の南宋 (なんそう)のもので、明 (みん)初に再建された大雄宝殿と並んで伽藍の景観をいまに伝え、元代では上海の1320年建立の真如寺正殿が旧規をよく残している。
明・清 (しん)代も盛んに仏教建築がつくられたが、とくに清代に至って諸民族融合の一環としてチベット仏教(ラマ教)寺院の建設が進められた。
朝鮮
朝鮮半島への仏教伝来は、372年、高句麗 (こうくり)小獣王のときで、前秦 (ぜんしん)王苻堅 (ふけん)(世祖)が僧とともに仏像や経典を送っており、375年には省門寺や伊弗蘭寺が建立された。一方、百済 (くだら)では384年、枕流 (ちんりゅう)王のときに仏教が入り、翌年漢山に仏寺が建立された。新羅 (しらぎ)では伝来が遅れ、528年法興王によって公認されている。
高句麗および百済の仏教建築は伽藍跡だけで、木造建築は残っていないが、石塔では益山弥勒寺 (みろくじ)と扶余 (ふよ/プヨ)定林寺の2基がある。高句麗の寺院跡では、平壌 (ピョンヤン)の清岩里 (せいがんり)廃寺(金剛寺)、大同郡上五里廃寺(定陵寺)が有名で、中央に八角塔を置きその三方に仏殿を配した伽藍形式が確認されている。百済では公州 (こうしゅう/コンジュ)と扶余に寺院跡があり、扶余の軍守里廃寺、東南里廃寺、金剛寺などで伽藍配置が知られている。中門・塔・仏殿・講堂が一列に並び、周囲に回廊を巡らす、日本でいう四天王寺式配置である。
一方、新羅の寺院跡では、慶州 (けいしゅう/キョンジュ)の皇竜寺が著名である。この寺は553年に着工し、645年に九重の木造塔が完成したが、塔の後ろ両わきに小金堂を配した中金堂、さらにその後ろに講堂があり、中門から発する回廊が塔と三金堂を囲んで講堂につながる珍しい配置が確認されている。高句麗の塔を中心とする一塔三金堂配置に対し、塔と並列する一塔三金堂配置である。古新羅の他の寺院では百済と同じく、一塔一金堂を一列に並べた配置と推定されるがさだかではない。
新羅の三国統一後、最初の寺院として679年に四天王寺の建立をみるが、この寺は金堂の前方左右に双塔を配する形式の二塔一金堂の配置である。この種の伽藍配置には、682年造営の感恩寺、684年の望徳寺から751年の仏国寺などがあり、盛行がうかがえる。当時の木造建築は現存しないが、石塔では感恩寺、高仙寺の三重塔や、仏国寺の多宝塔、浄恵寺十三重塔などが著名である。
10世紀の高麗 (こうらい)時代に入ると、仏教建築は中国の宋様式が濃厚になる。現存最古の木造建築には、13世紀の鳳停寺 (ほうていじ)極楽殿があり、ついで浮石寺無量寿殿がある。15世紀以降の李朝 (りちょう)のものでは、修徳寺大雄殿、成仏寺極楽殿、開心寺大雄殿、高山寺大雄殿、浮石寺祖師堂などが著名。16世紀後半からの儒教の興隆に伴い仏教が衰退し、仏寺も平地を離れて山間に造営されるようになった。
日本
日本への仏教伝来は6世紀中ごろで、当初は仏教に帰依 (きえ)した個人が住宅内にささやかに仏像を祀っただけであった。仏教建築として初めて名がみえるのは、585年(敏達天皇14)に蘇我馬子 (そがのうまこ)が仏舎利を祀るために建てた大野丘の北の塔であるが、これはおそらく心柱(刹柱 (さっちゅう))だけのものだったと推測される。完備した寺院としては592年(崇峻天皇5)に飛鳥寺 (あすかでら)(本元興寺 (もとがんごうじ))が建立されたが、朝鮮から6人の渡来僧とともに訪れた寺工、瓦 (が)工、鏤盤 (ろばん)師、画 (え)師などの手になると考えられる。それは塔を中心に三金堂を東西と北に配した様式で、高句麗の伽藍に似た配置である。
飛鳥寺に次いで大寺として建設されたのは舒明 (じょめい)天皇による百済大寺 (くだらだいじ)である。この寺の伽藍配置は明らかでないが、おそらく百済系統の一塔一金堂の配置と思われ、この様式は四天王寺の伽藍にもみられる。飛鳥では飛鳥寺と並ぶ大寺として天智 (てんじ)天皇によって川原寺 (かわらでら)(弘福寺 (ぐふくじ))が建てられたが、この伽藍は飛鳥寺の東金堂が省略されたような一塔二金堂の配置であった。このような配置は観世音寺 (かんぜおんじ)、法隆寺、法起寺 (ほっきじ)の伽藍配置形式へと発展した。
一方、飛鳥の四大寺の一つの大官大寺 (だいかんだいじ)は、塔が金堂と対称に配置されずに独立し、他の一つの薬師寺(本薬師寺)は新羅の寺院のような二塔一金堂の配置をとっている。塔を東西の片方に、あるいは両方に双塔として配置するのは、奈良時代に盛んに行われた。
