奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)、さらに和銅三年(七一〇)平城遷都にあたって春日野の現地に移建されたと伝えるが、実は鎌足所願の釈迦丈六像を本尊とし、不比等が発願、平城京左京三条七坊(外京)を寺地に点じ、霊亀・養老の交に創建されたということができる。藤原氏の氏寺だが、養老四年(七二〇)には官寺に列せられ、皇室および藤原氏一族の堂塔造営・寺領寄進によって天平時代に七堂伽藍の盛容を現わし、なお造営がつづいた。また猿沢池(四条七坊所在)や東松林二十七町が寺地に付属した。平城廃都の打撃もほとんど受けず、弘仁四年(八一三)に藤原北家の冬嗣が南円堂を創めたが、これによって摂関家が開運したといわれるし、弘法大師の鎮壇勤仕が伝えられて密教隆盛の時運に乗り、興福寺の発展が決定づけられた。なお、天平宝字元年(七五七)、藤原仲麻呂が鎌足発願と伝えられる法相宗大会の維摩会を興したが、これが御斎会・最勝会と並んで三会の一つに列せられたのも寺勢をあげた。ついで貞観年間(八五九―七七)、摂関家が春日社の祭祀を振興したり、大和国の領国化を進めたのに刺激され、興福寺は春日大明神を法相擁護の神と説き、これを鎮守神として春日社を支配しようとした。まず在地領主層の春日神人を手なづけたり、寛仁二年(一〇一八)には法華八講を社頭で修し、これを春秋二季として氏長者の使を迎えて春日祭になぞらえ、なお春日大明神が慈悲万行菩薩と託宣せられたと説いて神仏習合をはかり、さらには春日神木動座の強(嗷)訴を始めて春日社支配を達成する。康和二年(一一〇〇)、白河上皇が社頭一切経料所として越前国河口荘を寄せて興福寺(のち大乗院門跡)に検校させたのが興福寺の春日社領支配の端緒となるし、永久四年(一一一六)に関白藤原忠実が春日西塔を東松林の別当坊(鹿園寺)の跡に建立し、祭神本地の四仏を安置したのが興福寺の春日社支配を促進させた。保延元年(一一三五)、興福寺衆徒は春日若宮を創建、翌二年からこれを西塔近くの御旅所に迎えて若宮祭を始めたが、これで春日社との一体化やその祭祀参与を誇示し、摂関家代官の国司に代わって大和一国を支配する道理を主張したのである。かくて摂関家と春日社・興福寺の大組織が成り、七大寺をはじめ国中の社寺、これに連なる土豪(在地領主)らの屈従を強いた。ここに興福寺の全盛が訪れ、別当のもと権別当・五師・三綱の寺務組織が成り、なお学侶・六方および堂衆の三千大衆(講衆)が統括され、教学もまた振興した。折から平清盛の大和国知行や南都焼討(治承四年(一一八〇))に遭うが、敬神崇仏の時運に恵まれたため、春日社の神威を被って復興工事は進み、法会も盛大化した。これは鎌倉文化の興隆に資したが、ここで興福寺は永遠不滅の精気を注入され、なお荘園大領主として大消費生活を展開したため門前郷奈良が発達する。また寺中では摂関家子弟の入室する一乗院・大乗院両門跡が成立し、公卿子弟の院家とともに正・権別当職を占め、なお学侶・六方および堂衆らの諸院・諸坊が繁栄した。折から鎌倉幕府から大和の守護職を委ねられたため、輩出する名主層を衆徒・国民に起用していわゆる僧兵団を組成、これを学侶・六方に付属して検断権行使にあたらせた。鎌倉時代末期に両門跡の対立が生じ、衆徒・国民がこれに絡んで武力抗争に発展、南北両朝の対立を抱えこんで抗争が激化したため、寺勢はとみに衰えた。室町幕府の成立で守護職(両門跡が分掌)に復し、その保護で動乱の傷も治癒して往昔の繁栄が期せられたが、衆徒・国民が大小名化を競い、近国大名の角逐に参じたため、大和に戦乱が導入されるし、諸国の社寺領を喪失して興福寺は気息奄々となり戦国乱世を迎えた。織豊政権によって俗勢力を削がれ未曾有の沈滞を示したが、一方、春日社支配の朱印領主寺院として更生が許されたのがむしろ幸いし、なお徳川将軍家の保護で寺観もほぼ旧に復した。しかし、朱印領領主の経済窮迫がつのるやさき、享保二年(一七一七)に講堂から出火して大焼亡した。このあと金堂は仮堂のまま復興も進まぬという悲運に陥った。観音札所の南円堂がひとり復興し、これが庶民信仰を受けたにとどまり、空坊や廃跡が続出した。明治維新の神仏分離により、門跡・院家が還俗して華族に列せられ、学侶らとともに春日神官に転じたため、主を失って一山は潰滅した。『興福寺文書』など、唐院保管分が春日神社に移管された。明治十四年(一八八一)、寺院再興が許されたが、境内は官没縮減、堂塔傍らに公道が通じるしまつであり、わずかに堂塔や宝物の文化財寺院として存続した。近時、堂塔所在の寺地が返付され、宝物館を付設して、ようやく寺観を整えるに至った。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』七・八、大岡実『南都七大寺の研究』、永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三)、同「興福寺の歴史」(『仏教芸術』四〇)
