NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 文覚

文覚

ジャパンナレッジで閲覧できる『文覚』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

文覚
もんがく

生没年未詳。平安末~鎌倉初期の僧。俗名遠藤盛遠 (えんどうもりとお)。摂津の渡辺党の遠藤茂遠 (もちとお)の子。初め上西門院 (じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡 (みなもとのわたる)の妻袈裟 (けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行した。文覚は空海 (くうかい)を崇敬し、1168年(仁安3)その旧跡である神護寺 (じんごじ)に住み、修復に努めた。1173年(承安3)後白河 (ごしらかわ)法皇の御所法住寺 (ほうじゅうじ)殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園 (しょうえん)の寄進を強請して伊豆 (いず)に流され、そこで配流中の源頼朝 (よりとも)に会った。1178年(治承2)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌1179年、平清盛 (たいらのきよもり)が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、1180年には平氏追討を命ずる法皇の院宣 (いんぜん)を仲介して、頼朝に挙兵を促した。1183年(寿永2)法皇から紀伊 (きい)国桛田荘 (かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受け、神護寺の復興に努力した。1190年(建久1)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺 (とうじ)の復興をも図り、1189年(文治5)播磨 (はりま)国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、1197年には諸堂の修造を終えた。しかし1192年に法皇が没し、1199年(正治1)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親 (みちちか)の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2)許されて帰京したが、後鳥羽 (ごとば)上皇の怒りを買い、翌1203年、さらに対馬 (つしま)に流され、やがて没した。

[上横手雅敬]2017年10月19日



世界大百科事典

文覚
もんがく

平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。生没年不詳。俗名を遠藤盛遠といい,鳥羽天皇の皇女上西門院に仕えた渡辺党の武士であった。出家して,諸国の霊山を巡って修行し,その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが,法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得,彼に挙兵をすすめたといわれている。鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺の復興をなしとげた。1193年(建久4)には東寺修造料国として播磨国を得てその国務を沙汰し,東寺の修造活動も行った。99年(正治1)庇護者の頼朝が死去するとともにその地位を失い,新たに朝廷内に台頭した源通親によって,親頼朝派の公家の九条兼実らとともに謀議を計ったかどで捕らえられ佐渡国へ配流された。1203年(建仁3),許されて京都に帰ったといわれている。
[細川 涼一]

伝承

文覚についての伝承は,《平家物語》諸本を中心に展開される。《源平盛衰記》に,長谷観音に申し子して生まれたが早く孤児となり,幼児期より〈面張牛皮(めんちようふてき)〉な乱暴者であったという。元服後,北面武者となったが,《平家》の読本系諸本では,渡辺橋の供養のとき,渡辺渡(刑部左衛門)の妻の袈裟御前を見て恋慕し,強引に奪おうと夫を討つつもりが,袈裟の計らいでかえって彼女を殺してしまう。この女の犠牲ゆえに18歳で出家した(夫もまた出家して渡阿弥陀仏と称し,異本では重源(ちようげん)であるという)という発心譚をもつ。《平家》諸本は,文覚が熊野那智の荒行で滝に打たれて死んだが不動明王の童子に助けられ,諸国の霊山を修行して〈やいばの験者〉と呼ばれたといい,やがて,神護寺復興のため,法住寺殿に乱入して後白河法皇の遊宴を邪魔して勧進帳を読み上げ,投獄されたが放言悪口が止まないため,伊豆に流されたという。このいきさつや配流の途中断食して祈願したことなど《文覚四十五箇条起請文》に基づくが,《平家》では護送の役人をだまして笑い者にしたり,船中で嵐に遭うが竜王を叱りつけて無事に到着したことなどが加えられる。伊豆では奈古屋の観音堂に籠り,〈長門本〉や〈延慶本〉では湯施行をしたといい,《盛衰記》では相(占い)人の評判を立て,頼朝に対面し,彼が天下の大将軍となる相を見て,父義朝の髑髏(どくろ)を見せて挙兵を勧めたという。《吾妻鏡》には,後年,頼朝が勝長寿院を供養の際,文覚が京より義朝の頭を将来したというが,これが背景にあるか。やがて籠居または入定を装って福原京に上り,平氏追討の院宣を賜って頼朝にもたらしたという。これは《愚管抄》も否定しながら記す。平氏滅亡後は維盛の子六代の助命に奔走するが,これには長谷観音の霊験譚がかかわる。頼朝が没すると直ちに失脚し,佐渡,ついで隠岐に流されるが,〈延慶本〉はこれを,文覚が〈及杖(ぎつちよう)冠者〉とののしった後鳥羽院との確執によると伝え,死後,明恵の前に亡霊が出現して承久の乱を起こそうと告げたという。

