奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが、『正倉院文書』では、時に東寺の称号も使用している。聖武天皇の発願にかかり、天皇は天平十二年二月に河内国の智識寺に詣で、知識により造像された盧舎那仏をみて「朕も造り奉らむ」と決心したと、『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)十二月条は伝えている。天平十五年十月十五日に『華厳経』の教理にもとづき、金銅盧舎那大仏造立の詔が発せられた。この詔には律令制の頂点に立つ強大な帝権を誇示するかたわら、広く国民に助援を求めて完成を期せんとした点に、従来の官大寺とは一線を画すものがあり、国民大衆を知識として協力をたのみ、造立を果たさんとした精神は、以後、平安・鎌倉・江戸・明治各時代の再興や修理にも相承された。大仏の鋳造計画は、当初、近江国紫香楽(信楽)の甲賀寺において着手され、詔が出された四日後に、民間伝導に経験と人望の厚かった行基が弟子達を率いて勧進に出発した。翌十六年十一月には鋳造の初段階ともいえる土像の大仏が完成したが、同十七年五月紫香楽宮からの平城還都に伴い、平城京の東山にあった金鐘寺(大和国金光明寺)の寺地で、大仏造立の工事が再開された。造像の工事は、のちに造東大寺司に発展した金光明寺造仏所の手で開始され、同十九年九月から天平勝宝元年十月に至る三年間に、八回の鋳継ぎを行い、像高五丈三尺五寸の大仏像が鋳造された。昭和六十三年(一九八八)一月から行われた奈良県立橿原考古学研究所による大仏殿西廻廊西方の台地の発掘調査で、旧中門堂池(現在は湿地帯)にかけての地下より、溶解炉の破片や溶銅塊、また奈良時代の東大寺古瓦や木簡二百二十六点などが発見された。木簡の一部には、「
右二竈
一斤(投一度)」「
右四竈卅斤」「
七竈
八斤」といった鋳造にあたっての溶解炉の順序と位置を示したものや、「
竈丈部
竈波太安万呂」といった担当者名を記した小片や、「自宮請上吹銅一万一千二百廿二斤」(表)、「薬院依仕奉人(大伴部鳥上入正月
肥後国菊地郡子養郷人/大伴部稲依入正月五日)」(表)などが書かれた大形の木簡が数点あり、また小片ながら、「
主□智識」が銭二百文を進めた付札がみられる。上吹銅(熟銅)一万千二百二十二斤は宮(皇后宮)より請け取った時の注文で、年紀はないが、鋳造が開始された天平十九年九月ごろから、皇后宮が紫微中台に改称される天平勝宝元年八月の間のものらしく、「一枝の草、一把の土」の喜捨を呼びかけた大仏造立の詔に応じた光明皇后の知識物であり、薬院も同じく皇后宮職に設けられていた施薬院のことで、『続日本紀』や『東大寺要録』などにはみられない具体的な史実が明らかになった。一方、大仏殿の建立も開始され、陸奥守百済王敬福が貢上した同国小田郡の黄金で大仏の塗金も始められ、尼善光・信勝の寄進にかかる乾漆造の像高三丈の如意輪観音・虚空蔵菩薩の両脇侍像を安置し、天平勝宝四年四月九日に「仏法東帰、斎会之儀、未
嘗有
如
此之盛
」(『続日本紀』)といわれた盛大な大仏開眼供養会が行われた。開眼師には聖武太上天皇(天平勝宝元年七月に譲位)に代わって印度僧の波羅門菩提僊那、華厳経講師には隆尊、読師には延福、呪願師には唐僧の道
が、また、すでに物故していた行基に代わって高弟の景静が都講に起用された。さらに、翌十日には聖武太上天皇の生母である藤原宮子が大仏殿に詣で、種々の楽を奉納供養した。工事に名をとどめた官人としては、造東大寺司長官の市原王や、後年、「東大の居士」と称された佐伯今毛人、工匠の大仏師国中公麻呂・仏師李田次麻呂・大鋳師高市大国・同柿本男玉・大工猪名部百世・同益田縄手らがおり、公民の力役奉仕や資財など知識物を提供した人々は多数に及んだことが「造寺材木知識記」(『東大寺要録』二、『二月堂修中過去帳』)や『続日本紀』によって判明する。金鐘寺以来、当寺の創建に尽力した良弁は、この供養会の翌五月に東大寺別当に補任され、諸大寺別当職の先例を開いた。また、西塔・講堂・三面僧坊・東塔などの諸堂が造営され、鑑真一行の来朝による戒壇院、百万小塔を収納した東西小塔院なども建立された。造営を担当した造東大寺司は延暦八年(七八九)三月に廃止されたが、その機構は縮小されて造寺所となり、時には修理所とも称され、堂塔の修理や新建の堂舎に専従した。東大寺の創建は国費を投入したものであっただけに、民衆生活を圧迫し、律令制の衰退を早めた反面、国際色豊かな天平文化の昇華ともなった。
平安時代になると、大仏の背面腰部に亀裂が生じ、天長四年(八二七)四月に太政官の査定により仏後山を築いてその傾斜を防ぎ、また、斉衡二年(八五五)五月には地震で大仏の頭部が落下したが、真如(高丘親王)を検校として貞観三年(八六一)三月に修理が完成し、盛大な開眼供養会が営まれた。そのほか、延喜十七年(九一七)十二月の講堂・僧坊、承平四年(九三四)十月の西塔、天暦八年(九五四)の吉祥堂の焼失など続出したが、一方、営繕機関である造東大寺所などの手で再興修理が進められた。弘仁十二年(八二一)二月空海の提唱により、灌頂道場として真言院が創建され、以後、南都仏教界に大きな影響を与えたのをはじめとし、聖宝と道義とによる三論・真言兼学の東南院、光智による華厳・真言兼学の尊勝院のほか、北阿弥陀堂・念仏院・正法院・開山堂・知足院などが新建された。平安時代の学僧としては、明一・道雄・円超・延
