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神社建築

ジャパンナレッジで閲覧できる『神社建築』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

神社建築
じんじゃけんちく

神社の社殿およびその付属建築。古代人は、神霊のよる神聖な場所を神籬 (ひもろぎ)として崇 (あが)め、また祖先の霊を祀 (まつ)るために、伝来の宝物を御霊代 (みたましろ)として崇めた。したがって、神籬のある場所、御霊代を祀る場所が、その神の社地として定着してゆくが、前者の場合は神籬そのものが神の依代 (よりしろ)であるから、本殿はつくられない(奈良・石上 (いそのかみ)神宮や同大神 (おおみわ)神社、長野・諏訪 (すわ)大社、埼玉・金鑽 (かなさな)神社など)。一方、御霊代を祀る際には、それを奉納する建物が必要であり、高床の倉が神社の本殿へと発展したものと思われる。伊勢 (いせ)皇大神宮外宮 (げくう)の御饌殿 (みけでん)は、横板を井籠 (せいろう)組みにした板倉の形式をいまもとどめ、古式を伝えている。

[工藤圭章]

本殿の形式

これには種々の形式があるが、大別して、棟と直角方向に扉口のある平入 (ひらいり)と、棟と同方向に扉口のある妻入 (つまいり)に分けることができ、平入には神明造 (しんめいづくり)、流 (ながれ)造、八幡 (はちまん)造、日吉 (ひえ)造、妻入には大社 (たいしゃ)造、住吉 (すみよし)造、大鳥 (おおとり)造、春日 (かすが)造がある。本殿の屋根はすべて切妻造であるが、流造や春日造では正面に庇 (ひさし)がつく。

 これらのうち、もっとも古い形式を伝えると考えられるのは、神明造、大社造、住吉造で、飛鳥 (あすか)時代に仏教建築が輸入される以前にその形式の基本的特徴がつくりだされたと思われる。

[工藤圭章]

神明造

伊勢皇大神宮正殿は桁行 (けたゆき)(棟の方向)3間、梁間 (はりま)(棟に直交する方向)2間、高床で、柱を円柱の掘立て柱とする。屋根は直線的な垂木 (たるき)で、反りがなく、茅 (かや)で葺 (ふ)く。妻の破風 (はふ)は交差して棟上では千木 (ちぎ)となり、その間に堅魚木 (かつおぎ)が飾られ、破風上部には鞭掛 (むちかけ)が4本ずつつく。中央床下には心御柱 (しんのみはしら)、両妻中央の柱は棟持 (むなもち)柱として独立して立つ。このような外観をもつものを神明造といい、長野・仁科 (にしな)神明宮は現存神明造本殿の最古の遺構だが、屋根は檜皮葺 (ひわだぶ)きである。なお、伊勢皇大神宮の正殿は、とくに他と区別して唯一 (ゆいつ)神明造ともよばれる。

[工藤圭章]

流造

京都・賀茂別雷 (かもわけいかずち)神社(上賀茂 (かみかも)社)、賀茂御祖 (みおや)神社(下鴨 (しもかも)社)本殿・権殿 (ごんでん)にみられる。賀茂社の本殿は桁行3間、梁間3間で、桁行前寄り1間分が庇になる。庇は吹放しで後寄り2間の母屋 (おもや)柱は円柱になるが、庇柱は角柱。庇が吹放しにならず、前室風につくられるものもある。流造は桁行柱間数により一間社、二間社、三間社、五間社に分類され、賀茂社の場合は三間社流造という。広島・厳島 (いつくしま)神社本殿のように前後に庇があるものを両流造という。

[工藤圭章]

八幡造

前後に切妻造の建物が並ぶ形式で、代表的遺構に大分・宇佐神宮本殿、京都・石清水八幡宮 (いわしみずはちまんぐう)本殿・外殿がある。前方の外院は桁行3間、梁間1間で、後方の内院は桁行3間、梁間2間となり、両院の軒先は接するので排水用の雨樋 (あまどい)がつき、中間は造合の間 (ま)になっている。

[工藤圭章]

日吉造

聖帝 (しょうてい)造ともいわれ、滋賀・日吉大社東本宮・西本宮・宇佐宮の各本殿にみられる。いずれも桁行5間、梁間3間、入母屋 (いりもや)造で、正面および両側面に庇がつく。したがって、庇が前室になる三間社流造の、側面にも庇が設けられたような形になる。だが、庇柱は流造のように角柱とならず、すべて円柱である。

[工藤圭章]

大社造

島根県の出雲 (いずも)大社本殿や神魂 (かもす)神社本殿にみられるような、桁行2間、梁間2間、切妻造妻入の本殿の形式で、殿内中央には太い心御柱が立ち、正背面妻中央の棟持柱の名残 (なごり)をとどめる宇頭 (うず)柱も太くつくられ、正面扉口前の木階上には霧除 (よ)けの屋根がかけられる。出雲大社と神魂神社とでは殿内の仕切りが左右逆になり、神座の向きも異なっている。この形式は島根県下に数多く、扉口が逆になる佐太神社本殿や、2棟の大社造を横に並べて接続したような美保神社本殿など変型のものもある。

[工藤圭章]

住吉造

大阪・住吉大社本殿にみられる形式で、桁行4間、梁間正面1間、背面2間の切妻造妻入で、殿内は内陣・外陣の2室に分かれる。このような2室をもつ本殿の平面形式は、天皇の践祚 (せんそ)の際に設けられる大嘗祭 (だいじょうさい)の正殿 (しょうでん)とよく似ている。福岡・住吉神社本殿では内陣がさらに2室に分かれている。

[工藤圭章]

大鳥造

外観は大社造に似ているが、正面を1間とし中央に扉口を開き、内部も心御柱がなく、住吉造のように内陣・外陣の2室に分かれる。大阪・大鳥神社本殿が代表例である。

[工藤圭章]

春日造

奈良の春日大社本社本殿や若宮神社本殿に代表される本殿形式。桁行1間、梁間1間、切妻造妻入の建物の前面に庇がつき、本格的なものは縁が正面にだけつく。前面に庇があるため、正面は入母屋造風にみえるが、実際に前面両端に隅木 (すみぎ)を入れて入母屋造とする隅木入春日造もある。この種の前面隅木入で、母屋の奥行が2間以上あり、殿内が内陣・外陣に分かれる熊野本宮大社本殿のような形式を、熊野造または王子造ともいう。