(永島 福太郎)
建築
伽藍は創立以後、たびたび火災にかかったが、そのつど再建され、享保二年(一七一七)の火災まで当初の規模を伝えてきた。したがって、再建されなかった建物も、礎石などがよく残り、『興福寺流記』に引用されている興福寺の資財帳の記事と併せ考えて、創立の伽藍配置を知ることができる。伽藍は外京の東端、三条七坊の地を占め、三条大路からやや入って南大門があり、中門・金堂・講堂を中心線上におき、回廊は複廊で中門から金堂左右に達する。金堂・講堂間の左右に鐘楼・経蔵があり、講堂を囲んで東西北の三面に僧房がある。東西の僧房は大房と小子房からなり、北室は南から大坊・小子坊・大房の三棟が列び、大房は南を上階僧房、北を下階僧房という。また平安時代、東にさらに僧房ができ、これを東室というようになったので、本来の東室は中室と呼ばれた。食堂は講堂の東方にあり、細殿その他を伴って食堂院を形成していた。金堂の東南に東金堂と五重塔があり、回廊と築地で囲まれていた。西南には西金堂があり、西の塔は建てられず、ここに南円堂が建立され、またその北方には回廊に囲まれた北円堂があった。この配置は大安寺・東大寺などと共通性が多く、奈良時代伽藍配置の主流となったものである。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』九・一〇、大岡実『南都七大寺の研究』、太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』、毛利久「興福寺伽藍の成立と造像」(『仏師快慶論』所収)、大河直躬「鎌倉初期の興福寺造営とその工匠について」(『建築史研究』三一・三二合併号)
(太田 博太郎)
一乗院(いちじょういん)
興福寺両門跡の一つ。権大僧都定昭(永観元年(九八三)寂)の創建。第六代覚信は関白藤原師実男で興福寺に貴種(摂関家子弟)の入寺の最初といわれ、貴種相承のゆえに鎌倉時代初頭から大乗院とともに院家の上位に位する門跡を称し、興福寺に属するが、独立寺院の格(別格寺院)となった。大和国中・国外の門跡領や末寺をみずから進止するし、興福寺の三綱ないし衆徒・国民らを坊官・坊人として門跡に分属せしめた。院家(公卿子弟が入室)も門徒としてこれに分属する。いわゆる五摂家分立にあたって近衛流(近衛・鷹司)が同門跡を管領(家門という)、特に近衛家が主となった。南北両朝対立に際し、門主覚実はその末寺金峯山寺検校の職に在ったため、後醍醐天皇を吉野山に迎え、宮方となって武家方の大乗院門跡と抗争した。室町時代には大和守護職(大和平野部)を大乗院と両分(一乗院は西諸郡)、なお吉野・宇智両郡を管領した。また坊人の筆頭として衆徒筒井氏が発展する。戦国時代末に将軍足利義晴男の覚慶が近衛家猶子として入室、のち還俗して将軍義昭となったのが著名。なお、文禄検地で春日社兼興福寺領のうち別判物として千四百九十二石を充行われて近世朱印領主寺院として確立した。慶長十五年(一六一〇)、後陽成天皇皇子十宮が近衛家猶子として入室して、のち尊覚法親王となり、以来宮門跡として親王入室がつづいた。当代、別当職は両門跡の相承となった。当時、門跡には諸大夫・坊官・侍・北面などの家来が知られる。幕末、近衛忠煕男の忠起に至り、明治維新に際会して還俗、水谷川を姓として華族格に遇せられ、官幣大社春日神社宮司となり男爵に列せられた。門跡は官没されて奈良県庁、ついで裁判所に転用、寝殿造の建物は現在唐招提寺に移建され、同寺の御影堂となった。なお門跡領荘園は、西は関白藤原基通から分与された島津荘から、東は下野塩谷荘に及び、大和国では千町歩の平田荘(近衛家領)ほか国中の三分の二を占めたといわれる。末寺は国外で大覚寺など、国中で金峯山寺・当麻寺などを合わせ数十をかぞえる。ちなみに文書記録などの史料は大乗院門跡に比べて散逸がはなはだしいが、古来、名筆の所蔵が有名。なお近世の『真敬親王日記』が知られ、坊官二条家のいわゆる『一乗院文書』『一乗院記録』が分散現存する。また、『簡要類聚鈔』『古記部類』が一乗院門跡史料集成として貴重である。
