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  11. 仏教建築

仏教建築

ジャパンナレッジで閲覧できる『仏教建築』の日本大百科全書のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

仏教建築
ぶっきょうけんちく

仏教に関する祭祀 (さいし)、信仰、布教などのために建てられた建築。紀元前5~前4世紀の仏教勃興 (ぼっこう)当初は、礼拝 (らいはい)対象とする仏像も、それを納める仏堂もなかった。宗教施設としての構築物がみられるのはブッダ(仏陀)の没後(前486ないし前473ころ)からで、仏陀の象徴として仏舎利 (ぶっしゃり)を祀 (まつ)るストゥーパ(仏塔)が各地に建てられ、尊崇された。前3世紀に、インドのマウリヤ王朝のアショカ王(阿育王)が武力を放擲 (ほうてき)して仏教による政治を心がけ、各地のストゥーパから舎利を取り出し、領土の8万4000か所にストゥーパを建設したという。これが、単なる仏陀の墳墓としてのストゥーパから、仏教建築に発展する始まりであった。

[工藤圭章]

インドその他

アショカ王が仏陀の諸聖地にストゥーパとともに多数建てた記念石柱は、現在サールナートやサーンチーなどに10基以上も残っている。これは、円柱石の上に蓮弁 (れんべん)を刻んだ鐘形をのせ、獅子 (しし)あるいはゾウ・ウシなどの彫像と、さらに法輪をのせたものである。この石柱はしだいに形が変化し、前2世紀以降には円柱が四角や八角柱に変わり、聖地には数基の石柱が立つようになった。

 一方、ストゥーパは墳墓から発展したため、台基上に半球状円墳の覆鉢 (ふくばち)と、高貴の象徴に傘 (さん)を立て、周囲に石柵 (さく)を巡らして門をたてた。当初はれんが造であったが、前2世紀ごろから石が多用されるようになる。紀元後4世紀のグプタ朝に入ると台基が高くなり、彫刻で華麗に装飾されて下方に方形の基壇が加わった。

 また、前2世紀末ごろからは石窟 (せっくつ)が発達して仏教窟に利用され始めている。仏教窟は奥に小形のストゥーパを祀るチャイティヤ窟と、小さな僧房がいくつか集まったビハーラ窟の2種に分かれる。チャイティヤとは本来、礼拝供養の対象物を意味し、それが小ストゥーパ形に代表された。チャイティヤは石窟だけでなく独立した建築としても存在し、円形の祠堂 (しどう)をチャイティヤ堂という。チャイティヤ窟は、前が礼拝用の方形の室で、後ろが円形の祠堂となるが、古いものには前2世紀末のバージャー石窟、また壮大なものでは後2世紀ごろのカールラー石窟が有名である。壁画で名高いアジャンタは数多い石窟からなり、チャイティヤ窟やビハーラ窟があるが、その大多数は6~7世紀のグプタ朝のものである。バージャーのビハーラ窟では前方に広場、奥に小僧房が並び、アジャンタでは広場の三方に小室が並んで僧院を形成したが、グプタ時代にはビハーラ窟の奥に祠堂が加わり、僧院に祠堂が形成されている。

 このころから、ガンダーラやタキシラ地方の影響で、本尊を祀る祠堂として高塔が建設されている。祠堂はビマーナとよばれ、単独のもの、前堂を付設するものなど、いろいろの形式がある。ブッダガヤの大塔はストゥーパではなくビマーナの遺例である。現在の建物は19世紀の修理で一変しているが、5~6世紀の伝統を引くものと考えられる。

 インドでは7世紀以降はヒンドゥー教やジャイナ教が盛んとなり、仏教はしだいに衰微し、13世紀からイスラムの支配となって仏教建築はほとんどつくられなくなった。

 インドの近隣諸国にも仏教隆盛時の遺跡が多いが、なかでもネパールは仏陀誕生地のルンビニー園が存在したため、アショカ王建立と伝えるストゥーパも残っている。またスリランカもアショカ王時代に仏教が伝来したといわれ、11世紀にタミル人の侵攻で多くの建物が破壊されたが、遺跡にその痕跡 (こんせき)をとどめている。仏教建築としてはビマーナ形式を多数複合させたインドネシアのジャワ島に建設されたボロブドゥール(8~9世紀)や、12世紀建設のカンボジアのアンコール・ワットとアンコール・トムのバイヨン寺が著名である。なお、ビルマ(現、ミャンマー)、タイの両国では11世紀ごろに仏教が伝わって多数の寺院やストゥーパなどの仏教建築が建てられ、ビルマではパガンの11世紀のアーナンダ寺や、12世紀のマハ・ボデイ寺があり、パゴダ(鐘状のストゥーパ)ではラングーン(現、ヤンゴン)の18世紀に整備されたシュエダゴンが高塔として著名である。タイでは古い遺構としてチエンマイのワートチェッヨット(13世紀末)がよく知られている。

