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  11. 源行家

源行家

ジャパンナレッジで閲覧できる『源行家』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

源行家
みなもとのゆきいえ
 - 一一八六
平安・鎌倉時代前期の武将。本名義盛。為義の十男、熊野新宮に住し新宮十郎と呼ばれた。治承四年(一一八〇)四月八条院蔵人となり行家と改名、同年五月に挙兵した以仁王の令旨を奉じ東国に下向、源頼朝をはじめとする諸国源氏の蜂起を促した。頼朝挙兵後、独自の行動をとり、翌養和元年(一一八一)三月には平重衡・維盛の軍勢と墨股川で戦ったが敗走。この戦闘で行家の率いる尾張・三河を中心とする武士六百九十余人が損害を被ったという。さらに寿永元年(一一八二)五月行家は平家追討助力のため伊勢神宮に祈願を乞うが、受け入れられず、また延暦寺との提携も不調に終った。その後鎌倉に赴くが頼朝にいれられず、信濃の木曾義仲に加わり行動を共にした。翌寿永二年七月義仲とともに平氏西走後の京都に入り、その功により同年八月従五位下備後守に叙任され数日後に備前守に遷任された。義仲・行家の入京後の論功行賞では頼朝第一、義仲第二、行家第三とされ、後白河法皇をはじめとする王朝貴族たちの源氏諸将の格付けを窺うことができる。『平家物語』によれば平家追討のため西下した義仲に対し、行家の讒奏が行われ、このため行家は義仲との衝突を避けるべく播磨へ下向、ここで平知盛以下の平氏軍と遭遇、当国揖西郡室山(兵庫県揖保郡御津町)で戦い和泉へと敗走した。その後、義経を中心とする義仲追討軍と歩調を合わせるべく上洛の機を窺っていた行家は河内石川城を義仲の将樋口兼光に追われ、紀伊名草に退却した。ついで平氏滅亡後の文治元年(一一八五)義経と頼朝の対立が表面化するに及び、義経と協力、同年十月後白河法皇に頼朝追討の宣旨を請い、行家は四国の地頭に補せられた。行家の補任された四国地頭は義経の九国地頭とともに鎌倉幕府の国地頭の先駆をなすものであり、王朝国家による義経・行家への強大な権限付与を意味した。こうして行家は義経との協同戦線で頼朝に対抗しようとしたが、頼朝追討のために必要な軍勢を得ることができず、同年十一月六日義経とともに西海に赴くため摂津大物浦を発った。しかし疾風のため覆船、渡海は失敗、両人に対する追討の院宣が諸国に下された。その後、鎌倉側の捜索にもかかわらず両人の行方は不明であったが、文治二年五月に至り和泉・河内方面に潜伏している行家の行状が判明、追捕のため派遣された北条時定・常陸坊昌明らによって和泉の在庁日向権守清実の小木(こぎ)郷(大阪府貝塚市近木)の宅に身を寄せていた行家は捕えられ、同年五月十二日赤井河原で梟首された。翌十三日には行家の一男光家も誅せられた。行家の首級は二十五日鎌倉に送られた。
[参考文献]
「大日本史料』四ノ一、文治二年五月十二日条
(関 幸彦)


日本大百科全書(ニッポニカ)

源行家
みなもとのゆきいえ
[?―1186]

平安末期~鎌倉初期の武将。為義 (ためよし)の子で、頼朝 (よりとも)の叔父にあたる。本名義盛 (よしもり)。保元 (ほうげん)の乱(1156)に父為義が敗れてのち、熊野新宮 (くまのしんぐう)に隠れ、新宮十郎と称した。1180年(治承4)以仁王 (もちひとおう)を奉ずる源頼政 (よりまさ)に召し出され、名を行家と改め、山伏 (やまぶし)姿となって諸国の源氏に以仁王の令旨 (りょうじ)を伝えた。まもなく以仁王、頼政は敗北し、行家は尾張 (おわり)、三河などで兵を結集し、平氏と戦った。鎌倉の頼朝に所領を請うたがいれられず、やがて行家は木曽義仲 (きそよしなか)と結んだ。83年(寿永2)義仲とともに入京、後白河 (ごしらかわ)法皇に謁し、従 (じゅ)五位下備前守 (びぜんのかみ)となった。しかしその後義仲と対立するに至り、紀伊 (きい)に退いた。平氏滅亡(1185)後は頼朝と不和となった源義経 (よしつね)に味方し、頼朝追討の宣旨を得た。自ら出陣した頼朝に対して、西海に赴こうと義経ともども摂津大物浦 (だいもつのうら)(兵庫県尼崎 (あまがさき)市)をたったが、大風にあって遭難、和泉 (いずみ)に隠れたが、翌年関東の討手常陸房昌明 (ひたちぼうしょうみょう)に攻められ、文治 (ぶんじ)2年5月12日赤井河原で斬 (き)られた。

