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  10. 恭仁京

ジャパンナレッジで閲覧できる『恭仁京』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

世界大百科事典・日本大百科全

改訂新版 世界大百科事典
恭仁京
くにきょう

奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市に営まれた。740年(天平12),九州で藤原広嗣の乱が起こったのを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月21日の勅によって宣された正式名称は大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)。造営開始から丸3年を経た743年末には,並行して紫香楽宮(しがらきのみや)が造りはじめられたことなどのために費用がかさんで造作が停止され,翌年2月20日,紫香楽へではなしに難波(なにわ)への遷都が行われて廃都になった。短命な都ではあったが南北9条,東西8坊のプランで建設が進められたと推定される。ただし,広い平地に恵まれないところであるため,賀世(かせ)山,すなわち今日の鹿背(かせ)山丘陵を挟んで,左京4坊は木津川市の旧加茂町の盆地に,右京4坊は同市の旧山城町と旧木津町の平地に,東西に少し離れた形で営まれたとみられる。大極殿と歩廊が平城宮から移設されたが,その大極殿は,のち746年(天平18)9月に山城国の国分寺に施入された。今日,旧加茂町例幣に東西60m余,南北30m余の国分寺金堂土壇が残るが,これが恭仁宮大極殿土壇でもあったことは,1976-77年の発掘調査で確認されている。その大極殿土壇を中心とする推定2条2坊分(1060m平方)の恭仁宮域は,左京9条4坊の北端中央にあたる。一方,右京9条4坊は,奈良盆地中ッ道の北延長線上にあたる,今日の木津市街を貫く古道〈作り道〉を中心軸として営まれたと推定される。作り道が泉川(木津川)を渡る位置には,行基によって泉橋が建設され,またその北橋畔には泉橋寺が営まれた。東西市も平城京から移設され,また宅地の班給も行われていた。恭仁京への遷都の理由としては,広嗣に呼応する可能性がある藤原氏勢力の地盤を離れるため,橘諸兄の本拠地への誘致を受け入れたとみる考えが有力である。水路としての木津川に直接臨む地理的位置の有利さも考慮されたと思われる。
[足利 健亮]

[索引語]
大養徳恭仁大宮 恭仁宮


図-恭仁京推定図
図-恭仁京推定図



日本大百科全書(ニッポニカ)
恭仁京
くにきょう

奈良時代の都京。山城 (やましろ)国相楽 (そうらく)郡恭仁郷(京都府木津川 (きづがわ)市加茂町例幣 (かもちょうれいへい))にあり、大養徳 (やまと)恭仁大宮ともよぶ。740年(天平12)藤原広嗣 (ひろつぐ)の乱が起こると、聖武 (しょうむ)天皇は突如東国へ出幸し、乱鎮定後も平城 (へいじょう)に帰らず、恭仁京の造営を始め遷都、平城宮の大極殿 (だいごくでん)、回廊を移建した。発議者は右大臣橘諸兄 (たちばなのもろえ)とみられる。近江 (おうみ)国甲賀郡に紫香楽宮 (しがらきのみや)をつくると、743年恭仁造作を停止したが、翌年難波 (なにわ)遷都を企て、恭仁宮の内印、駅鈴を移して皇都としたものの、天皇は難波から紫香楽へ幸し、745年ふたたび平城へ還都した。翌年恭仁宮の大極殿は山背国分寺 (やましろこくぶんじ)に施入となった。鹿背山 (かぜやま)の西道を基準に左京と右京が離れて設定され、宮は左京の中央北端に位置するらしい。1976年(昭和51)以後の発掘調査で大極殿基壇が確認された。

[八木 充]



山城国分寺跡(恭仁京跡)[百科マルチメディア]
山城国分寺跡(恭仁京跡)[百科マルチメディア]

