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文覚

ジャパンナレッジで閲覧できる『文覚』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

文覚
もんがく

生没年未詳。平安末~鎌倉初期の僧。俗名遠藤盛遠 (えんどうもりとお)。摂津の渡辺党の遠藤茂遠 (もちとお)の子。初め上西門院 (じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡 (みなもとのわたる)の妻袈裟 (けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し、諸国の霊場を遍歴、修行した。文覚は空海 (くうかい)を崇敬し、1168年(仁安3)その旧跡である神護寺 (じんごじ)に住み、修復に努めた。1173年(承安3)後白河 (ごしらかわ)法皇の御所法住寺 (ほうじゅうじ)殿を訪ね、神護寺興隆のために荘園 (しょうえん)の寄進を強請して伊豆 (いず)に流され、そこで配流中の源頼朝 (よりとも)に会った。1178年(治承2)許されて帰京したが、流されてのちも文覚は信仰の篤い法皇への敬愛の情を失わず、翌1179年、平清盛 (たいらのきよもり)が法皇を幽閉したのを憤り、伊豆の頼朝に平氏打倒を勧め、1180年には平氏追討を命ずる法皇の院宣 (いんぜん)を仲介して、頼朝に挙兵を促した。1183年(寿永2)法皇から紀伊 (きい)国桛田荘 (かせだのしょう)を寄進されたのをはじめとして、法皇や頼朝から寺領の寄進を受け、神護寺の復興に努力した。1190年(建久1)には神護寺の堂宇はほぼ完成し、法皇の御幸を仰いだ。文覚はさらに空海の古跡である東寺 (とうじ)の復興をも図り、1189年(文治5)播磨 (はりま)国が造営料国にあてられ、文覚は復興事業を主催し、1197年には諸堂の修造を終えた。しかし1192年に法皇が没し、1199年(正治1)に頼朝が没すると、文覚は後援者を失い、内大臣源通親 (みちちか)の策謀で佐渡に流された。1202年(建仁2)許されて帰京したが、後鳥羽 (ごとば)上皇の怒りを買い、翌1203年、さらに対馬 (つしま)に流され、やがて没した。

[上横手雅敬]2017年10月19日



世界大百科事典

文覚
もんがく

平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。生没年不詳。俗名を遠藤盛遠といい,鳥羽天皇の皇女上西門院に仕えた渡辺党の武士であった。出家して,諸国の霊山を巡って修行し,その効験をもって知られた。京都に帰って高雄神護寺の復興を企図して勧進活動を行ったが,法住寺殿で後白河法皇に神護寺への荘園寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。この配流先で源頼朝と知己を得,彼に挙兵をすすめたといわれている。鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺の復興をなしとげた。1193年(建久4)には東寺修造料国として播磨国を得てその国務を沙汰し,東寺の修造活動も行った。99年(正治1)庇護者の頼朝が死去するとともにその地位を失い,新たに朝廷内に台頭した源通親によって,親頼朝派の公家の九条兼実らとともに謀議を計ったかどで捕らえられ佐渡国へ配流された。1203年(建仁3),許されて京都に帰ったといわれている。
[細川 涼一]

伝承

文覚についての伝承は,《平家物語》諸本を中心に展開される。《源平盛衰記》に,長谷観音に申し子して生まれたが早く孤児となり,幼児期より〈面張牛皮(めんちようふてき)〉な乱暴者であったという。元服後,北面武者となったが,《平家》の読本系諸本では,渡辺橋の供養のとき,渡辺渡(刑部左衛門)の妻の袈裟御前を見て恋慕し,強引に奪おうと夫を討つつもりが,袈裟の計らいでかえって彼女を殺してしまう。この女の犠牲ゆえに18歳で出家した(夫もまた出家して渡阿弥陀仏と称し,異本では重源(ちようげん)であるという)という発心譚をもつ。《平家》諸本は,文覚が熊野那智の荒行で滝に打たれて死んだが不動明王の童子に助けられ,諸国の霊山を修行して〈やいばの験者〉と呼ばれたといい,やがて,神護寺復興のため,法住寺殿に乱入して後白河法皇の遊宴を邪魔して勧進帳を読み上げ,投獄されたが放言悪口が止まないため,伊豆に流されたという。このいきさつや配流の途中断食して祈願したことなど《文覚四十五箇条起請文》に基づくが,《平家》では護送の役人をだまして笑い者にしたり,船中で嵐に遭うが竜王を叱りつけて無事に到着したことなどが加えられる。伊豆では奈古屋の観音堂に籠り,〈長門本〉や〈延慶本〉では湯施行をしたといい,《盛衰記》では相(占い)人の評判を立て,頼朝に対面し,彼が天下の大将軍となる相を見て,父義朝の髑髏(どくろ)を見せて挙兵を勧めたという。《吾妻鏡》には,後年,頼朝が勝長寿院を供養の際,文覚が京より義朝の頭を将来したというが,これが背景にあるか。やがて籠居または入定を装って福原京に上り,平氏追討の院宣を賜って頼朝にもたらしたという。これは《愚管抄》も否定しながら記す。平氏滅亡後は維盛の子六代の助命に奔走するが,これには長谷観音の霊験譚がかかわる。頼朝が没すると直ちに失脚し,佐渡,ついで隠岐に流されるが,〈延慶本〉はこれを,文覚が〈及杖(ぎつちよう)冠者〉とののしった後鳥羽院との確執によると伝え,死後,明恵の前に亡霊が出現して承久の乱を起こそうと告げたという。