[田辺久子]

世界大百科事典

源行家
みなもとのゆきいえ
?-1186(文治2)

平安末~鎌倉初期の武将。源為義の十男。本名義盛。源義朝の弟,頼朝の叔父。熊野新宮に住んだので〈新宮十郎〉と呼ばれ,1180年(治承4)4月八条院蔵人(くろうど)に補せられたとき改名,以後は十郎蔵人と呼ばれた。同年5月に挙兵した以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を諸国源氏に伝え,挙兵を促したといわれる。源頼朝にいれられず,源義仲と結んで83年(寿永2)平氏西走後の京都に入り,従五位下備後守に任叙され,数日後備前守に遷任した。この際,勲功賞が義仲の従五位上左馬頭(さまのかみ)兼越後守に劣るとして忿怒し,閉門辞退したと《玉葉》に記されている。ほどなく義仲と対立,やがて京に接近した源義経と結び,平氏滅亡(1185)後,兄頼朝と対立した義経とともに頼朝追討宣旨を得る。義経と摂津大物浦(だいもつのうら)から船で西海に赴こうとしたが遭難,和泉に隠れた。翌年幕府の討手北条時定,常陸房昌明に発見され,5月12日梟首(きようしゆ)された。
[飯田 悠紀子]

[索引語]
新宮十郎 十郎蔵人 源義仲 源義経
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1. 源行家
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平安末期~鎌倉初期の武将。為義ためよしの子で、頼朝よりともの叔父にあたる。本名義盛よしもり。保元ほうげんの乱(1156)に父為義が敗れてのち、熊野新宮くまのしん
2. 源行家
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?-1186(文治2) 平安末~鎌倉初期の武将。源為義の十男。本名義盛。源義朝の弟,頼朝の叔父。熊野新宮に住んだので〈新宮十郎〉と呼ばれ,1180年(治承4)4
3. みなもと‐の‐ゆきいえ【源行家】
日本国語大辞典
平安末期から鎌倉初期の武将。本名義盛。為義の一〇男。以仁王(もちひとおう)の挙兵に令旨を諸国の源氏に伝えて源氏挙兵のきっかけをつくったが、頼朝にいれられず義仲と
4. みなもとのゆきいえ【源行家】
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?―一一八六 平安・鎌倉時代前期の武将。本名義盛。為義の十男、熊野新宮に住し新宮十郎と呼ばれた。治承四年(一一八〇)四月八条院蔵人となり行家と改名、同年五月に
5. 源行家
日本史年表
1186年〈文治2 丙午⑦〉 5・12 源行家 を和泉国で捕え,梟首(吾)。
6. みなもとの-ゆきいえ【源行家】
日本人名大辞典
?−1186 平安時代後期の武将。源為義の10男。平治(へいじ)の乱のあと熊野新宮でそだつ。治承(じしょう)4年(1180)以仁(もちひと)王の令旨(りょうじ)
7. いざ
全文全訳古語辞典
おぼつかなけれ。いざ、行ひて見む』とて」〈平家・7・倶梨迦羅落〉(木曽義仲は)「十郎蔵人(=源行家)殿の志保山の戦いが心配だ。さあ、行って(様子を)見よう」と言
8. いしかわじょうあと【石川城跡】大阪府:羽曳野市/壺井村
日本歴史地名大系
高台辺りであったと推定される。また寿永三年(一一八四)一月に木曾義仲の手兵樋口兼光が襲撃し、源行家・源義資があまり戦わずして脱出した(「吾妻鏡」元暦元年正月二一
9. いなざわし【稲沢市】愛知県
日本歴史地名大系
北から陸路中島郡に入り南へ斜めに横切り、下津から萱津へ出るようになっていた。〔中世〕源平争乱の時、源行家が平重衡に敗れて折津(下津)に退き、この時大屋中三安資が
10. いん‐きょ【隠居】
日本国語大辞典