塔跡。国指定史跡 京都府木津川(きづがわ)市©木津川市教育委員会
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検索コンテンツ
1. 恭仁京画像
日本大百科全書
ろつぐの乱が起こると、聖武しょうむ天皇は突如東国へ出幸し、乱鎮定後も平城へいじょうに帰らず、恭仁京の造営を始め遷都、平城宮の大極殿だいごくでん、回廊を移建した。
2. 恭仁京画像
世界大百科事典
契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月21日の勅によって宣され
3. 恭仁京
日本史年表
741年〈天平13 辛巳③〉 8・28 平城京の東・西市を 恭仁京 に移す(続紀)。
4. くに‐の‐みやこ【恭仁京】
日本国語大辞典
奈良時代、聖武天皇が一時都とした地。現在の京都府相楽郡加茂町瓶原(みかのはら)一帯。天平一二~一六年(七四〇~七四四)の間、造営がつづけられたが、難波遷都が急に
5. くにきょうあと【恭仁京跡】京都府:相楽郡/加茂町
日本歴史地名大系
天平一六年二月には再び難波宮(現大阪市)を皇都とする旨が発せられているから、恭仁京は四年ほどの短命の都であった。「続日本紀」によって恭仁京造営の様子をみると、天
6. くにきょう‐し[くにキャウ‥]【恭仁京址】
日本国語大辞典
京都府相楽郡加茂町にある、聖武天皇天平一二年(七四〇)一二月から同一六年二月までの都址。くにのみやこし。クニキョーシ
7. 恭仁京プラン復原図[図版]画像
国史大辞典
恭仁京域の復原 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
8. 山城国分寺跡(恭仁京跡)[百科マルチメディア]画像
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塔跡。国指定史跡 京都府木津川きづがわ市©木津川市教育委員会
9. 恭仁京 : 図-恭仁京推定図画像
世界大百科事典
10. 安積親王
世界大百科事典
744年閏1月11日,天皇は恭仁(くに)京から難波京に行幸し,安積も従ったが,途中桜井頓宮より脚病のため恭仁京の自宅へ帰り,13日に没した。暗殺された疑いがある
11. あさかしんのう【安積親王】
日本人名大辞典
天平(てんぴょう)16年閏(うるう)1月11日聖武天皇の難波(なにわ)行幸にしたがったが,脚の病気のため恭仁京(くにきょう)にひきかえし,13日に没した。17歳
12. いしはらのみや【石原宮】
国史大辞典
その所在地は『山城志』は相楽郡河原村とするが、より恭仁京に近い現在の京都府相楽郡和束町石寺とする説が有力である。 [参考文献]大井重二郎『上代の帝都』、足利健亮
13. 逸文(風土記) 438ページ
日本古典文学全集
の雷の  岡田鴨神社(延喜式内社)が京都府相楽郡加茂町に存する。現社地は多少移動しているが、恭仁京跡を対岸に望む木津川南岸の地。木津川(泉川)。西流し木津で北流
14. 逸文(風土記) 444ページ
日本古典文学全集
和銅元年九月庚辰日条)とあり、「山背国相楽郡恭仁郷を経略す」(聖武天皇、天平十二年十二月戊午条)とある恭仁京のクニ。現在の相楽郡加茂町。鹿背山(二〇三)が相楽郡
15. うきょう【右京】
国史大辞典
は左京と右京に分かれていたのであろう。藤原・平城・長岡・平安の諸京でも左右両京があり、その間恭仁京では地形上の無理をしてまで賀世山西道から東を左京、西を右京とし
16. おうみのくに【近江国】画像
国史大辞典
その遺構と考えられるものが大津市瀬田神領町の神領団地近傍で発掘された。聖武天皇の時代に都が山城国恭仁京にうつされ、さらに天平十四年(七四二)近江国甲賀郡紫香楽(
17. 大野東人
日本大百科全書
節大将軍として諸道の兵1万7000人を率いて西下し、動乱を平定。翌年従三位じゅさんみに進み、恭仁京くにきょう遷都(740~744)にあたり、大養徳やまと国守兼平
18. 大野東人
世界大百科事典
ちに持節征夷大将軍に任ぜられ,兵1万7000を率いて西下,11月にこれを討った。翌年従三位,恭仁京(くにきよう)行幸に際して平城京留守を命ぜられる。女は藤原永手