 物語のなかで文覚は,〈天性不当〉で〈物狂〉な人とされ,勧進聖としての姿を強調することに重なる。また頼朝の護持僧として,予言者であり,さらには幸若舞曲のように平家を呪詛する呪術者という面を示す。《愚管抄》に彼のことを〈天狗マツル人〉という評判があったといい,《吾妻鏡》は江ノ島の洞窟に籠ってまじないを行ったと伝えるなど,王を背後から支える宗教者として造形されている。

 なお,文覚の生没については,高山寺蔵の伝隆信筆の文覚画像に〈建仁三年七月二十一日六十五歳没〉と見えており,近年,この没年は信頼に足るものと考えられるようになった。これによると,生年は1139年(保延5),没年は1203年となる。
[阿部 泰郎]

[索引語]
遠藤盛遠 神護寺 源頼朝 袈裟御前 重源


国史大辞典

文覚
もんがく
一一三九 - 一二〇三
平安・鎌倉時代前期の僧。神護寺蔵伝藤原隆信筆文覚画像に「建仁三年(一二〇三)七月二十一日入滅、春秋六十五」とあるのを手がかりにすれば、生年は保延五年(一一三九)となる。出身は『平家物語』などに摂津渡辺党に所属する遠藤氏で、名を盛遠(もりとお)と称する武士であったという。ほぼ容認し得る説である。盛遠が出家して文覚を名のった経緯はよくわからない。延慶本『平家物語』に、人妻袈裟(けさ)に横恋慕し、誤って袈裟を殺害したために出家した話が詳述されるが、そのまま事実であるとは認め難い。ただ、何らかの恋愛事件が出家の動機になったとは考えられる。『文覚四十五箇条起請』に、神護寺復興を決意したのは仁安三年(一一六八)のこととするから、出家はそれよりも五、六年さかのぼるであろう。承安三年(一一七三)四月二十九日、後白河院に対して神護寺復興のための寄付を強要して逆鱗にふれ、伊豆に流される。しかしたまたま謫地で源頼朝と邂逅、たちまち親交を結んだ。『平家物語』諸本に、頼朝に平家追討の蜂起をうながしたと説くが、細部に虚構が見られるものの、この時期文覚が頼朝の覇業に貢献したことは事実と思われる。平家が壇の浦に滅亡するころ、頼朝と並んで後白河院も文覚の外護者に転じ、かねて企てていた空海ゆかりの諸大寺復興の大事業を強力に支援した。摂津・若狭・丹波・播磨・備中・紀伊の各地にある荘園が神護寺に寄進され、そこからあがる厖大な資金を投入して、神護寺をはじめ、東寺・西寺・高野大塔・四天王寺など、空海に関係する諸大寺をつぎつぎと修繕していった。これらは文覚の熱烈な大師信仰に基づく純粋な宗教運動とみるべきであろう。だが、建久三年(一一九二)後白河院が崩御し、正治元年(一一九九)頼朝が没すると、文覚は討幕政策を進める後鳥羽院勢力の忌むところとなり、はじめ佐渡に、ついで対馬に流罪となり、配地に赴く途中鎮西で客死した。遺骨は遺弟上覚らによって神護寺背後の山頂に埋葬された。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ八、元久二年是歳条、田井啓吾編「神護寺文書」一(『史林』二五ノ一)、『高山寺明恵上人行状』(『高山寺資料叢書』一)、相原精次『文覚上人一代記』、山田昭全「僧文覚略年譜考」(『立教大学日本文学』一二)、同「文覚上人の弘法大師信仰について」(『豊山学報』一〇・一一合併号)
(山田 昭全)
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