[参考文献]
永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三)
大乗院(だいじょういん)
興福寺両門跡の一つ。権大僧都隆禅(康和二年(一一〇〇)寂)が興福寺寺地の東方(春日野の西端)に創建した。関白藤原師実男の尋範のあと摂政藤原忠通男の一乗院信円が兼帯したため、貴種入室の門跡となった。治承四年(一一八〇)平氏の兵火によって両門跡も焼けたので、信円は隆禅僧都建立の元興寺別院の禅定院に移ってこれを大乗院家に定めた。大乗院門跡は興福寺からは離れた飛鳥山麓に位置し、宏壮な園池(旧大乗院庭園として名勝に指定)を囲む巨構を出現した。この移遷で大乗院門跡は元興寺郷をその寄郷として支配するし、奈良南郊に街区(大乗院郷)を発達させた。やがて、同門跡は摂家九条流(一条・九条・二条)の管領となり、近衛流の一乗院門跡に拮抗した。南北朝動乱には武家方に好意を寄せた。やがて足利将軍家から大和守護職(東諸郡)と宇陀郡とを給わり、一時は一乗院門跡を凌ぐ厚遇をうけた。しかし、門跡領は春日社一切経料所越前国河口荘検校職が有名だが、九牛の一毛と門主の尋尊が嘆じたように一乗院領には及ばない。末寺には長谷寺などがあったが、坊人も衆徒の古市氏が筆頭で筒井氏に劣った。この一乗院門跡との格差が、近世朱印領九百五十一石、そして摂家門跡となるゆえんである。なお、近世初頭にこれに入室する九条流は嗣を欠き、将軍足利義昭男が一時入室したりしている。やがて近衛流の鷹司家の相承に委ねられた。なお、一乗院門跡と交代で別当に任ぜられた。幕末、二条家出身の隆温が入り、明治維新に際して還俗、松園氏を称し華族(男爵)に列せられた。門跡は官没、のち鉄道院の用地となった。ちなみに、室町時代に筆まめな尋尊が公務日記(『寺社雑事記』)や『大乗院日記目録』『三箇院家抄』などの記録を多量に遺したのが有名。なお、近世享保年中(一七一六―三六)に隆遍が学問所を興して門跡内外の文書記録を整理ないし書写に努めた。これにより尋尊以降歴代の『大乗院寺社雑事記』や『大乗院文書』が現在に伝わったのである。
[参考文献]
永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三)
(永島 福太郎)
北円堂
元明太上天皇と元正天皇が藤原不比等の供養のため創立したもので、不比等の一周忌にあたる養老五年(七二一)に完成した八角円堂である。その後、永承四年(一〇四九)に焼け、寛治六年(一〇九二)に再建され、治承四年(一一八〇)に焼けて承元四年(一二一〇)宝形を挙げたのが現堂である。平面は当初の規模を踏襲しているが、平三斗(ひらみつと)を二段重ね、繋虹梁を二重にしていることや、内法長押裏に内法貫を通している点などは中世再建にあたり改められたところであろう。地垂木が六角形なのは、奈良時代の円、平安時代の楕円の形式を承けたもので、飛檐垂木を二重にし、軒が三軒となっているのは珍しい。内部に床を張らないのも当初からの形式で、内陣小壁の間斗束(けんとづか)両側に描かれた笈形は、法界寺阿弥陀堂のものとともに著名で、天井と板状の天蓋に装飾文様が残っている。国宝。
[参考文献]
奈良県教育委員会・奈良県文化財保存事務所編『重要文化財興福寺大湯屋・国宝北円堂修理工事報告書』、足立康「興福寺北円堂及びその仏像の再興」(『日本彫刻史の研究』所収)
東金堂・五重塔
