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鶴岡八幡宮

ジャパンナレッジで閲覧できる『鶴岡八幡宮』の国史大辞典・日本歴史地名大系のサンプルページ

国史大辞典

鶴岡八幡宮
つるがおかはちまんぐう
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表する大社である。祭神は応神天皇・比売(ひめ)神・神功皇后の三柱。草創は康平六年(一〇六三)八月源頼義が石清水八幡宮の分霊を勧請し、由比(ゆい)郷に祀った由比若宮(現、元八幡宮)にあり、永保元年(一〇八一)二月には源義家が修復している。治承四年(一一八〇)十月、源頼朝はこの社を小林郷の北山(現、下拝殿付近)に遷座し、現在の鶴岡八幡宮の礎とした。寿永元年(一一八二)三月、当宮への参詣道(若宮大路・段葛)を造り、四月には社前に池(俗称、源平池)を造営した。文治三年(一一八七)八月には放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬(やぶさめ)が催され、この神事は当宮の初例となった。しかし、徐々に社容をととのえた当宮も建久二年(一一九一)三月の大火で諸社殿は灰燼に帰してしまう。この復興にあたり頼朝は、同年十一月、後山中腹に本宮(上宮)を造営し、石清水八幡宮を勧請して、規模や装いの新たな鶴岡八幡宮を創建した。鎌倉幕府の行事や年中行事なども当宮が中心となって行われ、歳首には将軍みずから参詣するのを例としている。祭祀を司ったのは真言宗系の僧侶(供僧(ぐそう))たちで、のちに二十五名が任じている。供僧の長にあたる鶴岡一山の最高責任者を別当(社務職)といい、初代の別当は園城寺の円暁(頼朝と従兄弟)であった。一方、神式の行事を司祭する神主の職も建久二年十二月におかれ、初代神主は大伴清元で、以来、大伴家は明治維新に至るまで神主職を継承した。ちなみに、別当・供僧・神主を除いた八幡宮の職員構成は、小別当一人、御殿司二人、小宮神主、巫女八人、職掌(神人)八人、承司二人などであった。こうして八幡宮は鎌倉時代を通じて最も栄えた。元弘三年(一三三三)五月鎌倉幕府は滅亡するが、その後は足利尊氏によって社領が寄進され、また鎌倉公方足利基氏をはじめ氏満・満兼・持氏・成氏の五代も修造に意を用い、禁制を定めるなどして、境域の神聖さを保とうと努力した。永正九年(一五一二)八月、伊勢長氏(北条早雲)ははじめて八幡宮に参じ、当宮および鎌倉の復興に意欲を示したが、これを実現したのは北条氏綱で、天文元年(一五三二)から同九年にかけて大造営を行なった。社殿は極彩色で壮麗に装われ、銀の懸魚(けぎょ)が取り付けられた。この氏綱以来、歴代の小田原城主は旧来どおり当宮社領を安堵または寄進し、当宮を尊崇した。天正十八年(一五九〇)七月に小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉も当宮の修造に意を用い、その造営を徳川家康に命じた。家康は彦坂元正をして修造させたが、全体の造替計画が実現しないうちに没したため、秀忠があとを継ぎ、寛永三年(一六二六)に大塔・護摩堂以下の諸堂・末社を竣工させた。寛永五年八月には当宮社中の法度十一ヵ条が定められ、社殿小破の時は修理を加えさせ、供僧・諸役人らの怠慢をいましめ、神聖なる境域の保持に努めさせた。しかし、文政四年(一八二一)正月の大火で、上宮を中心とした諸堂をことごとく焼失し、供僧十二院のうち九院も類焼した。この再興は文政十一年八月に完了し、同九月に正遷宮が行われている。現存の主な社殿はこの文政度の再建にかかるものである。明治元年(一八六八)三月の神仏分離令にもとづき、当宮は同三年五月までにこれを断行し、ほぼ現在のような社容をみるに至った。現在の社殿は本宮(上宮)・若宮(下宮)・下拝殿(舞殿)・社務所・直会殿、それに末社の武内社・丸山稲荷社・白旗神社・祖霊社・旗上弁財天社と、境外末社の新(今)宮・由比若宮などから成っている。また、国宝の籬菊螺鈿蒔絵硯箱、重要文化財の木造弁才天坐像など、多くの社宝を伝えている。境内は国史跡。例祭は九月十五日・十六日。
[参考文献]
『鎌倉市史』社寺編、宮地直一『八幡宮の研究』、中野幡能『八幡信仰史の研究(増補版)』、貫達人『鶴岡八幡宮』(『美術文化シリーズ』一〇四)、伊藤清郎「鎌倉幕府の御家人統制と鶴岡八幡宮」(『国史談話会雑誌』豊田・石井両先生退官記念号)、外岡慎一郎「鎌倉時代鶴岡八幡宮に関する基礎的考察」(『中央史学』三)

社領

 相模・武蔵両国の約六十数ヵ所など、東国を中心に存在したが、その消長は鎌倉の盛衰と軌を一にした。鎌倉時代の社領はすべて幕府の寄進によって成立しており、当宮が幕府の強力な保護下で維持されたことを物語っている。承久の乱以降に成立した社領の多くは闕所地が充てられ、北条氏はこれら社領を通じて全国的に勢力を扶植していった。鎌倉幕府滅亡後は、足利尊氏が社領の寄進・安堵を行なって神威を保ち、鎌倉公方の治政まで社領はほぼ安泰であったが、室町時代中ごろになると当宮は経済的に逼迫したようで、社領を売却している。宝徳二年(一四五〇)鎌倉公方足利成氏は徳政を行い、売却された社領を小別当に返付した。天正十八年(一五九〇)の社領は永千百七十貫百二十一文で、領地は相模国四ヵ所、武蔵国七ヵ所に散在するだけとなり、翌十九年には、徳川家康は社領を鎌倉内の雪ノ下・乱橋・扇ヶ谷・本郷(大町)・浄明寺にまとめて安堵したが、貫高は八百四十貫四百五十文に減少した。この高は江戸時代を通じて増減せず、明治四年(一八七一)の社領の上地まで存続した。
[参考文献]
『鎌倉市史』社寺編・史料編一、外岡慎一郎「鎌倉時代における鶴岡八幡宮領の構成と機能」(『日本歴史』四一八)、湯山学「続鶴岡八幡宮文書考」三(『政治経済史学』二二六)
(三浦 勝男)




日本歴史地名大系

神奈川県:鎌倉市雪下村 > 鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮
つるがおかはちまんぐう

[現]鎌倉市雪ノ下二丁目

鎌倉市の中央部、大臣だいじん山の南麓に鎮座する。もと神仏習合で、明治三年(一八七〇)の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮いまみやわかみや・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県宇佐うさ・京都府石清水いわしみず両宮とともに全国の八幡宮を代表する大社。源家の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた。祭神は応神天皇・比売神・神功皇后の三柱。旧国幣中社。

〔鎌倉前期〕

「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一〇月一二日条によると、当宮は康平六年(一〇六三)八月、源頼義が奥州の安倍貞任征伐を記念し、ひそかに石清水八幡宮分霊を勧請して由比ゆい郷に祀った社(由比若宮)に始まり、永保元年(一〇八一)二月には源義家がこれを修復している。その旧跡は現材木座ざいもくざ一丁目にある元八幡宮と伝える(以下、出典を明示しない場合は「吾妻鏡」による)。治承四年一〇月一二日、源頼朝はこの社を小林こばやし郷の北の山(現在の下拝殿付近)に遷座した。簡素な仮の建物であったが現在の鶴岡八幡宮の礎である。一六日、頼朝は東下する平家の軍勢に対処するため駿河国に向かうとき、当宮の供僧に命じ法華経・仁王経・最勝王経などの鎮護国家三部妙典や大般若経・寿命経などを長日勤行させ、戦勝を祈り、同時に御供料所として相模国桑原くわはら(現小田原市)を寄進した。僧侶が読経をしたことは、創建当初から石清水八幡宮寺とまったく同様の神仏習合であったことを示す。祈祷に奉仕した供僧は伊豆走湯そうとう山の住僧であったらしいが、頼朝は一二月四日、最初の鶴岡供僧職に阿闍梨定兼を補任した。

一六日には若宮に鳥居を建立し、頼朝は供僧に長日の最勝王経講讃を始行させ、自らも同席した。養和元年(一一八一)五月一三日「松柱に萱の軒」という簡素な若宮の改築が計画され、材木の沙汰があった。奉行は土肥実平・大庭景義ら。六月二七日用材の柱一三本・虹梁二支が由比ガ浜に到着、七月三日営作の沙汰があったが、鎌倉に工匠がいなかったので武州浅草あさくさ(現東京都台東区)から大工の郷司を召すこととし、八日の大工到着と同時に造営を開始、二〇日上棟、八月一五日竣工し、頼朝が臨席して若宮遷宮が行われた。寿永元年(一一八二)三月一五日、頼朝は政子の安産祈願のため社頭から由比ガ浜に至る道の曲横を直して参詣道(段葛・若宮大路)を造り、四月二四日には社前の水田(絃巻田)三町余の耕作を止め、池に改めた。俗称源平げんぺい池である。奉行は良暹・大庭景義らで、五月一五日にはこれに板橋(赤橋)を架けている。徐々に整備された当宮若宮の正式な別当に任じたのは近江園城おんじよう寺の法眼円暁で九月二三日のことであり、二六日には鶴岡の西麓に別当坊が造営されて立柱・上棟し、頼朝が臨席した。奉行は大庭景義。