[工藤圭章]

中国

中国への仏教の初伝は後漢 (ごかん)の明帝 (めいてい)(在位57~75)のころとされ、65年に楚 (そ)王英が浮屠祠 (ふとし)を建てたのが始まりである。浮屠は仏陀の音訳であるが、当時の建築形態などは明らかでなく、建物のようすがわかるのは2世紀末に徐州の牧の陶謙のもとで窄融 (さくゆう)がつくった浮屠祠で、これは九輪を頂く重楼を中心として周囲に回廊を巡らしたものという。本尊は塗金の仏像であったといわれ、重楼の上部はストゥーパ形式、初重はビマーナ的なものであった。

 3~4世紀ころから仏舎利信仰の盛行に伴い、重楼に仏舎利だけが祀られてストゥーパの性格が強まり、本尊には別に仏殿が建てられるようになった。4世紀末に北魏 (ほくぎ)の首都平城に建った寺院では、五重塔、耆闍崛山 (ぎしゃくっせん)、須弥山 (しゅみせん)を祀る仏寺のほか、講堂、禅堂、僧房を構えたことが『魏書 (ぎしょ)』にみえ、いわゆる仏教寺院の伽藍 (がらん)が整備されたことが知られる。

 一方、仏教石窟もインドから中央アジアを経て伝わり、4世紀には敦煌 (とんこう/トゥンホワン)の莫高窟 (ばっこうくつ)が始まり、5世紀になると平城郊外に雲崗 (うんこう)石窟や洛陽 (らくよう/ルオヤン)遷都による竜門石窟、このほか涼州の天梯山 (てんていざん)石窟、甘粛 (かんしゅく/カンスー)省天水 (てんすい/ティエンショイ)の麦積山 (ばくせきざん)石窟などもある。中国の石窟はインドと異なりビハーラ窟がなく、チャイティヤ窟も5世紀までのものしかない。その後も石窟は掘られたが、仏殿・仏像を彫刻するものが多い。6世紀には蘭州 (らんしゅう/ランチョウ)小積石山の炳霊寺 (へいれいじ)石窟、河南 (かなん/ホーナン)省の鞏県 (きょうけん)石窟、太原 (たいげん/タイユワン)の天竜山石窟、河北 (かほく/ホーペイ)省磁県の響堂山石窟なども開掘され、後代も続いて掘られたが、石窟前面に建つ木造楼閣の現存する遺構は少ない。

 完備した伽藍では516年、霊太后胡 (こ)氏(宣武 (せんぶ)帝后)が洛陽に建てた永寧寺が名高い。この伽藍には九重塔や、丈六の本尊を祀る仏殿があり、1000余間に及ぶ僧房や鐘楼・経楼の楼観があったという。周囲には回廊が巡り、四方に門が開かれていた。この寺院は20年も存続せず、534年に九重塔が焼失したときは、火が3か月も消えなかったという。仏殿は宮城の大極殿の外観に似ていたといわれ、主要な仏寺建築は宮廷建築を模倣したことが知られる。当時の建築としては6世紀前半の河南省登封 (とうほう/トンフォン)市の嵩岳寺塼塔 (すうがくじせんとう)が知られ、十二角十六重で総高40メートル余もある。

 隋 (ずい)代の建築では石造の山東 (さんとう/シャントン)省済南 (さいなん/チーナン)の神通寺四門塔が残る。唐代では8世紀初頭の西安 (せいあん/シーアン)慈恩寺大雁 (だいがん)塔が有名で、高さ64メートル、塼 (せん)造の四角七重塔である。対する西安薦福寺 (せんぷくじ)小雁塔は四角十三重塔であるが、高さは約40メートルである。唐代の木造建築には山西 (さんせい/シャンシー)省五台 (ごだい/ウータイ)県の南禅寺大殿(782建立)や仏光寺大殿(857建立)がある。