東金堂は聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を祈り、神亀三年(七二六)に造立したものである。天平二年(七三〇)に光明皇后の発願により造立された五重塔とともに東院仏殿院と呼ばれ、北と西には回廊があり、南と東は築地で囲まれ、西回廊の東金堂・五重塔の前にそれぞれ各一門を開いていた。両者は接近して立っているので、罹災・再建をほぼともにし、寛仁元年(一〇一七)・永承元年(一〇四六)・康平三年(一〇六〇)・治承四年(一一八〇)・延文元年(一三五六)に焼け、その後まもなく再建されている(ただし、永承・康平の火災において両建物がともに焼けたかどうか、明らかでない点がある)。その後、応永十八年(一四一一)に雷火で焼失し、東金堂は同二十二年、五重塔は同三十三年に再興された。これが現在の建物で、平面はともに創建の規模をそのまま伝えるものと認められる。両者とも細部の様式手法は再建時の様式を示しているが、鎌倉時代に輸入された大仏様・禅宗様によるところはなく、純粋な和様を保っている。これは応永年代に復古的な傾向があったことを示すものではなく、罹災・再建に際して常に保たれてきた興福寺の建築のもつ伝統の強さの現れとみるべきであろう。ともに国宝。
[参考文献]
岸熊吉他編『興福寺東金堂修理工事報告書』、足立康「興福寺東金堂再建年代考」(『史蹟名勝天然紀念物』七ノ九)
(太田 博太郎)
南円堂
興福寺境内の西南隅に建つ八角円堂。同形の基壇上に建ち、正面(東面)には向拝風の庇屋根を掲げる正面一間、側面二間の拝所を付設している。弘仁四年(八一三)に藤原冬嗣が建立、亡父内麻呂発願の不空羂索観音像を本尊とし、四天王像を配祀、なお堂内には法相六祖像(いずれも鎌倉時代再興、国宝)を飾り、正面庭上に金銅燈籠一基(国宝)を供える。北方の円堂に対するものであり、ここで北円堂・南円堂が称されたが、北円堂にくらべ一まわり大きい。実は西金堂に配する西塔に代用するものであり、これで興福寺の堂塔は完成を示した。この南円堂建立の功徳で冬嗣は出世、その北家(摂関家)の全盛がもたらされたため、摂関家ではこれを氏寺信仰の中心とし、異姓の官使の登壇は許さず公家の祈祷も拒んだ。しかし、空海が創建に際して鎮壇に参仕したと伝えられ、なお観音信仰と相まって門戸はむしろ士庶に開かれ西国三十三所第九番札所として繁昌する。拝所の設備がこれを示している。永承元年(一〇四六)・治承四年(一一八〇)・嘉暦二年(一三二七)・享保二年(一七一七)の四回炎上するが復興は早い。現存の建物は寛政元年(一七八九)に竣工した。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』九、永島福太郎『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三)
(永島 福太郎)
三重塔
伽藍の西南隅の低地に立つ。皇嘉門院の御願により康治二年(一一四三)に創建されたが、治承四年(一一八〇)の兵火に焼け、その後再建された。再建の時期は明らかでないが、鎌倉時代前期と認められる。平安時代末から、三重塔は二重目から心柱を立てるのが普通になり、この塔もその形式によっている。平安時代創建のものであるから、内部に床を張り、周囲に縁をめぐらす。四天柱内は中心に細い柱を立て、これと四天柱とを結ぶ板壁を作り、千体仏を描いている。また四天柱・長押・幣軸などには、剥落しながらも当初の彩色が残っている。塔の組物は三手先(みてさき)が原則であるのに、この塔は初重だけ出組としている。これは軒の出は三重塔としての比例を保ちながら、初重の平面を大きくとるための工夫で、遺構ではこれと大法寺三重塔・那谷寺三重塔だけに見られる。国宝。
[参考文献]
足立康「興福寺三重塔の焼失年代」(『宝雲』二)
(太田 博太郎)
十大弟子像(じゅうだいでしぞう)
天平六年(七三四)、母橘夫人三千代の一周忌追福のため光明皇后が発願建立した西金堂の釈迦如来像を本尊とする群像の内、八部衆像とともに現存するもの。今、十大弟子のうちの六躯が遺り、それぞれ舎利弗・目
連・須菩提・富楼那・迦旃延・羅
羅の名がつけられている。いずれも袈裟をつけて立つ細身の姿にあらわし、モデリングも控え目にまとめながら、肉身の老・壮・若の区別を的確に造り分け、天平彫刻特有の格調ある写実的な作風をよく示しており、古代彫刻の名品として広く親しまれている。像内を中空とし、そこに木枠を組み込んだ典型的な脱活乾漆造になる。像高一四四・三~一五二・七センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』七、福山敏男「奈良時代に於ける興福寺西金堂の造営」(『日本建築史の研究』所収)
八部衆像(はちぶしゅうぞう)
天平六年(七三四)光明皇后によって建立された西金堂とその釈迦如来像以下の群像中、十大弟子像六躯とともに現存する八部衆像。それぞれ五部浄・摩