元暦元年(一一八四)一月一日条に「廻廊」とあるから、この頃までに若宮廻廊が造営されていた。七月二〇日には若宮の傍らに社壇が新造され、当宮最初の末社である熱田あつた大明神も勧請された。頼朝や御家人らが参列して盛大に遷宮が行われ、相模国内の一村が貢税料所として寄進された。出縄いでなわ(現平塚市)内の一村とみられている。文治二年(一一八六)四月八日源義経の妾静が若宮廻廊で歌舞し、同三年八月九日社中の掃除が行われて流鏑馬の馬場が造られ、一五日には頼朝が参席して放生会と流鏑馬が催された。放生会は魚や鳥などの生物を池や野原に放つ法会。日本では宇佐八幡宮で行われたのが初例で、とくに石清水八幡宮の行事が名高く、後世、陰暦八月一五日に八幡宮の神事として行われるに至った。当宮の法会は石清水八幡宮を模して催された最初の例である。「増鏡」正応二年(一二八九)の記文には「さても、石清水の流れをわけて、関の東にも、若宮ときこゆる社おはしますに、八月十五日、宮この放生会まねびておこなふ、そのありさま、まことにめでたし」とある。流鏑馬は馬を走らせながら馬上から鏑矢で的を射る武技で、鎌倉時代に当宮や由比ガ浜などでしばしば行われた。この文治三年の流鏑馬が当宮の初例で、「吾妻鏡」には「射手五騎、各先渡〓馬場〓、次各射訖、皆莫〓〓〓的」と記されている。同四年一〇月二〇日には流鏑馬の馬場辺りに当宮警固のための小屋が建てられた。これよりさき、八月二三日に岡崎義実は罰として「鶴岡勝長寿院等之宿直」を一〇〇日間勤仕するよう頼朝に命ぜられていることや、建保六年(一二一八)九月一三日条には敬神あつい宿直人が毎夜当宮を警固していたとある(宿直人は一四日廃止)。また建久五年(一一九四)一二月二日、頼朝御願の寺社に奉行人を置いたとき、当宮には大庭景義・安達盛長・藤原季時・清原清定があてられ、建仁三年(一二〇三)一一月一五日の定では北条義時・和田義盛・清原清定となっている。当時の当宮がいかに尊崇されていたかを物語っていよう。

文治五年四月三日、三島みしま社祭が催されているので、この頃には伊豆三島大明神が末社に勧請されていた。六月九日には当宮の傍らに五重塔婆が完成し、落慶供養が盛大に行われた。頼朝が亡母藤原氏の冥福を祈願し建立したもので、三月一三日に九輪をあげ、五月八日塔婆に朱丹が塗られている。建久二年三月四日、小町大路こまちおおじ辺りから出火した火災は当社域にも及び、五重塔婆・若宮神殿・廻廊・経所など諸社殿が灰燼に帰し、僧坊も少々焼失した。「吾妻鏡」は「余炎如〓飛而移〓于鶴岡馬場本之塔婆〓、此間幕府同災、則亦若宮神殿廻廊経所等悉以化〓灰燼〓」と記している。六日頼朝は焼跡の礎石を拝して涕泣したが、即刻別当坊に円暁をたずね再建について指示し、八日には若宮仮殿の造営が始まり、一三日夜には円暁らによって仮殿遷宮が行われた。頼朝はこの火災を機会に後山の中腹を切開き、改めて石清水八幡宮を勧請して本宮を創建しようと社殿の造営を始めた。四月二六日上棟。これが現在の本宮(上宮うえのみや)の起りで、これまでの当宮若宮の社殿は若宮または下宮したのみやと称された。八月二七日には若宮・熱田社・三島社・廻廊などが上棟、一一月二一日、本宮に新たに石清水八幡宮の神体が勧請され、若宮・末社などの遷宮が盛大に行われ、京の楽人多好方らが宮人曲を奏している。このとき武内たけのうち社・高良こうら社なども勧請されたとみられる。規模や装いを新たにした鶴岡八幡宮を創建したのである。

頼朝は自ら神祇崇敬の実を示すと同時に、当宮を鎌倉武士の精神的団結をはかる拠所としたと考えられる。以来歴代の将軍はもとより、武将や庶民に至るまであつく敬信された。幕府の儀式や年中行事なども当宮が中心となって行われた。歳首には将軍自ら警衛の兵を伴い参詣するのを例とした。建久三年七月一二日頼朝が征夷大将軍に任ぜられると、その除書を携えて勅使中原景良・同康定らが鎌倉へ下向したのが二六日、このとき頼朝は三浦義澄に命じ、当宮において除書を勅使から拝受させている。建保六年三月一八日、勅使中原重継が将軍源実朝の左近衛大将兼任の宣旨を持参した際も、まず「鶴岳宮廻廊」に着いているし、建保七年(一二一九)一月二七日の実朝右大臣拝賀の儀式も当宮で行われた。このとき実朝は公暁に殺害された。こうした社頭での儀式は、関東公方足利氏も倣い継承している。行事としては既述の放生会・流鏑馬をはじめ、修仏事・臨時祭・神楽・競馬・相撲などや四季問答講も随時もしくは恒例的に催された。

当宮の祭祀をつかさどったのは、石清水八幡宮寺と同様、真言宗系の僧侶たちであった。既述のように、頼朝は治承四年一二月、上総国から阿闍梨定兼を鎌倉に召して最初の鶴岡供僧職に任命した。供僧は「供奉僧」の略称で神社に仕える僧のこと。彼らは頼朝の勢力が盛んになるにつれて増加し、のちには最勝王経衆・大般若経衆・法華経衆・供養法衆各六名、諸経衆一名の計二五名が任じ、八幡宮の祭祀を奉事した。供僧の中には平家一門の生残りが有力武将の推挙で任命されている例が少なくない。供僧の長にあたり、鶴岡一山の最高責任者を別当(社務職)といい、初代の別当は園城寺の円暁であった。一方、神式の行事を司祭する「神主」の職も建久二年一二月に置かれ、初代の神主は大伴清元で(鶴岡八幡宮寺諸職次第など)、以来、大伴家は明治維新に至るまで神主職を継承した。仏教色のきわめて濃い神仏混淆の典型であることがわかる。ちなみに別当・供僧・神主を除いた八幡宮の職員構成は、小別当一人、御殿司二人、小宮神主、巫女八人、職掌(神人)八人(ときに一二人)、承司二人(か)などであった(吾妻鏡など)

供僧が祭祀などの主導権を握っていたことを象徴する建物が承元二年(一二〇八)に創建された神宮寺である。「神道名目類聚抄」に「社ニ附タル寺院ナリ、宮僧此所ニアリ」とあるように、本来は神社付属の寺院で、仏・菩薩が神社を守護するという意味で建立されたが、後には半独立の寺院と化した。神宮院・神願寺・神護寺・神供じんぐ寺・本地堂などとも別称された。「藤原家伝」に伝える霊亀元年(七一五)藤原武智麻呂が宇佐八幡宮に創建した気比けひ神宮寺が文献上の初例といわれる。また「武蔵風土記」にみえる神宮寺はいずれも新義真言宗で、山号を「八幡山」もしくは「八幡山阿弥陀院」と称している。「吾妻鏡」「鶴岡社務記録」などによると、当宮の神宮寺創建が企図され、三善善信を惣奉行として地曳きされたのは承元二年四月二五日で、用材は伊豆国狩野かの山に求められた。六月一九日立柱、上棟は七月五日、時の別当は三代目の定暁。造営が終わり、本尊に薬師如来像を安置し供養したのは一二月一二日。一六日には将軍実朝がこれを尊拝し、一七日には薬師像の開眼供養を行い、北条義時や大江広元が臨席した。導師は真智房法橋隆宣。承元三年一月一二日から三日間、神宮寺で初めて正月の修正会(年始の法会。天下安全などを祈願して読経した)が行われ、四月一四日には実朝の命によって同寺で一夏安居(四月一五日から九〇日間籠って修行する行事)が結ばれることになり、鶴岡供僧が奉仕した。一一月八日には常夜灯が点ぜられることになって、駿河国益頭ましず(現静岡県藤枝市)の年貢が灯油料として寄進された。ちなみに神宮寺など脇堂(千体堂・五大堂・北斗堂)の供米料所は女名おんな(恩名)厚木あつぎ(現厚木市)平尾ひらお(現東京都板橋区内か)菊名きくな篠原しのはら太尾ふとお(現横浜市港北区)などを数えるが(鶴岡脇堂供僧次第)、これらは弘安六年(一二八三)頃寄進されたとみられる。

建暦元年(一二一一)一一月一六日、北条政子は同寺に金銅製二尺の薬師三尊像を安置し、永福ようふく寺別当遍曜を導師として供養を行い、供僧職一口を置いた。翌年三月一二日、千体せんたい堂に尊勝仏供僧職一口が置かれているので(鶴岡脇堂供僧次第)、同堂創建はこの頃とみられる。仁治元年(一二四〇)二月二二日、大地震のため神宮寺が転倒し北山が崩壊したが、八月二二日には修造、本仏が安置された。弘安三年一〇月二八日の鎌倉大火でも焼亡したが、翌年四月二六日には落慶した(社務記録など)。のちの永仁四年(一二九六)・延慶三年(一三一〇)・正和四年(一三一五)などの大火で焼失しても直ちに再興されており、神社を守護する仏・菩薩を安置した同寺をいかに重視していたかがわかる。神宮寺が造替され「薬師堂」と改称されるのは寛永三年(一六二六)のことであり、神仏分離に基づき鶴岡八幡宮から姿を消したのは明治三年五月であった。

この間、建保三年八月一八日、大風雨で前浜まえはま大鳥居が転倒し、一〇月三〇日に再建された。同四年八月一九日には別当定暁が社内に北斗ほくと堂を創建し、導師忠快をもって落慶供養を執行。同七年一月二七日には社頭において将軍実朝が公暁に殺され、北条氏支配の時代を迎える。嘉禄二年(一二二六)一〇月二一日社殿の修理が開始され、上・下両宮の御正体が仮殿に移され、二七日には上宮と武内社が、一一月四日には若宮が正遷宮している(吾妻鏡・社務記録など)。貞応二年(一二二三)四月当宮を訪れた「海道記」の作者は、

