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スターリン

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日本大百科全書(ニッポニカ)

スターリン
すたーりん
Иосиф Виссарионович Сталин/Iosif Vissarionovich Stalin
[1879―1953]

本名ジュガシビリДжугашвили/Dzhugashvili。ソ連の政治家。12月21日ジョージア(グルジア)のゴリという町の靴屋の子に生まれる。チフリス(現、ジョージア・トビリシ市)の神学校在学中にマルクス主義の洗礼を受け、職業革命家の道に入った。ロシア社会民主党のボリシェビキ派に属し、逮捕と流刑、脱走を繰り返しながら、チフリス、バクーなどで地下活動に従事した。1912年のプラハ協議会でレーニンの指導下にボリシェビキ党が結成されると、その中央委員になり、機関紙『プラウダ』の刊行に参加した。翌1913年レーニンの勧めで『マルクス主義と民族問題』を著した。そのころからスターリン(鋼鉄の人)の変名を用いるようになったが、まもなく逮捕されてシベリアに流刑。1917年の二月革命で解放され、ペトログラード(のちのレニングラード、現在のサンクト・ペテルブルグ)に帰って『プラウダ』編集部に復帰した。初めカーメネフとともに臨時政府に妥協的な方針で党を指導したが、同年4月のレーニン帰国後はレーニンに従った。十月革命に際してはレーニンの即時蜂起 (ほうき)論を支持して活動した。ただし8月の党大会で入党したばかりのトロツキーに比べて目だつ存在ではなかったが、レーニンを首班とするソビエト政権に民族人民委員のポストを得た。革命に続く内戦期には、ツァリーツィン(のちのスターリングラード、現在のボルゴグラード)防衛戦、ペトログラード防衛戦、デニキン軍攻略戦などで政治的組織者として活動した。内戦が終結した1921年3月の第10回党大会の段階で、レーニン、カーメネフ、ジノビエフ、トロツキーとともに5人の政治局員の一人。しかし翌1922年に党の書記長を兼ねることにより、要員の配置を通じて党内の絶大な実権を手中にしうる地位についた。そのような権力の集中は病床のレーニンの深く憂慮するところとなった。ジョージアの民族問題の処理にみせたスターリンの粗暴さを重視したレーニンは、その後継指導者としての資質に懸念を抱き、遺言となった「大会への手紙」のなかで書記長の更迭の必要性を述べた。

 しかしレーニンの病状悪化によってスターリンの政治生命は救われ、レーニンが1924年1月に死去すると、その葬儀において自分こそがもっとも忠実な弟子たることを党の内外に印象づけた。遺書に述べられた勧告は非公表とされた。同年5月の第13回党大会で書記長に留任。党内にカーメネフ、ジノビエフとともにいわゆる三頭連盟体制をつくってトロツキーの権威失墜を図り、1925年に彼を軍事人民委員のポストから解任した。理論的にはレーニン死後の一連の著作のなかで一国社会主義不可能論から可能論に転換し、トロツキーの永続革命論に論難を加えた。やがて三頭連盟体制に分裂が生じると、ブハーリンと組んで合同反対派と対抗した。1927年にはトロツキー、ジノビエフらを党から除名した。その後はモロトフらとともにブハーリン、ルイコフらの右翼反対派と抗争。こうしてスターリンは反対派党幹部を次々に失脚させ、1930年代に入ると、党と政府を一身に掌握する独裁的政治体制を築いた。1920年代末から始まった急速な工業化と農業の全面集団化はこの強権のもとで強行された。さらに1934年のキーロフ暗殺事件を契機に「大粛清」を開始。その対象は旧反対派幹部だけでなく、古参ボリシェビキ、軍首脳部から一般党員、一般市民にまで向けられた。この間、1936年にいわゆる「スターリン憲法」が制定された。

 対外面では西欧民主主義諸国との協調による安全保障の道も追求されたが、これが失敗に終わると1939年にナチス・ドイツとの間に不可侵条約を結んだ。1941~1945年の独ソ戦では緒戦で大敗北を喫した。これはドイツの対ソ攻撃の見通しについてのスターリンの楽観的予測に起因するところが大きい。しかし国民の愛国心に訴えて反撃に成功。1922年以後の書記長、開戦の直前に就任した人民委員会議議長に加え、国防委員会議長、ソ連軍最高総司令官を兼務し、1943年には元帥、1945年には大元帥となり、戦争を通じて名実ともに権力を一身に集中し、その権威のもとに国民を結集して戦勝に導く一方、連合国首脳とともに戦後処理外交を推進、戦後世界秩序の枠組みをつくった。戦後その権威により引締め政策を国民に強いたが、1953年3月5日脳出血で死去した。

[原 暉之]