そこへ隠居の望み」(3)表舞台から去ること。身をかくすこと。*吾妻鏡‐文治二年〔1186〕三月一四日「前備前守源行家・前伊予守源義経等、〓心日積、謀逆露顕
11. うえのむら【上野村】大阪府:茨木市地図
日本歴史地名大系
文和元年(一三五二)二月一八日の総持寺領散在田畠目録写(常称寺文書)に「三百歩 上野庄 灯油 源行家寄進」とみえ、総持寺領上野庄があった。茨木川は当村付近で白井
12. うすがみねひみかいどう【臼ヶ峰氷見街道】石川県:羽咋郡/志雄町
日本歴史地名大系
れている。寿永二年(一一八三)五月一一日、平家の搦手軍三万余騎が能登・越中国境の「志雄坂」で源行家軍一万騎と戦っている(延慶本「平家物語」)。なお「古今集」巻七
13. 栄花物語 246ページ
日本古典文学全集
具して参りゐたる後に、蔵人俊経二藍のうつくしき取りてひろげ敷くを見れば、紫の浮線綾に青  合集)。源行家。藤原兼宗か(十巻本歌合集)。源頼綱。「範永が子」の注記
14. 江戸繁昌記 3 79ページ
東洋文庫
(八)友盛 正しくは知盛。武将。平清盛の子。重盛・宗盛の弟。治承四年源頼政を宇治に滅し、養和元年源行家を美濃に破った。寿永元年権中納言従二位。寿永四年壇の浦の戦
15. えぼしがたじょうあと【烏帽子形城跡】大阪府:河内長野市/喜多村地図
日本歴史地名大系
城山の東中腹に烏帽子形八幡神社がある。高野街道を扼する交通の要地に位置する。寿永三年(一一八四)正月、源行家は長野城にあって源義仲に叛した(「平家物語」巻八「室
16. 大垣[市]
世界大百科事典
また,交通の要衝としてしばしば東西勢力の衝突の場となった。1181年(養和1)の源平合戦の際には,源行家が平重衡・維盛らの軍と戦い敗走しており,承久の乱や南北朝
17. おおたし【太田氏】画像
国史大辞典
馬国出石郡太田荘(兵庫県出石郡但東町)を与えられ、子孫が太田を名字としたとの説がある。昌明は源行家誅伐に殊功があり、承久以前から但馬国に所領を有し、承久の乱での
18. おおたし【太田氏】 : 太田氏/(二)
国史大辞典
馬国出石郡太田荘(兵庫県出石郡但東町)を与えられ、子孫が太田を名字としたとの説がある。昌明は源行家誅伐に殊功があり、承久以前から但馬国に所領を有し、承久の乱での
19. おおたのしょう【太田庄】兵庫県:出石郡/但東町
日本歴史地名大系
受けさせるよう命ぜられている。次いで延慶本「平家物語」には、文治二年(一一八六)五月一二日、北条時定とともに源行家父子を捕らえた常陸房昌明に、恩賞として「摂津国
20. おおだち【大太刀】
国史大辞典
つけ、帯取(おびとり)の緒をかけて佩用する長大な太刀。長門本『平家物語』一九に、武蔵坊弁慶や源行家の所用を三尺五寸の大太刀といい、『源平盛衰記』三五には根井行親
21. おりづのしゅく【下津宿】
国史大辞典
中世尾張国における東海道の一宿駅。折戸・折津などとも書く。養和元年(一一八一)三月、源行家、平氏と美濃墨股に戦い、敗れてここに陣することあり。『十六夜日記』の
22. おわりのくに【尾張国】愛知県
日本歴史地名大系
、三河をはじめ東海地方の武士のなかには源氏再興に馳せ参ずる者も多く、領内の墨俣川(木曾川)で源行家の率いる尾張・三河の武士と平重衡の軍の戦闘が行われた。頼朝は建
23. かいづかし【貝塚市】大阪府地図
日本歴史地名大系
る。なお熊野街道には半田一里塚が残る。〔中世〕文治二年(一一八六)五月、源頼朝に追われていた源行家父子が、小木(近木)郷にあった和泉国の在庁官人日向権守清実の家
24. 覚明
世界大百科事典
買い,南都から亡命したという。《延慶本》等では,漆を身に浴び,癩病人に変装して東国に落ちのび,源行家に付いたと伝えるが,義仲に従ってからは,大夫房覚明と号して文
25. かくみょう【覚明】
日本架空伝承人名事典