鶴が岡に登りて、鳩宮に参す、緋の玉垣、霊鏡に映じて、白妙の木綿幣夜風にそよめけり、銀の鐺は朱檻を磨き、錦のつゞれは、花軒にひるがへる、暫く法施たてまつりて、瑞籬に候すれば、神女が歌の曲は、権現垂跡の隠教に叶ひ、僧侶の経の声は衆生成道の因縁を演ぶ、かの法性の雲の上に寂光の月老いたりといへども、若宮の林の間に、応身の風仰ぎて新たなり、
雲の上にくもらぬかげを思へども雲よりしたにくもる月影

と記している。仁治二年四月三日、大地震による津波のため由比ガ浜の大鳥居内にあった拝殿が流失、寛元三年(一二四五)一月一日には鳥居三基が転倒したといい、一〇月一九日に再建された(吾妻鏡・平戸記)。仁治三年秋八月に鎌倉を訪れ、一〇月まで滞在した都の隠遁者は「東関紀行」に次のように書残した。

そもそも鎌倉の初めを申せば、故右大将(頼朝)家ときこえ給ふ、(中略)営館をこの所にしめ、仏神をそのみぎりにあがめ奉るよりこのかた、いま繁昌の地となれり、中にも鶴が岡の若宮は、松柏のみどりいよいよ茂く、蘋〓のそなへ欠くることなし、陪従を定めて四季の御神楽おこたらず、職掌に仰て八月の放生会を行はる、崇神のいつくしみ本社(石清水八幡宮)に変らずときこゆ

〔鎌倉後期〕

宝治元年(一二四七)四月二五日には鶴岡北西の山麓にいま(今)みやが創建された。承久の乱で敗れ隠岐などに流された後鳥羽上皇や土御門・順徳両上皇と護持僧長賢の怨霊をなだめるためで、現新宮の始まりである。別当には僧重尊が任じ、神領として上野国片山かたやま(現群馬県多野郡吉井町)が寄進された(吾妻鏡・神明鏡など)。六月五日には三浦氏の乱で当宮境内が騒乱し、安達泰盛の兵が社内に陣を張ったりして流鏑馬舎が焼失、一一月一日同舎は再建されている。建長二年(一二五〇)五月一日上宮破損により幕府は当宮の番匠らに修理の沙汰をし、二五日から修理が始まった。翌三年三月二三日には大風雨のため若宮傍らの小宮の後崖が崩れ、松童まつどう社は転倒、高良社は西向きに、荏柄えがら社は東向きになる被害をうけたが、小別当審快らが奉行となって修復した(社務記録)。これらの小宮は建久二年(一一九一)の火災後の復興で勧請されていたとみられる。大修理は建長五年五月二三日から開始された。仮殿の営作が始められ、六月二日立柱・上棟。七月六日仮殿遷宮があり、一五日正殿立柱・上棟、八月一四日上・下両宮の修営が竣工し正殿遷宮が行われた。この日、上宮廻廊の西門脇に新たに夷三郎えびすさぶろう大明神、大黒天社も勧請され(吾妻鏡など)、当宮はあたかも総社のような性格を帯びた。同六年一月二八日、北条時頼が時宗・宗政の二児の息災延命を祈願して聖福しようふく寺を創建した際、当宮別当隆弁は同寺新熊野いまくまのに鶴岡八幡宮の御正体・正宝などを移している(吾妻鏡・社務記録など)

正嘉二年(一二五八)一月一七日、甘縄あまなわ安達泰盛亭から起こった火災で宝蔵・雪下ゆきのした別当坊・御影堂などを焼失したが、別当坊・御影堂は二二日上棟、二月八日には御影堂に御正体を遷座し、五月一四日には宝蔵が完成し神宝が納められた(吾妻鏡・社務記録)。しかし、建久以来の大火災が弘安三年(一二八〇)に発生した。まず一〇月二八日中の下馬なかのげば橋付近の中条家長宿所から起こった火事で神宮寺と千体堂が類焼(社務記録など)、一一月一四日には咒師勾当辻子じゆしこうとうずしから出火し、上・下両宮をはじめ末社・楼門・八足門・廻廊・脇堂・鐘楼・竈神殿・五大ごだい堂・北斗堂・うちの鳥居などことごとく焼亡した。上・下両宮の御正体は無事別当坊に移された(北条九代記・鎌倉年代記など)。再建は翌一五日から着手され、二九日仮殿ができ、一二月三日には仮殿遷宮が行われた。弘安四年二月七日、社家大工国末らによって正殿造営が始められ、三月一八日礎を置き、四月二六日上棟、一一月二九日正殿遷宮が行われた。再建された堂社は上・下両宮をはじめ熱田社・三島社・高良社・松童社・荏柄天神社・源大夫社・武内社・白旗社・竈神殿・楼門・八足門・神宮寺・鐘楼・上幣殿・拝殿・下幣殿・拝殿・中鳥居・脇門・廻廊などであった(鶴岡八幡宮御遷宮記・社務記録など)。これら再建の費用は御家人らに課せられている。永仁四年(一二九六)二月三日には再び上・下両宮をはじめ廻廊・北斗堂・神宮寺などことごとく焼失したが、一二月二七日復興・正遷宮。正和四年(一三一五)三月八日和賀江わかえより起きた火災によって上・下両宮や別当坊・供僧坊に至るまで灰燼に帰し宝蔵だけ残ったが、翌五年四月二八日に再建されて正遷宮が行われた(北条九代記・鎌倉年代記など)。罹災と復興の連続であるが、当宮が単に源家の氏神としての象徴的存在だけでなく、政治的に幕府ときわめて密接にかかわっていたことを物語っている。諸種の儀式や行事、後述する社領寄進などの行為においても、両者が一身同体である様子がうかがえる。

正和二年五月八日、幕府は当宮社内および近辺の下記禁制七ヵ条を別当道珍に与えている(「関東御教書案」県史二)

鶴岡八幡宮社内近辺同可禁断条々
一供僧等乱行事
一当社谷々在家人居住事
一指大刀輩出入社内事
一乗輿輩往還社内事
一放入牛馬於瑞籬内事
一瑞籬外三方堀〓穢事
一持魚鳥輩往反社頭宮中

この禁止令には建長・文永・嘉元の例にならうとあるから、遅くとも建長頃から、この種の禁制が何回となく出されていたのであろう。元徳二年(一三三〇)九月一三日にも幕府は同文のものを別当顕弁に与えている(「関東御教書」県史二)。三方堀を含めた境域の神聖さを保とうとした努力の表れであり、この精神は室町時代を経て江戸幕府にも受継がれた。

当宮社殿の修造や各種の祭祀などの経費をまかなう財源は社領である。おもな祭祀としては御供(神仏へ奉供する儀式)、仏餉(仏に供える米飯)、修正会や各種月例などの祭礼、御八講(法華経八巻を八座にわけ一巻ずつ経文の意を講説し讃美する法会)などがあり、ほかに放生会・流鏑馬・舞楽・田楽・相撲などがあげられる。供僧への給田や社僧・社人・承仕・伶人および灯油をまかなう田畠の類まで含めると、経済的裏付けとしての社領は膨大であったとみられる。

治承四年(一一八〇)一〇月、頼朝の御願として平家追討の祈祷が鶴岡若宮で行われた際、相州桑原郷が御供料所となった。ただし建長元年六月三日の関東御教書(県史一)や「鶴岡事書日記」応永七年(一四〇〇)六月の記事によって、鎌倉時代は西桑原郷だけで、同郷全体が社領となったのは同年であることがわかる。このほか相模国内でのおもな社領地をあげると、寿永二年(一一八三)二月二七日の源頼朝寄進状(県史一)にいう高田たかだ郷・田島たじま(現小田原市)があり、志田義広の反乱静謐が所願成就した際の寄進とみられている。出縄郷(現平塚市)は元暦元年(一一八四)七月二〇日、熱田大明神勧請の際に貢税料所として寄進された(吾妻鏡、応永一七年五月二六日「民部丞某等連署奉書写」県史三)北深沢きたふかさわ郷は「鶴岡八幡宮寺供僧次第」(以下「供僧次第」)善松坊重衍の項に「文治二

八―廿二―北深沢御判給之」とある。村岡むらおか(現藤沢市)富塚とみづか(現横浜市戸塚区)は頼朝が長日不断の本地供料として寄進したものであり(建久二年一一月二二日「源頼朝寄進状写」県史一)、鎌倉佐介さすけやつの屋地も頼朝の寄進で、当宮上・下両宮の修正会や月々の祭礼・御八講などの料所に宛てられていた。ただし足利氏満が当宮の修理をした際費用不足のため佐介ヶ谷屋地が修理料所に宛てられ、応永元年六月の臨時祭が中止された(事書日記)。鎌倉郡岡津おかづ(現横浜市戸塚区)は頼朝が供僧の給田としたもので(文永七年閏九月一〇日「関東裁許下知状」県史一)、当宮供僧幸猷が岡津郷地頭甲斐為成と供米田のことで争ったとき、一五石の供米を請負っていた地頭の請所停止の裁決が下っている(文永七年一二月三日「関東裁許下知状」同書)長尾ながお(現横浜市戸塚区)でも供僧賢淳らが田屋たや(同)供田の所当未進のことで幕府に訴えている(正安三年五月一六日「関東下知状」県史二)。同郷小雀こすずめ村の年貢でも、供僧良尋が地頭と争っている(正和三年一一月二日「関東裁許下知状」同書)大住おおすみ郡には弘河ひろかわ(現平塚市)があり、供僧良印が同郷地頭定証と供米未進で争っているが(嘉元二年三月一二日「関東裁許下知状」同書)、暦応二年(一三三九)四月五日の足利尊氏寄進状(県史三)では、弘河郷は「備前入道跡」として遠江国宮口みやぐち(現静岡県浜北市)地頭職とともに寄進されている。谷部やべ郷は三浦郡矢部やべ(現横須賀市)をさすのであろう。宝治元年六月二〇日、将軍藤原頼嗣は三浦泰村らの伏誅を謝し、その報賽として同郷を寄進している(「将軍藤原頼嗣寄進状」県史一)。大住郡坂間さかま(現平塚市)は鎌倉佐介ヶ谷の屋地と同様、頼朝の寄進で当宮御八講の料所であった(寿永三年六月三日「源頼朝安堵下文」同書)。「供僧次第」によると、大庭おおば御厨内の俣野またの郷・藤沢(現藤沢市)も社領であったことが知られる。なお「吾妻鏡」仁治元年(一二四〇)二月二五日条によると、幕府は鎌倉中の当宮領について三ヵ条の禁制を定め、神官がことに喜んだと記されている。