・法蔵・観理・光智・平崇・永観・有慶・覚樹・顕恵らが著名である。治承四年(一一八〇)十二月平重衡の兵火で、奈良時代以降の諸堂・坊舎は法華堂や二月堂などをのこしてほとんど類焼し、その再興があやぶまれたが、俊乗房重源が翌養和元年(一一八一)八月宣旨をうけて造東大寺勧進となり、復興にあたった。後白河法皇・九条兼実をはじめとする貴賤の援助と、宋人の陳和卿らの協力を得て、文治元年(一一八五)八月大仏開眼供養会が行われ、さらに鎌倉幕府将軍源頼朝を頂点とする武家などの助力により、建久六年(一一九五)三月大仏殿落慶供養会が行われた。この時、頼朝は夫人北条政子とともに数万の軍兵を従えて落慶供養に臨んだことは、『吾妻鏡』や『平家物語』などでよく知られている。大仏殿内の両脇侍・四天王像、南大門および二王像、大仏殿中門の二天像などは南都仏師の起用によって造像が行われ、大仏殿内の石像の両脇侍像や中門の石造獅子などは、宋人伊行末一門の石工の手で完成し、建仁三年(一二〇三)十一月に大仏殿で諸仏供養会が催された。重源のあと、勧進上人には栄西・行勇らが任命されて復興が行われ、国分門・東塔・戒壇院三面僧坊・鎮守八幡宮などが再建された。しかし、東塔は貞治元年(一三六二)、戒壇院は文安三年(一四四六)、講堂・僧坊は永正五年(一五〇八)に至って炎上し、戒壇院のみをのこし他は再建できず、子院の建立を促すことになった。永禄十年(一五六七)十月三好三人衆と松永久秀との兵火で、戒壇院・大仏殿をはじめ諸堂舎が焼亡し、大勧進祐全・清玉上人らの奔走にもかかわらず、再興は兵馬倥偬の時代にあって遅々として進捗せず、江戸時代に及んだ。この間、鎌倉時代以降の伽藍復興とともに多くの学僧が輩出したが、中でも弁暁・尊玄・宗性・円照・凝然・禅爾・覚聖・志玉・英憲らが著名である。近世になり、徳川家康は大仏殿再建に積極的であったが、死去によって実現せず、寛文七年(一六六七)二月の二月堂炎上による再建は、江戸幕府の助援により同九年正月に行われた。貞享元年(一六八四)に竜松院公慶は大仏殿再興の訴願を幕府に提出して宿願を訴えた。同年五月に幕府の許可が下されるに及んで、行基・重源の先例にならって畿内を勧進し、大仏頭部の新鋳や修理を施して元禄五年(一六九二)三月に盛大な大仏開眼供養会を行い、続いて大仏殿復興にかかり、鎌倉再建の際、重源が発案した大仏様により再建した。しかし、経済的理由と大木入手の困難から、十一間と七間の規模をもった奈良・鎌倉両時代の旧態に復興することはできず、七間と七間の規模に縮小をよぎなくされ、宝永六年(一七〇九)三月に落慶供養会が行われた。その後、さらに大仏光背・大仏殿廻廊・同中門・大仏両脇侍などの再興が続行され、幕末に至った。明治維新の廃仏毀釈は全国の寺々に深刻な動揺を与え、廃藩置県による寺領の消滅と境内地の上地は、東大寺の維持運営にいく度かの危機をもたらした。明治八年(一八七五)北林院など八ヵ院を取り壊し、同十一年には惣持院の建物・建具を売却するなどのことがあった。また大仏会を組織して、屋根の傾斜のはなはだしい大仏殿の緊急修理を政府に訴願したが、軌道に乗ったのは日清・日露の両戦争終結後で、解体修理を終えて明治四十四年五月に上棟式を行い、大正四年(一九一五)五月に落慶供養会を執行した。昭和に入り、南大門・転害門などの解体修理、大仏殿廻廊・法華堂手水屋・大鐘楼の修理を経て、昭和五十五年十月大仏殿屋根瓦葺替え工事を終了し、落慶法要が行われた。
→正倉院(しょうそういん)
[参考文献]
『七大寺巡礼私記』(『校刊美術史料』寺院篇上)、筒井英俊校訂『東大寺要録』、『東大寺続要録』、『東大寺造立供養記』(『大日本仏教全書』東大寺叢書一)、『奈良六大寺大観』 九―一一、福山敏男『奈良朝の東大寺』、大屋徳城『東大寺史』、太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』
(堀池 春峰)
建築
天平の創建後、治承四年(一一八〇)と永禄十年(一五六七)との兵火で伽藍は全焼したが、鎌倉時代初期の再建にあたっては旧基を踏襲したので、『正倉院文書』『七大寺巡礼私記』『東大寺要録』などの古代の文献だけでなく、近世の史料も復原の資料とすることができ、現状と併せ考えて、図のような復原平面図が作られている。発掘はごく一部しか行われていないが、大仏殿院の一郭の復原は誤りないものと認められる。寺地は広大で、南と西・北に築地をめぐらし、南面と西面にはおのおの三つの門を開く。東は山地なので築地はない。南大門を入ると、左右に廻廊を持った東・西両塔院があり、それぞれ一〇〇メートルの七重塔を建てる。大仏殿(金堂)は周囲に複廊をめぐらし、南・北に中門を開き、大仏殿とは軒廊で連絡する。その北面に講堂があり、前方に鐘楼・経楼を建て、東・北・西には大房と小子房とからなる三面僧房がある。食堂院は講堂の東方にあって、一院を形成する。東方の山地には羂索院などが、大仏殿の西方には戒壇院が、西北には正倉院があった。この配置は興福寺の伽藍を一層大きくしたもので、空前絶後のものであった。現在、創建時の建物としては転害門(てがいもん)・正倉院宝庫・法華堂正堂と校倉数棟を残すだけであるが、それらからも、規模の大きさは十分察せられる。鎌倉時代再建のものとしては南大門・鐘楼・法華堂礼堂などがあり、元禄再建の大仏殿は桁行を当初の七割に減じて再建されているが、木造建造物としては世界最大の規模をもつ。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』九、太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』
(太田 博太郎)
東南院(とうなんいん)
東大寺の一院で、現在の東大寺本坊。貞観十七年(八七五)聖宝が建立した薬師堂に端を発し、延喜四年(九〇四)に時の東大寺別当道義は官許を得て、大安寺の東北にあった佐伯氏の氏寺である佐伯院(香積寺)を、同年七月二日夜に工夫三百余人を遣わして、東大寺南大門の東方、薬師堂のあたりに移建した。佐伯院は、造東大寺司次官・長官となった佐伯今毛人が兄の真守とともに、大安寺地を購入して宝亀七年(七七六)に建立した氏寺で、衰微していたとはいえ、この暴挙に対して一族より非難されたが、聖宝と弟子の観賢に付属することで事件は一応落着した。大仏殿・真言院の東南、南大門の東方に位置するところから東南院と称し、三論・真言兼学の一院として発足した。延喜四年ごろの当院は丈六薬師如来を本尊とし、日光・月光の脇侍像や十二神将像のほか、十一面観音像を安置した五間の檜皮葺薬師堂と房舎・院主坊が建ち、宇多天皇より聖宝に下賜された五獅子如意が当院相伝の重宝として保管された。延久三年(一〇七一)に東南院主は三論宗長者を兼ねることになり、元興寺・大安寺の三論宗をも摂収し、両寺の法文や三論供関係文書・聖教なども東南院に移され、ここに当院は三論宗の本所となり、院家として寺内に重きをなした。寛治二年(一〇八八)二月白河上皇の高野山参詣に御所となって以降、上皇・天皇の御所となり、南都御所とも称されるに至った。治承四年(一一八〇)十二月の兵火で炎上したが、建久元年(一一九〇)十月院主勝賢により再興され、後白河法皇の御所となったし、さらに建久六年三月の大仏殿落慶供養会には源頼朝の宿所にも充てられた。正安二年(一三〇〇)九月に当院修理のため美濃国大井荘を十五ヵ年造営料として充行し、さらに元亨元年(一三二一)にも兵庫関の目銭の一部が修造に充当された。元弘三年(一三三三)八月、後醍醐天皇は院主聖尋をたのみ潜幸し、討幕の計を議したが、寺内の衆議は不調に終り、聖尋らの手兵に護られ、末寺の鷲峯山に、さらに笠置寺へと移った。文明年間(一四六九―八七)ごろには衰微はなはだしく、「東南院之家無