日本現存最古の仏教建築としては、法隆寺西院 (さいいん)伽藍の金堂、塔、中門、回廊があり、また法起寺三重塔もこれに属する。これらは飛鳥様式とよばれ、徳利 (とくり)柱や軒構造の雲斗栱 (くもときょう)、一軒 (ひとのき)などが後世にみられない特徴としてあげられる。飛鳥寺創立時に百済から工匠が来日しているので、当時百済で用いられた建築様式であろう。朝鮮には魏晋 (ぎしん)南北朝と中国の建築様式が伝わり、百済は宋、斉 (せい)、梁 (りょう)など南朝と修交し広く中国文化を摂取したため、中国南北の様式が混交して日本に伝えられ、法隆寺のような飛鳥様式が成立したと思われる。
飛鳥時代も後半になると、遣隋使・遣唐使の派遣、僧の中国留学により隋・唐の建築様式が直接日本に移入され、いわゆる三手先 (みてさき)斗栱による堂塔が建設された。その前駆的なものが今日の薬師寺東塔にみられる三手先斗栱で、これが奈良時代以降も引き継がれて発展した。
飛鳥寺以来、仏堂としての金堂・講堂に鐘楼・経蔵が付随し、僧房・食堂を含む建物と塔、いわゆる七堂伽藍が完備するのは平地でのみ可能で、奈良時代から盛んになる山岳修行の場では、単立の仏堂が営まれた。また本来、基壇上に礎石を据え、瓦葺 (かわらぶ)きであった仏堂も、床 (ゆか)張りで板葺き、檜皮 (ひわだ)葺きと変化していった。
平安時代になって最澄・空海による天台・真言 (しんごん)の密教が開宗されると、多宝塔が建設されて新しい建築が出現した。また奈良時代後半にみられた仏堂前面に礼拝堂を並べたり、仏堂の前面庇 (ひさし)を広くとり礼堂とするなどの傾向がより強まった。そして12世紀になると、仏堂と礼堂を大きな屋根で一つに覆った奥行の深い建物、すなわち本来の仏堂部分を内陣、礼堂部分を外陣とするいわゆる本堂が出現する。
また、平安時代の新しい仏教建築としては、法華堂 (ほっけどう)・常行堂 (じょうぎょうどう)が変化して、方形 (ほうけい)平面の宝形造 (ほうぎょうづくり)屋根をもつ阿弥陀堂 (あみだどう)がある。これは浄土教の広範な伝播 (でんぱ)によるもので、帰依者の財力により方五間堂、方三間堂など大小の規模で建ち、やがて他の薬師如来 (にょらい)や観音菩薩の祀堂へと転化した。平安後期には皇室や摂関家による造寺が盛んとなり、間口の広い九体阿弥陀堂や、さらに千体阿弥陀堂、千体観音堂までつくられた。現存する浄瑠璃寺 (じょうるりじ)(九体寺 (くたいじ))本堂や蓮華王院 (れんげおういん)(三十三間堂)本堂が好例である。一方、この時代には池や庭園を取り入れて平等院鳳凰堂 (びょうどういんほうおうどう)にみられるような外観の優美さを重視する建築意匠が好まれた。
鎌倉時代になると、日本の仏教建築に宋様式が加わって多彩になる。1180年(治承4)の平家の南都焼討ちで興福寺、東大寺の両寺が焼亡したが、中国建築に造詣 (ぞうけい)の深い重源 (ちょうげん)が東大寺復興の大勧進 (かんじん)に任ぜられ、宋様式による再建を図った。ちなみに、この様式を大仏様とよぶが、大仏様は構造強化をねらったもので、のちに古来の建築様式であった和様にもこの利点が摂取され、新和様が成立した。また禅宗の移入により禅宗建築がつくられると、禅宗様が新たに加わり、やがて和様・大仏様・禅宗様が渾然 (こんぜん)と一体化して折衷様を生み出した。
禅宗建築では仏堂やその付属建物は在来の仏教建築とはまったく異質で、七堂伽藍も三門、仏殿、法堂 (はっとう)、僧堂、庫院 (くいん)、西浄 (せいじょう)、浴室からなる。伽藍配置も独特で、新機軸を現出した。大陸の建築様式に倣って中心の仏堂の仏殿や法堂は土間床であり、四半敷 (しはんじき)とよばれる瓦敷で統一された。禅宗寺院では住持の隠退などにより塔頭 (たっちゅう)とよばれる子院が新設され、そこでは方丈が建てられ、新しい形式の仏堂が子院ごとに営まれた。方丈は住房を兼ねたので、建物の様式は板床張りで日本的な面が強かった。
鎌倉時代には浄土宗、真宗、日蓮 (にちれん)宗など新宗派が興隆したが、その主要仏堂の本堂は宗派によって独自の平面形式がとられており、中世以降仏教建築は多彩になる。とくに近世になると建築装飾として彫刻が多用され、また、各部に極彩色が施されて華麗な仏堂が出現する。なかでも諸大名の霊廟 (れいびょう)では美を競い、建物も黒漆塗りとし金箔 (きんぱく)を押すなど、装飾化が著しい。
明治以降も仏教建築は木造が主流を占めてきたが、やがて現れる鉄筋コンクリート造のものも、当初は木造仏教建築の造形を取り入れ、柱上には斗栱の形をみせており、屋根も軒裏に垂木 (たるき)形を表し、入母屋 (いりもや)や寄棟として瓦葺きとするものが多かった。第二次世界大戦によって焼失した仏教寺院の再建には、木材の巨材の入手が困難となったため、鉄筋コンクリート造のものが多く建てられるようになり、なかには鉄骨造のものも現れたが、これらの建築はもはや木造建築の造形によらず、新しい解釈で外観を洋風にしたり、内部も椅子 (いす)式とするなど仏教建築も多種多様となった。