羅(寺伝では沙羯羅)・鳩槃荼・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・畢婆迦羅の名をあてている。これらのうち、五部浄はいま下半身を失った断片として残る。十大弟子像とともに仏師将軍万福の統裁下で制作されたもので、像内を中空とする脱活乾漆の技法や、控え目で親しみやすい表現は十大弟子像と共通のものである。特に阿修羅像は空間にひろげる六本の腕の布置や、その表情の美しさで、ひろく世に親しまれている。像高一四九~一五四・五センチ、五部浄は現状高五〇・〇センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』七、福山敏男「奈良時代に於ける興福寺西金堂の造営」(『日本建築史の研究』所収)
四天王像(してんのうぞう)〔北円堂〕
木心乾漆像。増長天・多聞天像の台座框裏に墨書の修理銘があり、弘安八年(一二八五)本寺の僧経玄得業がみずから斧をとって修理したと記すが、この銘中に本像はもと大安寺のもので、延暦十年(七九一)四月に造立されたことを併記している。技法や表現からみると、確かに八世紀末から九世紀初頭つまり奈良時代末から平安時代初期への転換期の造像とみてよく、しかも力強く充実した量感を示しながら、動きをひかえた安静な姿にまとめられている。奈良様式の正統を伝えたこのころの天部像の一典型を示す作例として貴重である。像高一三四・五~一三九・〇センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』七
四天王像〔東金堂〕
いま東金堂に安置するが、当初からの伝来は明らかでない。四体ともそれぞれ足下の邪鬼を含み、檜の一木から刻み出したもので、頭髪や邪鬼の面相には木屎漆のモデリングがあり、また当初の彩色や切金もよく残っている。太くたくましい体躯や気魄のこもったきびしい面貌などに一木彫像ならではの力強さがある。九世紀四天王像の代表作の一つといえる。像高一五七~一六三センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
四天王像〔南円堂〕
本尊不空羂索観音像や法相六祖像とともに、文治四年(一一八八)から翌年にかけて大仏師康慶一門の手で造られたもの。本像の製作担当仏師は『南円堂御本尊以下御修理先例』によると、康慶の弟実眼であったという。檜材、寄木造、彩色。その形制は天平古像のそれを踏襲するが、総体に動きが豊かで彫法には写実への志向が強く、新時代の忿怒像にふさわしい清新な趣がある。像高一九七・二~二〇六・六センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)
檜の平板に薄肉彫りで十二神将をあらわした珍しい作例。それぞれ正面向きや斜め向き、あるいは静かにあるいは烈しい動きを示すなど、さまざまな姿態をあざやかな彫り口で、長方形の構図の内に絵画的に巧みにまとめている。その大らかな彫り口からみて、製作は平安時代後期(十一世紀)と認められ、所々に遺る彩色や切金文様にも時代の特色がよく窺われる。もと東金堂のものと伝えられているので、あるいは本尊薬師如来像の台座に貼装されていたものかと思われる。縦八八・九~一〇〇・三センチ、横三三・六~四二・七センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』七
十二神将像〔東金堂〕
東金堂の本尊薬師如来像に随侍する十二神将像。このうち波夷羅
(ばいら)大将像の右足
に、建永二年(一二〇七)四月に彩色を終ったむねの墨書銘があり、このころ像が完成したものと考えられる。鎌倉時代独特の烈しい動勢を巧みに示す当代初期の一典型といえる。各檜材、寄木造、彩色、彫眼。像高一二六・三~一一三・〇センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)
南円堂の本尊。治承四年(一一八〇)の兵火による興福寺焼亡後の再興事業の一環として、文治四年(一一八八)六月から十五ヵ月を費やして、大仏師康慶一門の手で随侍の四天王像や法相六祖像とともに造像されたもの。その経緯は『玉葉』にくわしい。本像は当初の南円堂(弘仁四年(八一三)創建)本尊の形制をよく襲いながら、清新溌溂とした趣に溢れるもので、鎌倉時代初頭を飾る記念碑的造像というべきものである。檜材、寄木造、漆箔、玉眼嵌入。像高三三六センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