正体
」(『多聞院日記』文明十六年十二月二十日条)とさえいわれ、永禄十年(一五六七)十月には松永・三好の兵火で炎上し、薬師堂と鎮守二荒権現社などを残し、田畑と化した。元禄十五年(一七〇二)十月勧進上人公慶は東南院家の再興のため東照権現宮・宸殿などを造建し、正徳四年(一七一四)七月に油倉の校倉を当院庭上に移して経蔵とした。今日、東南院経庫とよばれるものである。その後、宝暦十二年(一七六二)二月の奈良北焼けの大火で類焼したが、翌年九月に宸殿などは再建された。明治十年(一八七七)二月に明治天皇の行在所となり、正倉院の蘭奢待を御座所にて截香した。創建以来、醍醐寺との関係が緊密で、東南院主を兼職する醍醐寺僧や、醍醐寺座主を兼ねる当院主が多かった。その法脈は『東南院院主次第』や『東大寺別当次第』などで判明するが、観理・澄心・済慶・覚樹・恵珍・勝賢・覚澄・聖忠・聖珍らは著名な学僧であった。また、当院家の所領は九ヵ国、二十八ヵ所に散在したほか、播磨国大部荘や同国浄土寺なども重源の寄進により管領し、尊勝院とともに東大寺の最有力門跡寺院であった。
[参考文献]
『東大寺続要録』
尊勝院(そんしょういん)
転害門の東北にあった華厳・真言二宗兼学の東大寺院家。室町時代末に廃絶して惣持院となり、明治十一年(一八七八)七月に建物は奈良町に売却され、皷阪小学校となった。天暦四年(九五〇)五月に東大寺別当になった光智は華厳教学の復興を考え、同九年十二月に村上天皇の勅を蒙って当院を創建し、華厳宗専攻僧十人を置き、応和元年(九六一)三月に御願寺に指定された。同年三月四日の官符(『東大寺続要録』諸院篇)によると、五間四面の檜皮葺本堂と十三間の僧坊よりなり、本尊は丈六の毘盧舎那仏で、仏頂尊勝如来や釈迦如来・薬師如来・十一面観音像など十三体の諸仏像が安置され、大和国より常燈仏供料として毎年稲五千束が寄せられた。康保四年(九六七)七月、院主光智も大和・山城両国に散在する諸荘田地を寄進し、華厳宗の本所として学僧の育成を計り、東南院家とともに東大寺を二分する院家となった。寛弘五年(一〇〇八)六月に仏像をのこして堂舎は焼失し、長元八年(一〇三五)に再建されたが、治承四年(一一八〇)十二月の兵火で再び類焼し、第十三代院主弁暁の手により正治二年(一二〇〇)十月に復旧をみた。今日、正倉院境内に移されている「聖語蔵」と称する経蔵は弁暁再興期のもので、隋経・唐経など多数の聖教を収納しているが、応永三十三年(一四二六)正月に興福寺六方衆の略奪にあった。当院家からは景雅・弁暁・尊玄・明恵・宗性・光暁・聖禅・覚聖らの学僧が多く輩出した。
[参考文献]
『東大寺尊勝院院主次第』(『大日本仏教全書』東大寺叢書二)、『東大寺尊勝院記附録』(同)
戒壇院(かいだんいん)
大仏殿の西方約一五〇メートルにある。天平勝宝六年(七五四)二月に平城京に入った伝戒師鑑真一行は東大寺客堂(唐禅院)に止住し、同年四月と翌七歳にわたり、大仏殿前庭に仮設の戒壇を設けて、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、四百四十人余に授戒した。常設の授戒の道場として設けられたのが戒壇院で、『東大寺要録』四では同六年五月の宣旨で創建を始め、翌七歳十月十三日に落慶供養を行なったと記しているし、正倉院宝物の磁皿には「戒堂院聖僧供養盤天平勝宝七歳七月十九日」の墨書がある。一方、同八歳六月の「東大寺山堺四至図」には大仏殿西方に一区画を描き、「戒壇院」と記しているが、建物の描写はない。授戒壇堂は創建されていたが、未だ講堂・僧坊などの伽藍が整備されていなかったためであろう。戒壇院の創建は奈良時代仏教に点睛を加えたもので、平安時代初期に叡山の大乗戒壇院が建立されたのちも、南都六宗・真言宗僧が登壇授戒し、授戒は中央の戒壇として、三師七証の十僧により、春・秋の二回にわたり行われた。戒壇院は南から中門、金堂にあたる戒壇堂、講堂、三面僧坊や廻廊などよりなり、戒壇堂の壇上中央には六重の塔形を安置し、壇上四隅には金銅の四天王像や『華厳経』三部を入れた絵厨子が安置されていた。天喜四年(一〇五六)以降しばしば修理されたが、治承四年(一一八〇)十二月の兵火で全焼し、跡には三重の土壇と礎石をとどめるばかりであった。建久八年(一一九七)八月に戒壇堂が再建され、以後、西迎房蓮実・興福寺良詮や円照らの努力で旧状に復したのは建長年間(一二四九―五六)末ごろであった。僧坊の復旧により律僧の止住するものも多くなり、円照の門下からは凝然・禅爾らの学僧が輩出するに至った。その後、文安三年(一四四六)正月に全焼し、志玉や勧進僧識舜房や室町幕府の助援で再建されたが、永禄十年(一五六七)十月に三好・松永の兵火で罹災し、以後の復旧は遅々として進まず、文禄三年(一五九四)に大和国郡山城主羽柴秀長の後室の喜捨で仮堂の戒壇堂の瓦葺きが行われ、享保十八年(一七三三)二月に江戸霊雲寺の恵光長老により戒壇堂が復旧され、壇上には木造多宝塔と、中門堂より移した塑像四天王とを安置した。鑑真和上千年忌を迎え、戒壇院性善は『唐鑑真過海大師東征伝』を、諸本を校合して宝暦十二年(一七六二)に開板した。現在、慶長十年(一六〇五)九月に再建された千手堂と、嘉永五年(一八五二)に建築された客殿が戒壇堂の西方にあるが、往年の面影を伝えるものは僅少である。