19. おおののしょう【大野庄】京都府:相楽郡/加茂町/大野村
日本歴史地名大系
木津川南岸の地を荘域としたと思われる。天平一三年(七四一)聖武天皇によって大野の地から対岸の瓶原(恭仁京)に橋が架けられたが(続日本紀)、それによってこの付近を
20. おおのむら【大野村】京都府:相楽郡/加茂町
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惣七百五十人」とある鹿背山東の橋とは、大野村域付近より木津川の対岸恭仁京のあった瓶原に架けられた橋であったと思われる。平安時代に大野の地が大野橋庄とよばれる(長
21. おかざきむら【岡崎村】京都府:相楽郡/加茂町
日本歴史地名大系
東には流ヶ岡があるが、「西北部ハ土地平坦ニシテ田圃多シ、而シテ人家ハ村ノ中央稍西」にあった(京都府地誌)。恭仁京大内裏の南西にあたり、また甕原離宮は岡崎村域と東
22. おかだごう【岡田郷】京都府:相楽郡/加茂町
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含む広域名として岡田があり、岡田郷ともよばれていたのかと思われる。岡田離宮の地は不明であるが、もしのちに恭仁京の設けられた瓶原にあったとするなら、木津川北側の瓶
23. おくはたむら【奥畑村】京都府:相楽郡/加茂町
日本歴史地名大系
村であったと伝える(京都府地誌)。山城国分寺跡(恭仁京跡ともされる)の北東にあたり、恭仁京と近江信楽(現滋賀県甲賀郡信楽町)を結ぶ古道(恭仁京東北道)にあたるた
24. 海住山寺
世界大百科事典
京都府木津川市の旧加茂町にあり,恭仁京(くにきよう)跡を見下ろす山上に位置する真言宗智山派の寺。補陀落山と号する。開創は735年(天平7)東大寺良弁と伝える。1
25. かせやま【鹿背山】京都府:相楽郡/木津町/鹿背山村
日本歴史地名大系
山背の鹿背山のまに 宮柱太敷きまつり 高知らす布当の宮は(下略)と歌われる。「布当の宮」は久邇新京(恭仁京)の内裏である。恭仁京は天平一二年(七四〇)の暮から三
26. 甲子夜話 5 113ページ
東洋文庫
又古昔と云者は、『日本史』聖武紀、詔二天下一毎レ国置二金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺司又殿二恭仁京大極殿一施二国分寺一など見ゆれば、是等を引くか。然れども安
27. 上狛北(かみこまきた)遺跡[考古学]
イミダス 2018
(みやこ)をおいた恭仁京(くにきょう)の京域(右京)にあたる。なお京域は居住空間、宮域は役所と内裏(だいり)の空間である。京都府埋蔵文化財調査研究センターが調査
28. 加茂(京都府)画像
日本大百科全書
からの遷都を図って恭仁京くにきょうを開いたが、4年ほどで廃都となり、大極殿跡に山城(背)国やましろのくに国分寺が置かれた。金堂と塔の礎石が残り国史跡に指定されて
29. かもがわ【賀茂川】
国史大辞典
なお古くは現在の木津川が、流域の相楽郡にあった岡田鴨神社にちなんで鴨川とも呼ばれており、『続日本紀』には恭仁京の建設された天平十五年(七四三)、鴨川を改めて宮川
30. かわらむら【河原村】京都府:相楽郡/加茂町
日本歴史地名大系
東は岡崎村に接する。恭仁京の大内裏跡ともいわれる山城国分寺跡の南に位置し、早くから開けた地と思われる。村内に大門・東大門・吹上(京都府地誌)、朱雀(相楽郡誌)な
31. きづ【木津】
国史大辞典
して大きな意味をもち、その関係史料は『正倉院文書』の中に多くみられる。天平十二年(七四〇)に恭仁京が木津の近辺に造営されるのは、この地が風光明媚であったことに加
32. 木津川[市]
世界大百科事典
高の3割を占める。伝統産業として加茂焼もある。740-744年(天平12-16)に聖武天皇の恭仁京(くにきよう)が置かれた地で,山城国分寺もあり,その東の銭司(
33. きづがわ【木津川】京都府:総論
日本歴史地名大系
久迩新京〓歌二首」の「反歌五首」にも、恭仁京(跡地は現相楽郡加茂町)における泉河の役割を示す歌がある。木材輸送の動脈としての木津川沿いには津が設けられ