買い、南都から亡命したという。『延慶本』等では、漆を身に浴び、癩病人に変装して東国に落ちのび、源行家に付いたと伝えるが、義仲に従ってからは、大夫房覚明と号して文
26. かつしかぐん【葛飾郡】東京都:武蔵国
日本歴史地名大系
える(「北条家朱印状」早稲田大学所蔵文書)。なお葛西の表記について、「平家物語」巻一二には、源行家を討った常陸房正明が行家の首を源頼朝のもとに持参した際「神妙也
27. かまくらばくふ【鎌倉幕府】画像
国史大辞典
守護・地頭制の発足を問題にした(四)に対して、その転換・確立の時期を重視するのが(七)である。本来源行家・義経追捕のための臨時的なものであった守護・地頭は、文治
28. かもりごう【加守郷】大阪府:岸和田市/加守村
日本歴史地名大系
不法に久米田寺隆池院の庄領と称し、苛法の使者を遣わして百姓を責めたことを当時和泉の国務を握っていた源行家に訴え、行家から庄号あるべからずとの裁定を得た。鎌倉時代
29. きそさんせん【木曾三川】岐阜県:総論
日本歴史地名大系
往来していた。陸上交通路との接点には渡しも多く、渡船が多数活動していた。治承五年(一一八一)源行家の軍勢と平重衡の軍勢とが衝突したいわゆる墨俣川の戦にあたって、
30. きそよしなか【木曾義仲】
日本架空伝承人名事典
反平氏の動きの活発なのをみて北陸道から都へ上る計画であった。飢饉で戦局が停滞するなか、源頼朝に疎外された叔父源行家が義仲と合流。八三年(寿永二)三月、義仲は長子
31. 義経記 1 227ページ
東洋文庫
家に火を放って自害した。そうしたからこそ、緒方三郎は味方をしにやって来た。 義経は、叔父の備前守源行家を伴って、十一月三日に都を立った。 「義経が最初の領地入り
32. くまのすいぐん【熊野水軍】
国史大辞典
ころからである。平治の乱のころ以来熊野本宮別当堪快は平氏に加担し、その子堪増は熊野にひそんだ源行家が以仁王の令旨を奉じ新宮・那智と与せるを聞き攻撃を加えた。しか
33. 源平の合戦画像
日本大百科全書
受け、翌月末に戦死した。反平氏の烽火ほうかはいったん鎮静したかにみえたが、この間に王の密旨は、源行家みなもとのゆきいえによって、各所に雌伏する源氏に伝えられてい
34. 幸若舞 2 景清(かげきよ)・高館(たかだち)他 175ページ
東洋文庫
仁王に離反させる策をなし、富士川の先陣に際し ては水鳥の羽音に驚き敗走した。また平維盛に従 い洲股川に源行家を撃ち、北陸道では源義仲と戦 い敗れ、剃髪して逃走。
35. 後白河天皇画像
日本大百科全書
位を保持し続けた。平氏の都落ちに際してはいち早く延暦寺に逐電して同行せず、また入京した義仲と源行家ゆきいえに平氏追討を命ずる一方で、源頼朝よりともの功績を第一と
36. しおごえ【子浦越】富山県:氷見市/床鍋村
日本歴史地名大系
意味するとみられる。寿永二年(一一八三)源平合戦のとき、木曾義仲の主力は礪波山で平家軍を打破ったが、源行家の率いる別動隊は志雄山の一戦に敗れた。急を聞いた義仲は
37. しこく‐じとう[‥ヂトウ]【四国地頭】
日本国語大辞典
〔名〕文治元年(一一八五)一一月、後白河法皇により源行家が補任された職。同時に源義経は九州地頭に任命されているが、二人とも直後に失脚する。鎌倉幕府の一国地頭につ
38. しょうみょう【昌明】
日本人名大辞典
はじめ延暦(えんりゃく)寺の僧。武芸にすぐれ,平家滅亡後は北条時政にしたがい京都の警備にあたる。のち,源行家追討,奥州藤原氏攻め,承久(じょうきゅう)の乱に活躍
39. しりうごと(近世随想集) 458ページ
日本古典文学全集
平安末期の武将。清盛の子。重盛・宗盛の弟。権中納言。治承四年(一一八〇)源頼政を宇治に滅ぼし、翌年、源行家を美濃に破った。壇ノ浦の戦で「見るべき程の事は見つ」と
40. 新宮[市]
世界大百科事典
現地で支配した別当家の一つも新宮におり,田辺の別当家としばしば勢力を競った。源平合戦に東海で挙兵した源行家も新宮十郎と称するように,平治の乱後,この地に逃れて成