[参考文献]
筒井英俊校訂『東大寺要録』、『慧光長老戒壇院興隆録』(東大寺図書館所蔵)、福山敏男『奈良朝の東大寺』、村田次郎「戒壇小考」(『仏教芸術』五〇)
法華堂
大仏殿の東方、標高一三二メートルの高地にある。本尊は不空羂索観音像であるところから、羂索堂と称され、また法華会が恒例化して三月に行われたために、法華堂・三月堂とも称されるに至った。『東大寺要録』など寺伝では当堂を金鐘寺とし、天平五年(七三三)の創建とするが、天平十九年正月の「金光明寺造物所解」(『正倉院文書』)、天平勝宝元年(七四九)七月の「一切経散帳」(同)などにみえる羂索観音造像に関する記載や、羂索堂名の初見から、天平二十年ごろの創建とみられる。第二次世界大戦後、法華堂屋根地などの修理に際し、山城国分寺金堂跡(恭仁宮大極殿跡)より出土したのと同種の文字瓦が多数発見され、法華堂の建立に新たな傍証が与えられた。創建後、法華会や華厳経講説が創始、あるいは金鐘寺より引き継がれ、また光仁天皇の皇子早良親王が当堂の僧坊に一時止住するなど、東大寺建立後も寺内にあって重要な一院として崇敬された。平安時代には阿弥陀堂・薬師堂の雑物類が羂索院双倉に移され、さらに天暦四年(九五〇)に双倉破損により正倉院に移納された。尊勝院の創建後は、二月堂とともにその支配下に置かれた。長承元年(一一三二)以前に当堂の供僧は法華堂衆として編成されたもののようで、持戒を旨として千日の回峰行などを行い、中門堂衆とともに堂衆(方)の根幹となった。今日、扉の付柱その他にある「始自長承元年十一月廿八日千日不断花也」などの彫銘落書きは、回峰に伴う供花の一斑を示したもので、中世では「当行」とも称された。久安四年(一一四八)二月に礼堂と本堂とに改修が加えられ、別当寛信の命で僧珍海が「法華堂根本曼荼羅」(現ボストン美術館所蔵)に修覆を加えた。治承四年(一一八〇)の兵火では幸に罹災を逸れたために、諸仏事は主として当堂で行われ、正治元年(一一九九)重源配下の信阿弥陀仏の手で修覆改造が行われた。建長六年(一二五四)十月には宋人の石工、伊行末が礼堂正面の庭上に石燈籠(重要文化財)を奉納し、文永元年(一二六四)四月、弘安七年(一二八四)、建武二年(一三三五)四月などに修理を重ねた。近世に至っても再三にわたり小修理が加えられたが、さらに明治三十二年(一八九九)二月より同三十六年五月にかけて、古社寺保存法により大修理が施され、また本尊の宝冠をはじめ、諸仏にも美術院の手で修補が行われた。現在、本堂内には本尊不空羂索観世音像、梵天・帝釈天像、金剛力士像、四天王像の九体の乾漆像をはじめ、創建以来、罹災を免れたために、他堂より移された塑像の日光・月光像、執金剛神像、吉祥・弁財天女像の八世紀の諸仏や、木造弥勒菩薩坐像・同地蔵菩薩坐像・同不動明王二童子像が安置され、それぞれ国宝・重要文化財に指定されている。
[参考文献]
筒井英俊校訂『東大寺要録』、近畿日本鉄道編纂室編『東大寺法華堂の研究』、奈良県文化財保存事務所編『国宝東大寺法華堂修理工事報告』、堀池春峰「金鐘寺私考」(『南都仏教史の研究』上所収)、伊藤延男「法華堂」(『奈良六大寺大観』九所収)、西川新次「東大寺の草創と法華堂の諸仏」(同一〇所収)、栗原武平編「法華堂棟札」(『寧楽』一四)
(堀池 春峰)
法華堂は、『正倉院文書』の天平勝宝元年(七四九)の文書に羂索堂の名がみえるから、これ以前の創建であることは疑いないが、造立年次は天平十年(七三八)から同二十年までの諸説があり、決定できない。桁行五間・梁行四間、寄棟造り、本瓦葺の正堂と、桁行五間、檜皮葺の礼堂とから成る双堂であったが、正治元年(一一九九)礼堂を寄棟造り、本瓦葺に改築し、さらに両堂を直角に棟を持つ屋根で繋ぎ、一体とした。正堂は、床張りが土間になった以外は奈良時代のままで、礼堂は大仏様によりながらも正堂に調和するよう、和様的色彩が濃い。なお、礼堂の改築を文永年間(一二六四―七五)とする説もある。国宝に指定。
[参考文献]
太田博太郎他編『日本建築史基礎資料集成』四
(太田 博太郎)
二月堂
大仏殿東方にある懸崖造りの堂。西面して建つ。もと羂索院(法華堂)内の一堂で、『東大寺要録』四に「三間二面庇瓦葺二月堂一宇」とある。その創建に関して『東大寺要録』など寺伝では、十一面悔過会との関連から天平勝宝四年(七五二)とするが、同八歳の「東大寺山堺四至図」には当堂は描かれておらず、これ以後の創建と認められ、『延喜式』主税上の観音堂が当堂にあたるものと思われる。悔過会が恒例化して、毎年二月一日(旧暦)より二十七日夜の間行われるに至って二月堂の名でよばれたことは、『寛平年中日記』(『東大寺要録』五)の年中節会支度によって窺知し得る。この悔過会は「実忠二十九箇条」に実忠が天平勝宝四年より奉仕した旨を明記しているが、当堂がこの年に創建されたことには全く触れられておらず、実忠の十一面悔過会奉仕は、このころ存在した紫微中台の十一面悔過所をさすものであろう。『正倉院文書』の宝亀四年(七七三)正月の「倉代西端雑物下用帳」には、造東大寺司より緋端畳・
紺帳を十一面悔過衆僧座料として貸与され、実忠の使僧に渡されており、このころには該悔過会は東大寺で行われていたことと、二月堂が寺内に創建されていたことを示唆するから、光明皇太后の没後に御願経(『五月一日経』)が如法堂に移されたように、紫微中台の十一面悔過所が移建され、悔過会も引続き行われたらしい。天暦四年(九五〇)五月に東大寺別当に補任された光智は、御願所尊勝院を創建して華厳宗の本所としたが、三月堂とともに二月堂を管領し、以後、尊勝院家の支配するところとなった。十一面悔過会(修二会)の恒例化とともに平安時代は貴賤道俗の信仰が高まり、治承四年(一一八〇)の兵火をまぬがれて、建永元年(一二〇六)正月に修理供養が行われた。悔過会中は再三にわたり燈明などの失火で出火し、寛文七年(一六六七)に炎上、焼跡より紺紙銀字『華厳経』(二月堂焼経)や弘仁九年(八一八)の「酒人内親王施入状」(『東南院文書』)などが発見された。江戸幕府では東大寺の再興祈願により寛文七年九月公方大工鈴木与次郎を派遣し、同九年十二月に再興したのが、現在の桁行十間・梁間七間の寄棟造り、本瓦葺の堂である。重要文化財に指定。