文覚の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 2150
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 文覚
日本大百科全書
の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺とうじの復興をも図り、1189年(文治5)播磨はりま国が造営料国にあてられ、文覚は復興事
2. 文覚
世界大百科事典
延慶本〉はこれを,文覚が〈及杖(ぎつちよう)冠者〉とののしった後鳥羽院との確執によると伝え,死後,明恵の前に亡霊が出現して承久の乱を起こそうと告げたという。 物
3. 文覚
世界大百科事典
師のはからいで命は助かる。100日たっても元気な文覚の法力に感じて,法皇は勧進帳を聴聞するが,人々の主張で文覚は伊豆に流されることになる。文覚は摂津の渡辺から海
4. もんがく【文覚】
日本国語大辞典
北条時政に捕えられ駿河千本松原で殺されようとした時、文覚が頼朝の赦免状を受けてかけつけ、六代を助ける。六代。〔三〕謡曲。廃曲。高雄山の住僧文覚が那智の滝に籠って
5. もんがく【文覚】
国史大辞典
『高山寺明恵上人行状』(『高山寺資料叢書』一)、相原精次『文覚上人一代記』、山田昭全「僧文覚略年譜考」(『立教大学日本文学』一二)、同「文覚上人の弘法大師信仰に
6. 文覚
日本史年表
壬寅〉 4・26 文覚 ,源頼朝と会見(吾)。 1199年〈正治元(4・27) 己未〉 3・19 文覚 を佐渡国に配流(百練抄)。 1202年〈建仁2 壬戌⑩〉
7. もんがく【文覚】
日本人名大辞典
1139−1203 平安後期-鎌倉時代の僧。保延(ほうえん)5年生まれ。真言宗。京都高尾の神護寺再興をこころざし,後白河法皇に寄進を強要して伊豆(いず)に流され
8. もんがく【文覚】
日本架空伝承人名事典
朝か首を蒔絵の箱に入て、錦の袋に裹て文覚上人の頸に懸たり、正清か首をは檜の箱に入て布袋に裹て、文覚か弟子か頸にかけてそ下りける延慶本平家物語第四ノ十七「文覚を便
9. 文覚[文献目録]
日本人物文献目録
金五郎『西行と文覚』駒沢銀鈴『僧文覚略年譜考』山田昭全『奈良仏師と武家社会 特に文覚をめぐる関係』児玉通子『平家物語と文覚 宗教者としての問題』佐々木巧一『文覚
10. 文覚(著作ID:516212)
新日本古典籍データベース
もんがく もんがく 幸若舞曲 
11. 滝籠文覚(著作ID:3355553)
新日本古典籍データベース
たきごもりもんがく 文覚 文覚滝籠 謡曲 能の本 
12. 文覺上源賴家書 (見出し語:文覺)
古事類苑
政治部 洋巻 第3巻 222ページ
13. 文覺上源賴家書 (見出し語:文覺)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 234ページ
14. 文覺發心 (見出し語:文覺)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1126ページ
15. 文覺神護寺勸進 (見出し語:文覺)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 868ページ
16. 文覺那智山苦行 (見出し語:文覺)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 1300ページ
17. 文覺配流 (見出し語:文覺)
古事類苑
法律部 洋巻 第1巻 178ページ
18. もんがくいけ【文覚池】京都府:船井郡/八木町/室橋村
日本歴史地名大系
舟枝の船井神社の南にあたる。如城寺蔵の「室橋縁由」と題する欠年月の記録には「治承二年ニ至リ文覚池開鑿成レリ」とある。伝えによると、文覚が当地を訪れた際、水不足に
19. 『文覚四十五箇条起請』
日本史年表
1185年〈文治元(8・14)(寿永4) 乙巳〉 1・19 文覚, 『文覚四十五箇条起請』 を定める(同書識語)。
20. もんがくちょう【文覚町】京都市:下京区/植柳学区地図
日本歴史地名大系
は既に「もんがくの町」とみえ、両町名が併用されていたのであろう。町名由来は、先掲「京雀」に、「文覚上人高尾の勧進帳をよみて、一院の御遊をさまたげ奉り、からめとら
21. 文覚一代記(著作ID:1762556)
新日本古典籍データベース
もんがくいちだいき 南杣笑楚満人一世(なんせんしょうそまひと1せい) 作 山東京伝(さんとうきょうでん) 画 黄表紙 天明四刊
22. 文覚勧進帳(著作ID:1762567)
新日本古典籍データベース
もんがくかんじんちょう 南杣笑楚満人一世(なんせんしょうそまひと1せい) 作 歌川豊国一世(うたがわとよくに1せい) 画 黄表紙 寛政五刊
23. 文覚四十五箇条起請文(著作ID:516234)
新日本古典籍データベース
もんがくしじゅうごかじょうきしょうもん 神護寺旧記 神護寺四十五箇条起請文 文覚(もんがく) 寺院 元暦二
24. 文覚上人国字文(著作ID:1762614)
新日本古典籍データベース
もんがくしょうにんかなぶみ 方壺(ほうこ) 書 書道 天明七刊
25. 文覚上人行略抄(著作ID:1023989)
新日本古典籍データベース
もんがくしょうにんぎょうりゃくしょう 説教因縁/文覚上人行状記 南溟(なんめい) 真言 宝暦二刊
26. 文覚上人消息(著作ID:516245)
新日本古典籍データベース