 唐代以降ではやはり塼造建築に残るものが多く、なかでも10世紀五代の杭州 (こうしゅう/ハンチョウ)の霊隠寺石塔や、南京 (ナンキン)の棲霞寺 (せいかじ)舎利塔は、石造ながら木造塔の構成をみせている。また10世紀末の宋 (そう)の上海 (シャンハイ)竜華塔や、蘇州 (そしゅう/スーチョウ)の羅漢院双塔も優品である。木造では984年の遼 (りょう)代の天津 (てんしん/ティエンチン)独楽寺山門と観音閣 (かんのんかく)が著名。とくに観音閣は内部に高さ16メートルの観音菩薩 (ぼさつ)の大塑像が立ち、中央を二重分吹抜けとする。

 遼代の建築では山西省大同 (だいどう/タートン)の1038年の下華厳寺 (しもけごんじ)薄伽教蔵殿が周囲に建築模型としての経棚を造り付けており、同じく大同の金代1140年改修の上華厳寺大雄殿とともに有名。中国では仏教建築中、仏塔の遺存がもっとも多く、福建 (ふっけん/フーチエン)省泉州 (せんしゅう/チュワンチョウ)の開元寺双塔は13世紀の南宋 (なんそう)のもので、明 (みん)初に再建された大雄宝殿と並んで伽藍の景観をいまに伝え、元代では上海の1320年建立の真如寺正殿が旧規をよく残している。

 明・清 (しん)代も盛んに仏教建築がつくられたが、とくに清代に至って諸民族融合の一環としてチベット仏教(ラマ教)寺院の建設が進められた。

[工藤圭章]

朝鮮

朝鮮半島への仏教伝来は、372年、高句麗 (こうくり)小獣王のときで、前秦 (ぜんしん)王苻堅 (ふけん)(世祖)が僧とともに仏像や経典を送っており、375年には省門寺や伊弗蘭寺が建立された。一方、百済 (くだら)では384年、枕流 (ちんりゅう)王のときに仏教が入り、翌年漢山に仏寺が建立された。新羅 (しらぎ)では伝来が遅れ、528年法興王によって公認されている。

 高句麗および百済の仏教建築は伽藍跡だけで、木造建築は残っていないが、石塔では益山弥勒寺 (みろくじ)と扶余 (ふよ/プヨ)定林寺の2基がある。高句麗の寺院跡では、平壌 (ピョンヤン)の清岩里 (せいがんり)廃寺(金剛寺)、大同郡上五里廃寺(定陵寺)が有名で、中央に八角塔を置きその三方に仏殿を配した伽藍形式が確認されている。百済では公州 (こうしゅう/コンジュ)と扶余に寺院跡があり、扶余の軍守里廃寺、東南里廃寺、金剛寺などで伽藍配置が知られている。中門・塔・仏殿・講堂が一列に並び、周囲に回廊を巡らす、日本でいう四天王寺式配置である。

 一方、新羅の寺院跡では、慶州 (けいしゅう/キョンジュ)の皇竜寺が著名である。この寺は553年に着工し、645年に九重の木造塔が完成したが、塔の後ろ両わきに小金堂を配した中金堂、さらにその後ろに講堂があり、中門から発する回廊が塔と三金堂を囲んで講堂につながる珍しい配置が確認されている。高句麗の塔を中心とする一塔三金堂配置に対し、塔と並列する一塔三金堂配置である。古新羅の他の寺院では百済と同じく、一塔一金堂を一列に並べた配置と推定されるがさだかではない。

 新羅の三国統一後、最初の寺院として679年に四天王寺の建立をみるが、この寺は金堂の前方左右に双塔を配する形式の二塔一金堂の配置である。この種の伽藍配置には、682年造営の感恩寺、684年の望徳寺から751年の仏国寺などがあり、盛行がうかがえる。当時の木造建築は現存しないが、石塔では感恩寺、高仙寺の三重塔や、仏国寺の多宝塔、浄恵寺十三重塔などが著名である。

 10世紀の高麗 (こうらい)時代に入ると、仏教建築は中国の宋様式が濃厚になる。現存最古の木造建築には、13世紀の鳳停寺 (ほうていじ)極楽殿があり、ついで浮石寺無量寿殿がある。15世紀以降の李朝 (りちょう)のものでは、修徳寺大雄殿、成仏寺極楽殿、開心寺大雄殿、高山寺大雄殿、浮石寺祖師堂などが著名。16世紀後半からの儒教の興隆に伴い仏教が衰退し、仏寺も平地を離れて山間に造営されるようになった。