以上が鎌倉時代における相模国のおもな社領であるが、武蔵国では波羅はら〓みかじり郷・熊谷くまがや(現埼玉県熊谷市)などが、駿河国では益頭庄、入江いりえ庄内長崎ながさき(現静岡県清水市)、下野国では足利あしかが庄・同庄内粟谷あわや(現栃木県足利市)、上野国では片山庄をはじめ甲斐・上総・下総・遠江・常陸・伊勢・近江・周防・伊予・陸奥などの各国に及んでいた。かくして鶴岡八幡宮は鎌倉時代を通じて最も栄え、社殿などが罹災してもすぐ復興されてその神威を維持した。

〔室町時代〕

元弘三年(一三三三)五月、幕府を滅ぼした新田義貞は、若宮の拝殿で北条高時以下の首級を実検し、次いで神宝を披見したという。「太平記」巻一四は「義貞若宮ノ拝殿ニ坐シテ、頸共実検シ、御池ニテ太刀・長刀ヲ洗ヒ、結句神殿ヲ打破テ、重宝共ヲ披見シ給ニ」と伝えている。建武二年(一三三五)七月二五日に北条高時の子時行が鎌倉幕府の復活をはかって鎌倉に攻め入った際(中先代の乱)、八月一五日、部下の三浦時明は所願成就を祈って上総国「市東(ママ)郡」内の年貢用途五〇貫文を当宮に寄進したが(「三浦時明寄進状」県史三)、同月一九日鎌倉入りした足利尊氏に敗れて時行は逃走した。尊氏は鎌倉にとどまり、二七日には座不冷本地供料所として武蔵国佐々目ささめ郷の領家職を寄進(「足利尊氏寄進状」同書)、これによって九月二五日から座不冷の行法が再開された。二八日には上総国佐坪さつぼ一野いちのの(現千葉県長生郡長南町)を寄進したことにより(鶴岡八幡宮寺社務職次第など)、尊氏と当宮とのかかわりが深められていった。一〇月二三日には三浦高継が上総国真野まの椎津しいつ(現市原市)内の田地一町を当宮に寄せている(「三浦高継寄進状」県史三)。建武三年六月二八日、浜の大鳥居西柱に落雷し、八月二〇日夜には社内に悪党五〇余人が乱入し神宝を奪取しようとしたが、宿直の小栗十郎らが下宮で防戦し退散させた。悪党は九月二八日にも襲来し宝蔵をうかがったが、横地以下が追返している(社務記録)。この頃、社内警固のための小屋(横地小屋)が設置され宿直が置かれていた。

康永元年(一三四二)四月一一日、新宮いまみやがある谷とみられる東谷ひがしだに山宮さんぐうが上棟され、二四日からは拝殿造営が始まり、六月三日上棟、九月一三日に遷宮が行われている。東谷には供僧職一口を擁した丈六堂があったが、同堂もこの頃創建されたとみられる(社務記録・供僧次第など)。同三年八月一一日松岡まつがおか(岳)八幡宮の遷宮が行われているが(社務記録)、鎮座した場所は未詳である。足利持氏が同宮を興隆していることなどから、足利氏によって創建、勧請されたとみられ、持氏の子成氏が康正元年(一四五五)鎌倉を退去してから徐々に衰滅したようである。

康永三年一二月二六日から当宮の修理が始められたが、二八日には社内警固のための横地小屋が焼失している(社務記録)。翌貞和元年(一三四五)四月一三日に上・下両宮の仮殿遷宮が行われ、同三年一一月一日、修理完了して正殿遷宮が執行された。この修理費用は相模国内の公田に課せられた段別一〇文の段銭によっている(社務記録・鎌倉大日記など)。文和元年(一三五二)閏二月、新田義興・義宗兄弟が鎌倉を攻略した際、二八日、社頭赤橋辺りで新田・三浦勢と尊氏の将石塔義基・南宗直らが合戦(社務記録など)、九月三日には若宮小別当大庭宮能は若宮小路に架かる三ヵ所の橋を造営し、社頭の築地を修固している(「将軍足利尊氏御教書」県史三)。延文三年(一三五八)四月一一日、浜の大鳥居が上棟再建され、関東公方足利基氏も臨席して、式は盛大に行われたが(「鶴岡八幡宮浜大鳥居上棟注文案」同書)、嘉慶二年(一三八八)六月にも上杉憲方の発願によって再建されている(鎌倉大日記など)。これよりさき延文四年にも上・下両宮の修理が行われ、貞治元年(一三六二)一二月二七日には基氏は社内および付近への禁制九ヵ条を定めて別当弘賢に与えているが(「関東公方足利基氏禁制写」県史三)、このうち七ヵ条はたびたび鎌倉幕府によって発せられたのと同文である。関東公方足利氏満による当宮修理が始められたのは明徳三年(一三九二)のことで、一二月二一日には仮殿遷宮をして修理が進められ、同四年七月二六日には氏満が臨席して中鳥居が造替された(鎌倉公方九代記・社務職次第など)。この費用として関東八ヵ国に段別二〇文の段銭を課したが不足のため、御八講以下の料所であった社領佐介ヶ谷屋地の地子も充てられ、重ねて関東八ヵ国に段銭一〇文を課し、陸奥・出羽にも段銭を課している。修理が完了し、氏満・上杉朝宗などが臨席して正遷宮が催されたのは応永元年(一三九四)一二月一四日であった。なお上杉朝宗はこの頃鶴岡総奉行職に補せられている(供僧次第など)

「事書日記」によると、応永四年経蔵・北斗堂が破壊していたため、氏満から修理・新造するよう指示され、北斗堂は七月一六日に立柱・上棟、また同五年六月二三日には夷三郎明神社・大黒天社が造替され、屋根が初めて檜皮葺となった。これよりさき五月には、社頭警固が復活し神主・小別当以下当宮職員が任についたが、供僧は警固をしなかった。「事書日記」には「社頭警固事、応永五年

五月九日夜ヨリ被置始之昼夜在之、此ハ任本社例、為社家御沙汰所被定置也、人数ハ、神主、小別当、小社神主等、三綱、承仕、下部、鐘推、坂間大夫以下神官、宝蔵沙汰人等、職宰等ニ至迄、社司社官悉結番、十番ニ、一昼夜宛所警固也、依是社頭繁昌体厳重也、此時モ供僧中者任旧記警固無之」とある。

応永一一年の当宮修理は関東公方足利満兼の命でとり行われた。五月一五日、甲斐国の段別銭五〇文ずつ二ヵ年分を当宮に寄進し、鶴岡総奉行で関東管領でもあった上杉朝宗に命じて修理が進められ、一一月一四日完了、正遷宮が催された(「関東公方足利満兼御教書」県史三、鎌倉大草紙など)。同二〇年三月六日には浜の大鳥居が再建され(鎌倉九代後記など)、同二一年四月一三日には後小松上皇は院宣(県史三)を下し、御影堂を八正寺と称して御祈願寺とし、翌二二年一月二五日、別当尊賢は後小松上皇の命をうけて供僧頓覚とんがく(相承院)など二〇ヵ坊の坊号を院号に改めた(供僧次第・香蔵院珎祐記録)。また応永二三年一〇月、上杉氏憲(禅秀)が足利満隆を擁して持氏に背いた上杉禅秀の乱では、氏憲に利なく、翌二四年一月一〇日、氏憲・足利持仲以下が当宮別当坊に籠り自害した。このとき別当坊・御影堂・対屋などことごとく焼失したが、上・下両宮は無事であった(鎌倉九代後記・鎌倉大草紙など)。この後、応永二五年には別当坊が造られ(社務職次第)、同二七年五月二六日に残りの五ヵ坊が院号に改められた(供僧次第)。同二八年九月一二日若宮中の鳥居が建ち(鎌倉九代後記)、永享四年(一四三二)上・下両宮の修理が行われ(鶴岡御造営記)、同六年には西谷にしたにに別当坊が新造された(社務職次第)。この頃の鶴岡総奉行は上杉憲直であった。

永享六年三月一八日、足利持氏は大勝金剛尊像と血書願文を奉納し、武運長久と子孫繁栄などを願い、ことさら将軍義教の打倒を祈願して関東の重任を億年に担わせてほしいと祈っている(「関東公方足利持氏血書願文」県史三)。さらに同一〇年六月、持氏は子息賢王丸の元服にあたり先例による将軍の偏諱を請わず、元服の式を当宮で行い、当宮を烏帽子親にして義久と名乗らせている(喜連川判鑑など)。重要な儀式は当宮社頭で行うという鎌倉時代の慣習を関東公方足利氏が継承したことになる。「鎌倉九代後記」永禄元年(一五五八)の項でも「四月、左馬頭義氏、拝賀ノタメ鎌倉鶴岡八幡宮参詣、網代輿ニ乗ル」といい、同四年三月、上杉景虎が関東管領となって政虎と改め、当宮で拝賀の儀を行ったのも同様の意味であり、「相州兵乱記」は「管領ニ成テハ代々若宮エ拝賀アル事ナレバ、鎌倉ヘ参詣シ管領ノ悦ビヲモ遂ント思ヘドモ、彼所小田原モ無下ニ程近シ、定テ勢ヲ出シテ合戦ニ及バヽ拝賀モ叶フマジ、(中略)小田原表ヲ引テ鎌倉ヘ参詣シ、度々ノ前例ヲ尋テ拝賀儀式ヲ追ハレケル、此拝賀ト申ハ頼朝卿治承四年十月当宮ヲ建立アリシ後、代々ノ公方管領、京ノ内裏ハ程遠ケレバ、此宮へ参内ニコトヨセテ拝賀アル」と記している。宝徳元年(一四四九)第五代関東公方となった足利成氏は、毎年一月二〇日頃当宮に参詣するのを常とし、その様子は「殿中以下年中行事」に詳しい。「公方様御馬ヲバ、赤橋ノ左ノカタ、置石ノキワ、西ムキニヒカヘ申也」とか、「公方様モ役人両人モ、鳥居ノ内ヲ御透アル也」「自正面ハ無御参シテ、宮ノ左ノ御方ヲ有御廻、先白幡ヲフシヲカミ御申アツテ、其後武ウチノ御前ニテ御幣ヲ召テ、其以後本社へ御参」などとある。また、「鎌倉公方御社参次第」には永禄元年四月八日に古河公方足利義氏の当宮参詣の様子が詳細に記されている。以下に抜粋する。