法相六祖像(ほっそうろくそぞう)
南円堂本尊不空羂索観音像・四天王像とともに文治四年(一一八八)六月から十五ヵ月を費やし、大仏師康慶一門の手で造像されたもの。八、九世紀における法相宗の高徳である常騰・神叡(または信叡)・善珠・玄
・玄賓・行賀の六人の肖像で、老若あるいは姿態の肥痩の別を巧みに刻み分け、特に衣や袈裟のさばきに変化をつけ、深く鋭く、流動感と変化に富む衣文を造り、前代の穏やかで形式の整った表現と全く異なる新しい試みを大胆に表現している。檜材、寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高七三・三~八三・〇センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)
東金堂本尊薬師如来像の左脇に安置され、右脇の維摩居士像と一具をなす。維摩居士の老貌と対照的な若々しい張りのある体貌を示し、台座や光背の形制も対照的に造るが、その作風から考えて、像内に建久七年(一一九六)の朱漆造像銘のある維摩居士像と同時期に、同じ仏師定慶によって造像されたものと考えられる。寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高九四センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
維摩居士像(ゆいまこじぞう)
東金堂本尊薬師如来像の右脇に安置され、左脇の文殊菩薩像と対をなす。像内に長文の朱漆銘があり、建久七年(一一九六)三月二十二日から五十三日間に彫刻され、ついで五十日をかけて彩色を施し完成したもので、仏師は法師定慶、彩色は法橋幸円であることが知られる。中国風の装飾の多い宣字座に坐り、病に苦しみつつ文殊菩薩と問答する老貌を写実味豊かに彫出した鎌倉時代初期彫刻の傑作とうたわれる。なお本寺の維摩会の歴史は古く、平安時代を通じて東金堂には維摩・文殊の二像が在ったらしく、現存のものは治承四年(一一八〇)の兵火による興福寺焼亡後の復興像である。寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高八八・一センチ。国宝。
[参考文献]
『南都六大寺大観』八
弥勒仏像(みろくぶつぞう)
北円堂の本尊。『猪隈関白記』承元二年(一二〇八)十二月条の記事や本像像内納入品にある建暦二年(一二一二)十二月の記事、台座内部の墨書銘によって、本像と両脇侍、無著・世親菩薩像、四天王像の九躯は大仏師法印運慶の率いる十五名の仏師たちによって、承元二年から建暦二年の間に造像され、本像の製作担当は大仏師源慶・静慶であることが知られる。運慶晩年の代表作であるとともに鎌倉新様式の完成された姿を示す重要な作品である。また治承四年(一一八〇)の兵火による興福寺焼亡後の復興造仏の内で、運慶の父康慶によって造られた南円堂不空羂索観音像以下の諸仏と並ぶ記念的造像である。桂材、寄木造、漆箔、彫眼。像高一四一・九センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八、西川杏太郎「運慶の作例とその木寄せについて」(『仏教芸術』八四)
無著・世親菩薩像(むちゃく・せしんぼさつぞう)
五世紀ごろ北インドで法相宗の教学を確立したといわれる兄弟の学僧、無著および世親の肖像彫刻。北円堂の弥勒仏の両脇侍として安置されるもので、いずれも『猪隈関白記』の記事や弥勒仏像内納入品などによって、承元二年(一二〇八)から建暦二年(一二一二)の間、仏師法印運慶一門によって造立されたことが知られる。弥勒仏台座のうすれた墨書銘によると、世親像は仏師運賀(または運勝)が製作を担当し、無著像の担当仏師は運助とも読めるが明らかではない。運慶様式の完成を示す典型として、また日本の肖像彫刻中の代表作として注目される。桂材、寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高は無著一九四・七センチ、世親一九一・六センチ。ともに国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八、西川杏太郎「運慶の作例とその木寄せについて」(『仏教芸術』八四)