[工藤圭章]

日本

日本への仏教伝来は6世紀中ごろで、当初は仏教に帰依 (きえ)した個人が住宅内にささやかに仏像を祀っただけであった。仏教建築として初めて名がみえるのは、585年(敏達天皇14)に蘇我馬子 (そがのうまこ)が仏舎利を祀るために建てた大野丘の北の塔であるが、これはおそらく心柱(刹柱 (さっちゅう))だけのものだったと推測される。完備した寺院としては592年(崇峻天皇5)に飛鳥寺 (あすかでら)(本元興寺 (もとがんごうじ))が建立されたが、朝鮮から6人の渡来僧とともに訪れた寺工、瓦 (が)工、鏤盤 (ろばん)師、画 (え)師などの手になると考えられる。それは塔を中心に三金堂を東西と北に配した様式で、高句麗の伽藍に似た配置である。

 飛鳥寺に次いで大寺として建設されたのは舒明 (じょめい)天皇による百済大寺 (くだらだいじ)である。この寺の伽藍配置は明らかでないが、おそらく百済系統の一塔一金堂の配置と思われ、この様式は四天王寺の伽藍にもみられる。飛鳥では飛鳥寺と並ぶ大寺として天智 (てんじ)天皇によって川原寺 (かわらでら)(弘福寺 (ぐふくじ))が建てられたが、この伽藍は飛鳥寺の東金堂が省略されたような一塔二金堂の配置であった。このような配置は観世音寺 (かんぜおんじ)、法隆寺、法起寺 (ほっきじ)の伽藍配置形式へと発展した。

 一方、飛鳥の四大寺の一つの大官大寺 (だいかんだいじ)は、塔が金堂と対称に配置されずに独立し、他の一つの薬師寺(本薬師寺)は新羅の寺院のような二塔一金堂の配置をとっている。塔を東西の片方に、あるいは両方に双塔として配置するのは、奈良時代に盛んに行われた。

 日本現存最古の仏教建築としては、法隆寺西院 (さいいん)伽藍の金堂、塔、中門、回廊があり、また法起寺三重塔もこれに属する。これらは飛鳥様式とよばれ、徳利 (とくり)柱や軒構造の雲斗栱 (くもときょう)、一軒 (ひとのき)などが後世にみられない特徴としてあげられる。飛鳥寺創立時に百済から工匠が来日しているので、当時百済で用いられた建築様式であろう。朝鮮には魏晋 (ぎしん)南北朝と中国の建築様式が伝わり、百済は宋、斉 (せい)、梁 (りょう)など南朝と修交し広く中国文化を摂取したため、中国南北の様式が混交して日本に伝えられ、法隆寺のような飛鳥様式が成立したと思われる。

 飛鳥時代も後半になると、遣隋使・遣唐使の派遣、僧の中国留学により隋・唐の建築様式が直接日本に移入され、いわゆる三手先 (みてさき)斗栱による堂塔が建設された。その前駆的なものが今日の薬師寺東塔にみられる三手先斗栱で、これが奈良時代以降も引き継がれて発展した。

 飛鳥寺以来、仏堂としての金堂・講堂に鐘楼・経蔵が付随し、僧房・食堂を含む建物と塔、いわゆる七堂伽藍が完備するのは平地でのみ可能で、奈良時代から盛んになる山岳修行の場では、単立の仏堂が営まれた。また本来、基壇上に礎石を据え、瓦葺 (かわらぶ)きであった仏堂も、床 (ゆか)張りで板葺き、檜皮 (ひわだ)葺きと変化していった。

 平安時代になって最澄・空海による天台・真言 (しんごん)の密教が開宗されると、多宝塔が建設されて新しい建築が出現した。また奈良時代後半にみられた仏堂前面に礼拝堂を並べたり、仏堂の前面庇 (ひさし)を広くとり礼堂とするなどの傾向がより強まった。そして12世紀になると、仏堂と礼堂を大きな屋根で一つに覆った奥行の深い建物、すなわち本来の仏堂部分を内陣、礼堂部分を外陣とするいわゆる本堂が出現する。