一社参之次第、比企谷より道つゑ数七百六十間、赤橋までつちがため、あいむかうて二間に一づゝ、(下略)
一赤橋より西の道にまくをひき、其内に鑓二十丁、弓三十丁、ゑ具足小道具十人、まくのほかに、ゑぼしかちんの上下にて、熊皮のしきがは、大刀をはき、しこう申され候、(下略)
一置石の道に、八幡宮に向て幕をひき、其内に各ゑ具足如前、(下略)
一公方様の御ねりは、赤橋の一鳥居より御向に、社人岩瀬、御ゑいを持御迎に参候、
一下之宮にて拝殿に御神楽之間、御はきぞいの衆、ゑぼし上下にて、左右二十人、佐々木殿、かぢはら殿、一色殿、百余人、
一公方様は楼門のわきに、東御座敷之内に御神楽之間、畳二でうかさね御座、
一十三日之午刻は八幡宮御こんくに御参詣、
一神馬之事十二疋、神主請取、
一御太刀十二ふり、小別当請取、
一百貫之代物、是は院家中配分、
一御神楽銭百貫、是は八乙女請取、
一供銭六拾貫、岩瀬請取、

成氏は宝徳二年九月二一日徳政を行い、鶴岡八幡宮領のうちなんらかの理由で他に売却していた武蔵国青木あおき村内(現埼玉県坂戸市か)、相模国早川はやかわ久富ひさとみ名内(現小田原市)阿久和あくわ郷内(現横浜市戸塚区)・桑原郷内(現小田原市)・箱根山関所等々の地を当宮へ返付させている(「関東公方足利成氏御教書」県史三)。乱世という時代背景が当宮の経済を逼迫させたのであろうが、混沌とした世相に乗じて押領された社領も多かった。寛正二年(一四六一)四月二六日、関東管領上杉房顕は武蔵国内の当宮領を押領した者の名を書上げて違乱を退け、領地を当宮雑掌に渡付している例(「関東管領上杉房顕家奉行人連署奉書」同書)をみてもわかる。この傾向は永正末年頃に最も多くみられたと思われる。

この頃、当宮を多数の旅人が訪れたことと思われるが、なかでも文明一八年(一四八六)春に来詣した万里集九は「梅花無尽蔵」に、

移歩於由比浜、華表之下、厥両柱大三囲、(中略)号此浜為七里、透千度小路謁鶴岡之八幡宮、高門飛橋、回廊曲檻、雕玉鏤金、巍然不減其昔、階除有不蹈之石、以紋之亀鶴、凡眼不得視之、(中略)作八幡・大仏二詩云、千度壇連七里浜、崢〓華表奪龍鱗、回廊六十間霊地、風不鳴条宗廟神、八幡宮

と記し、同年初冬に参詣した道興も「廻国雑記」に

鶴が岡の八幡宮に参詣し侍れば、伝聞侍りしにもすぐれたる宮たち也、まことに信心肝にめいじて尊くおぼえ侍る、抑当社別当祖師隆弁僧正経歴年久し、その階弟道瑜准后号をば大如意寺といひ、両代彼職に補し侍りき、由緒無双なることを思ひ出て、神前に奉納の歌、
神もわか昔の風をわすれすは鶴かをかへのまつとしらなん

と書留め、同一九年一月に参詣した尭恵も「北国紀行」に

あくれば鶴岡へまいりぬ、霊木長松つらなりて森々たるに、玉をみがける社頭のたゝずまゐ、由比の浜の鳥居、はるかにかすみわたりて誠に妙なり、
吹のこす春の霞もおきつすにたてるや鶴か岡の松風

と記している。

鎌倉幕府倒幕後の足利尊氏の寄進をはじめ、関東公方や関東管領上杉氏や武将などからの社領寄進は続いた。相模国内では吉田よしだ(現横浜市戸塚区)南波多野みなみはだの庄内(現秦野市)戸田とだ(現厚木市)大友おおども(現小田原市)など、武蔵国内では小具おぐ(現東京都荒川区)杉田すぎた(現横浜市磯子区)・久友郷(現横浜市内か)鶴見つるみ(現横浜市鶴見区)河連かわづら(現埼玉県鴻巣市周辺)女景おんなかげ(現同県入間郡日高町)崛戸くつど(現同県大里郡大里村)など、ほかに下野・下総・上総・陸奥・常陸・遠江・甲斐国内などに及ぶ。

〔戦国時代〕

永正九年(一五一二)八月一三日、伊勢長氏(北条早雲)が三浦義同を飯島住吉いいじますみよし城に追ったとき、初めて当宮に参じ「枯る樹ニ又花の木を植添て本ノ都ニ成テコソ見メ」と詠じたという(快元僧都記)。同一三年七月、義同を滅ぼすと、鎌倉は長氏の支配下におかれると同時に鶴岡八幡宮も小田原北条氏と深いかかわりをもつようになる。同一七年、長氏の長子氏綱は鎌倉で最初に検地を行い、諸社寺の所領を安堵しているので、当宮も同様であったとみられる。この頃の諸殿は破損が著しかったとみえ、同年八月頃には廻廊・拝殿・幣殿以下が転倒し、赤橋は頽落していたのを橋本宮内丞が独力で修築したと伝える(「権律師快元神輿覚書」県史三)。これよりさき明応九年(一五〇〇)五月には、当宮が一〇余年にわたり修造がなく、破壊著しくなったため修理が行われ、夷三郎明神社・大黒天社とみられる西小社両所・神宮寺・鐘楼堂が造営されている(「法印俊朝覚書」同書)

大永六年(一五二六)一二月一五日、房州の里見実尭が鎌倉に侵入し氏綱軍と当宮付近で合戦をしたため、上宮以下諸堂が焼亡し、宝蔵が破却された(鎌倉公方九代記など)。「快元僧都記」によれば、この復興は氏綱によって企図され、以下の順で実行されたことが知られる。天文元年(一五三二)五月一八日、鎌倉代官大道寺盛昌らが使者として参り社頭の古木を調査し、一二月一七日八足門西方廊の萱葺を終え、同二年四月一一日仮殿造営始、五月一八日には仮拝殿ができている。同三年七月、上宮東西の縁下の切石を新たに築いたが、永安ようあん報国ほうこく両寺古跡の切石も集めて使用し、九月八日には八足門の柱が立った。同四年二月二一日神宮寺の指図ができ、五月二八日南の石階が築かれ、八月に上宮廻廊が完成した。同五年三月一日神宮寺造営が始まり、八月二八日には同寺仮殿遷宮が行われ、同七年六月七日武内社が再興され、一一月一五日には上宮拝殿が立柱している。この造営には総奉行大道寺盛昌以下があたり、工人は奈良・京都・鎌倉・伊豆・玉縄たまなわの番匠がたずさわった。同九年七月から絵師珠牧によって内陣の障子などに絵が描かれ、同九年一一月二一日、正殿遷宮が盛大に行われた(鎌倉九代後記・造営記など)。社殿は銀の懸魚が取付られ、極彩色の壮麗なものであった。同一四年三月一日、当宮を訪れた連歌師宗牧は「東国紀行」に

早朝先鶴が岡八幡宮参詣、松の木のまのさくらさかりにて、石清水臨時の祭舞人のかざしにおもひまがへられたり、近年御遷宮、あけの玉がきよりはじめ、見るめもかゞやく春の光、わづかにむかしおぼえたり、

と記し、同一五年仲秋の頃来鎌した北条氏康も「むさし野の記行」に

まづかまくらにまうでける、あなたこなたの古跡をながめ、八幡山より四方のけしきをながめ、(中略)すぎにし庚子のとし(天文九年)、宿願の事ありて、此宮にまうでけるが、やうやう八とせあまりにや成ぬらむとおぼえはべる、わか宮の御前にまいりて、
たのみこし身はものゝふの八幡山いのる契りは万代まてに

と記している。

天文一一年四月一一日には、同四年安養あんよう院の玉運によって再興の資が勧進されていた大鳥居が造営・落慶したが(快元僧都記など)、同二三年八月二三日には大風のため上宮の瓦が落ちたり、楼門・神宮寺・下宮などが被害を受けるなど社頭が破損している(造営記)。これよりさき氏康は、天文九年一一月二一日の法度(県史三)に続いて、同一三年六月一二日、九ヵ条の鶴岡社中法度(造営記、県史三)を定めている。

一掃除ハ一月ニ三度可致之、若無沙汰イタシ、請取之処、草生ニツヰテハ、請取者奉行可改易事
一植木ノ枝葉ニ手付ル者是アラバ、不可入、高下カラメ取ベキ事
一池之掃除ハ二月・八月年中両度、為大普請、鎌倉中人足、不撰権門棟別ニ申付、草ノ根ヲトリ、速可致之事
一サウチスベキ在所、請取之小奉行人足、出所一度相渡候者ヲ、末代共ニ請取ニ可致之事
一作道左右共ニサウチスベキ事
一社頭之上山ヘ、カリソメニモ人不可上事
一御社中可修理所、其外目懸之所コレアラバ、何時モ可致披露事
一院家中、神主小別当、就御社中ノ儀被申事是アラバ、其日ニ可遂披露事
一順礼往来ノ者、(落)書之事、カタク可停止事