[参考文献]
筒井英俊校訂『東大寺要録』、福山敏男『奈良朝の東大寺』、堀池春峰「二月堂修二会と観音信仰」(『南都仏教史の研究』上所収)
四月堂
法華堂(三月堂)の西方にある桁行三間・梁間三間の二重寄棟造り、本瓦葺の堂。東面して建つ。三昧堂・普賢堂とも称す。現在、本尊は像高二・六六メートルの平安時代初期の木造千手観音立像であるが、三昧堂・普賢堂と称されたごとく、平安時代末期の阿弥陀如来坐像・普賢菩薩像が伝存する。『東大寺要録』『東大寺別当次第』によると、治安元年(一〇二一)に僧仁仙と助慶との協力で僧坊とともに創建され、法華三昧と夏中百日講を行うため六人の僧が止住したという。治承四年(一一八〇)十二月の兵火では罹災を免れ、弘安六年(一二八三)に修理された。江戸時代初期の「寺中寺外惣絵図」によると、「普賢堂 東西七間半 南北六間」との墨書注記があり、現在の当堂とは相違がみられる。天和元年(一六八一)四月より大規模な修理が開始され、元禄十六年(一七〇三)九月に、宝形造りであったものが現在の寄棟造りの姿に改造され、さらに天明三年(一七八三)、明治三十六年(一九〇三)に修理が、昭和四十二年(一九六七)には解体修理が行われた。なお、永禄十年(一五六七)十月の三好・松永の兵火で、大仏殿西方にあった中門堂が炎上したため、以後、本堂は堂方(堂衆)の中門堂衆の支配するところとなり、明治初年に及んだ。重要文化財に指定。
[参考文献]
筒井英俊校訂『東大寺要録』、『東大寺年中行事記録』(東大寺所蔵)、奈良県文化財保存事務所編『重要文化財東大寺三昧堂修理工事報告書』
(堀池 春峰)
大仏殿
天平創立の大仏殿は桁行七間・梁行三間の母屋の四周に庇をめぐらし、さらに裳階をつけたもので、屋根は寄棟造りで、裳階屋根の中央七間を一段切り上げ、全高約十五丈であった。鎌倉時代初期再建の時の平面は創建の規模を踏襲しているが、『行基菩薩行状絵伝』にみられるように、大仏様によるものであった。江戸時代の再建は元禄元年(一六八八)に始められ、創建の規模のまま造ろうとしたが、費用が足りないので、母屋桁行を三間に縮小し、これに庇・裳階を加えたものにしたが、高さは大仏を覆うため、ほぼ当初のままとし、宝永六年(一七〇九)完成した。様式は鎌倉再建の大仏様を採り、正面の裳階屋根に唐破風をつける。これはおそらく、鎌倉再建時にも裳階の中央を切り上げていたからであろう。桁行を減じたため、正面の形を損じ、細部は江戸時代の拙い形になっているが、その壮大さは創建時の大仏殿を偲ばせるものがある。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』九、大岡実『南都七大寺の研究』
(太田 博太郎)
大仏殿燈籠
大仏殿の正面に据えられた金銅製燈籠。製作年代は明らかでないが、大仏開眼の天平勝宝四年(七五二)ごろに造立されたものと考えられる。上から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基台と構成されるが、治承四年(一一八〇)、永禄十年(一五六七)の二度の兵火や経年のため、欠損修補された部分があり、宝珠にはそれよりさき、康和三年(一一〇一)、別当永観による修理の銘文がある。当初の様相をよく残すのは火袋から竿までで、火袋は八角形に作り、両面開きの扉と羽目板とを交互に嵌め、扉面は斜格子透地に四頭の獅子を半肉に鋳出し、中央に
子をつけ、羽目板は同じく斜格子地に、それぞれ笙・横笛・
子・尺八を奏でる音声菩薩を半肉であらわし、周りに宝相華を散らしている。また、中台の側面には魚子地に唐草文と飛天とを線刻し、竿には然燈の供徳を説いた経文を線刻している。東大寺大仏の供養にふさわしい大型の作(総高四六二センチ)であるが、火袋部を大きく作った形姿はバランスがよく、また菩薩の豊麗、リズミカルな姿態など、天平期のおおらかな気風をよく示している。奈良時代金工品の代表的名品であり、金銅製燈籠としても最古の遺例である。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』九、外山英策「東大寺大仏殿の前庭と金銅燈籠」(『国華』七二九)
(原田 一敏)
南大門
天平創立の南大門は『東大寺要録』などによると、応和二年(九六二)と永祚元年(九八九)とに倒れ、応保元年(一一六一)に再建されている。治承四年(一一八〇)の兵火で焼けたかどうか明らかでないが、現在の建物は旧礎石を用い、旧規によって再建し、正治元年(一一九九)に上棟されたものである。長大な柱を用い、挿肘木を重ねた、他に類のない形式の門で、貫を多く用いて軸部を固め、断面円形の虹梁をわたし、六手先の挿肘木と遊離尾垂木とで軒を支え、隅の垂木を放射状にし、斗は皿斗付きで鬼斗はなく、軒先に鼻隠板を打つなど、重源将来の大仏様の手法によっている。しかし、斗の並びが上下揃い、架構は二重虹梁の一変形であることなど、和様的要素もみられ、鎌倉時代再建の大仏殿も同様であったものと考えられる。国宝に指定。なお、左右両脇の間に金剛力士像が置かれている。
[参考文献]
岸熊吉編『東大寺南大門史及昭和修理要録』、『奈良六大寺大観』九、太田博太郎『社寺建築の研究』(『日本建築史論集』三)
転害門(てがいもん)
西面大垣に開く三つの門のうち、一番北の門で、天平勝宝八歳(七五六)の「東大寺山堺四至図」には佐保路門と書かれているが、今は転害門とよばれている。東大寺鎮守八幡宮(手向山神社)の転害(碾磑)会の時、ここに神輿を安置したことから起った名であろう。三間一戸、切妻造り、本瓦葺の門で、治承四年(一一八〇)、永禄十年(一五六七)の兵火にも焼け残った建物である。大伽藍東大寺の門であるだけに、桁行は五十六奈良尺という大きなもので、天平創立の東大寺の豪壮さを偲ばせるものがある。鎌倉時代初期に三斗組を出組とし、大仏様木鼻を持った通肘木を加えているが、虹梁・蟇股や円い地垂木などに天平の様式を見ることができる。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』九