 また、平安時代の新しい仏教建築としては、法華堂 (ほっけどう)・常行堂 (じょうぎょうどう)が変化して、方形 (ほうけい)平面の宝形造 (ほうぎょうづくり)屋根をもつ阿弥陀堂 (あみだどう)がある。これは浄土教の広範な伝播 (でんぱ)によるもので、帰依者の財力により方五間堂、方三間堂など大小の規模で建ち、やがて他の薬師如来 (にょらい)や観音菩薩の祀堂へと転化した。平安後期には皇室や摂関家による造寺が盛んとなり、間口の広い九体阿弥陀堂や、さらに千体阿弥陀堂、千体観音堂までつくられた。現存する浄瑠璃寺 (じょうるりじ)(九体寺 (くたいじ))本堂や蓮華王院 (れんげおういん)(三十三間堂)本堂が好例である。一方、この時代には池や庭園を取り入れて平等院鳳凰堂 (びょうどういんほうおうどう)にみられるような外観の優美さを重視する建築意匠が好まれた。

 鎌倉時代になると、日本の仏教建築に宋様式が加わって多彩になる。1180年(治承4)の平家の南都焼討ちで興福寺、東大寺の両寺が焼亡したが、中国建築に造詣 (ぞうけい)の深い重源 (ちょうげん)が東大寺復興の大勧進 (かんじん)に任ぜられ、宋様式による再建を図った。ちなみに、この様式を大仏様とよぶが、大仏様は構造強化をねらったもので、のちに古来の建築様式であった和様にもこの利点が摂取され、新和様が成立した。また禅宗の移入により禅宗建築がつくられると、禅宗様が新たに加わり、やがて和様・大仏様・禅宗様が渾然 (こんぜん)と一体化して折衷様を生み出した。

 禅宗建築では仏堂やその付属建物は在来の仏教建築とはまったく異質で、七堂伽藍も三門、仏殿、法堂 (はっとう)、僧堂、庫院 (くいん)、西浄 (せいじょう)、浴室からなる。伽藍配置も独特で、新機軸を現出した。大陸の建築様式に倣って中心の仏堂の仏殿や法堂は土間床であり、四半敷 (しはんじき)とよばれる瓦敷で統一された。禅宗寺院では住持の隠退などにより塔頭 (たっちゅう)とよばれる子院が新設され、そこでは方丈が建てられ、新しい形式の仏堂が子院ごとに営まれた。方丈は住房を兼ねたので、建物の様式は板床張りで日本的な面が強かった。

 鎌倉時代には浄土宗、真宗、日蓮 (にちれん)宗など新宗派が興隆したが、その主要仏堂の本堂は宗派によって独自の平面形式がとられており、中世以降仏教建築は多彩になる。とくに近世になると建築装飾として彫刻が多用され、また、各部に極彩色が施されて華麗な仏堂が出現する。なかでも諸大名の霊廟 (れいびょう)では美を競い、建物も黒漆塗りとし金箔 (きんぱく)を押すなど、装飾化が著しい。

 明治以降も仏教建築は木造が主流を占めてきたが、やがて現れる鉄筋コンクリート造のものも、当初は木造仏教建築の造形を取り入れ、柱上には斗栱の形をみせており、屋根も軒裏に垂木 (たるき)形を表し、入母屋 (いりもや)や寄棟として瓦葺きとするものが多かった。第二次世界大戦によって焼失した仏教寺院の再建には、木材の巨材の入手が困難となったため、鉄筋コンクリート造のものが多く建てられるようになり、なかには鉄骨造のものも現れたが、これらの建築はもはや木造建築の造形によらず、新しい解釈で外観を洋風にしたり、内部も椅子 (いす)式とするなど仏教建築も多種多様となった。

[工藤圭章]



四天王寺[百科マルチメディア]
四天王寺[百科マルチメディア]

写真は中門。左右に回廊が続き、奥に五重塔と金堂が配置される。大阪府大阪市©大阪観光局(公益財団法人大阪観光コンベンション協会)


慈恩寺[百科マルチメディア]
慈恩寺[百科マルチメディア]

後方が大雁塔(だいがんとう)。唐代に玄奘(げんじょう)の発願によって5層で築造。現在の7層の塔はその後重修されたもので、高さ64mを有し、西安(せいあん)市の観光名所となっている©Shogakukan


アンコール・ワット[百科マルチメディア]
アンコール・ワット[百科マルチメディア]