なお氏綱以来、歴代の小田原城主は、従来どおり当宮社領を安堵または寄進したが、小田原衆所領役帳には、鎌倉社地・久良岐くらき杉田すぎた之内(現横浜市磯子区)・鎌倉之内として二五五貫八七二文を書上げている。これは社領高すべてでなくなんらかの役が課せられた社領のことであって、天正一八年(一五九〇)七月一七日に当宮から豊臣秀吉に提出した鶴岡八幡宮注文案(後藤文書)には、武州佐々目ささめ郷、鎌倉内、三浦大田和みうらおおたわ(現横須賀市)、武州杉田郷内、同関戸せきと郷内(現東京都多摩市)、上州館林たてばやし(現群馬県館林市)、相州長沼ながぬま郷内(現横浜市戸塚区)、武州横沼よこぬま郷内(現埼玉県坂戸市)、相州屋部やべ郷内(現横須賀市か)、武州稲目いなのめ郷内(現川崎市多摩区)・同青木郷内で都合一千一七〇貫一二一文、ほかに三〇〇駄の薪を採取できる山があったと記されているから、注文という点を考慮しても小田原北条時代における社領は、相模・武蔵両国で永一千貫文ほどは保有していたとみられる。これらは座不冷勤行(僧が座を離れることなく長日不断に行う修法)・廻御影勤行(当宮神の御影を二五坊の各坊が一ヵ月ごとに回して安置・供養する儀式)・放生会・御供・灯明油などに所用されていた。

天正一八年四月日の豊臣秀吉禁制(県史三)が下され、七月、小田原北条氏を滅ぼした秀吉は当宮の修造に意を用い、同月一七日、三浦、小机こづくえ(現横浜市港北区)、鎌倉の地下人をもって諸堂の仮葺を命じ(「早川長政・片桐直倫連署状写」同書)、社領を安堵した。同一九年五月一四日、秀吉は当宮造営を徳川家康に命じ(「豊臣秀吉朱印状」鎌倉市史史料編一)、同日、修営目論見絵図(指図)(鎌倉市史史料編一所載)が作成されているので、造営が始められたとみられるが、文禄の役のため修理は下宮だけのようで、文禄元年(一五九二)四月二〇日修理完了し、遷宮が行われた(造営記)

〔江戸時代〕

天正一九年、家康は検地を行い、同年一一月、鎌倉の諸社寺に所領安堵の朱印状を交付した。当宮では小田原北条時代に相模・武蔵両国に散在していた社領を鎌倉の内の雪下・おうぎやつ乱橋みだればし本郷ほんごう(大町)浄明寺じようみようじの各村にまとめられ、合計永八四〇貫四五〇文の地が安堵された(「徳川家康寄進状」鎌倉市史史料編一)

家康は彦坂元正に修造を命じ、慶長七年(一六〇二)二月二日、彦坂が総奉行となって釿始が行われ、当宮大工岡崎能継らが修造を担当している(慶長見聞書・「全阿弥内田正次書状」鎌倉市史史料編一など)。この工事は上宮の修営が主であったようで、同八年一〇月一日に上宮仮殿遷宮が(造営記)、同九年八月一五日に正遷宮が行われた(「鶴岡八幡宮寺棟札写」鎌倉市史史料編四)。しかし家康は当宮全体の造替計画が実現しないうちに没したため、秀忠が後を継いで元和八年(一六二二)に造営を始め、寛永元年(一六二四)一一月一五日に上・下両宮が正遷宮し、同三年に二王門・大塔・護摩堂・輪蔵・神楽殿・愛染堂・六角堂などを含めた諸堂末社が竣工した(造営記など)。享保一七年(一七三二)の鶴岡八幡宮境内図によって当時の様子を知ることができる。ただしこの造替により下宮では千体堂・北斗堂・中鳥居などが廃され、大塔・神明宮が新造され、南大門(八足門)は二王門、五大堂は護摩堂、本地堂は薬師堂と改称されるなど、堂宇の位置や名称が変えられるほどの大規模な修営であった。また末社のうち高良社は独立し、熱田・三島・三輪みわ・住吉の各社は合祀されて東四社に、天神・松童・源大夫・夷三郎の各社も西四社として合祀された。このうち、新造の大塔は多宝塔で、昭和五四年(一九七九)の発掘調査によって同塔の基礎である石組が発見されている。

寛永五年八月一日、幕府は当宮社中の法度一一ヵ条を定めた(御当家令条四)

一神事仏事無懈怠可勤仕、供僧社人社頭之諸役人等、怠慢不可有之、若於猥之輩者、可被改替其職事
一神社塔頭小破之時、随分可加修理、自然及大破者可申上事
一御供方、如前々小別当可為奉行事
一掃除之事
社中ハ、小別当神主石川、如先規可申付事、上宮は雪下門前之者、当番之社人可勤之、下宮は鎌倉中如前々、一ケ月両度、棟別可致掃除事
一供僧中事、相教相学問可相嗜事
一供僧社人、如先規可糺礼儀、違犯之輩ハ可追却事
一宮中三方堀、雪下殺生禁断事
附、籬之内於放置牛馬者、為過怠可取其牛馬、有三方堀汚穢之輩者、其堀前之家より可出過怠事
一自然於供僧社人門前之中有火事者、其近隣者私宅之難を防、其外者宮中之災可防事
一鎌倉中事、東者座禅川、西者今小路迄、如前々令停止事
附、重服之族、五十日者可住他所、又五十日者私宅可為蟄居事
一公儀御法度有違背之族者、供僧社人遂穿鑿、可致言上事
一宮中坊中之山林竹木等、於盗取族者、可処罪科事

細かく厳しい規定である。このうち「宮中三方堀、雪下殺生禁断事」は正和二年(一三一三)五月八日の関東御教書(県史二)にみえる瑞籬外三方堀を汚穢してはならぬという精神を受継いでいるといえる。

寛永一〇年一一月三日当宮を訪れた沢庵宗彭は「鎌倉順礼記」に

暮かたより社頭にきやかなる、いかにととへは、けふは霜月に入て卯日なり、神拝なるよしきこゆ、幸なりとて夜に入て社参す、拝殿には神楽はしまり、五人のおのこ八乙女、調拍子の声松にひゝき、笛鼓のしらへ肝に銘す、(中略)よるの神事ほと誠に勝たるはなし、石のきさはし高くのほりて本社に詣けれは、神主着座あり、伶人左右になみゐたり、御土器めくり、三献過て楽はしまり、左座より伶人出て舞は、音楽の響内陣も感動し、鶴岡の松の風千年の声をそへ、鎌倉山も万歳とよはふ

と、厳かに催された神事の様子を記していて、復興された当宮の姿がしのばれる。この後、当宮の修造は寛文五年(一六六五)に行われ(寛政重修諸家譜)、同八年八月一五日には上・下両宮が正遷宮し、大鳥居や二・三ノ鳥居も石造で再建された(造営記など)。次いで元禄一〇年(一六九七)二月二九日修造開始、九月二九日正遷宮。元文元年(一七三六)四月修造、九月正遷宮。宝暦三年(一七五三)三月修造、九月正遷宮。天明元年(一七八一)にも行われている(造営記など)。この間、寛文八年には金一三六両が当宮小破の修理費として幕府から与えられ、これを他に貸付けて利金を生み、修繕の費用に充てることとなり、以後五年ごとに同じく一三六両ずつ幕府から渡付されている。またこれとは別に、元文元年には金三〇〇両、文化一四年(一八一七)には金七〇〇両が下付され、これを基金として延享元年(一七四四)頃は年一割の利子で担保をとり貸付けているが、幕末には年一割二分の高利子であった(鶴岡八幡宮収納高仕訳帳など)

文化九年雪下の町家からの出火で当宮は全焼したと伝えるが(宝暦現来集)、当宮蔵の文化度神器等焼失調書によると、類焼したのは上宮・楼門・武内社・弁天・新宮と神器・宝物の類で、上宮では「御幣棚焼失一脚」「八足机焼失一脚」などといい、楼門では「御額焼失壱枚」と記され、随身像二躯は無事であった。しかし文政四年(一八二一)一月一七日夜の大火では、上宮・楼門・廻廊・武内社・白旗社・大御供所・愛染堂・六角堂・新宮社・裏御門・鳥居など、ことごとく焼失した(造営記など)。夜五つ時頃、雪下置石町あめや藤兵衛宅から出火した火は、南風にあおられて当宮楼門に飛火し上宮および諸堂を焼亡したが、神輿は廻廊の裏から英勝えいしよう寺に移して無事であった。この間の事情は大田南畝の「一話一言」巻四七に詳しい。火災後の二月一九日、長勝ちようしよう寺僧日統が語るところによると、内陣安置の御影と楼門の随身像は取出して焼失をまぬがれたが、上宮の諸堂は焼落ち、裏門と供僧一二院のうち浄国じようこく我覚ががく正覚しようがく海光かいこう増福ぞうふく慧光けいこう香象こうしよう荘厳しようごん相承そうしようの九院が類焼。一二院の中には什物を裏山に避難させたが枯草に延焼したため、残らず焼亡したという例もあった。余炎は山林に広がり、建長寺後山の観音堂を焼き、明月めいげつ院の後山から今泉いまいずみ不動(称名寺)および金沢釜利谷かねさわかまりや(現横浜市金沢区)付近までの山林三里ほどを焼払ったという。下宮の二王門・輪塔・鐘楼・薬師堂(神宮寺)・摂社や安楽あんらく等覚とうがく最勝さいしよう各院の供僧と神主大伴氏宅などは類焼をまぬがれた。