 以上のほか、入母屋造の屋根の本殿も多い。これらの本殿にも平入、妻入の両者があり、なかには前後に入母屋造の屋根を並べた、岡山・吉備津 (きびつ)神社本殿のような例もある。

 これらの社殿のなかには、一定期間たつと造り替える制度があり、これを式年造替 (ぞうたい)(遷宮)という。住吉大社は20年、北野神社は50年、出雲大社は60年の式年造替であったが、中世以降しだいに廃れ、現在は伊勢皇大神宮のみ20年ごとに行われている。

[工藤圭章]

付属建築

神社建築のなかでは、本殿に次いで拝殿、幣殿 (へいでん)の数が多い。拝殿のなかで、中央部が通路となるものを割 (わり)拝殿といい、大阪・桜井神社のものが有名である。また熊野神社関係では長床 (ながとこ)があり、福島・熊野神社のものが古例としてあげられる。近世に入ると、本殿・拝殿、あるいは本殿・幣殿・拝殿を接続した複合社殿が多くつくられているが、このうちでは各地の東照宮に多くみられる権現 (ごんげん)造が著名である。古式を伝えるものに京都・北野天満宮があり、本殿と拝殿の間は床が低い石の間になる。

 古い時期の神社の付属建築は、伊勢神宮にみるように、本殿の周囲を囲む玉垣、入口のシンボルである鳥居と、神宝を納める倉がおもなものであった。しかし、しだいに拝殿・幣殿のほか、社頭の景観を整えるためのものが加わるようになる。これには回廊、御供所 (ごくしょ)、神饌 (しんせん)所、祝詞 (のりと)舎、舞殿、神楽 (かぐら)殿、直会 (なおらい)殿、手水屋 (ちょうずや)などがある。

[工藤圭章]



神明造[百科マルチメディア]
神明造[百科マルチメディア]

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流造[百科マルチメディア]
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八幡造[百科マルチメディア]
八幡造[百科マルチメディア]

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世界大百科事典

神社建築
じんじゃけんちく

神社建築の起源

神社の中心施設である本殿はさまざまの形式に分類されるが,ほぼ全体に共通する特色として,屋根を寄棟造にしないこと,瓦や土壁を用いないこと,床を高く張ること,の3点が挙げられる。もちろん例外もあるが,多くの神社でこの原則は古代から近世までよく守られてきたといえよう。そしてこの特色はいずれも寺院建築のそれと鋭く対立する内容で,一見して神社と識別される建築上の標識が,たとえば鳥居の存在などによるだけでなく,本殿の形式においてもよく維持されてきたことを示している。すなわち寺院の主要な建築が寄棟造あるいは入母屋造につくるのに対して神社は原則として切妻造であり,寺院の瓦葺き(かわらぶき),土壁に対するに神社は植物性の屋根材料と板壁を用い,古代の寺院建築が土間床であったのに対して神社本殿は必ず高い板敷きの床にするという具合であった。

 この事実は神社建築の源流が仏教建築渡来以前の構造に依拠することを示すと同時に,多くの本殿形式の成立が実はそれほど古くはなく,仏教建築の隆盛後,その存在を強く意識した結果生まれた可能性をも示唆することになるであろう。仏教渡来以前の建築を示す図が土器,銅鐸,埴輪,鏡などにあって,そのなかには切妻造,高床の,神社の祖形を思わせるものがいくつかある。しかしそれらの図の存在がただちに神社建築の発生を物語っているわけではない。日本の農耕にかかわる信仰は古い歴史をもつが,信仰の対象を物的に明示する方法は,長い間自然の一部をそのまま神聖視する素朴な段階にとどまっており,それが建築という形態をとるのはかなりのちのことと考えられる。奈良県の大神(おおみわ)神社,埼玉県の金鑽(かなさな)神社などが現在でもそうであるように,祭神をまつるべき本殿がなく背後の山を神体としたものがあり,また社すなわち杜(もり)が神域を示すという理解は古代以来きわめて普遍的であった。人工的な工作物をもって神の宿るところとしたもっとも単純なものは,一本の独立した柱を地上に立てることであって,この場合一本の柱はそのまま杜の象徴にほかならない。古代の人々は地域社会のなかの一定の祭場に,春あるいは秋の一定の日に集まって,農耕を支配する自然の力に祈りあるいは感謝する気持ちをこめて祭りをくり返したのであろうが,その過程で,おのずから祭りの中心にあるべき神が山,杜,柱などの形で姿を現すようになったと解すべきであろう。したがってやがて神の象徴が建築の形をとるようになるとしても,最初はきわめて素朴なものであった可能性が強い。

 現存する本殿形式のうち,最初に姿を現した建築を示唆するのは,流(ながれ)造系ならびに春日造系の社殿である。現在,国宝あるいは重要文化財に指定されている本殿を分類すると,流造に属するものが総数の55%を超え,春日造がそれに次ぐ(表)。春日大社本殿に代表される春日造は春日大社を中心とする近畿地方の一部にのみ限られ,また春日造を改良したいわゆる隅木入り春日造は,熊野信仰の浸透したやや広い範囲に分布する。しかし流造はこのような特定の神社や信仰と結びついている痕跡がなく,その分布は全国的に行きわたっている。流造は平入り,春日造は妻入りであるが,両者に共通する特色は,正面側面ともに1間しかないいわゆる一間社と称する極小のものが多いこと。柱を掘立柱とせずに土台を組んだ上に立てることである。柱下に土台をもつのは,その建築を移動させることを前提とした構法であるから,規模の小ささを併せ考えるならば,祭りのとき祭場の中心にこの可動の小神殿を置くというのが,神社における建築の発生の姿だったのではないかと推定することができる。すなわち一つの杜,一本の柱のなかに神を見いだしたのと同じ観念と感覚とに支えられて,極小の神殿をもって神の宿るところの象徴としたのであったろう。

