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  11. 平宗盛

平宗盛

ジャパンナレッジで閲覧できる『平宗盛』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

平宗盛
たいらのむねもり
[1147―1185]

平安末期の武将。父は平清盛 (きよもり)、母は平時子。久安 (きゅうあん)3年誕生。同腹弟妹に知盛 (とももり)・重衡 (しげひら)・建礼 (けんれい)門院徳子 (とくこ)がいる。従 (じゅ)一位内大臣。1179年(治承3)清盛の嫡男重盛 (しげもり)が病没後、81年(養和1)清盛が没し、一門総帥の地位につく。しかし政治家としての力量に欠け、83年(寿永2)源義仲 (よしなか)入京に先だち西走。安徳 (あんとく)天皇を奉じ一門を率いて九州に向かい、新都経営をもくろんだが果たさず、讃岐 (さぬき)屋島 (やしま)に本拠を置く。84年(元暦1)一ノ谷の戦い、翌85年(文治1)屋島の戦いに敗れ、同年3月壇ノ浦 (だんのうら)で一門滅亡、宗盛は子清宗 (きよむね)とともに生虜となる。5月鎌倉へ送られたのち、6月21日近江 (おうみ)篠原 (しのはら)(滋賀県野洲 (やす)市)で父子ともに誅殺 (ちゅうさつ)され、首は獄門にかけられた。

[飯田悠紀子]



世界大百科事典

平宗盛
たいらのむねもり
1147-85(久安3-文治1)

平安末期の武将。清盛の子。従一位内大臣。1181年(養和1)源平争乱のさなかに清盛が死に,一門の統率の任につくが力量に欠け,83年(寿永2)源義仲に追われて大宰府に走る。ついで屋島に拠り,一時,摂津一ノ谷までもり返すが敗退。85年壇ノ浦で一門が滅亡したさい,自決しえず子の清宗とともに源義経に捕らえられ鎌倉に送られた。さらに京都へ送り返される途中,近江篠原で斬られ,首を獄門にかけられた。
[田中 文英]