塔堂と第3回廊。中央祠堂(しどう)を取り囲むように4基の塔堂が配置され、回廊で結ばれている。世界文化遺産「アンコール」の一部(カンボジア・1992年登録) カンボジア シェムリアップ近郊©Masashi Tanaka
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1. 仏教建築画像
日本大百科全書
きんぱくを押すなど、装飾化が著しい。 明治以降も仏教建築は木造が主流を占めてきたが、やがて現れる鉄筋コンクリート造のものも、当初は木造仏教建築の造形を取り入れ、
2. アンコール踏査行 218ページ
東洋文庫
カンボジアと近隣諸国とのあいだには、全中古期間にわたり不断の思想の交流があったことは本当らしい、と。 インド 仏教建築。 ブダガヤーベソガル州(五世紀一六世紀)
3. 石工
世界大百科事典
いし)の精巧な仕上げは専門の工人の存在を推測させることから,古墳時代には存在したと思われる。仏教建築では法隆寺金堂基壇などの例が,石工技術が重要な役割を果たした
4. いずもたいしゃ【出雲大社】島根県:簸川郡/大社町/杵築宮内村
日本歴史地名大系
強めつつあったことは、永正年間の尼子氏による大社造営を契機としてこれ以後大社境内に大日堂・三重塔・鐘楼などの仏教建築が建造されたこと(「懐橘談」、年月日未詳「杵
5. 階段画像
世界大百科事典
手すりをつけたものと,つけないものがある。石造の階段,すなわち石段は,飛鳥時代に基壇を備えた仏教建築の渡来とともにつくられ始め,切石製の踏段の両側面に三角形の低
6. かく‐とう[‥タフ]【角塔】
日本国語大辞典
〔名〕四角錐形の塔。特に、インドの仏教建築に見られる塔。*コサビネ艦隊の抜錨〔1930〕〈龍胆寺雄〉「印度風の角塔(カクタフ)、回教風の巨大な球葢(モスケ)と頂
7. 鐘(楽器)画像
日本大百科全書
最古の寺院建築である飛鳥あすか寺(元興寺がんごうじ)にも鐘楼があったと伝えられており、これらの鐘は仏教建築とともに古代社会に浸透していった。 日本の梵鐘の原形は
8. かわらぶき【瓦葺】
国史大辞典
仏教建築とともに大陸から伝えられたもので、寺院に多く使われたため、『延喜式』斎宮では寺の忌詞として瓦葺を用いている。曲率の少ない平瓦(女瓦)と半円筒形の丸瓦(
9. がよう‐し[グヮエウ‥]【瓦窯址】
日本国語大辞典
〔名〕瓦をつくるのに用いた窯(かま)の跡。瓦の製造は仏教建築とともに日本にはいり、登窯(のぼりがま)が多く、専用のものもつくられたが、地方では須恵器(すえき)と
10. きたやまてい【北山第】
国史大辞典
道をもって結び、その北に泉殿があり、相ともに庭園観賞の施設となし、その他護摩堂・懺法堂などの仏教建築があり、東北山上には看雪亭が造られた。楼閣四方に碁布星羅して
11. 基壇
世界大百科事典
を築いており,戦国時代には,台榭(だいしや)といって極めて高く築いたものが盛行した。日本には仏教建築とともに伝わり,粘土と砂を交互に少しずつ盛って突き固める方法
12. きりづまづくり【切妻造】
国史大辞典
奈良時代には真屋(まや)といい、古墳時代にはこれが上等の建物で、神社本殿はみなこれであるが、仏教建築の伝来以後は寄棟造や、入母屋造の方が上等な建物になった。両下
13. くみもの【組物】画像
国史大辞典
寺院建築や古代の宮殿建築に用いられ、神社や住宅には使われなかったが、時代が降るとともに、神社建築にも次第に仏教建築の様式が入り、近世では神社本殿にも用いられるよ
14. 荊楚歳時記 213ページ
東洋文庫
六朝末期を境として、台謝様式の建築は急激に衰えてしまうが、これは西域を介して中国に輸入された仏教建築の影響によるものである。すなわち健陀羅様式の塔婆より脱化した
15. けんちく【建築】
国史大辞典
屋根瓦の採用などあらゆる面で在来の構法とは異質の、かつ耐久性の高い技法であった。この新技法は仏教建築とともに伝えられ、大規模な仏堂・塔・門など大陸風の建築が出現
16. けんちく【建築】 : 古代
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17. けんちく【建築】 : 中世
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室町時代後半には、経済的な理由からであろうか、前期までに見られた活気ある意匠を持ったものはなくなり、仏教建築界は沈滞の色が濃い。しかし、地方的な特色が見られるよ
18. こうさんじ【耕三寺】広島県:豊田郡/瀬戸田町/瀬戸田町
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法界寺阿弥陀堂・法隆寺夢殿・石山寺多宝塔・室生寺五重塔・新薬師寺鐘楼など、各地各時代の代表的仏教建築を模しており、これらが一ヵ所に再現され、俗に「西の日光」と称
