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  11. 武田信義

武田信義

ジャパンナレッジで閲覧できる『武田信義』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

武田信義
たけだのぶよし
一一二八 - 八六
平安・鎌倉時代前期の武士。治承・寿永の乱に活躍。甲斐源氏。新羅三郎義光の子義清が巨摩郡武田を本居とした。信義は義清の孫で、清光の子として大治三年(一一二八)に生まれ、治承四年(一一八〇)の以仁王の令旨に応じ挙兵、源頼朝方に参じ武功をたてた。同年十月の富士川の戦では平維盛軍を敗走させ、駿河守護となったが、元暦元年(一一八四)六月にはその子一条忠頼が謀叛の企ありとして誅せられ、以後失意のうちに文治二年(一一八六)三月九日死去。五十九歳。墓は山梨県韮崎市の願成寺にある。忠頼誅殺の真相は不明だが、『吾妻鏡』の伝えるところでは「振〓威勢〓之余挿〓〓世志〓之由有〓其聞〓」(元暦元年六月十六日条)と載せており、頼朝による甲斐源氏勢力の抑圧策を示すものといえる。この結果、父の信義が頼朝から勘気を蒙ったことから、駿河守護はこの時期に信義の手を離れたと推定されている。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ一 文治二年三月九日条、佐藤進一『(増訂)鎌倉幕府守護制度の研究』
(関 幸彦)


世界大百科事典

武田信義
たけだのぶよし
1128-86(大治3-文治2)

平安末期・鎌倉初期の武将。清光の子,一条忠頼の父。1180年(治承4)以仁王の令旨に応じて甲斐に挙兵。甲斐源氏の中心となり駿河に進出。富士川の戦で平維盛を敗走させ,源頼朝から駿河の守護に補任され,重用される。しかし,81年(養和1)後白河法皇が頼朝追討の下文を与えたとの疑いにより地位が低下。84年(元暦1)子の忠頼が頼朝に謀殺され,失意の中で死去。
[松井 茂]