伊勢神宮の創立

神社建築がそのような原初的形態から出発したとするならば,それがのちに寺院建築と並ぶ記念的建築として完成するためには大きな転機が必要であった。それはおそらく伊勢神宮の整備と関係があろう。伊勢神宮は他の多くの地域的,土着的な神社と異なって特別な起源説話をもち,また7世紀にはとくに皇室の祖神をまつる神社として特別な扱いを受けるようになっていた。古代の伊勢神宮の建築については,同時代の史料にもとづく福山敏男の復原的研究がある。それによると,神域の中心的施設である大宮院は四重の垣をもち,もっとも内側の瑞垣(みずがき)のなかに正殿と東宝殿,西宝殿があった。正殿は正面3間,側面2間,掘立柱,板壁,切妻造,茅葺きで,四周にめぐらした高欄つきの縁,破風を延長してつくった千木(ちぎ),棟上に置く堅魚木(かつおぎ),両妻に壁から独立して立つ棟持柱(むなもちばしら)などをもち,総じて今日の正殿の姿と大差ないこの形式を一般に神明(しんめい)造という。一方,現在の二つの宝殿は正殿を小規模にし簡略化した形であるが,中世以前の形式はこれと異なり,板倉の構法によってつくられていた。すなわち現状のように柱が梁や桁を受けるのではなく,柱は床の高さまででその上に床をつくり,床桁の上に板を組み合わせて壁をつくる形式であった。いま内宮,外宮を通じて,この板倉形式を残すのは外宮御饌殿(みけでん)だけであるが,中世以前においては宝殿のほか幣殿,御倉,別宮正殿など,つまり内宮・外宮正殿に次ぐ主要社殿の多くが板倉であった可能性が大きい。この板倉形式の社殿こそ内宮・外宮正殿の形式が生まれる前の姿を示すものであり,かつそれが前述した土器や銅鐸などに描かれた高床の建物とつながることになる。千木,堅魚木,棟持柱などの部材は,神社以前の原始的な高床建物においては,それぞれ構造上の必要から生まれた部分であったであろう。しかし伊勢神宮が成立したころにはすでに本来の構法上の理由は見失われ,かわって形式化と象徴化が進行していた。たとえば,古代の神宮においては千木,堅魚木をもつ建築は厳重に限定されており,それは神の専有する建築にしか許されていなかった。すなわち,祖形のもつ構造上の部材に,信仰上の意味が付加されることによって,高床建物は神社本殿として再生したのである。

 伊勢において見逃すことのできない制度に式年遷宮がある。平安時代に撰述された神宮の史料によると,朱鳥3年(持統2・688)に20年に一度遷宮を実施する制度をつくり,このとき殿舎,垣などを整備したという。そして内宮は690年,外宮は692年の遷宮を第1回とし,その後中絶や年数の乱れはあったが,この制度は今日まで存続し,1973年に第60回の式年遷宮を実施した。式年遷宮は大宮院をはじめとする主要殿舎をすべて建て替え,神宝もすべてを新しくし,遷宮の年の神嘗祭(かんなめさい)の日に旧殿から新殿に遷(うつ)る儀式をいう。主要殿舎は二つの同形同大の敷地が隣り合って用意されており,一方から他方に交互に遷る。この儀礼は大規模な神嘗祭であって,20年ごとに神が新しく蘇るのを制度化したものとみなすことができる。これによって神の蘇生を建築の更新によって表現する方法が確立し,同時に古い社殿形式を形式として保存する方法も完成したのである。この伊勢神宮の7,8世紀における発展が他の神社の制度や運営に大きな影響を与えたのであって,いくつかの本殿形式の成立もまた,神宮正殿の影響を考えずには理解できないのである。
→式年造替

神社本殿の諸形式

先に掲げた分類表が示すように,流造,春日造を除く本殿形式として大社造,住吉造,八幡造,日吉造などがあるが,これらの数はきわめて少ない。これらの形式はある特定の神社に固有の形式であって,同じ祭神が他の場所に勧請されたときにその本殿形式が再現される場合を除くと,一般に形式の伝播という現象はなかったと考えてよいであろう。この点で流造系の本殿と基本的に性格を異にしており,しかもこれらの固有の形式は造替のときも基本が見失われることなく,古式が尊重され維持されるのを特色とした。

大社造

神社の起源に触れる説話や史料は一般にきわめて少ないが,出雲大社は詳しい創立譚をもつ珍しい例である。それによると,この本殿は〈天皇の御殿(みあらか)〉のようにつくられたといい,これの高大さを暗示する表現が多い。この本殿が異常に高い建築であったことは平安時代の記録や社家の伝えにも記されており,福山敏男はこれら史料にもとづいて高さ16丈(約48.5m)の本殿を復原した。現在の本殿は1744年(延享1)造営のもので,高さはその半分にすぎないが,平面や構造の基本は古式をとどめている。すなわち9本の柱からなる平面を維持し,その中央の柱を他より太くしてこれを神秘の柱とし,両妻中央の柱を少し壁より外にずらして棟持柱とするなどの点である。この形式を大社造といい,島根県にのみ分布する特異な形式である。大社造の古い遺構として1583年(天正11)の同県神魂(かもす)神社本殿がある。

住吉造

大阪の住吉大社本殿の形式を住吉造という。1810年に造替された今の本殿は古い形式をおおむね伝え,奥行4間,間口(背面)2間,妻入りで,内部を2室に分ける。前後2室の妻入り神殿という平面は,大嘗祭のときにつくられる大嘗宮正殿と酷似しており,この本殿形式は古い時代の宮廷内の建築をもっともよく伝えるものであろう。床高が比較的低く,周囲に縁がないことも注目すべきで,伊勢神宮正殿の前身として高床の倉が想定されるのに対して,住吉の本殿はこれとは異なった源流を示唆するもののようである。なお住吉大社は関東の香取・鹿島両社とともに20年ごとにすべての社殿を造替する慣行をもっていたが,812年(弘仁3)以来,本殿だけの造替に改めたという。したがって当社の式年遷宮は奈良時代には実施されていたと考えてよいであろう。