 物語のなかで文覚は,〈天性不当〉で〈物狂〉な人とされ,勧進聖としての姿を強調することに重なる。また頼朝の護持僧として,予言者であり,さらには幸若舞曲のように平家を呪詛する呪術者という面を示す。《愚管抄》に彼のことを〈天狗マツル人〉という評判があったといい,《吾妻鏡》は江ノ島の洞窟に籠ってまじないを行ったと伝えるなど,王を背後から支える宗教者として造形されている。

 なお,文覚の生没については,高山寺蔵の伝隆信筆の文覚画像に〈建仁三年七月二十一日六十五歳没〉と見えており,近年,この没年は信頼に足るものと考えられるようになった。これによると,生年は1139年(保延5),没年は1203年となる。
[阿部 泰郎]

[索引語]
遠藤盛遠 神護寺 源頼朝 袈裟御前 重源


国史大辞典

文覚
もんがく
一一三九 - 一二〇三
平安・鎌倉時代前期の僧。神護寺蔵伝藤原隆信筆文覚画像に「建仁三年(一二〇三)七月二十一日入滅、春秋六十五」とあるのを手がかりにすれば、生年は保延五年(一一三九)となる。出身は『平家物語』などに摂津渡辺党に所属する遠藤氏で、名を盛遠(もりとお)と称する武士であったという。ほぼ容認し得る説である。盛遠が出家して文覚を名のった経緯はよくわからない。延慶本『平家物語』に、人妻袈裟(けさ)に横恋慕し、誤って袈裟を殺害したために出家した話が詳述されるが、そのまま事実であるとは認め難い。ただ、何らかの恋愛事件が出家の動機になったとは考えられる。『文覚四十五箇条起請』に、神護寺復興を決意したのは仁安三年(一一六八)のこととするから、出家はそれよりも五、六年さかのぼるであろう。承安三年(一一七三)四月二十九日、後白河院に対して神護寺復興のための寄付を強要して逆鱗にふれ、伊豆に流される。しかしたまたま謫地で源頼朝と邂逅、たちまち親交を結んだ。『平家物語』諸本に、頼朝に平家追討の蜂起をうながしたと説くが、細部に虚構が見られるものの、この時期文覚が頼朝の覇業に貢献したことは事実と思われる。平家が壇の浦に滅亡するころ、頼朝と並んで後白河院も文覚の外護者に転じ、かねて企てていた空海ゆかりの諸大寺復興の大事業を強力に支援した。摂津・若狭・丹波・播磨・備中・紀伊の各地にある荘園が神護寺に寄進され、そこからあがる厖大な資金を投入して、神護寺をはじめ、東寺・西寺・高野大塔・四天王寺など、空海に関係する諸大寺をつぎつぎと修繕していった。これらは文覚の熱烈な大師信仰に基づく純粋な宗教運動とみるべきであろう。だが、建久三年(一一九二)後白河院が崩御し、正治元年(一一九九)頼朝が没すると、文覚は討幕政策を進める後鳥羽院勢力の忌むところとなり、はじめ佐渡に、ついで対馬に流罪となり、配地に赴く途中鎮西で客死した。遺骨は遺弟上覚らによって神護寺背後の山頂に埋葬された。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ八、元久二年是歳条、田井啓吾編「神護寺文書」一(『史林』二五ノ一)、『高山寺明恵上人行状』(『高山寺資料叢書』一)、相原精次『文覚上人一代記』、山田昭全「僧文覚略年譜考」(『立教大学日本文学』一二)、同「文覚上人の弘法大師信仰について」(『豊山学報』一〇・一一合併号)
(山田 昭全)
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8. もんがく【文覚】
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14. 文覺發心 (見出し語:文覺)
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15. 文覺神護寺勸進 (見出し語:文覺)
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16. 文覺那智山苦行 (見出し語:文覺)
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17. 文覺配流 (見出し語:文覺)
古事類苑
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18. もんがくいけ【文覚池】京都府:船井郡/八木町/室橋村
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19. 『文覚四十五箇条起請』
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25. 文覚上人行略抄(著作ID:1023989)