34. 京都[府]画像
世界大百科事典
都は平安京跡(京都市)をはじめとして歴史時代の著名な遺跡や文化財が多く,長岡京跡(向日市),恭仁京(くにきよう)跡(木津川市)などの古代都京址,高麗寺跡(木津川
35. きよたきかいどう【清滝街道】大阪府:守口市
日本歴史地名大系
清滝街道を前述の田原・川原を経てさらに東進すると、天平一三年(七四一)当時の都である南山城の恭仁京(現京都府相楽郡木津町・賀茂町)に至る。「天平十三年記」にみえ
36. くちはたむら【口畑村】京都府:相楽郡/加茂町
日本歴史地名大系
、信楽街道が山地に入る入口にあたる。古くは北隣の奥畑村と一村であったと伝える(京都府地誌)。恭仁京跡ともされる山城国分寺跡の東北にあたり、近江と結ぶ信楽街道沿い
37. くにごう【恭仁郷】京都府:相楽郡/加茂町
日本歴史地名大系
一二月六日条に「山背国相楽郡恭仁郷」とあるのみで、ほかには記述がない。おそらく恭仁郷の地には恭仁京が営まれたため、郷は廃されたものと考えられる。
38. くにのみや【恭仁宮】画像
国史大辞典
都は難波に移され、恭仁宮の宮都としての地位は失われた。十七年五月、平城京への還都が決定すると、恭仁京の市人は争って平城に移り、十二月には恭仁宮の兵器も平城に運ば
39. くにのみやけ【久邇宮家】画像
国史大辞典
王寺宮里坊の地に、賀陽宮の称は宮邸内に榧の老樹のあったことにちなむものであり、新号久邇宮は、恭仁京のあった山城国相楽郡恭仁の地名に由来し、その地が一乗院由緒の土
40. こうかぐん【甲賀郡】滋賀県
日本歴史地名大系
七四二)二月五日条には「始開〓恭仁京東北道〓、通
41. こうかでら【甲賀寺】滋賀県:甲賀郡/信楽町
日本歴史地名大系
狭・越前寺院神社大事典〉〔総国分寺〕「続日本紀」天平一四年(七四二)二月五日条に、聖武天皇は恭仁京(現京都府加茂町)から甲賀郡への道を開いたことがみえ、同年八月
42. こうがぐん【甲賀郡】
国史大辞典
『和名類聚抄』によれば、本郡には老上・夏身・山直・蔵部の四郷があった。天平十四年(七四二)に恭仁京から甲賀郡に通ずる道が開かれて紫香楽に離宮が造られ始め、同十六
43. こせの-なてまろ【巨勢奈〓麻呂】
日本人名大辞典
666/670−753 奈良時代の公卿(くぎょう)。天智(てんじ)天皇5/9年生まれ。巨勢人(ひと)の子。参議,恭仁京(くにのきょう)造宮卿などを歴任し,天平(
44. 巨勢奈弖麻呂
世界大百科事典
造仏像司長官,民部卿,神祇伯,大・中納言を歴任。739年(天平11)には参議として朝政に加わる。恭仁京(くにきよう)造宮卿を務め,紫香楽宮(しがらきのみや)行幸
45. 碁太平記白石噺(浄瑠璃集) 637ページ
日本古典文学全集
もがりと称する竹垣。山城国相楽郡瓶原村(現、京都府相楽郡加茂町)沿いの地。瓶原宮が設けられた恭仁京(七四〇~七四四まで聖武天皇が滞在)が置かれた。「みかの原わき
46. 催馬楽 6ページ
東洋文庫
袖つくばかりや 浅けれど ハレ 浅けれど 恭仁の宮人や 高橋わたすアハレ そこよしや 高橋わたす (2) 恭仁京遷都は、奈良時代、聖武天皇の天平十三年(七四一)
47. 催馬楽 32ページ
東洋文庫
。広瀬川は、平城京からは恭仁京とちょうど反対方向(南西)の大和国広瀬郡(現北葛城郡)を流れる川。天平六年の朱雀門の歌垣の際の「広瀬曲」の本地か。 [恭仁の宮人]
48. 催馬楽 121ページ
東洋文庫
京都府相楽郡の西部。恭仁京の西に接し、木津川が西から北へと蛇行する流域が、和名抄に大狛郷・下狛郷と出るあたりである。古来高麗系の渡来人の居住地域だった。長屋王家
49. 催馬楽 198ページ
東洋文庫
垂らしただけだったというようなことを言うものかも知れない。 *聖武紀天平十三年(七四一)正月、「天皇、始めて恭仁京に御しまして朝を受けたまふ。
50. 催馬楽 274ページ
東洋文庫
◆(青馬45)七四〇◆◆一二・一〇◆藤原広嗣の乱。伊勢国巡幸。◆鈴鹿川57七四一◆◆一三・一◆恭仁京遷都。宮の垣未完成で、帷帳をめぐらししのぐ。◆我家60
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