国史大辞典

平宗盛
たいらのむねもり
一一四七 - 八五
平安時代末期の武将。久安三年(一一四七)生まれる。平清盛の三男。母は堂上平氏出身の時子。同腹の妹に建礼門院徳子がある。保元二年(一一五七)十月叙爵。平治の乱の勲功の賞として平治元年(一一五九)十二月遠江守。仁安二年(一一六七)清盛が従一位太政大臣になり、同年八月二十一歳で参議、十二月従三位。その後、右大将・権大納言などを経て寿永元年(一一八二)内大臣。翌二年正月従一位、二月上表。嫡室所生の第一子として早くから急速な官位昇進を示し、治承三年(一一七九)七月異腹の長兄重盛の病没後、家督を相続。養和元年(一一八一)正月、折からの内乱に対処するため新設された畿内近国九ヵ国総官の職につき、軍事権門としての脱皮をはかろうとしたが、同年閏二月清盛が死去すると、器量父・兄に劣る宗盛は、ますます困難な立場に立たされた。寿永二年七月木曾義仲入京を前に安徳天皇を奉じて西走。一時は源氏の内紛に乗じ旧都福原を回復、京都を伺う形勢を示したが、源義経が率いる軍勢のため、一谷、ついで屋島の戦に敗れ、結局、文治元年(一一八五)三月壇ノ浦の決戦で平氏一門は壊滅、宗盛は子息清宗とともに捕えられた。同年五月義経に伴われて鎌倉に護送、源頼朝と対面もしたが、京都に送還される途中、六月二十一日近江国篠原(滋賀県野洲郡野洲町)で斬られた。三十九歳。その首は翌々二十三日検非違使に引き渡され、獄門に懸けられた。
[参考文献]
安田元久『平家の群像』(『塙新書』九)、上横手雅敬『平家物語の虚構と真実』(同六一・六二)、石母田正「平氏政権の総官職設置」(『歴史評論』一〇七)
(杉橋 隆夫)
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1. 平宗盛
日本大百科全書
平安末期の武将。父は平清盛きよもり、母は平時子。久安きゅうあん3年誕生。同腹弟妹に知盛とももり・重衡しげひら・建礼けんれい門院徳子とくこがいる。従じゅ一位内大臣
2. 平宗盛
世界大百科事典
1147-85(久安3-文治1) 平安末期の武将。清盛の子。従一位内大臣。1181年(養和1)源平争乱のさなかに清盛が死に,一門の統率の任につくが力量に欠け,8
3. たいら‐の‐むねもり【平宗盛】
日本国語大辞典
平安末期の武将。清盛の三男。大納言、内大臣となり、従一位に進む。清盛の死後、一門を率いて源氏と戦ったが、木曾義仲に敗れ西国へ走る。壇ノ浦で源氏に捕えられて、近江
4. たいらのむねもり【平宗盛】画像
国史大辞典
一一四七―八五 平安時代末期の武将。久安三年(一一四七)生まれる。平清盛の三男。母は堂上平氏出身の時子。同腹の妹に建礼門院徳子がある。保元二年(一一五七)十月
5. 平宗盛
日本史年表
1182年〈寿永元(5・27) 壬寅〉 10・3 平宗盛 ,内大臣となる(玉葉)。 1185年〈文治元(8・14)(寿永4) 乙巳〉 6・21 平宗盛 ・ 平清
6. たいらの-むねもり【平宗盛】
日本人名大辞典
1147−1185 平安時代後期の武将。久安3年生まれ。平清盛の3男。母は平時子。寿永元年内大臣,2年従一位にすすむ。兄重盛の死後家督を相続し,清盛なきあと一門
7. 平宗盛爲生虜 (見出し語:平宗盛)
古事類苑
兵事部 洋巻 第1巻 851ページ
8. 梟平宗盛 (見出し語:平宗盛)
古事類苑
法律部 洋巻 第1巻 254ページ
9. 平宗盛花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. 安徳天皇
日本大百科全書
受けて即位したが、源平争乱の渦中で平氏と運命をともにした。1183年(寿永2)木曽義仲きそよしなか入京の際、平宗盛むねもりに擁せられて出京。大宰府だざいふ、讃岐
11. あんとく‐てんのう[‥テンワウ]【安徳天皇】
日本国語大辞典
母は平清盛の娘建礼門院徳子。名、言仁(ときひと)。治承四年(一一八〇)即位し在位五年。木曾義仲入京の時、平宗盛に守られて三種の神器と共に西下。源氏に追撃され、長
12. あんとくてんのう【安徳天皇】
国史大辞典
十一月関東の情勢に応ずるため京都に還った。寿永二年(一一八三)七月、木曾義仲が京都に迫り、同月二十五日、平宗盛に擁せられ、神器とともに西海に赴く。一度大宰府に入
13. 池田(静岡県)
日本大百科全書
松尾まつのお神社領遠江とおとうみ国池田荘しょうの中心地でもある。源範頼のりよりの母は池田宿長者の娘。平宗盛むねもりと長者の娘熊野ゆやの悲恋物語は謡曲『熊野』で有
14. いけだしゅく【池田宿】静岡県:磐田郡/豊田町
日本歴史地名大系