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27. 文覺神護寺勸進 (見出し語:勸進)
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28. 文覺四十五ヶ條起請文 (見出し語:起請文)
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29. もんがくしじゅうごかじょうつけたりかんぷ【文覚四十五箇条附官符】
国史大辞典
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30. うぶんかく【宇文覚】(Yǔwén Jué)
世界人名大辞典
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31. はしくようぼんじのもんがく[はしクヤウボンジのモンガク]【橋供養梵字文覚】
日本国語大辞典
時代物。五幕。三世河竹新七作。明治一六年(一八八三)東京市村座初演。文覚上人にまつわる話を活歴風にまとめあげたもの。通称「文覚」。ハシクヨー=ボンジノモン
32. はしくようぼんじのもんがく【橋供養梵字文覚】
歌舞伎事典
三世河竹新七作。通称《文覚》。明治一六(1883)年五月東京・市村座初演。文覚・不動=九世市川団十郎、渡辺亘(わたる)=四世嵐璃寛、袈裟御前=四世助高屋高助。《
33. 大坂表討捕首注文覚(著作ID:2084062)
新日本古典籍データベース
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34. 勧進文覚(著作ID:4299223)
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36. 御評判高雄文覚(著作ID:194376)
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37. 釈文覚復頼家将軍書(著作ID:1216304)
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38. 寛文村々覚書(寛文覚書)[文献解題]愛知県
日本歴史地名大系
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44. あいあい‐し・い【愛愛】
日本国語大辞典
し〔形シク〕(1)あいらしい。かわいらしい。*源平盛衰記〔14C前〕一九・文覚発心「青黛の眉の渡(わたり)たんくゎの口付愛愛敷(アイアイシク)」*慶長見聞集〔1
45. あいぎょういん【愛行院】愛知県:西春日井郡/師勝町/鹿田村
日本歴史地名大系
。これを児子薬師如来と称し、霊験が四方に喧伝され、参拝者が群集したという(西春日井郡誌)。「寛文覚書」には「丹波薬師堂一宇 地内年貢地 堂守 山伏長学」とあり、
46. あいちぐん【愛知郡】
国史大辞典
加え約一〇万人以上が居住した。その後の増加によって明治初年の人口は約一三万人。城下を除く郡内人口は『寛文覚書』によると、寛文十一年(一六七一)―十二年ごろ五万九
47. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
およそ九万八千六〇〇石、耕地は田五千五三町・畑二千五六六町、牛馬が二千一八六匹と計出される(寛文覚書)。当郡は丘陵に富むため、灌漑用の池が知多郡に次いで多い。別
48. あい‐の‐もの[あひ‥]【間物】
日本国語大辞典
)平曲で、曲を章と段に区別し、どちらに入れるか判然としないもの。鵜川合戦、大塔建立、競、新都、文覚荒行、五節沙汰、入道逝去、木曾願書、維盛都落、宇佐御幸、藤戸、
49. あいはらむら【相原村】愛知県:名古屋市/緑区
日本歴史地名大系
野並(現天白区)より古鳴海を通る鎌倉街道がこの相原村を経て二村山(現豊明市)へ向かった。「元ハ鳴海村之内也」(寛文覚書)とあるが全村蔵入地の鳴海村と違い、「徇行
50. あおつかむら【青塚村】愛知県:津島市
日本歴史地名大系
田は一六町六反六畝余、畑は一一町六反三畝余。寛文一一年(一六七一)には戸数三五、人数一四〇(寛文覚書)。「徇行記」によれば「竹木茂リ村立屋並モヨシ、高ニ準シテハ
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