世界大百科事典

スターリン
Iosif Vissarionovich Stalin
1879-1953

ソ連邦共産党の指導者・政治家。本名ジュガシビリDzhugashvili。ソビエト社会主義体制の基礎を創出し,またスターリン主義を文字どおり体現した人物として,その評価は現代社会主義の最大の問題の一つとなっている。グルジアの靴屋の子として生まれ,ティフリス(現,トビリシ)の神学校に入った。在学中マルクス主義のグループに加わり,1901年に社会民主労働党ティフリス委員会の一員となる。1905年の革命はザカフカスでむかえる。その後も一貫してロシア国内で地下活動を行い,逮捕,流刑,脱走を繰り返し,革命家としての自己形成をはかる。12年に中央委員に任命され,レーニンのすすめで論文《マルクス主義と民族問題》(1913)を書いた。

 1917年の二月革命後は一時臨時政府を条件つきで支持したが,その立場を捨て,レーニンの〈四月テーゼ〉を支持し,忠実なレーニンの信奉者となる。十月革命後は民族人民委員となるだけでなく,党・政府・軍隊での組織的任務にあたった。19年党中央委員会政治局員,組織局員に選出された。また同世代で,赤軍の創始者であるトロツキーと軍事面の指導をめぐり対立した。内戦期からネップ初期の党内論争ではレーニンの支持者として,ブハーリン,トロツキー,シリャプニコフA.G.Shlyapnikovら反対派と対立した。しかし,その役割は多く副次的なもので,彼の本領である地味な組織者としての特徴が評価され,22年に書記長に選ばれた。スターリンは書記局にモロトフ,カガノビチらを重用・抜擢(ばつてき)し,人事や配員を通じて急速に権力基盤を強めた。晩年レーニンはグルジア問題でのスターリンの指導に疑問を感じ,彼を書記長から解任することを決意し,トロツキーの支持を得ようとする。しかしスターリンはジノビエフ,カーメネフらと組んで,逆にトロツキーとその支持者を〈新航路論争〉で失脚させた。

 レーニンの死後,スターリンはレーニン崇拝を促進し,その思想を〈レーニン主義〉として教義化する。24年以後は一国社会主義論を唱え,さらに25年末にはかつてトロツキー追放で一致したジノビエフらを指導部から追放し,工業化よりも農民との和解を重視したネップをブハーリンらとともに推進する。26-27年にはトロツキー,ジノビエフらが結成した〈合同反対派〉を党から追放し,多くの指導者を除名した。28年初めの穀物調達危機にさいし,スターリンはシベリア旅行後非常措置を強化し,これは,29年末にはクラーク絶滅政策と全面的集団化へと発展することとなる。1928年10月から開始された第1次五ヵ年計画では,重工業に重点をおき,それまでのネップの枠組みからの離脱をはかった。

 29年にはトロツキーを国外追放にすると同時にブハーリン,ルイコフ,トムスキーM.P.Tomskiiらを党内右派として指導部から追放した。反対派追放は29年末のスターリン生誕50周年で頂点に達し,カガノビチ,モロトフらを中心とする党官僚層が政治的比重を高め,党内の自由な雰囲気も消えた。また文化革命の名のもと,スターリンは農学・歴史学の分野にも介入した。しかし農業集団化の極度の難航や強引な穀物調達は党内外に不満を生み,旧反対派だけでなく,忠実なスターリン派の党員や指導者のなかからも書記長の更迭を求める動きが生まれたといわれ,事実34年の第17回党大会ではキーロフと同格の書記の一人に選ばれたにすぎなかった。しかしキーロフが暗殺されて以後,スターリンはただちに内務人民委員のエジョフやベリヤを使嗾(しそう)して党員の粛清を開始した。3次のモスクワ裁判などを通じ,ジノビエフら反対派だけでなく,忠実な党員・軍人・官僚と,多くの無辜(むこ)の民衆を追放,抹殺した(大粛清)。36年には〈スターリン憲法〉を制定する。この憲法はブハーリンやラデックらを加えて起草されたもので,最も民主的な内容をもつといわれたが,適用の面では空文化していることが多かった。

 ナチス・ドイツの台頭と国際関係の緊張が高まるにつれ,スターリンは39年8月ドイツとの不可侵条約を結ぶ。41年には人民委員会議長(首相)となるが,ドイツ軍の侵入の可能性を信じず,これが6月22日以降の緒戦での敗北の大きな原因となった。ナチスに対する国民的な抵抗で第2次世界大戦が終結に向かうと,スターリンはヤルタ会談などにおいて,F.D.ローズベルト,チャーチルとならんで戦後の国際秩序の形成に一役を演じた。また戦後の冷戦が激しくなるなかで,ソ連・東ヨーロッパでのスターリン主義的支配を強化する。しかし49年のレニングラード事件,53年の医師陰謀事件などで粛清が再開されたやさきの1953年3月,スターリンは死去し,ソビエト史は〈雪どけ〉とスターリン批判の時代に向かう。

 著書も多く,前記のほか《レーニン主義の基礎》(1924),《弁証法的唯物論と史的唯物論》(1938),《マルクス主義と言語学の諸問題》(1950),《ソ連邦における社会主義の経済的諸問題》(1952)が著名である。
→スターリン主義
[下斗米 伸夫]

[索引語]
Stalin,I.V. ジュガシビリ,I.V. Dzhugashvili,I.V. トロツキー,L.D. レーニン主義 大粛清
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