もんがくしょうにんしょうそく 文覚(もんがく) 書簡 正治二
27. 文覺神護寺勸進 (見出し語:勸進)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 868ページ
28. 文覺四十五ヶ條起請文 (見出し語:起請文)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 866ページ
29. もんがくしじゅうごかじょうつけたりかんぷ【文覚四十五箇条附官符】
国史大辞典
⇒神護寺旧記(じんごじきゅうき)
30. うぶんかく【宇文覚】(Yǔwén Jué)
世界人名大辞典
 字:陁羅尼 諡号:孝閔皇帝 通称:孝閔帝〔542[大統8]~57[孝閔帝1]〕 中国南北朝北周の初代君主[557].武川(現,内モンゴル武川)の人.西魏の実権
31. はしくようぼんじのもんがく[はしクヤウボンジのモンガク]【橋供養梵字文覚】
日本国語大辞典
時代物。五幕。三世河竹新七作。明治一六年(一八八三)東京市村座初演。文覚上人にまつわる話を活歴風にまとめあげたもの。通称「文覚」。ハシクヨー=ボンジノモン
32. はしくようぼんじのもんがく【橋供養梵字文覚】
歌舞伎事典
三世河竹新七作。通称《文覚》。明治一六(1883)年五月東京・市村座初演。文覚・不動=九世市川団十郎、渡辺亘(わたる)=四世嵐璃寛、袈裟御前=四世助高屋高助。《
33. 大坂表討捕首注文覚(著作ID:2084062)
新日本古典籍データベース
おおさかおもてうちとりくびちゅうもんおぼえ 記録 
34. 勧進文覚(著作ID:4299223)
新日本古典籍データベース
かんじんもんがく 謡曲 能の本 
35. 謙信流具足威注文覚(著作ID:4368209)
新日本古典籍データベース
けんしんりゅうぐそくおどしちゅうもんおぼえ 武具 
36. 御評判高雄文覚(著作ID:194376)
新日本古典籍データベース
ごひょうばんたかおのもんがく 七珍万宝(しっちんまんぽう) 作 北尾政美(きたおまさよし) 画 黄表紙 寛政三刊
37. 釈文覚復頼家将軍書(著作ID:1216304)
新日本古典籍データベース
しゃくもんがくよりいえしようぐんにふくするしょ 文覚(もんがく) 書簡 
38. 寛文村々覚書(寛文覚書)[文献解題]愛知県
日本歴史地名大系
八冊 尾張藩撰 成立 寛文末年 分類 記録 原本 徳川林政史研究所 解説 本書の原題は「尾州〇〇郡覚書帳」と記されたものが多く、尾張八郡村々の調査記録。
39. 山家先書覚書(著作ID:450895)
新日本古典籍データベース
さんかせんしょおぼえがき 山家先生天文覚書 天文 
40. 人形(著作ID:1545933)
新日本古典籍データベース
にんぎょう 人形文覚 謡曲 能の本 
41. 六代(著作ID:538534)
新日本古典籍データベース
ろくだい 六代文覚 謡曲 能の本 
42. うぶん【宇文護】(Yǔwén Hù)
世界人名大辞典
文泰のもとで将帥として活躍した.宇文泰の死後,遺命により世子宇文覚(孝閔帝)を補佐し[556:恭帝3-],翌年,西魏恭帝から宇文覚に禅譲させて北周を成立させた[
43. うぶんたい【宇文泰】(Yǔwén Tài)
世界人名大辞典
拡大させ,江陵(湖北)に梁の宗室の蕭詧を立てて附庸(ふよう)国後梁を置いた[54:恭帝1].世子の宇文覚が後を継ぎ,翌年,禅譲によって北周を建てた.〖文献〗 周
44. あいあい‐し・い【愛愛】
日本国語大辞典
し〔形シク〕(1)あいらしい。かわいらしい。*源平盛衰記〔14C前〕一九・文覚発心「青黛の眉の渡(わたり)たんくゎの口付愛愛敷(アイアイシク)」*慶長見聞集〔1
45. あいぎょういん【愛行院】愛知県:西春日井郡/師勝町/鹿田村
日本歴史地名大系
。これを児子薬師如来と称し、霊験が四方に喧伝され、参拝者が群集したという(西春日井郡誌)。「寛文覚書」には「丹波薬師堂一宇 地内年貢地 堂守 山伏長学」とあり、
46. あいちぐん【愛知郡】
国史大辞典
加え約一〇万人以上が居住した。その後の増加によって明治初年の人口は約一三万人。城下を除く郡内人口は『寛文覚書』によると、寛文十一年(一六七一)―十二年ごろ五万九
47. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
およそ九万八千六〇〇石、耕地は田五千五三町・畑二千五六六町、牛馬が二千一八六匹と計出される(寛文覚書)。当郡は丘陵に富むため、灌漑用の池が知多郡に次いで多い。別
48. あい‐の‐もの[あひ‥]【間物】
日本国語大辞典
)平曲で、曲を章と段に区別し、どちらに入れるか判然としないもの。鵜川合戦、大塔建立、競、新都、文覚荒行、五節沙汰、入道逝去、木曾願書、維盛都落、宇佐御幸、藤戸、
49. あいはらむら【相原村】愛知県:名古屋市/緑区
日本歴史地名大系
野並(現天白区)より古鳴海を通る鎌倉街道がこの相原村を経て二村山(現豊明市)へ向かった。「元ハ鳴海村之内也」(寛文覚書)とあるが全村蔵入地の鳴海村と違い、「徇行
50. あおつかむら【青塚村】愛知県:津島市
日本歴史地名大系
田は一六町六反六畝余、畑は一一町六反三畝余。寛文一一年(一六七一)には戸数三五、人数一四〇(寛文覚書)。「徇行記」によれば「竹木茂リ村立屋並モヨシ、高ニ準シテハ
「文覚」の情報だけではなく、「文覚」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