19. こだい【古代】画像
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20. 昆明
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キノコ、碁石が有名。青木千枝子河野通博編集部2018年1月19日文化・観光市街には、南詔国時代の仏教建築である東寺塔と西寺塔、円通寺、清末の雲南陸軍講武堂などの
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すべて多少とも廃滅の形にあるが、吾人は眼前クッチャに於て、かの希臘仏教美術の昌えた西北印度の仏教建築の名残を如実に認めることが出来る」といふのである。その一つの
23. ざいりょうとこうぞう【材料と構造】 : 建築
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屋根瓦の採用などあらゆる面で在来の構法とは異質の、かつ耐久性の高い技法であった。この新技法は仏教建築とともに伝えられ、大規模な仏堂・塔・門など大陸風の建築が出現
24. 子不語 5 111ページ
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 (3)蓮花宮 未詳。おそらく廬山もしくはその周辺にあった仏教建築物であろう。 (4)「昊天のごとく極まりない」原文は「昊天罔極」。《詩経・小雅・蓼〓》に「父兮
25. 社寺建築構造画像
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にしか見られない。材料は土または木で,神社建築は本来板壁であったが,後には仏教建築の影響で土壁も用いられ,また仏教建築にも板壁がとり入れられた。禅宗様,大仏様で
26. しゅうきょうけんちく【宗教建築】 : 建築
国史大辞典
仏が盛んになったこと、特に工芸美術を結集した阿弥陀堂が多数建てられたことも、平安時代における仏教建築の変質を物語るものである。平重衡の南都焼打(治承四年(一一八
27. シュンガ朝
日本大百科全書
仏教側の伝説によれば、彼は仏教徒を迫害したというが、その領土では、バールフトの遺跡にみられるように仏教建築が盛んであった。だが、当時、南には新しい勢力が興り、西
28. 神殿画像
日本大百科全書
大社たいしゃ造、流ながれ造、権現ごんげん造などがあり、時代とともに変化するが、平安時代以後は仏教建築の影響を受けている。藤田富雄
29. シンメトリー
世界大百科事典
格な対称性は,生者の世界と死者の世界とを等置する二元的世界観と不可分のものであるし,インドの仏教建築におけるストゥーパを中心に展開する中心型シンメトリーの配置は
30. 寺院建築画像
世界大百科事典
呼ばれる中国独自の仏教建築の類型の基型をあたえたが,初期における機能はむしろ仏殿に近いものであった。南北朝時代にはいり,仏教が社会的に普及するようになると,数多
31. 住宅画像
日本大百科全書
もっていたが、日本において本格的に建築がつくられるようになったのは、朝鮮半島を経て中国大陸から仏教建築や宮殿建築が伝わってからのことと考えるべきであろう。平井 
32. 神社建築画像
日本大百科全書
これらのうち、もっとも古い形式を伝えると考えられるのは、神明造、大社造、住吉造で、飛鳥あすか時代に仏教建築が輸入される以前にその形式の基本的特徴がつくりだされた
33. 神社建築画像
世界大百科事典
具合であった。 この事実は神社建築の源流が仏教建築渡来以前の構造に依拠することを示すと同時に,多くの本殿形式の成立が実はそれほど古くはなく,仏教建築の隆盛後,そ
34. じんじゃけんちく【神社建築】
国史大辞典
埴輪との近似を示している。したがって神社建築の諸特徴は仏教建築渡来以前の成立を指示しているのであるが、実際はそうではなく、むしろ仏教建築の隆盛が神社建築成立の背
35. スコータイ朝
世界大百科事典
されることとなった。石井 米雄 美術 この王朝の美術は仏教美術であり,その仏教美術,さらには仏教建築は,以降のタイ美術・建築の模範となる基礎として確立された。し
36. スリランカ美術
世界大百科事典
,王宮などの世俗建築もある。大多数を占める仏教建築は,現代に至るまで仏教が信仰の主流であることから,繰り返し修復をうけているものも少なくない。仏教建築で最も顕著
37. 世界遺産条約【2019】[地球環境【2019】]
現代用語の基礎知識
まった。日本からはこれまで屋久島、白神山地、知床、小笠原諸島の4件の自然遺産 と法隆寺地域の仏教建築物、古都京都の文化財、厳島神社、富岡製糸場など17件の文化遺