春日造

奈良の春日大社は御蓋山(みかさやま)を神体山とする古い祭祀形態をとどめており,その西麓の祭場に他から勧請した神々をまつって,8世紀中ごろには春日大社として成立していた。春日造の本殿の特色は前述のとおりであるが,屋根,破風,千木の曲線や,彩色の調子などからみて,平安時代に完成した形式であることをうかがわせる。この形式が発展して,母屋(もや)の屋根に隅木を入れこれに庇(ひさし)を取り付けた形式を隅木入り春日造という。これは熊野神社系の本殿に多く用いられている。

流造

京都の鴨川の流れに沿って鎮座する賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂)と賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨)は,平安遷都後,王城鎮護の神として崇敬を集めたが,歴史に登場するのは7世紀末からである。両社の本殿形式,規模はほとんど同じで,切妻造平入りの前方の屋根をそのまま延長して庇とする。神殿の源流としての流造のもつ構法上の基本を残しつつ,大規模かつ整備された姿でこの両社本殿が完成しているのは,平安時代に両社が伊勢に次ぐ尊敬を集めたことによる発展と考えてよいであろう。両社本殿の母屋が正面3間,側面2間という規模をもち,かつ正面中央のみを板扉とし他を板壁とするのは,おそらく伊勢の正殿から直接影響を受けたものである。そして,一般にこの両社本殿が流造の典型とみなされてきた。

八幡造

住吉造と並ぶ二室神殿として宇佐神宮本殿を代表とする八幡造がある。外観を見ると2棟の切妻造平入りの建物が前後に接続した形であるが,両殿の中間を相の間として建物のなかに取りこみ,相の間を前殿と一体として扱うので内部は連続する2室となる。平安初期に宇佐八幡を勧請して創立した京都の石清水(いわしみず)八幡宮も同じ形式であるが,相の間の床が低く張ってある点がかえって宇佐よりも古風であって,古くはこの部分が土間であった。この前殿と後殿はともに神の空間とみなしてよく,両者に神座が設けられている。八幡造は寺院建築における双堂(ならびどう),すなわち桁行長さの等しい正堂と礼堂(らいどう)とを前後に並立する形式に範をとって創始されたとされているが,これについてはなお考えるべき余地が多い。宇佐神宮は8世紀初期にはすでに朝廷の厚い崇敬を受けていた。そしてこの本殿の後殿も3間に2間の規模をもち,伊勢の正殿との類似性が指摘できる。

日吉造

伊勢の正殿との類似という点では,もう一つ日吉(ひえ)造を挙げなくてはならない。その平面は,正面3間,側面2間の母屋(内陣)の3方に庇を付加して外陣とした形式である。外形はこの平面をそのまま立体化した形式であって,正面から見ると入母屋造のようであるが背面では軒を途中で切り落としたような姿をもつ。これを日吉造といい,滋賀県の日吉大社にのみ固有の形式である。

その他の本殿形式

以上のほか,本殿の前に礼堂を付加してあたかも仏堂のような形態とする京都の八坂神社本殿の八坂造,本殿,石の間,拝殿を連結した京都北野天満宮の権現造(八棟(やつむね)造ともいう),母屋の前後に庇をもつ厳島神社本殿の両流造などがある。これらはいずれも平安時代には完成していた形式であるが,両流造については福岡県の宗像神社や福井県の気比神宮などの古社も採用しているので,さらに古い時代にさかのぼる可能性がある。また権現造は北野天満宮がそうであるように,実在した人物の霊をまつる社殿の形式として,豊臣秀吉の豊国廟以後,東照宮など近世の遺構が多い。また中世以後は,流造,春日造の基本形を横に連結した山口県の住吉神社本殿(1370),大阪府の建水分(たけみくまり)神社本殿(1334)など,平面との対応がなくても屋根を入母屋造とした滋賀県の御上神社本殿(鎌倉時代),大阪府の多治速比売(たじはやひめ)神社本殿(1541)など,また特異な複合形式をもつ岡山県の吉備津神社本殿(1425)など,さまざまの意匠をもつ社殿が生まれた。

本殿以外の施設

伊勢神宮がそうであるように,大規模な神社は神に供する御饌(みけ)を調進するためのさまざまの施設,たとえば贄殿(にえどの),酒殿,竈殿,盛殿などを備えていた。また神宝,祭器などを納める庫,斎戒や参籠のための建物,社務執行に用いる建物などがあり,内宮だけで70棟を超える建築群で構成されていた。しかし人が神を礼拝し,幣帛(へいはく)を捧げるなど祭りのために用いる建物は比較的のちに現れるのであって,伊勢では現在でも祭典は野天で行われる。古代の伊勢神宮に幣殿があるが,これは幣帛を収蔵する施設であり,後世他社に見られるような奉幣のための建物ではなかった。春日大社や賀茂両社のように平安時代に盛大な祭りが行われ,貴族の参詣の多かった神社では,社頭に祭使たちの席となる建物や直会殿(なおらいどの)などが設けられた。平安時代にはさらに楼門,回廊が石清水八幡宮,賀茂両社,春日大社などに見られ,これらは単に神域を区切るだけでなく,とくに回廊は祭典執行の際の神官たちの着座の場所となり,神殿前で行われる奉幣や舞楽を見る場所ともなった。また同じころ神殿前に幣殿,舞殿がようやく出現する。楼門,回廊を備えるにいたらない小規模な神社では本殿の前に拝殿を建て,これを祭典執行上さまざまの用にあてたと考えられる。拝殿には,平入りとして着座の向きが神殿と対座するようにした京都府の宇治上神社拝殿など,妻入りにして左右の座が向かい合うようにした愛知県の津島神社拝殿などがあり,また横長の拝殿の中央部分を土間として通り抜けられるようにしたものもある。この最後の形式は楼門,回廊が一体化して生まれたと考えることができ,奈良県の石上(いそのかみ)神宮摂社出雲建雄(たけお)神社拝殿(1300改築)などに見られる。
→社寺建築構造
[稲垣 栄三]

[索引語]
寄棟造 寺院建築 入母屋造 切妻造 大神(おおみわ)神社 金鑽(かなさな)神社 柱 春日大社 春日造 隅木入り春日造 一間社 伊勢神宮 千木 堅魚木 神明(しんめい)造 板倉 高床建物 式年遷宮 大社造 出雲大社 神魂(かもす)神社 住吉造 住吉大社 大嘗宮 春日造 流造 賀茂別雷(かもわけいかずち)神社 賀茂御祖(かもみおや)神社 八幡造 宇佐神宮 相の間 石清水(いわしみず)八幡宮 双堂 日吉造 日吉大社 八坂造 拝殿 権現造 八棟(やつむね)造 両流造 権現造 建水分(たけみくまり)神社 幣殿 回廊