泊っている。侍従との間で和歌の贈答を行った重衡はその和歌に感心し、侍従の正体を聞いたところ、平宗盛が遠江国の国守であったとき京都に召した人で、当地に残した老母を
15. 池田宿
世界大百科事典
移動した。池田宿は中世を通じて紀行文や軍記物にみえるが,最も繁栄したのは平安末から鎌倉期で,平宗盛と宿長者の娘熊野(ゆや)の物語は,謡曲《熊野》で名高い。徳川家
16. 伊勢三郎
世界大百科事典
源平合戦に義経に従い,志度で敵将田内左衛門の率いる3000余騎を無血で武装解除させ,壇ノ浦で平宗盛らを生け捕るなど活躍した。伊勢国が生国とも父の生国とも伝え,父
17. いせのさぶろう【伊勢三郎】
日本架空伝承人名事典
源平合戦に義経に従い、志度で敵将田内左衛門の率いる三〇〇〇余騎を無血で武装解除させ、壇ノ浦で平宗盛らを生け捕るなど活躍した。伊勢国が生国とも父の生国とも伝え、父
18. いせ-よしもり【伊勢義盛】
日本人名大辞典
−1186 平安時代後期の武士。源義経(よしつね)四天王のひとり。屋島・壇ノ浦の戦いなどで活躍し,平宗盛・清宗父子を生け捕りにする。源頼朝と不和になった義経の西
19. いせよしもり【伊勢能盛】
国史大辞典
文治元年(一一八五)二月屋島急襲のとき義経に従って海上に浮かぶ平氏軍を攻めた。ついで壇ノ浦の戦で平宗盛・清宗父子を生け捕りにし、両人以下の平氏の捕虜の都入りに付
20. 一条能保
日本大百科全書
その関係により、朝幕間の折衝の窓口として活躍した。1185年(文治1)5月、源義経よしつねとともに平宗盛むねもり父子を護送して鎌倉に下向したが、翌年2月に帰洛き
21. いちのたに【一ノ谷】兵庫県:神戸市/須磨区/西須磨村
日本歴史地名大系
、これを突破口に平氏軍が総崩れとなったことから、一ノ谷の合戦と称するようになった。平氏は総帥平宗盛以下が屋島に逃れたが、平忠度・敦盛・通盛ら一族の多くが戦死した
22. 一ノ谷の戦
世界大百科事典
た。戦闘は一時混戦状態になったが,義経の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲により平氏は潰走した。総帥平宗盛,天皇らは讃岐国屋島にのがれたが,平通盛・忠度・敦盛以下一族の
23. 浮世物語(仮名草子集) 98ページ
日本古典文学全集
平重衡に一夜愛され、後出家してその菩提をとむらう。謡曲「熊野」の女主人公熊野。「湯屋」は当て字。平宗盛に愛された。和歌山市にある紀三井寺が西国三十三所巡礼の二番
24. 江戸繁昌記 3 79ページ
東洋文庫
第八一代の天皇。名は言仁(ときひと)、高倉天皇の第一王子。母は建礼門院平徳子。治承四年即位。源平の戦に、平宗盛に擁せられて西国に遷幸し、寿永四年三月、平家一族と
25. 榎本弥左衛門覚書 近世初期商人の記録 165ページ
東洋文庫
などを脚色する。 『一一熊野 能の一(喜多は湯谷と記す)。鬘物。遠江池田の宿の長者の娘熊野は平宗盛に愛され  ていたが、花見の宴で母の病を思う歌を詠み帰国を許さ
26. おうみのまき【麻績牧】
国史大辞典
美濃国(岐阜県)にあった牧の荘園化したものであるが所在は不明。仁安二年(一一六七)ごろ平宗盛が平時忠宛の書状のなかで、藤原済綱の主張を支持していることから、済
27. おおつやませきあと【大津山関跡】熊本県:玉名郡/南関町
日本歴史地名大系
虎)、「源平盛衰記」巻三三(平家大宰府落)に、寿永二年(一一八三)八月に都落ちした安徳天皇や平宗盛以下の平氏一門が大宰府にあった際、都から供奉してきた菊池高直が
28. おくなのかわむら【奥菜ノ川村】高知県:吾川郡/吾川村
日本歴史地名大系
人数一八六、馬六、猟銃二八。明神山の山頂近くに明神山城(名野川城)跡があり、「土佐州郡志」は「平宗盛逃於西国、其族党〓城于此以自衛、
29. おそれ【恐れ・畏れ】
全文全訳古語辞典
化》 ❶恐れること。恐怖。 「父の禅門の気色に恐れをなして参られず」〈平家・3・法皇被流〉(平宗盛は)父の入道(=平清盛)の顔色に恐怖心を起こして、参内できない
30. 伽婢子 2 266ページ
東洋文庫
寿永二年(二八 三)七月に都落ちし、元暦元年二月、一の谷で源 義経の急襲を受けて討死した。?1一一八四。平宗盛(ニノー) 平清盛の三男。母は平時子。重 盛の異腹
31. 伽婢子 2 294ページ
東洋文庫
平氏追討の任を 解かれた。文治元年(一一八五)に再び任ぜられ て屋島・壇ノ浦に平家を壊滅させ、平宗盛父子を 鎌倉に護送するも入部を許されず、同年一〇月頼 朝追討
32. 伽婢子 2 297ページ
東洋文庫
五位下・侍従に始ま り、同二三年正月従四位下、そのあと出家し戸木 入道と号したとある。宗盛↓平宗盛村上頼平(十二ノー) 頼平については未詳だが、 村上義清ではな