文覚と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「文覚」は武将・大名・王・官僚・僧に関連のある記事です。
その他の武将・大名・王・官僚・僧に関連する記事
武田勝頼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四六-八二戦国・安土桃山時代の武将。甲斐の武田信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。天文十年(一五四一)六月、父晴信(信玄)が武田家当主となり、翌十一年信濃国諏訪郡を攻め、諏訪頼重を誅殺した際、その娘を側室として同十五年勝頼が生誕した。四男なので諏訪氏の
松平広忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五二六-四九戦国時代の三河国の武将。徳川家康の父。千松丸、仙千代、次郎三郎。父は清康、母は青木貞景女。大永六年(一五二六)岡崎生まれ。天文四年(一五三五)十二月に清康が尾張守山で死んだ時は十歳。織田信秀の来襲は撃退したが、桜井松平家の信定に追われて
松平信康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五九-七九戦国時代の武将。竹千代、次郎三郎。永禄二年(一五五九)三月六日駿府で誕生。徳川家康の長男。母は関口義広女(築山殿)。桶狭間の戦後も駿府に抑留されていたが、同五年人質交換で母とともに岡崎へ引き取られた。六年三月、織田信長の女五徳(徳姫)と
平岩親吉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五四二-一六一一戦国時代末期徳川家康に仕えた武将で、江戸時代初頭に譜代大名となる。天文十一年(一五四二)三河国に生まれる。父は松平宗家譜代の親重。母は天野清右衛門貞親の女。幼時より徳川家康に仕え、家康が幼名竹千代のころ、人質として駿府の今川義元のも
鳥居元忠(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三九-一六〇〇戦国・安土桃山時代の武将。天文八年(一五三九)生まれ。鳥居忠吉の子で、徳川家康が今川氏の人質となったとき駿府に随従し,のち,家康の三河統一、遠江経略の戦に従軍する。元亀三年(一五七二)の三方原の戦で負傷して跛になったという。天正十年
武将・大名・王・官僚・僧に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