天燈鬼・竜燈鬼像(てんとうき・りゅうとうきぞう)
もと西金堂に安置されたもの。二匹の小鬼が仏前の燈籠を捧げる奇抜な意匠、ユーモラスなポーズや肉付けなどに鎌倉彫刻らしい特色をよく示す作品として名高い。竜燈鬼像内納入の墨書紙片によって、建保三年(一二一五)運慶の三男康弁が造ったものであることが知られ、彼の現存唯一の作として注目される。檜材、寄木造、彩色(もと天燈鬼は朱、竜燈鬼は緑青彩)、玉眼嵌入。燈籠は後補。像高は天燈鬼七八・二センチ、竜燈鬼七七・八センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
千手観音像(せんじゅかんのんぞう)
旧食堂の本尊。像内に籠められていた『大般若経』、鏡、毘沙門天印仏、その他の厖大な納入品に建保五年(一二一七)から嘉禄・安貞を経て寛喜元年(一二二九)に至る年記が記され、このころ本像が造立されたものと考えられる。『養和元年記』によると、養和元年(一一八一)他堂の仏像とともに御衣木(みそき)加持が行われ、仏師成朝が造像担当者となったが、何故か完成に至らなかったらしく、その後、成朝系のほかの仏師によって完成したのが本像と考えられている。光背・台座までを具備した四十二臂の堂々たる千手観音像で、鎌倉時代前期における南都復興造像の掉尾を飾る完好な大作として注目される。檜材、寄木造、漆箔、玉眼嵌入。像高五二〇・五センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
金剛力士像(こんごうりきしぞう)
興福寺における鎌倉時代前期の復興造像事業の一つとして造られ、もと西金堂堂内に安置されていた。『興福寺濫觴記』によれば定慶の作と伝えるが、確かではない。金剛力士像の作例中、最も動勢が豊かでリアルな作品として評価されている。吽形像像内納入紙片や足
の墨書により、正応元年(一二八八)に大仏師善増・絵仏師観実らによって修理されたことが知られる。各檜材、寄木造、彩色、玉眼嵌入。像高は阿形一五四・〇センチ、吽形一五三・七センチ。国宝。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』八
(西川 杏太郎)
観禅院鐘銘
現在国宝となっている梵鐘の刻銘。この梵鐘は観禅院にあったと伝えられる。梵鐘は高一四九センチ、口径九〇・三センチで、乳
(ち)は各区四段八列、計百二十八個を鋳出し、撞座は十二弁で、竜頭の長軸に平行につけられ、銘文はこの一方の撞座の縦帯に一行二十字、四行にわたって刻まれている。銘の神亀四年(七二七)は東金堂建立の翌年にあたる。銘文は「
神器金
仁風声振鷲岳響暢竜宮奉為四恩/先霊聖躬遊神寿域晤言天衆釦輪息下折機清空/芥城伊竭弘誓無窮鋳銅四千斤白
二百六十斤/神亀四年歳次丁卯十二月十一日鋳寺主徳因時」
(栗原 治夫)
南円堂銅燈台銘
南円堂正面に建立された鋳銅鍍金の燈籠で、円筒形の火袋にはもと火口の扉二枚と羽目板五枚があったと思われるが、現在は扉二枚と羽目板一枚を欠失している。銘文のある羽目板は鋳銅鍍金、上部に菱格子を透して明窓を造り、下部に各面七行、一行九字の銘文を鋳出している。銘文によれば、この燈籠は弘仁七年(八一六)に正四位下伊予権守藤原公等が亡父の遺志によって造ったもので、東大寺大仏殿前の銅燈籠と同じく燈籠供養の功徳を説いている。造主の藤原公等は他に所見がないが、南円堂は藤原内麻呂が発願し、子の冬嗣が完成しており、弘仁七年に正四位下であった内麻呂の子は真夏のみであるので、公等は真夏とする説がある。銘文の筆者は橘逸勢と伝えているが、これは書体端麗で格調の高いことに由来している。国宝。銘文は「(第一面)銅燈台銘
并序/弘仁七載歳次景申伊/予権守正四位下藤原/朝臣公等追遵/先考之遺敬志(志敬か)造銅燈/台一所心不乖麗器期/於撲慧景伝而不窮慈/(第二面)光燭而無外遺教経云/燈有
命也燈延命/譬喩経云為仏燃燈後/世得天眼不生冥処普/広経云燃燈供養照諸/幽冥苦病衆生蒙此光/
縁此福徳皆得休息/(第三面)然則上天下地匪日不/
向晦入冥匪火不照/是故以斯功徳奉翊/先霊七覚如遠一念孔/邇庶幾有心有色並超/於九横無小無大共
/於八苦昔光