図1~図2
神社建築 図1~図2



国史大辞典

神社建築
じんじゃけんちく
祭神をまつる本殿、礼拝や奉幣の施設として造られた拝殿・幣殿など、神に供する神饌を準備する諸殿舎、神宝などを収める倉ならびに鳥居、玉垣など、神社境域の内外にある建物を総称していう。

〔本殿の成立〕

日本における神の信仰が固有の建築様式を成立させる以前に、長い前史があったと考えるべきであろう。それは農耕の発生とともに自然の恩恵に対する尊敬の表明として始まった。主として雨ないし水を支配すると考えられた至上の力に対して敬意と感謝を捧げるために、毎年一定の時期に、集落のなかの特定の地域に集って祭を行うという慣行が、のちに神社建築を生む基本的な動機だったであろう。今でも礼拝の対象となるべき本殿をもたない神社として、大神(おおみわ)神社(奈良県)、金鑽(かなさな)神社(埼玉県)、諏訪大社上社本宮(長野県)などがある。これらは隣接する山や神地を崇拝の対象としているのであって、現在は社殿をもつが古くは同様に社殿のない神社であったと考えられる例は他にも少なくない。一定の土地での祭が最も素朴な信仰の表明であったとすれば、最初に必要な施設は祭場を囲む瑞垣(みずがき)であり、入口としての鳥居であったと考えられる。やがて神そのものの象徴が必要とされるが、それも直ちに建築の形態をもって現われたのではなく、古くは山・森・石・神木などが神の体現するものとして扱われた。こうして祭の繰返しのなかから次第に、その土地に固有の神が出現し、やがて神話のなかの神と結びついて、土地の神、部族の祖先神が人格化していく。建築化された神社の発生はおそらく人格神の登場と関係があるであろう。神社の中心施設としての本殿は、祭の時に地上に降臨する神が臨時に居るところあるいは神の常住するところとして造られる。古い本殿の諸形式に共通する特色は、屋根を切妻造とし、床を高く張り、瓦や土壁を用いないことである。そしてこれらの特徴は、仏教建築の影響を受ける前の建築的伝統を反映しているとみてよく、細部についてもたとえば伊勢神宮正殿の棟持柱(むなもちばしら)や、破風(はふ)が延長して千木(ちぎ)となることなども、弥生時代から古墳時代に至る間の土器・銅鐸・鏡などに描かれた家屋図や家形埴輪との近似を示している。したがって神社建築の諸特徴は仏教建築渡来以前の成立を指示しているのであるが、実際はそうではなく、むしろ仏教建築の隆盛が神社建築成立の背景となったと考えられる。すなわち大陸的手法による大規模な伽藍の建設に触発されて神社は神社としての記念性をもつに至ったのであるが、その様式は仏教的要素を意識的に排除し古来の素朴な技法と形式を採用することによって完成した。このようにして出現した本殿形式として伊勢神宮の神明造、出雲大社の大社造、住吉大社の住吉造、宇佐神宮の八幡造、春日大社の春日造、上・下賀茂神社の流造、日吉大社の日吉造などがある。これらの神社では古来固有の形式を墨守しており、いくどかの造替遷宮を繰り返しつつなお形式を基本的に変更することはなかった。また伊勢・住吉・八幡・日吉などの形式はそれぞれその神社だけが専有する形式であって、おなじ神がほかに勧請された時にのみ増殖することがあり得た。それに対して春日造は春日大社系および熊野大社系の神社で採用する例が多く、また流造はほとんど全国的に流布する普遍形式である。流造・春日造が柱下に土台をめぐらすことを考慮すると、古くは掘立柱であった神明造・大社造・住吉造などとは異なる成立の背景をもっていたと考えることができる。伊勢と出雲は神話のなかに詳しい創立譚をもち、それによると両社はともに宮殿のごとくに造られたことが強調されている。両社が掘立柱で建てられたことはこれと無関係でなく、神の安住する住居として造立されたことを神話も本殿形式も物語っている。それに対して土台をもつ形式は、土地に固定しない構法であるから、神の一時的な降臨を迎える施設として、この方がより普遍性を帯びていたと考えることができよう。