38. 塼画像
日本大百科全書
もっとも一般的なものは条塼で、前漢末から城壁・家屋・墓室の構築に用いられた。日本へは朝鮮から導入され、仏教建築の建立に伴い、基壇側面の化粧積みや床面に瓦かわらと
39. 礎石
日本大百科全書
、建物の重量を地面に伝える石材で、柱や土台が直接地面に触れて腐食劣化するのを防ぐ。飛鳥時代に仏教建築とともに移入された技術とされる。礎石を用いることで建物の耐用
40. ソーパー(Soper, Alexander Coburn)
世界人名大辞典
トン大学で修士号取得[1929].来日し[同-30,38-39],日本の建築史を研究,《日本仏教建築の展開:The evolution of Buddhist
41. タミル
日本大百科全書
盛んであり、その他多くの宗教との混交も認められる。古来、インドのタミルは、芸術、音楽、文学、仏教建築などで独自の様式をつくりあげ、南アジア全体の文化や社会に多く
42. ちゅうせい【中世】
国史大辞典
室町時代後半には、経済的な理由からであろうか、前期までに見られた活気ある意匠を持ったものはなくなり、仏教建築界は沈滞の色が濃い。しかし、地方的な特色が見られるよ
43. 増補新版 朝鮮史 49ページ
文庫クセジュ
 新羅時代の仏教建築の最も代表的なものは文句なしに、仏国寺である。この寺院は八世紀後半新羅の都を守護する目的で建てられたものである。  この時代に作られた多くの
44. 朝鮮半島を見る基礎知識 34ページ
文庫クセジュ
 この時代の仏教建築として最も重要なものは、慶州にある(石窟庵に隣接している)仏国寺である。入り口は、高い石垣の上から並行して延びている石造の二つの階段で出来て
45. 朝鮮美術
世界大百科事典
華文瓦は日本との関連を示し,日本の初期仏教建築に与えた影響を認めることができる。 高句麗 高句麗は後1世紀ころ,鴨緑江中流の通溝に拠を構え
46. 束(建築)画像
日本大百科全書
日本では屋根には初め合掌あるいは扠首さすとよばれる斜材が使われ、束は用いられなかった。中国大陸から伝えられた仏教建築でも、束を使わない二重虹梁蟇股こうりょうかえ
47. 庭訓往来 235ページ
東洋文庫
とする。多宝如来を安置する塔。基壇のうえに高い覆鉢型の塔身をつくり、上に屋根・相輪をつける。仏教建築として、木や石、または金工でも造った。さらに宝塔型の舎利塔も
48. 天井画像
世界大百科事典
られている。深尾 精一 日本 仏教建築伝来以前の日本の建築の姿を伝える伊勢神宮には天井がなく,また住宅でも天井が張られるようになるのは平安時代中期以後で,仏教建
49. でんとうてきぶんかのてんかい【伝統的文化の展開】 : 白鳳文化
国史大辞典
るようである。たとえば伊勢神宮の建築様式はこの時期に完成したと考えられるが、そこには明らかに仏教建築の規模・装飾の類がとり入れられている。 →古代(こだい),→
50. 塔画像
世界大百科事典
供奉する仏殿と仏舎利を安置する高塔の機能分離が行われ,後者の建築類型として定着したのが,中国独自の仏教建築形式としての塔であるといえよう。 中国における塔の形式
「仏教建築」の情報だけではなく、「仏教建築」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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仏陀と称せられる歴史的人物ゴータマの創始した宗教。〔開祖ゴータマの生涯〕仏教の開祖は姓をゴータマGotama(瞿曇(くどん))、個人名をシッダッタSiddhatthaという。前四六三年ごろ(他の学説によるとそれよりも約一世紀以前)に釈迦(パーリPāli語でŚākiya、サンスクリットSanskrit語でSākya)
往生要集(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
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宝物集(日本大百科全書・世界大百科事典)
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正法眼蔵随聞記(国史大辞典・日本古典文学全集・日本大百科全書・世界大百科事典)
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元亨釈書(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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