菩薩燃/(第四面)燈説呪善楽如来供油/上仏居今望古豈不美/哉式標良因胎厥来者/云大雄降化応物開神/三乗分輙六度成津百/非洗蕩万善惟新更
/
利示以崇神
薫
福」。
(山本 信
)
寺領
平城京左京三条七坊の寺地(十六町)に四条七坊の四町(花園)と東松林二十七町とを付属して発足、これに藤原不比等らの施入の寺田(本願施入田畠)や官施入の墾田千二百町などが加わった。その千町の墾田は越前・加賀両国内に在ったが、大和国および摂津国沿海地方の獲得が競われた。藤原仲麻呂は維摩会復興の際、近江国鯰江百町の故藤原鎌足の功田を料所として施入した(大供料所)。堂塔や祈願法会の寄進には料所が添えられる。天長十年(八三三)、伊都内親王が母藤原平子の遺言により墾田などを東院西堂に寄せた願文に春日四所明神も照鑑せられるとの語がみえるが、早くも春日社・興福寺の一体化ないし春日社兼興福寺領の出現が約束づけられている。興福寺は大和国および近国の墾田の荘園化に努めて根本寺領を確立したが、さらに土豪(在地領主)層の春日神人をまず手なずけたのが幸いし、春日社支配の道が開かれるし、神人を起用して社寺領統制に宗教的威力を利用した(神宝を振る)。荘園上分米や諸職の寄進、末寺の帰属が盛んになる。保延元年(一一三五)の若宮創建で、摂関家のもとに春日社・興福寺の一体化が示されるが、この前後に大和国の春日神国化や藤原氏・興福寺の荘園鎮守に春日社が勧請されることになり、摂関家領などにも及んで春日社兼興福寺領が成立し、これが興福寺の支配に帰した。康和二年(一一〇〇)、白河法皇の春日社頭一切経転読料所寄進に際し、検校職が興福寺に付せられたのが興福寺の春日社領支配の公認といえるし、春日社に寄進された摂関家領の島津荘本所職や春日神供料所摂津国垂水東西牧領家職も興福寺に支配されることになる。なお、大和国一円にわたり雑役免田(負所)を獲得する。十二世紀、興福寺領の最盛が示され、東は陸奥国小手保荘(福島県)から西は九州の島津荘(鹿児島県坊津に至る)に及ぶ興福寺領が展開する。鎌倉時代、興福寺寺門領(別当領)として近江国笠・岡田・淵・物部・安吉・浅井・鯰江・犬上、摂津国吹田・河南・新屋・浜崎・甘舌・沢良宜・猪名・溝杭、河内国足力・狭山、山城国加茂・瓶原・狛野・綺・大住・朝倉、播磨国吉殿・三箇、備前国小岡、安芸国日高、讃岐国藤原、丹波国三俣戸、和泉国谷河、大和国田村・京南・神岡・佐井・楢の各荘園や、竜門寺・竜福寺・竜蓋寺各別当の荘園・末寺があげられる(『興福寺年中行事』)。これは維摩会などの十二大会料所などと称えられる根本寺領であり、なお雑役免荘数十所や南都七郷、さらには別当支配の堂塔料所や春日社領(添上郡東山中の神戸四ヵ郷・宇陀郡など)・宿院佐保殿領などが加わる。またなお、別当領よりは広大な門跡・院家の荘園・末寺ないし諸院諸坊の寺僧田も興福寺領なのだから枚挙に遑がない(それぞれに土地台帳は存在した。たとえば大乗院門跡領は『三箇院家抄』)。荘園崩壊期に入っても、なお祈願料所の寄進ないし買得もある。この崩壊期に段銭・棟別銭や市・座および関などが寄進あるいは設置され、その銭貨収入が弥縫財源となった。なかんずく、段銭は国役として大和国に賦課ができたし、関銭では摂津国兵庫南関・河上五ヵ関の収納が大きい。ともかく、戦国乱世を経た天正八年(一五八〇)、織田信長の検地に際して提出した二万三千余石(守護段銭も含む)の指出が中世の春日社兼興福寺領の推測資料となる。ちなみに、これには末寺および他国所領は含まれない。ついで豊臣政権では曲折もあったが、文禄四年(一五九五)の太閤検地により、寺門(別当)領一万五千余石、別判物として一乗院門跡領約千五百石、大乗院門跡領九百五十余石、春日宮本領三千二百余石が充行われ、続いて江戸幕府の元和三年(一六一七)に春日社兼興福寺領二万千百余石の朱印が下付され、近世朱印領地が確立した。これに両門跡領も、奈良町の一角を占める春日社兼興福寺領の町も含まれたし、春日山の領有あるいは用益権も認められた。なお、祭礼の猿楽料や、また造営には造国制の伝統により料足が寄進される。これが明治四年(一八七一)、社寺領上知令によりわずかに堂舎を遺して官没された。
[参考文献]
永島福太郎『奈良文化の伝流』、同『奈良』(吉川弘文館『日本歴史叢書』三)
(永島 福太郎)
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