当宮の消防は鎌倉中一三ヵ村に課役され、村ごとに消火の持場が決まっていた。下宮の若宮・二王門などは名越大町なごえおおまち村が、上宮は雪下はじめ五ヵ町の持場であったが、今回は持場主付近から出火しているため、自宅の消火が精一杯で、上宮の消火まで手が回らなかったというのが実情であった(鶴岡社中火消覚)。「一話一言」は次のように伝えている。

炎上の趣、即刻江戸茅場町供僧旅宿所へ相達し、夫よりかの地御代官大貫次郎右衛門役所へ届出る、其後、同人役所より検使有之、灰除にかかる、焼亡の余材悉く灰となり、十八日十九日両日の大風にて灰を吹散して本社のあと庭掃のごとくになりて、跡に止りしは金銅及銕具類耳、皆々かますに納之、其数百に余りしと云、供僧九人は当分神主大伴宅焼残りし三院に同居す、火元のあめや藤兵衛も八幡の社人也と云、

なお文政七年の「わすれのこり」は「雪の下辺多くやける、江戸近在まで灰の飛び来ること雪の降るが如し」と記している。「鶴岡八幡宮神主大伴系譜」によると、当宮復興を寺社奉行に願出たのは文政七年一一月二六日で、同九年九月には幕命で大工頭遠山吉十郎らが下調査をし、同一〇年から再建開始、翌一一年八月二二日に造営が完了し(「鶴岡八幡宮棟札写」鎌倉近世史料)、正遷宮は九月四日であった(前掲大伴系譜)。しかし、この再興は幕府の財政窮乏のため、大筋では大造替はなかったが従前の規模どおりの復興に至らず、模様替えや省略部分もあった。それでも文政度神器等新調修復形帳(当宮蔵)によると、楼門扁額の新調から始まり、諸堂の尊像や神器・祭器類が大方調えられた。上宮では「御内陣白木御厨子、三社分、右は木地檜、宝形作り」、六角堂では「聖観音厨子入、壱体、右は御身全彩蒔直し、その外金箔押、御髪紺青塗」、愛染堂では「愛染明王、壱体、地蔵尊、壱体、右は彩也、箔とも仕直し」などとある。祖霊社・社務所・直会なおらい殿などを除く現存のおもな社殿はこの文政度の再建にかかるものである。

〔近代〕

慶応四年(一八六八)三月一二日神仏分離の布告が出され、一七日には社僧の復飾が、二八日には神社内から仏像・仏具類を取除き、神社の由緒書を提出せよと布告された。これに基づき、当宮でも神仏分離を断行し、明治三年(一八七〇)五月までには諸仏堂や存続していた一二院は取除かれ、供僧は復飾して総神主となって神職を勤めた。当時、当宮の総神主の任にあった筥崎博尹は、境内から仏教関係の諸堂を取除いた旨の届書(当宮蔵)を神奈川県庁に提出している。

鎌倉鶴岡八幡宮御社内在来の薬師堂・護摩堂・大塔・経蔵・鐘堂・仁王門、右、混淆之仏堂取除キ、仁王門跡江華表取建、内廊三面、塀垣別紙絵図面之通修理仕候、此段御届申上候、以上、
鎌倉  鶴岡八幡宮一社惣代
明治三午五月      総神主筥崎博尹(印)
神奈川御役所

この結果、諸堂の材木は古材として売却されたり、当宮に伝蔵された宝物の多くも焼却または離散した(神仏分離史料)。このうち、実朝将来の元版一切経は明治四年九月、俊海貞運尼がもらい受け東京浅草せんそう寺に寄進して現存する。このほか東京国立博物館蔵の伝源頼朝坐像は白旗しらはた神社に安置されていたものであり、五島美術館蔵の愛染明王坐像は愛染堂に、鎌倉青蓮しようれん寺蔵弘法大師坐像(以上国指定重要文化財)は一二院の等覚院本尊であり、横須賀市東漸とうぜん寺蔵地蔵菩薩坐像も松源しようげん寺の本尊であった。寿福じゆふく寺蔵二王像は当宮二王門に安置されていたし、同寺に伝わる銅造薬師如来坐像や十一面観音、および東京多摩新開しんかい院の薬師三尊・十二神将像なども同様であった。これらの社宝は一時、当宮境域外の社僧松源寺や寿福寺に移され、両寺から他出したものが多い。

明治四年には従来配当されていた社領地の上地を命じられ、大きな打撃を受けたが、同七年筥崎博尹の努力によって社殿の総修理が行われた。これよりさき、同六年四月一五日には陸軍の野外対抗演習が社前で催され、明治天皇は上宮裏の大臣山で観閲している。このとき天皇は当宮に親拝し、玉串神饌料として一〇円を下賜した。同一五年国幣中社に列し、同一八年には楼門・廻廊・瑞垣が修理され、白旗神社が現在の場所に移設された。大正一二年(一九二三)九月の震災では下拝殿・楼門・大鳥居・太鼓橋などが倒壊する大被害を受けたが(鎌倉震災誌)、昭和二年(一九二七)に現在の太鼓橋が造られ、同三年一二月には若宮造営、五年四月に楼門完成、六月上宮修理完了、同七年九月下拝殿造畢、同一〇年三月二・三ノ鳥居が鉄筋コンクリートで新造され、同一二年には大鳥居が修造されている。

現在の社殿は本宮(上宮)・若宮(下宮)・下拝殿(舞殿)、社務所・直会殿、それに既述の末社と境外末社のいま(今)みや由比若宮ゆいわかみやなどのほか、境内には神奈川県立近代美術館・鎌倉市立鎌倉国宝館・鶴岡武徳研修道場・鶴岡幼稚園などの施設がある。境内は国史跡。文化財で最も代表的な社宝は国宝の籬菊螺鈿蒔絵硯箱一合・古神宝類五領、および衛府の太刀・平胡〓・朱塗弓など三五点の古神宝、正恒銘太刀一腰などが名高く、国の重要文化財では木造弁才天坐像・菩薩面・舞楽面・長光銘太刀一腰・国吉銘太刀一腰・鶴岡社務記録二巻・鶴岡古文書一〇巻・鶴岡八幡宮修営目論見絵図一鋪・丸山稲荷社本殿・大鳥居一基など、ほかに県指定文化財など多数を伝えている。

なお当宮創建八百年記念事業の一環として社務所が増改築され、直会殿が新築されたのは昭和五五年であるが、これよりさき同五四年五月から一二月まで建設予定地の発掘調査が実施され、享保一七年の鶴岡八幡宮境内図に描かれている寛永三年造立の大塔の基礎や天正一九年の鶴岡八幡宮修営目論見絵図にみえる廻廊、創建当初のものらしい土丹敷などの遺構が検出された。次いで昭和五六年から翌年にかけて武徳研修道場建設予定地と鎌倉国宝館収蔵庫建設予定地の発掘調査も行われ、溝・土塁や方形竪穴状遺構、多数の掘立柱、その他遺物が発見されたが、とくに鎌倉時代における当宮境内の東端を限る石垣および木柵と、これに連なる土塁が検出されたことが注意される。