41. 治承・寿永の内乱
世界大百科事典
主軸とする寺院連合,近江の中小武士がこれに呼応したが,王と頼政は翌月末に戦死した。しかしこの間に,王の密旨は源行家によって諸国の源氏に伝えられた。彼らのあい次ぐ
42. すのまた【墨俣】岐阜県:安八郡/墨俣町
日本歴史地名大系
その後伊勢国の船も「須萬多渡」へ回航させた(「玉葉」同年二月八日・一一日条)。同年の墨俣川付近における源行家軍と平重衡軍との合戦では、源氏方は軍兵六九〇余人の戦
43. 墨俣川の戦
世界大百科事典
ためにこの付近は軍事上の要衝として,たびたび東西両勢力が接触する戦場となった。1181年(養和1)3月,源行家,頼朝の弟義円(ぎえん)が率いる尾張,三河の軍勢と
44. せいりつじき【成立時期】 : 鎌倉幕府
国史大辞典
守護・地頭制の発足を問題にした(四)に対して、その転換・確立の時期を重視するのが(七)である。本来源行家・義経追捕のための臨時的なものであった守護・地頭は、文治
45. 曾我物語 124ページ
日本古典文学全集
長門本『平家物語』は日付が五月九日。『愚管抄』は謀反発覚後、園城寺で書いたとする。皇族から出される文書。源行家。為義の一〇男。八条院蔵人となり行家と改名。後、頼
46. 平維盛
日本大百科全書
たが、水鳥の羽音に驚いて敗走し、清盛の怒りを買った。翌年の尾張おわり墨俣すのまた川の戦いでは源行家ゆきいえの軍を破り、その功によって、右中将うちゅうじょう、蔵人
47. 平維盛
世界大百科事典
れる。1180年(治承4)源頼朝追討の総大将となったが富士川の戦で敗走。翌年尾張墨俣川の戦で源行家を破り,その功により右中将・蔵人頭・従三位に進む。83年(寿永
48. たいらのさだよし【平貞能】
国史大辞典
に同地へ下向、鎮西を経略して二年後の寿永二年(一一八三)七月初めに帰洛した。しかし木曾義仲・源行家の軍勢が京に迫ったため、同月末には平家一門とともに西走した。い
49. 平重衡
日本大百科全書
「武勇の器量に堪う」と評され(玉葉ぎょくよう)、81年(養和1)尾張墨俣おわりすのまた川の合戦で源行家ゆきいえを破る。同年その功で従三位じゅさんみ、左中将となる
50. たいらのしげひら【平重衡】
国史大辞典
大寺を十二月に焼打ちし、大仏殿以下を焼亡せしめた。翌養和元年(一一八一)三月には墨俣川の戦で源行家を破り、戦功により従三位に叙した。平氏西走後も寿永二年(一一八
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一一九二-一二一九鎌倉幕府第三代将軍。一二〇三―一九在職。幼名千幡。建久三年(一一九二)八月九日鎌倉で誕生。父は源頼朝、母は北条政子。正治元年(一一九九)正月十三日父が急死、兄頼家が第二代将軍となった。建仁三年(一二〇三)の八月二十七日
源行家(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-一一八六平安・鎌倉時代前期の武将。本名義盛。為義の十男、熊野新宮に住し新宮十郎と呼ばれた。治承四年(一一八〇)四月八条院蔵人となり行家と改名、同年五月に挙兵した以仁王の令旨を奉じ東国に下向、源頼朝をはじめとする諸国源氏の蜂起を促した。
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鎌倉前期の幕府の重臣。式部少輔大江維光の子で,明経博士中原広季の養子となり,鎌倉に下るまでは外記として文筆の職にあった。源頼朝と親しかった,同じ広季の養子親能の関係から頼朝に招かれ,1184年(元暦1)以来,幕府の公文所ついで政所の別当となり
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