〔付属の社殿〕

延暦二十三年(八〇四)の『皇太神宮儀式帳』によると、伊勢の内宮はきわめて整備された殿舎群によって構成されていた。すなわち大宮(おおみや)院は三重の玉垣と板垣をめぐらし、一の玉垣(瑞垣)のなかに正殿と東西の宝殿、二の玉垣(内玉垣)のなかに四棟の宿衛屋(とのいや)、三の玉垣(外玉垣)の内側に斎内親王侍殿と女孺(にょうじゅ)侍殿とがあった。このほか幣殿院・御倉(みくら)院・御酒殿(みさかどの)院・直会殿(なおらいどの)院があり、また斎宮や神官たちのための諸施設も整えられていた。これら数多くの施設のうち主要なものは神に供する神饌を調理し準備するところ、神宝・祭器・神供などを収納する倉、斎戒・参籠・社務執行に用いる建物などであった。しかし人が神を礼拝するための建物はなく、勅使・公卿・神官による祭儀もすべて野天で行われた。内玉垣の南方に広がる空間が祭儀の場所であって、そこに東西に長く石を置いて造られた石壺が祭官の着座の位置を示していた。斎内親王侍殿と女孺侍殿も祭の前後に着座する席として造られているにすぎない。『貞観儀式』にみられる春日祭や賀茂祭の状景も、同様に祭典の主要な部分は建物のなかでなく庭上で進行している。平安時代の春日大社や上・下賀茂神社は貴族の崇敬を集めて参詣も盛んであったから、社頭に祭や参詣のための諸施設が多く造られた。平安時代初期の春日社には、玉垣で囲まれた中院のなかに南舎・直会殿があり、また外には外院座があって、これらはそれぞれ今の幣殿・直会殿・着到殿に相当する。賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(上賀茂)では十一世紀の初めに今の橋殿(はしどの)・細殿(ほそどの)・土屋(つちのや)に相当する建物が現われており、このうち橋殿では宣命が読まれ、奉幣・舞楽が行われた。また平安時代に出現した建物で注目されるのは楼門と回廊(または翼廊)であって、賀茂別雷神社では十一世紀前半に、賀茂御祖(みおや)神社(下鴨社)では十二世紀初期に楼門の存在が知られ、そのほか八坂神社や石清水八幡宮でも楼門・回廊が造営された。奈良の春日大社では治承三年(一一七九)に中院周囲の玉垣を回廊とし、南門を楼門に改めている。このように楼門と回廊が主要な神社で採用されたのは、社頭の景観を壮麗にするとともに、祭典を行う上でも祭官着座の場所を設けるという実際的な要求もあったであろう。石清水八幡宮で注意されるのは、本殿と楼門との間に、石敷き吹放しにした舞殿と幣殿が十一世紀前半に造られていたことであって、本殿、幣帛を捧げる幣殿、舞楽を奉納する舞殿、楼門を軸線上に配置する一つの定型がすでにこのころには完成していたことを物語る。楼門と回廊を備えるに至らない小規模な神社では、これを圧縮して一つの建築として本殿の前に建てた。いわゆる拝殿はこのようにして生まれたと考えることができる。地方の小社が本殿と拝殿しかもたない場合、拝殿は祭員着座の場所であると同時に、直会殿にも幣殿にも舞殿にも用いられたであろう。拝殿には形式上、本殿の正面に平行に棟を通した平入のもの、直角に置いた妻入のものならびに割拝殿(わりはいでん)と通称されるものがある。割拝殿は楼門と翼廊を一つに結合した形をもっともよくとどめており、中央部分を土間として前後に通り抜けられるようになっているものをいう。
→大鳥造(おおとりづくり),→春日造(かすがづくり),→祇園造(ぎおんづくり),→権現造(ごんげんづくり),→神明造(しんめいづくり),→住吉造(すみよしづくり),→浅間造(せんげんづくり),→大社造(たいしゃづくり),→流造(ながれづくり),→八幡造(はちまんづくり),→日吉造(ひえづくり)
[参考文献]
稲垣栄三『神社と霊廟』(『原色日本の美術』一六)
(稲垣 栄三)
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1. 神社建築画像
日本大百科全書
たが、中世以降しだいに廃れ、現在は伊勢皇大神宮のみ20年ごとに行われている。工藤圭章付属建築神社建築のなかでは、本殿に次いで拝殿、幣殿へいでんの数が多い。拝殿の
2. 神社建築画像
世界大百科事典
神社建築の起源 神社の中心施設である本殿はさまざまの形式に分類されるが,ほぼ全体に共通する特色として,屋根を寄棟造にしないこと,瓦や土壁を用いないこと,床を高
3. じんじゃ‐けんちく【神社建築】
日本国語大辞典
〔名〕神社特有の社殿およびその付属建築。普通、神体をまつる本殿、祭礼のための拝殿・幣殿、事務を行なうための社務所(庁舎)などからなり、玉垣をめぐらし、入口に鳥居
4. じんじゃけんちく【神社建築】
国史大辞典
形埴輪との近似を示している。したがって神社建築の諸特徴は仏教建築渡来以前の成立を指示しているのであるが、実際はそうではなく、むしろ仏教建築の隆盛が神社建築成立の
5. 阿蘇神社建築明細図(著作ID:4370580)
新日本古典籍データベース
あそじんじゃけんちくめいさいず 神社 明治
6. あかぶちじんじゃ【赤淵神社】兵庫県:朝来郡/和田山町/西枚田村
日本歴史地名大系
向拝部分に後世の修理があるものの他は当初のままで伝えられており、但馬地方における室町時代前期神社建築の一代表とされ、国指定重要文化財。
7. 四阿/東屋
世界大百科事典
この場合,真屋には〈真正の家屋〉,〈あずまや〉には〈へんぴな地の家屋〉という意味が含まれているが,これは神社建築に見られるような切妻造を高級視する習慣に基づくも
8. 安土桃山時代
日本大百科全書
西芳さいほう寺の湘南亭しょうなんてい、高台こうだい寺の時雨しぐれ亭などが有名である。そのほか神社建築として、本殿と拝殿とを合の間で結合した権現ごんげん造が出現し
9. あめくぐう【天久宮】沖縄県:那覇市/旧島尻郡地区/天久村
日本歴史地名大系
桁行三・九メートル、桁間二・四メートル、前面に深さ一・四九メートルの向拝があり、典型的な琉球神社建築とされる。
10. アーネスト・サトウ 神道論 244ページ
東洋文庫
れる可能性があるが、その様式は農家よりもむしろ仮小屋のような建物に多く見られると思われる。 神社建築物はこのような古代の小屋に由来したもので、個々のケースごとに
11. アーネスト・サトウ 神道論 247ページ
東洋文庫
屋根をもつ神社だけが正真正銘の神社建築物の基準に厳格に従っているとみなされている。 「外宮」の「正殿」は長さ三四フィート、幅一九フィートで、床は地面よりおよそ六
12. アーネスト・サトウ 神道論 265ページ
東洋文庫