本坊経庫
桁行三間・梁行二間、寄棟造り、本瓦葺の校倉で、もと食堂跡の北方、油倉の一郭にあったものを、正徳四年(一七一四)東南院に移建したものである。油倉にはこのほか数棟の校倉があり、現存する法華堂経庫・勧進所経庫・手向山神社宝庫(いずれも重要文化財)がこれにあたる。この経庫は一軒、円垂木で、奈良時代の一般的な校倉である。国宝に指定。
開山堂
開山僧正とよばれる良弁を祀った堂で、法華堂の西、築地のうちにある。『東大寺要録』四に寛仁三年(一〇一九)はじめて僧正の御忌日を行うと記され、この時、像とともに創立されたのであろう。治承四年(一一八〇)の兵火には焼け残ったが、『東大寺別当次第』によると、正治二年(一二〇〇)に造立されている。その時は別の所にあったが、建長二年(一二五〇)現在地に移された。一間四面堂であるが、母屋と庇とは様式が全く違い、正治再建の時は方一間の小堂であったのを、建長移建時に庇を付けたものと認められる。母屋は正面に桟唐戸を釣り、三方は板壁で円柱上に大仏様三手先を組み、中備は双斗蟇股で、木鼻には大仏様繰形が付き、斗には皿斗があり、隅に鬼斗を用いない。これらは重源が将来した大仏様によるもので、南大門より大仏様の特色が多く表われている。国宝に指定。
[参考文献]
奈良県文化財保存事務所編『国宝東大寺開山堂修理工事報告書』、『奈良六大寺大観』九、太田博太郎『社寺建築の研究』(『日本建築史論集』三)
鐘楼
講堂前方の鐘楼とは別に、東の岡上に鐘堂とよばれるものがあった。現存の鐘(国宝)は、様式と大きさが、『諸寺縁起集』に天平勝宝四年(七五二)鋳造と記すものに該当するので、鐘楼も同時に建立されたものと思われる。治承四年(一一八〇)の兵火には焼け残ったが、栄西の『入唐縁起』に「上人(重源)未作事都造畢、剰鐘楼造畢」とあるから、第二代大勧進栄西(建保三年(一二一五)没)の造立であることがわかる。現鐘楼は方一間、吹放し、入母屋造り、本瓦葺で、大鐘を釣るにふさわしい豪快な構架を持ち、太い円い虹梁、繰形付きの蟇股・木鼻などに大仏様の特色を示し、組物は禅宗様に似た四手先の変わったもので、大仏様を基にしながら、禅宗様の細部を採り入れた、他に類のないものである。この様式は禅宗を伝えた栄西によるものと考えられ、彼が建てた建仁寺の様式もこれから類推されよう。国宝に指定。
[参考文献]
奈良県文化財保存事務所編『国宝東大寺鐘楼修理工事報告書』、『奈良六大寺大観』九、太田博太郎『社寺建築の研究』(『日本建築史論集』三)
(太田 博太郎)
盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)
銅造、鍍金。一四七三センチ。金堂(大仏殿)安置。一般に「奈良の大仏」ともいわれる。『華厳経』に説く蓮華蔵世界の教主で釈迦の本仏にあたる盧舎那仏の巨像を、総国分寺東大寺の本尊とする発想は、本体の鋳造を終えた翌々月に橘諸兄が鎮守の八幡神に奉った詔によれば、天平十二年(七四〇)聖武天皇が河内国の智識寺の盧舎那仏を拝したことにあるが(『続日本紀』)、この年の十月八日には日本の華厳宗の宗祖である新羅の審祥が、良弁に招かれて東大寺(金鐘寺)ではじめて『華厳経』を講じている(『東大寺要録』)。同十五年十月十五日大仏造立の詔を発布し、翌十六年十一月十三日近江国紫香楽の甲賀寺に大仏のための骨柱が建てられた。しかし平城還都に伴い、翌十七年地を奈良の現東大寺に移し、十九年九月に鋳造を開始した。二十六ヵ月に計八回の鋳からぐりを重ねて、天平勝宝元年(七四九)十月二十日に本体鋳了。つづいて螺髪の鋳造と鋳加とが始められ、天平勝宝三年大仏殿・螺髪を完成したが、鋳加作業と始められたばかりの鍍金は未完了のまま、仏教公伝(『日本書紀』)二百年目にあたる同四年の仏生日翌日の四月九日を期して開眼された。大小各十四葉よりなる蓮華座は本体よりのちの鋳造とする説もあるが、各弁に、『華厳経』よりおくれて流行した『梵網経』所説の三千大千世界百億須弥図を刻入したのは開眼後で、鍍金の完了は天平宝字元年(七五七)、光背は同七年に始まって宝亀二年(七七一)に完成した。仏体の制作者として、国中公麻呂・高市大国(真国)・高市真麻呂らの名が知られる。天平時のものは仏体の左大腿部褶襞の一部と台座の蓮弁部とにすぎないが、蓮弁表面にシブ鏨によって刻入された肥痩のない流暢な毛彫りは、絵画としてもみるべき芸術性の高いもので、創建時の本尊の芸術的偉容を十分に髣髴とさせており、天平時代の彫刻絵画に通ずる特徴ある様式を示している。仏体は、残念ながら完成後まもない延暦五年(七八六)以来、たびたび損傷を受け、現在の胴体は室町時代末、頭部は江戸時代の元禄四年(一六九一)のものである。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇、荒木宏『技術者の見た奈良と鎌倉の大仏』、香取秀真『日本金工史』、同『続金工史談』、同「東大寺大仏に関する二つの問題」(『歴史日本』一ノ三)、家永三郎「東大寺大仏の仏身をめぐる諸問題」(『史学雑誌』四九ノ二)、前田泰次他「東大寺大仏の鋳造及び補修に関する技術的研究」(『東京芸術大学美術学部紀要』四)
不空羂索観音像(ふくうけんじゃくかんのんぞう)
脱活乾漆造り、漆箔。三六二センチ。法華堂の本来像である九体の乾漆巨像の主尊として、内陣中央の八角二重の仏壇上に安置。銀の化仏をつけた豪華な銀製宝冠を頂く三目八臂像。瓔珞・天衣・鹿皮の一部が欠落し、後補があるが、本体は当初以来の姿を完存。水晶珠を手挾む合掌手のほか、左右の第二手に開敷蓮華と錫杖、左第二手に羂索(けんさく)を執るが、いずれも後補。他は持物を失う。堂々たる威容は天平盛期の古典的美観の完成を示す。法華堂で法華会が始修されたと伝える天平十八年(七四六)三月にはできていたとする説を疑う説もあるが、『正倉院文書』には良弁所願の『法華経』二部の天平十八年三月十六日写了を記す文書をはじめ、天平二十年から翌天平勝宝元年(七四九)にかけて、羂索堂・羂索観音・羂索経の語が多くみえ、天平十八―二十年ごろの作とする説が有力である。像の作風も、大仏開眼直前の八世紀半ばの様式的特徴を示す。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇、『奈良の寺』一五、近鉄創立五十周年記念出版編集所編『東大寺』(『近畿日本叢書』)、近畿日本鉄道編纂室編『東大寺法華堂の研究』、小林剛「東大寺三月堂の研究―不空羂索観音の造顕を中心として―」(『国華』六五四・六五五)