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1. 鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)【篇】
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 418ページ
2. つるがおか‐はちまんぐう[つるがをか‥]【鶴岡八幡宮】
日本国語大辞典
神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。旧国幣中社。祭神は応神天皇、比売神、神功皇后。康平六年(一〇六三)源頼義が石清水八幡宮を由比郷鶴岡に勧請(かんじょう)し、由比若
3. 鶴岡八幡宮画像
日本大百科全書
幕府の公的行事の場となった。鎌倉幕府の発展に伴って機構が整備され、別当、25坊の供僧ぐそうなどが置かれた。「鶴岡八幡宮寺」とも称されているように、神仏習合の典型
4. 鶴岡八幡宮
世界大百科事典
鎌倉市に鎮座。祭神は応神天皇,比売(ひめ)神,神功皇后。旧国幣中社。1063年(康平6)源頼義が安倍貞任を追討する際戦勝祈願をした石清水(いわしみず)八幡宮を由
5. 鶴岡八幡宮[図版]画像
国史大辞典
東海道名所図会 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
6. つるがおかはちまんぐう【鶴岡八幡宮】画像
国史大辞典
』、貫達人『鶴岡八幡宮』(『美術文化シリーズ』一〇四)、伊藤清郎「鎌倉幕府の御家人統制と鶴岡八幡宮」(『国史談話会雑誌』豊田・石井両先生退官記念号)、外岡慎一郎
7. つるがおかはちまんぐう【鶴岡八幡宮】神奈川県:鎌倉市/雪下村地図
日本歴史地名大系
ら一二月まで建設予定地の発掘調査が実施され、享保一七年の鶴岡八幡宮境内図に描かれている寛永三年造立の大塔の基礎や天正一九年の鶴岡八幡宮修営目論見絵図にみえる廻廊
8. 鶴岡八幡宮
日本史年表
1280年〈弘安3 庚辰〉 11・14 鶴岡八幡宮 焼失(鶴岡社務記録)。 1296年〈永仁4 丙申〉 鶴岡八幡宮 焼失(鎌倉年代記)。 1526年〈大永6 丙
9. 評定始議鶴岡八幡宮之事 (見出し語:鶴岡八幡宮【篇】)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 11ページ
10. 鶴岡八幡宮神宮寺 (見出し語:鶴岡八幡宮【篇】)
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 1722ページ
11. つるがおかはちまんぐういまみや【鶴岡八幡宮今宮】
国史大辞典
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。鶴岡八幡宮の境外末社。新宮とも書く。祭神は後鳥羽・土御門・順徳の各天皇。宝治元年(一二四七)四月、承久の乱(承久三年(一二二一))
12. 鶴岡八幡宮 社領一覧1[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
13. 鶴岡八幡宮 社領一覧2[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
14. 『鶴岡八幡宮寺供僧次第』
日本史年表
1455年〈康正元(7・25) 乙亥④〉 この頃 『鶴岡八幡宮寺供僧次第』 成るか。
15. つるがおかはちまんぐうじぐそうしだい【鶴岡八幡宮寺供僧次第】
国史大辞典
鶴岡八幡宮の祭祀職である供僧二十五坊の補任記。一冊。本書の成立は、末に「近代別当西南院弘賢御代」とあるので、鎌倉御所足利成氏が古河に移る康正元年(一四五五)こ
16. つるがおかはちまんぐうじしゃむしきしだい【鶴岡八幡宮寺社務職次第】
国史大辞典
鶴岡八幡宮歴代社務職(別当)の補任記。一冊。『鶴岡社務次第』とも略称。鎌倉時代の初代別当円暁から室町時代の第二十六代定尊までの歴代別当についての出自・法流・別
17. 鶴岡八幡宮の流鏑馬神事[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
鎌倉時代より伝統を受け継ぐ鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうの流鏑馬やぶさめ。年に二度、4月の鎌倉まつりと9月の流鏑馬神事で披露される。武士の狩装束に身を包んだ射
18. つるがおかはちまんぐう‐ぶぎょう[つるがをかハチマングウブギャウ]【鶴岡八幡宮奉行】
日本国語大辞典
〔名〕鎌倉幕府の寺社奉行の一つ。相模国(神奈川県)鎌倉の鶴岡八幡宮の修造や寺領に関することを処理したもの。
19. つるがおかはちまんぐうぶぎょう【鶴岡八幡宮奉行】
国史大辞典
中世奉行の一つで、源頼朝が主要な社寺に臨時的においたのに始まる。治承四年(一一八〇)の頼朝亭作事始の奉行大庭景義以来、建久二年(一一九一)大火後の若宮上棟奉行
20. 鶴岡八幡宮放生会
日本史年表
1187年〈文治3 丁未〉 8・15 源頼朝, 鶴岡八幡宮で初めて放生会 を行う(吾)。
21. つるがおかはちまんぐうもんじょ【鶴岡八幡宮文書】
国史大辞典
どがある。コロタイプ印刷による複製『鶴岡八幡宮古文書集』も刊行されている。 [参考文献]湯山学「鶴岡八幡宮文書考」(『郷土神奈川』一二)、同「続鶴岡八幡宮文書考
22. 鶴岡八幡宮御殿司職一方系図(著作ID:45716)
新日本古典籍データベース
つるがおかはちまんぐうごでんすしきいっぽうけいず 御殿司職一方系図 鶴岡八幡宮御殿司職一方系図 
23. 鶴岡八幡宮鐘銘并序称名寺等覚書(著作ID:4379216)
新日本古典籍データベース
つるがおかはちまんぐうしょうめいならびにしょうみょうじとうおぼえがき 寺社 
24. 鶴岡八幡宮寺社務職次第(著作ID:45727)
新日本古典籍データベース
つるがおかはちまんぐうじしゃむしきしだい 鶴岡八幡宮寺社務職次第 神社 
25. 鶴岡八幡宮図(著作ID:4365820)
新日本古典籍データベース
つるがおかはちまんぐうず 
26. 鶴岡八幡宮宝物目録(著作ID:4365821)
新日本古典籍データベース
つるがおかはちまんぐうほうもつもくろく 目録 
27. 鶴岡八幡宮寺供僧次第[文献解題]神奈川県
日本歴史地名大系
一冊 写本 東京大学史料編纂所・鶴岡八幡宮 解説 鶴岡八幡宮供僧二五坊の補任記。各坊ごとに歴代供僧の略歴・事績などを記す。記事は鎌倉時代初期から江戸時代末ま
28. 鶴岡八幡宮寺社務職次第[文献解題]神奈川県
日本歴史地名大系
国立公文書館・静嘉堂文庫・彰考館文庫・神宮文庫・鶴岡八幡宮 解説 鶴岡八幡宮社務職初代円暁から二六代定尊までの補任年次や法流・事績などを記したもの。巻末に鶴岡
29. 鶴岡八幡宮【篇】 (見出し語:八幡宮)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 418ページ
30. 鶴岡八幡宮放生會 (見出し語:放生會)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 438ページ
31. 鶴岡八幡宮臨時祭 (見出し語:臨時祭)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 441ページ
32. 鶴岡八幡宮若宮 (見出し語:若宮)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 457ページ
33. 弘安四年鶴岡八幡宮遷宮記(著作ID:176421)
新日本古典籍データベース
こうあんよねんつるがおかはちまんぐうせんぐうき 神社 
34. 祀應神天皇於鶴岡八幡宮 (見出し語:應神天皇)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 418ページ
35. あおきむら【青木村】埼玉県:坂戸市地図
日本歴史地名大系
れば鎌倉鶴岡八幡宮御供料所の「武蔵国青木村内宗興寺并慶昌庵買得之并船役同地下人等買得所々」などの沽却地が徳政によって鶴岡八幡宮に返付された。天正一八年(一五九〇
36. あおきむら【青木村】千葉県:富津市地図
日本歴史地名大系
永享二年(一四三〇)六月二七日の鎌倉公方足利持氏寄進状(鶴岡八幡宮文書)に周西郡内として青木村内田畠とみえ、持氏は簗田河内守の寄進の地である当村などを改めて鎌倉
37. あかさわむら【赤沢村】新潟県:中魚沼郡/津南町
日本歴史地名大系
もとは字石ぼとけにあったという。赤沢八幡宮は社伝によると、元弘三年(一三三三)に赤沢城主大井田氏経が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したという。大正二年(一九一三)に十二社
38. あかはしし【赤橋氏】
国史大辞典
桓武平氏。北条氏の一族。北条義時の子重時は、鶴岡八幡宮の前、若宮大路の東角の邸に住んだので、鶴岡の池にかけられた赤橋にちなみ、重時の子長時から赤橋と号したと考
39. 赤橋守時
日本大百科全書
鎌倉幕府最後の執権。出生年を1295年(永仁3)とする説もある。鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐう赤橋際ぎわに居を構えた赤橋流北条久時ひさときの子。母は北条宗頼む
40. あかみむら【赤見村】栃木県:佐野市
日本歴史地名大系
文・手継証文などとともに珍誉から弘俊に譲与されており(「珍誉譲状」同文書)、実質的には鎌倉鶴岡八幡宮の相承院領であった。文明三年(一四七一)と推定される四月一五
41. あくつはちまんじんじゃ【安久津八幡神社】山形県:東置賜郡/高畠町/安久津村
日本歴史地名大系
前身とし、康平年間(一〇五八―六五)源義家が、前九年の役・後三年の役の戦勝の報賽として鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を勧請したと伝える。また義家から源氏縁故の地として三千
42. あくわむら【阿久和村】神奈川県:横浜市/瀬谷区地図
日本歴史地名大系
柏尾線)が通る。宝徳二年(一四五〇)九月二一日の関東公方足利成氏御教書(県史三)によれば、鶴岡八幡宮御供料所のうちで徳政令によって返付を命じられたもののなかに「
43. あさくさ【浅草】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
門前集落には多数の職人も集住していたらしい。治承五年(一一八一)七月八日には源頼朝の命により鎌倉鶴岡八幡宮造営に浅草の大工が招かれ、建久三年(一一九二)五月八日
44. あさばごう【浅羽郷】埼玉県:坂戸市
日本歴史地名大系
れている。浅羽氏は鎌倉幕府御家人となり、「吾妻鏡」には文治三年(一一八七)八月一五日の鎌倉鶴岡八幡宮放生会の流鏑馬で行業の孫小三郎行光が的立を勤め、同五年の奥州
45. あさみむら【朝見村】大分県:別府市
日本歴史地名大系
後は温度が低下した。八幡朝見神社は同社の由来記によると、建久七年(一一九六)大友能直が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請、建立したという。江戸時代、別府・浜脇・田野口・朝見四
46. あさやまはちまんぐう【朝山八幡宮】島根県:出雲市/松寄下村
日本歴史地名大系
白枝村にあったという。朝山郷の地頭となった大伴氏(藤原氏とも)は朝山姓を名乗り、郷内に鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、新松八幡を合体して朝山郷の総社とした。高瀬川
47. あしかががっこうあと【足利学校跡】栃木県:足利市/足利町/足利五ヶ村
日本歴史地名大系
上杉憲実の再建、応仁元年(一四六七)長尾景人が足利庄「政所」の地から現在地に移したとされ、戦国期に鎌倉鶴岡八幡宮寺の快元が復興した。小野篁開創説は起源を古くする
48. あしかがのしょう【足利庄】栃木県:足利市
日本歴史地名大系
なった(「吾妻鏡」建久五年一一月一三日・一四日条、応永一三年七月二三日「鶴岡八幡宮一切経并両界曼荼羅供養記案」鶴岡八幡宮文書など)。建久六年義兼は出家して鑁阿と
49. あしかがみつかね【足利満兼】画像
国史大辞典
ているが、事実とすれば応永の乱以後の精神的葛藤の結果であろう。この前後に、同七年八月鎌倉の鶴岡八幡宮寺に供僧十六口を置く、十一年正月相模妙楽寺を祈願寺にする、十
50. 足利満隆
日本大百科全書
まもなく幕府の支援を受けて反撃に転じた持氏の軍勢に追い詰められ、翌1417年(応永24)正月10日、鎌倉の鶴岡八幡宮別当つるがおかはちまんぐうべっとう快尊かいそ
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神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表
恭仁京(世界大百科事典・日本大百科全)
奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市に営まれた。740年(天平12),九州で藤原広嗣の乱が起こったのを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月
遷宮(国史大辞典・世界大百科事典)
神社で、一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、また仮殿遷宮と対称して正遷宮とも称せられる。伊勢神宮の例が著明である。伊勢神宮に式年遷宮の制が立てられた年次については
橿原神宮(改訂新版・世界大百科事典)
奈良県橿原市に鎮座。神武天皇と皇后媛蹈鞴五十鈴媛命をまつる。社地は畝傍山の東南にあたり,神武天皇が宮居を営んだ橿原宮の跡という。当地はすでに元禄年間(1688-1704)に神武天皇の神廟を営もうとする動きがあったが,1888年橿原宮跡の考証ののち,民間より神社建設の請願があり
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