平常な時期ではなかったのかもしれない。(11)垂木の上端が大きく棟から突き出した部分をいう。神社建築に特有のものとして、一対の長い角材を組み合わせたものとなる。
13. アーネスト・サトウ 神道論 266ページ
東洋文庫
しいのだが、サトウは簡素にして純粋という点では類似していると言う。(15)明治初年、新政府は神社建築の基準を全国一律に制定した。境内地についてはその広さと形状を
14. アーネスト・サトウ 神道論 271ページ
東洋文庫
報告した。会場には「お祓い」の見本や神社建築の模型や絵画などの視覚的材料も提示された。 この論文では日本の聖地への旅である伊勢参りと、外宮・内宮の神社建築の詳細
15. いしかりべんてんしや【石狩弁天社】北海道:石狩支庁/石狩市/石狩町/弁天町
日本歴史地名大系
当地の鮫神信仰を反映したものとして注目される。社殿は一九世紀初めの建築とされ、現存する近世蝦夷地の神社建築として貴重である。本殿の文政八年(一八二五)奉納の妙鮫
16. いしてじ【石手寺】愛媛県:松山市/石手川下流域(旧温泉郡の大部分)/石手村
日本歴史地名大系
中央に梵鐘(重要文化財)を吊っている。訶梨帝母天堂(重要文化財)は、三尺に四尺の流造の小堂であるが、県下最古の神社建築の遺構として貴重である。正面の蟇股は楼門の
17. 出雲大社画像
世界大百科事典
現在のものは規模が縮小されたとはいえ,古代の大規模であった社殿の雄大さがしのばれる。大社造は神明造とともに神社建築のもっとも古い形式であって,出雲地方を中心にお
18. 出雲大社[イミダス編 文化・スポーツ]
情報・知識 imidas
1744年に建立された国宝の本殿は、大社造りと呼ばれる日本最古の神社様式を伝えており、高さ24メートルで神社建築としては日本最大。平安時代の古代出雲大社は、高さ
19. いつくしまじんじゃ【厳島神社】広島県:佐伯郡/宮島町/厳島
日本歴史地名大系
元亀二年改築したもの(棟札)であるが、古い様式をそのまま守っての再建であったといわれる。全体に寝殿造を神社建築に移したものとされ、仁安三年の佐伯景弘解には本殿を
20. 稲垣栄三
日本大百科全書
咀嚼そしゃくし、文献史料がきわめて限定される神社建築の発生という問題に対し、説得力のある論理を構築、本殿の原形的な諸形式の起源と伝承に関するその後の定説を形成し
21. いながき-えいぞう【稲垣栄三】
日本人名大辞典
生まれ。太田博太郎,堀口捨己(すてみ)に師事。昭和48年東大教授となる。のち明大教授。44年神社建築史の研究で建築学会賞。著作「日本の近代建築」で近代建築のはじ
22. いのこさす【豕叉首】 : 妻飾/(一)
国史大辞典
叉首棹といい、束を叉首束という。これには(1)内部では束だけだったものが妻で叉首棹の加わったもの(神社建築の大部分がこれ)と、(2)内部では叉首だけであるが妻で
23. 茨城(県)画像
日本大百科全書
疱瘡除ほうそうよけと海上安全の二面から広まり、湖沼、河川、海岸地方に信者が多い。櫻井明俊文化財神社建築では、鹿嶋市にある創建の古い鹿島神宮があげられる。現在の本
24. いらか‐おおい[‥おほひ]【甍覆】
日本国語大辞典
〔名〕神社建築等の棟に取り付ける甲板(こういた)の古称。〔日本建築辞彙{1906}〕
25. いわくら【磐座】
国史大辞典
その名称は記紀および風土記などにみえ、同名を冠した延喜式内社や地名も認められる。神の座となる石で、神社建築の発生以前には神を随時、石や樹に招き降して祭を行なった
26. 宇治(市)画像
日本大百科全書
多く蔵する地蔵院や白山神社がある。そのほか平等院の近くには6月5日の奇祭で知られる県あがた神社や、平安時代の神社建築の様式をとどめる宇治上うじがみ神社(本殿と拝
27. 宇治上神社
世界大百科事典
の建物で,この中に3棟の内殿が併立する。内殿はすべて一間社流造で平安時代の作とされ,現存する神社建築最古の建造物で拝殿とともに国宝。境内社の春日神社社殿も一間社
28. うじかみじんじゃ【宇治上神社】
国史大辞典
世紀にかけての造営と考えられる。しかし本殿の側回りは少しおくれて鎌倉時代と推定される。内殿は神社建築最古の遺構であり、平安時代に属するものは当社しかない。本殿の
29. うじかみじんじゃ【宇治上神社】京都府:宇治市/乙方村
日本歴史地名大系
磐境信仰によって創祀された神社とも考えられている。〈京都・山城寺院神社大事典〉〔文化財〕本殿は現存最古の神社建築といわれ、一間社流造の社殿三棟を一つの覆屋でつな
30. 宇治上神社
日本大百科全書
いう。旧府社。例祭日は5月8日。本殿は平安後期の造営とされ、現存する最古の流造ながれづくりの神社建築として有名。また拝殿も鎌倉時代の遺構をよく残し、ともに国宝に
31. うつういせき【宇通遺跡】群馬県:勢多郡/粕川村/室沢村
日本歴史地名大系
両遺跡とも浅間山給源のB軽石下にある。その点では一二世紀以前のものであることは疑いない。この調査遺構のほかには神社建築と関連するとみられるもの、塔、坊舎様建物、
32. えん【縁】
国史大辞典
建物の外周にある板敷部分。縁側・濡縁。住宅・神社建築では古くからあったが、寺院建築では床(ゆか)が土間から板敷になるにつれ、奈良時代から現われ、平安時代後期か
33. おおささはらじんじゃ【大笹原神社】
国史大辞典
年中行事として古式天王神事(頭人祭)がある。本殿は三間社流造、屋根入母屋造・檜皮葺、正面一間に向拝をつけた神社建築で、付属の棟札によって室町時代初期応永二十一年
34. おおぶねじんじゃ【大船神社】岐阜県:恵那郡/上矢作町/上村
日本歴史地名大系
仁王門は高さ一丈・横三間とある。安政三年(一八五六)再度大改造がなされ、大船山大権現本社といい、神社建築である。本殿の彫刻は大工立川富重のもので、牡丹・唐獅子・
35. おお‐ゆか[おほ‥]【大床】
日本国語大辞典
〔名〕(1)建物の縁(えん)。中世神社建築で用いられた語で、浜床に対する。*平治物語〔1220頃か〕下・頼朝遠流の事「君御浄衣にて、八幡へ御参り候ひて、大床にま
36. おきぐう【沖宮】沖縄県:那覇市/那覇/西村
日本歴史地名大系
瓦葺の三間社で、梁間二・一メートル、桁行五メートルで、前面に一・五メートルの向拝があり、琉球神社建築の典型的なものであったという。一九三八年(昭和一三年)国宝に
37. おき‐ちぎ【置千木】
日本国語大辞典
〔名〕神社建築で、棟(むね)の両はしに載せた千木。
38. 恩賜賞受賞者
日本大百科全書