33. おみのまき【麻続牧】岐阜県:加茂郡
日本歴史地名大系
「おほみのまき」と読む史料もある。また「麻績牧」「麻続庄」とも記す。仁安二年(一一六七)九月一八日の平宗盛書状(神田喜一郎氏所蔵文書)に「なりつなの申候みのゝく
34. かい-だう【海道】
全文全訳古語辞典
また、その沿道の地域。 ❷「東海道」の略。 「海道一の名人にて候へ」〈平家・10・海道下〉(平宗盛は)東海道一の(歌の)名人です。古典のなかの暮らし「海道」から
35. 改訂 京都民俗志 225ページ
東洋文庫
その内に井戸があって、そこのみ深い。これが鳴かずの蛙の池であるという。 蛙不鳴池が湖東にもある。大篠原で平宗盛父子を殺した。そのときの首洗池と伝えるものがあるが
36. 海道下り
世界大百科事典
・初重〉)。ここでは長(ちよう)の熊野(ゆや)の娘侍従の家に宿泊したが,この侍従は,もと都で平宗盛に愛された女で,老母の病気に帰国を願ったが許されなかったため,
37. 甲子夜話 1 98ページ
東洋文庫
従ふもの僅に五六人なり。頂上の遠眺快甚く、折しも天朗晴にて、目中の山巒島嶼、千態万状を脚下に献ず。平宗盛が納めし鐘を摩裟して、懐古の想を生じ、良久く徘徊する中に
38. かねあらいざわ【金洗沢】神奈川県:鎌倉市/腰越村
日本歴史地名大系
詣の帰路、金洗沢で牛追物が行われたとあり、「平家物語」には文治元年(一一八五)五月、源義経が平宗盛父子を伴い鎌倉に入ろうとしたとき、金洗沢に関門が設けられて入れ
39. かね‐やき【金焼・印焼】
日本国語大辞典
その印。やきがね。かなやき。*源平盛衰記〔14C前〕一四・三位入道入寺事「小糟毛を取り寄せて〈略〉平宗盛入道と金焼(カネヤキ)して、京へ向けてぞ追ひ放つ」*天草
40. かり‐ぼうし[‥ボフシ]【刈法師】
日本国語大辞典
*源平盛衰記〔14C前〕一四・三位入道入寺事「小糟毛を取り寄せて、髪をかり法師(ホフシ)に切って、平宗盛入道と金焼きして」*随筆・貞丈雑記〔1784頃〕一三「か
41. かんぎいん【歓喜院】埼玉県:大里郡/妻沼町/妻沼村地図
日本歴史地名大系
本尊は大聖歓喜天(聖天尊)。もとは長井庄総鎮守聖天宮の別当寺。聖天宮縁起(歓喜院蔵)によると、平宗盛の家臣斎藤実盛が長井庄に移住し、治承三年(一一七九)に古社(
42. 紀行・日記編(松尾芭蕉集) 114ページ
日本古典文学全集
自筆本「斎藤別当真盛」、曾良本は上の四字を消す。当時は「真盛」とも書き誤記とは言い切れない。平宗盛から下賜された赤地錦の直垂。源義朝。頼朝・義経などの父。実盛は
43. き-しょく【気色】
全文全訳古語辞典
❶気持ちが顔の表情に表れること。顔色。 「父の禅門の気色に恐れをなして参られず」〈平家・3・法皇被流〉(平宗盛は)父の入道(=平清盛)の顔色に恐れをなして(法皇
44. 昨日は今日の物語 近世笑話の祖 107ページ
東洋文庫
の意と、愛妾熊野をせしめられて、の意味の「しられて」を掛けたもの。謡曲「熊野」は世阿弥作の名曲で、平宗盛の妾熊野が母の病気見舞を願い出て許されず、東山の花見の席
45. 九州の道の記(中世日記紀行集) 581ページ
日本古典文学全集
記事が前後している。山口県下関市阿弥陀寺町にある赤間神宮(阿弥陀寺)をさす。安徳天皇(一一七八~八五)のこと。平宗盛など平家一門の公卿・殿上人。「局」は局住みの
46. きよむね・さざなみひめ【清宗・佐々連姫】
日本人名大辞典
平家落人(おちうど)伝説の主人公。平宗盛(むねもり)の息子と,安徳天皇の侍女。平家の滅亡後,長門(ながと)(山口県)阿武(あぶ)山中にのがれ,恋仲になる。清宗は
47. 義経記 1 176ページ
東洋文庫
ひろいて世を渡るかな)に託し、平清盛の奏請によって三位に叙せられて、源三位と呼ばれた。 わが子仲綱と平宗盛との間で、「木の下」と呼ぶ馬のことから発した争いは、以
48. 義経記 1 185ページ
東洋文庫
戦場においてはまつ先を進み、非常な苦労の末、ついに平家を攻め滅ぼした。 平家の総大将、前の内大臣平宗盛父子を初め、生捕り三十人を連れて京都に凱旋し、後白河上皇と
49. けんしゅんもんいん【建春門院】画像
国史大辞典
高倉天皇の生母。父は兵部権大輔平時信、母は権中納言藤原顕頼女祐子。異母姉妹には平清盛室時子や平重盛室・平宗盛室らがいる。康治元年(一一四二)に生まれる。応保元年
50. 建礼門院
世界大百科事典
に仕えた。後白河法皇が大原に女院を訪れたときの話は《平家物語》灌頂巻の名文で知られ,源頼朝も平宗盛の旧領摂津国真井・島屋両荘を彼女に贈って生活の資とした。没後は
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