梵天・帝釈天像(ぼんてん・たいしゃくてんぞう)
脱活乾漆造り、彩色・漆箔。梵天像四〇二センチ、帝釈天像四〇三センチ。法華堂安置。主尊不空羂索観音の脇侍として、左に梵天、右に帝釈天を配すが、この三者の組合せは教義上の根拠はなく、像高が本尊より高いところから三体を一具とすることを疑う説があり、また寺伝とは逆に、大衣の下に着甲する方を帝釈天とする説もある。作風も本尊と個性的に異なるが、衣文の彫出は浅く控え目ながら、衣中の体躯の造形は力強く、衣褶や手の表現にはデリケートな神経が行きとどき、八角二重の框座にやや上体を傾けて立つ静かな落ち着いた姿勢、情調とともに天平時代の精神を代表するすぐれた彫像である。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇、『奈良の寺』一五、近鉄創立五十周年記念出版編集所編『東大寺』(『近畿日本叢書』)、近畿日本鉄道編纂室編『東大寺法華堂の研究』
日光・月光像(にっこう・がっこうぞう)
塑造、彩色。日光像二〇七・二センチ、月光像二〇四・八センチ。法華堂安置。八角二重の仏壇上に本尊の脇侍のごとく従うが、材質も異なり、像高も著しく低く、後世、他堂より移坐された(元禄年間(一六八八―一七〇四)にはじめてここに確認される)。日光・月光と通称されるが、菩薩形ではない。力強い印象はなく、彩色が剥落して銀灰色を呈する肌色や、優しい合掌、豊麗な顔などから、優美な香気ともいうべき情調を表出して、格別の人気がある。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇、『奈良の寺』一六
執金剛神像(しっこんごうしんぞう)
塑造、彩色。一七〇・四センチ。法華堂の本尊背後の厨子に北面して安置。金鷲行者(良弁)の念持仏で、天平五年(七三三)の作と伝えるが、戒壇堂四天王像と同派の作で、写実の極致を示す天平塑像完成期の遺例である。良弁忌(十二月十六日)の開扉以外は秘仏とされ、彩色もよく残る。阿吽の二形に分かれる前の金剛力士の原形神。天慶年間(九三八―四七)の平将門の乱に、髻の元結いの右端が蜂となって賊軍を悩ませたという伝説がある。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇、近畿日本鉄道編纂室編『東大寺法華堂の研究』、内藤藤一郎「東大寺法華堂塑造諸仏と戒壇院四天王」(『夢殿』一六)、久野健「東大寺蔵執金剛神像解説」(『美術研究』一六六)
四天王像(してんのうぞう)〔法華堂〕
脱活乾漆造り、彩色・漆箔。四躯。三〇〇~三一〇センチ。法華堂安置。堂内須弥壇上の四隅に立つ。同じ堂の金剛力士像と同派の作。広目天の右手に持つ筆と、多聞天の左掌上に置かれた小塔は欠失し、持国天のみ開口像。邪鬼は木心乾漆造り。鎧部分の文様は力士像と同じく乾漆盛上げにより、地部は漆箔地彩色で、肉身部はそれぞれ白緑・朱・肉色・白群の四色に塗り分けられている。造形は同堂の他像と比べ、やや類型的である。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇、『奈良の寺』一五、近鉄創立五十周年記念出版編集所編『東大寺』(『近畿日本叢書』)
四天王像〔戒壇堂〕
塑造、彩色。四躯。一六〇・五~一六九・九センチ。戒壇堂安置。当初の像は天平勝宝七歳(七五五)完成の銅像。現像はのちの移入で、その時期と原所在は不詳。顔面の微妙な一凹一凸を、触知的に把握表現した力倆は劃期的なもので、法華堂の執金剛神像や日光・月光像の様式に近く、天平写実の極致を示す。前方の二天(持国天・増長天)は忿怒形、後方の二天(広目天・多聞天)は眼をひそめ、遙かを遠望する静かな相貌につくり、右手を高く上げる二天(増長・多聞)と両腕を低く構える二天(持国・広目)を対角に配置する妙を示す。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇、『奈良の寺』一六、東大寺編『東大寺戒壇院』、田中喜作「戒壇院四天王像に就きて」(『美術研究』一三一)、内藤藤一郎「東大寺法華堂塑造諸仏と戒壇院四天王」(『夢殿』一六)
金剛力士像(こんごうりきしぞう)〔法華堂〕
脱活乾漆造り、彩色・漆箔。二躯。阿形三二六・四センチ、吽形三〇六センチ。法華堂安置。法華堂本来の乾漆九体像のうち。力士像としては珍しい武装像で、作風は同じ堂の四天王像と同じく、像高もほぼ等しい。阿形像は怒髪(焔髪)天をつき、右手を高く上げて金剛杵(欠失)をとり、その分だけ吽形像より高い。吽形像は右手を心前に、長大な金剛杵を逆手に構える。金銀泥を用いた極彩色の細密の宝相華文がよく残る。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇、『奈良の寺』一五、近鉄創立五十周年記念出版編集所編『東大寺』(『近畿日本叢書』)、近畿日本鉄道編纂室編『東大寺法華堂の研究』
金剛力士像〔南大門〕
木造、彩色。二躯。阿形八三六・三センチ、吽形八四二・三センチ。南大門の東西の間に、南面せず、面々相対して立つ。『東大寺別当次第』によれば、建仁三年(一二〇三)七月二十四日、大仏師運慶・快慶らが一門の仏師を率い、総勢二十人により制作を始め、同年十月三日に開眼供養をしたという。二丈七尺に及ぶわが国最大の木彫二王像を一門の分担作業により、わずか六十九日で完成している。その写実的な造形による忿怒の相貌、筋骨隆々たる体躯の表現は、よく鎌倉時代の剛健な作風を示し、この種の力士像の典型となっており、後世の力士像はすべてこの像の作風を追っている。運慶・快慶の作風を両像に見別けることはむずかしいが、運慶の主導がうかがえる。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一一、『奈良の寺』一七、小林剛『仏師運慶の研究』、毛利久『仏師快慶論』、菅原安男「東大寺南大門金剛力士像とその製作法」(『美術史』五)