研究題目:小脳の神経機構と運動学習の機序第77回(1987年度)福山敏男 研究題目:寺院建築の研究・神社建築の研究(福山敏男著作集 1~4)山崎敏光 研究題目:
39. 階段画像
世界大百科事典
わかる。登呂その他の弥生・古墳時代の遺跡からは,厚板に段をえぐった形式のものが出土している。神社建築や宮殿では一般に木製階段が用いられ,その構造は,ぎざぎざに段
40. 堅魚木
世界大百科事典
勝男木,葛緒木とも書く。神社建築や古墳時代の豪族の住宅の棟上に横たえて並べた円柱状の装飾の部材。形が鰹節に似るところからこう呼ばれたという。発生的には棟おさえの
41. 壁画像
世界大百科事典
横板を羽重ねにはり,押縁や簓子(ささらこ)で押さえた下見壁などに分けられる。横嵌板壁は古代の神社建築以来用いられ,竪板壁は中世に伝来した禅宗様(唐様)によっても
42. かべ【壁】
国史大辞典
日本では古くは板壁であったが、大陸建築の伝来によって、土壁が寺院や宮殿に用いられるようになった。普通、神社建築や和様の住宅風仏堂は横板壁、禅宗様仏堂は縦板壁、和
43. 鎌倉時代美術画像
世界大百科事典
本堂(広島),本山寺本堂(香川),孝恩寺本堂(大阪),鑁阿(ばんな)寺本堂(栃木)がある。 神社建築では,本殿の遺構は滋賀,京都,奈良に集中していて,他地方では
44. 神谷神社本殿
日本史年表
1219年〈承久元(4・12) 己卯②〉 2・10 讃岐 神谷神社本殿 ,造営開始(最古の年次判明神社建築)(同殿棟木銘)。
45. 唐様画像
世界大百科事典
宗などのほか,海老虹梁や肘木と木鼻の形式などの装飾的要素は神社建築にも使われるようになった。ただし奈良の建築には控えめな応用しかみられなかった。→唐絵 →社寺建
46. かんきいん【歓喜院】兵庫県:美嚢郡/吉川町/毘沙門村
日本歴史地名大系
昭和四五年(一九七〇)に解体修理。全体に天竺様の影響がみとめられ、珍しい腰組、手法の巧みな彫刻・彩色など中世神社建築の典型を示す。国指定重要文化財。
47. 漢字の世界 1 中国文化の原点 217ページ
東洋文庫
 卜文によると、學の初文は芥で、これは明らかに建物の形である。屋上には千木があり、わが国の神社建築と似ている。おそらく神聖な建物として、特殊な様式をもつものであ
48. 漢字の世界 2 中国文化の原点 28ページ
東洋文庫
霊の観念しろ(代)神衣・祭衣尋繹人猿の図神桿演灌昼器訊籍震驚新穀臣三品人・月・夷進事奔走神社神社建築震夙臣妾百工進人人身犠牲人牲  ②269   ①50  ②1
49. 吉備津神社
世界大百科事典
現国宝の本殿と拝殿は1425年(応永32)に完成した。その独特の建築様式から吉備津造と呼ばれ,中世神社建築の代表作である。本殿の内部は四周に幅1間の外陣,奥に中
50. きびつじんじゃ【吉備津神社】岡山県:岡山市/旧賀陽郡地区/宮内村
日本歴史地名大系
発願し、応永三二年(一四二五)に完成、いわゆる「吉備津造」と称せられる双翼型の特異な屋根をもつ神社建築で、正宮の前に連なる同時竣工の拝殿とともに国宝に指定。第二
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興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
法隆寺(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
渭伊神社(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷(いいのや)の北西端に鎮座する。社域西側を神宮寺(じんぐうじ)川が半円を描いて流れ、杉・檜・楠の古木が社叢をなす。祭神は品陀和気命・息気長足姫命・玉依姫命。旧郷社。「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「渭伊(イイノ)神社」に比定される。
天竜寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町にある臨済宗天竜寺派の大本山。霊亀山天竜資聖禅寺と号する。本尊は釈迦如来。京都五山の第一。1339年(延元4・暦応2)、後醍醐天皇が吉野行宮で崩御するや、足利尊氏・直義の兄弟が夢窓疎石の勧めによって、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建した寺であり
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寺院建築(国史大辞典・世界大百科事典)
仏教寺院に属する建築。ただし寺院内にあっても、鎮守とその付属建物は神社建築として扱い、書院・客殿などの居住用建物は住宅史で取り上げている。しかし、居住用建物でも、僧房・庫裏など仏教寺院独特のものは含む。仏教は六世紀の中ごろ伝来し、大陸の建築様式を伝え
神社建築(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
神社の社殿およびその付属建築。古代人は、神霊のよる神聖な場所を神籬(ひもろぎ)として崇(あが)め、また祖先の霊を祀(まつ)るために、伝来の宝物を御霊代(みたましろ)として崇めた。したがって、神籬のある場所、御霊代を祀る場所が、その神の社地として定着し
仏教建築(日本大百科全書)
仏教に関する祭祀(さいし)、信仰、布教などのために建てられた建築。紀元前5~前4世紀の仏教勃興(ぼっこう)当初は、礼拝(らいはい)対象とする仏像も、それを納める仏堂もなかった。宗教施設としての構築物がみられるのはブッダ(仏陀)の没後(前486ないし
東京駅(日本大百科全書・世界大百科事典)
東京都千代田区丸の内にある首都東京の表玄関をなすJR旅客駅。東海道・山陽新幹線、東北新幹線、東海道本線、東北本線、総武(そうぶ)本線の起点であるとともに、京浜東北線・山手線が通じ、さらに上越新幹線、北陸新幹線、山形新幹線、秋田新幹線、中央本線、横須賀
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東京都港区のほぼ中央、芝公園(旧、増上寺(ぞうじょうじ)境内の一部)内にある総合電波塔。正式名称は日本電波塔。テレビ塔が林立するのを防ぐため、内藤多仲(たちゅう)(1886―1970)の設計で1958年(昭和33)12月に完成した。敷地2118平方
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