(町田 甲一)
誕生釈迦像(たんじょうしゃかぞう)
像高四七・五センチ、大きめの誕生釈迦像で、銅造鍍金、右腕前膊の半ばより先が別鋳(後補)のほかは一鋳になる。微笑をたたえたふくよかな童顔や、肉身の溌溂とした表現は、大仏殿前の八角銅燈籠火袋に浮彫りされた音声菩薩に近く、天平期の誕生釈迦像の代表的作品である。台座を失うが、当初から一具の灌仏盤が残る。盤は径約八九センチ、銅造鍍金で、鳥獣・草花・山岳・飛雲その他の線刻文様が散らされている。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇
良弁僧正像(ろうべんそうじょうぞう)
東大寺創立期に活躍し、初代の東大寺別当をつとめ、宝亀四年(七七三)に八十五歳で示寂したという良弁の像で、開山堂に安置される。像高九二・四センチ、檜の一木造りで彩色を施す。衣文の翻波式彫法など、構造とともに古様であるが、全体の穏やかな肉どりや、理想化された面貌表現から、『東大寺要録』四に僧正堂ではじめて良弁忌を修したという寛仁三年(一〇一九)をその製作年代と考えてよい。持物の如意は僧正遺愛の品と伝え、奈良時代の古格をそなえる。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一〇
俊乗上人像(しゅんじょうしょうにんぞう)
東大寺の鎌倉時代再興に勧進上人として力をつくした俊乗房重源の肖像で、俊乗堂に安置される。像高八二・五センチの坐像で、寄木造り、彩色。『元亨釈書』一四に「源(重源)没して遺像を寺に置く」(原漢文)とあり、建永元年(一二〇六)六月、八十六歳で示寂してのち、間もなく造立されたものであろう。くぼんだ眼窩に左右不均衡の眼が彫られ、晩年の重源の風貌をありのままに写したものと思われるが、彫刻的巧技と相まって、像にたぐい稀な迫真性を与えている。作者は不明だが、運慶一派による製作か。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一一
僧形八幡像(そうぎょうはちまんぞう)
勧進所八幡殿に安置される。治承四年(一一八〇)の兵火後に再建された東大寺鎮守八幡宮(手向山神社)の神体として造立されたもので、像高八七・一センチ、寄木造り、彩色。像内の銘に、建仁元年(一二〇一)仏師快慶が施主となって造立し、運慶をはじめ快慶周辺の仏師二十八人が助成したことなどが記されている。古く神護寺にあった画像を忠実に写しながら、写実と形式美とをかねた快慶独特の作風を示している。国宝に指定。
[参考文献]
『奈良六大寺大観』一一、毛利久『仏師快慶論』、赤松俊秀「快慶作東大寺僧形八幡像に就いて」(『宝雲』二八)
(水野 敬三郎)
寺領
創建期の東大寺は、本願聖武天皇の帰依のもとに、主に、朝廷から施入された五千戸の封戸と、四千町を限りとする寺田により経営された。このうち封戸は、用途により、営造修理塔寺精舎分千戸、供養三宝・常住僧分二千戸、官家修行諸仏事分二千戸に三分され、また、大和・越前・越中をはじめ諸国に分布した寺田は、当初、造東大寺司と東大寺三綱とにより開墾・経営され、ともに東大寺の堂塔造営事業と、寺内外にわたる宗教活動とを支える豊かな財源となった。ところが聖武天皇・光明皇后の崩御後、東大寺は朝廷からの優越的な処遇を次第に失う一方で、桓武天皇による統制強化、封戸の削減、寺田の荒廃という事態に直面する。そこで平安時代前期には、東大寺別当や所司による利銭・出挙を含む財源確保や、年中行事を軸とする財務再編の努力により、寺家財政の再建が図られた。さらに平安時代中期以降には、封戸物の便補、大和国正税物を負担する郡郷田地の定免化、大和国崇敬寺・筑前国観世音寺などの末寺化による末寺所領の吸収、施入・買得による積極的な寺領荘園の獲得等々の手段により、急速に寺領の整備と拡大が進められた。とりわけ十世紀後半の別当光智による、封戸・寺田の確保、伊賀国玉滝杣の占有と玉滝荘の立荘、同国板蠅杣の拡張、美濃国茜部荘の立荘や、平安時代後期から院政期に及ぶ伊賀国黒田荘における周辺出作公田の寺領化の企ては、この時代の寺領拡大の動向を象徴するものであろう。治承四年(一一八〇)の平重衡による南都焼打ちと同五年の寺領没官は、東大寺に打撃を与えたが、時をおかず寺領荘園は返還され、建保二年(一二一四)には、その数三十三荘を数えた。また、後白河上皇・源頼朝の後援のもとに、造東大寺大勧進職の重源上人に主導された再建活動の財源として、周防・播磨・備前・安芸・肥前の各国が、相ついで造営領国として施入され、特に周防国衙領は江戸時代に至るまで、寺家経営を支える柱となる。また、寺家再建に尽力した重源以下の勧進聖の活動により、備前国野田荘をはじめとする寺領荘園が立荘されるとともに、仏聖燈油田・大湯屋田が集積され、延慶元年(一三〇八)伏見上皇により施入された兵庫北関や、観世音寺御封からの鎮西米など、荘園・国衙領・散在田畠・関所という、多様な形態の寺領から寺納される年貢所当により、中世の東大寺は維持された。なお、鎌倉時代以降の寺領経営は、寺家直務と寺内院家の請負いとが併存しており、寺家が本家職を、院家が領家職を保有する請負いの寺領は、寺家・院家の両者を維持する財源となった。しかし、応仁・文明の内乱以降、遠隔地寺領の経営は困難となり、さらに永禄十年(一五六七)松永久秀と三好三人衆との合戦の渦中で、大仏殿をはじめ諸堂宇が焼失し、再度東大寺は大きな打撃を蒙った。以後、堂塔再興の勧進活動と寺家経営体制の再編とが図られ、大和櫟本村の朱印地や周防国浮米などを合わせた三千二百石余を主要な財源として、江戸時代の東大寺は維持されることになる。
[参考文献]
竹内理三『(奈良朝時代に於ける)寺院経済の研究』、同『(日本上代)寺院経済史の研究』、同『寺領荘園の研究』、平岡明海・大屋徳城『東大寺史』
(永村 真)
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