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1. 武田信義
世界大百科事典
1128-86(大治3-文治2) 平安末期・鎌倉初期の武将。清光の子,一条忠頼の父。1180年(治承4)以仁王の令旨に応じて甲斐に挙兵。甲斐源氏の中心となり駿河
2. たけだのぶよし【武田信義】
国史大辞典
一一二八―八六 平安・鎌倉時代前期の武士。治承・寿永の乱に活躍。甲斐源氏。新羅三郎義光の子義清が巨摩郡武田を本居とした。信義は義清の孫で、清光の子として大治三
3. たけだ-のぶよし【武田信義】
日本人名大辞典
1128−1186 平安時代後期の武将。大治(だいじ)3年8月15日生まれ。逸見(源)清光の子。治承(じしょう)4年甲斐(かい)源氏をひきいて挙兵。富士川の戦い
4. 源信義・武田信義
日本史年表
1180年〈治承4 庚子〉 9・10 源(武田)信義 ,甲斐国で挙兵(吾)。 1186年〈文治2 丙午⑦〉 3・9 没。
5. たけだのぶよしやかたあと【武田信義館跡】山梨県:韮崎市/武田村
日本歴史地名大系
[現]韮崎市神山町武田 神山町武田集落の一角にあり、甲斐武田氏の祖武田信義の居館跡と伝える。現在館の遺構は明瞭ではない。しかし字東畑には石塔類が並んだ東西方向に
6. あさり-よいち【浅利与一】
日本人名大辞典
1149−1221 鎌倉時代の武士。久安5年生まれ。武田信義の弟。逸見流弓術の創始者逸見清光の子。壇ノ浦の戦いで,平家方の武将仁井親清(にい-ちかきよ)を遠矢に
7. あしがわむら【芦川村】山梨県:東八代郡
日本歴史地名大系
甲斐と駿河を結ぶ主要古道の一つである。「吾妻鏡」によれば治承四年(一一八〇)に富士川合戦に赴いた武田信義以下の甲斐源氏諸将は「大石駅」に宿していて、当村域を南下
8. あべぐん【安倍郡】静岡県:駿河国
日本歴史地名大系
氏については、鎌倉時代はほとんど不明である。このことは駿河国守護が幕府草創期には甲斐国御家人武田信義で、のち北条氏が引継ぎ得宗領として終始したことと関係すると思
9. 甘利氏
世界大百科事典
甲斐の中世武士。武田氏の庶流。武田信義の子一条次郎忠頼の次男行忠が甲斐国巨摩郡の甘利荘を得て,ここに居を構え甘利氏を称したことに始まる。行忠は源頼朝に捕らえられ
10. あまりのしょう【甘利庄】山梨県:韮崎市
日本歴史地名大系
現在の中巨摩郡白根町北端から韮崎市大草町・旭町地区にかけての地域にあたり、甲斐武田氏の始祖とされる武田信義の館跡のある武田(神山町武田)の地に南接する。当庄の在
11. いさわちょう【石和町】山梨県:東八代郡
日本歴史地名大系
勃発した平治の乱の際、源義朝に従って参戦、敗れて井沢(石和)に逃帰った。彼の跡は甲斐源氏惣領武田信義の子信光が継いだとされるが、相続に至る過程は不詳。信光が本拠
12. いさわのみくりや【石和御厨】山梨県:東八代郡/石和町
日本歴史地名大系
た伊勢神宮の分祀社と伝える(甲斐国志)。帰国後の宣景の消息は不明だが、彼の跡は甲斐源氏の棟梁武田信義の四子信光が継ぎ、伊沢氏を称した。平家討伐に挙兵した甲斐源氏
13. いさわのみくりや【石禾御厨】
国史大辞典
して「石禾御厨二百五十町」とみえる。武田信義の子信光はこの厨を本拠とした。治承四年(一一八〇)九月、源頼朝の使節として甲斐国に派遣された北条時政は、武田信義・一
14. いたがき-かねのぶ【板垣兼信】
日本人名大辞典
?−? 平安後期-鎌倉時代の武将。武田信義の子。平家追討に活躍。太皇太后宮領の駿河(するが)(静岡県)大津御厨(みくりや),遠江(とおとうみ)(静岡県)質侶(し
15. いたがきごう【板垣郷】山梨県:甲府市/旧山梨郡地区/板垣村
日本歴史地名大系
現甲府市東部に位置する。中世初頭に古代の表門郷から分離・独立したと推定される。平安時代末から鎌倉時代初頭にかけて武田信義の子兼信(板垣三郎)がここに本拠を構え、
16. いちじょう-ただより【一条忠頼】
日本人名大辞典
?−1184 平安時代後期の武将。武田信義の子。治承(じしょう)4年甲斐(かい)(山梨県)武田氏の一族とともに反平家の兵をあげる。のち源頼朝軍に合流。源義仲の追
17. いちべむら【市部村】山梨県:東八代郡/石和町
日本歴史地名大系
フ石和宿東南ニ市部トテ人戸アル処ノ辺リ、即チ信光ノ館跡ナリ」と記される。当地を支配した信光は武田信義の四男で源頼朝の信任が厚く、甲斐武田氏の基礎を築いた。信光は
18. いもりざわ【庵沢】長野県:茅野市/茅野村
日本歴史地名大系
に、「西茅野村 東の方宮川橋平ニ而いもり沢と云有」とみえる。治承四年(一一八〇)九月、甲斐の武田信義・一条忠頼が平氏追討のために信濃に入り宿営した所であるといわ
19. おおいしのえき【大石駅】静岡県:富士宮市/上条村
日本歴史地名大系
「吾妻鏡」の治承四年(一一八〇)一〇月一三日条に「止宿大石駅」とみえ、源頼朝の協力要請を受けた甲斐源氏の武田信義・一条忠頼らと頼朝の使者北条時政父子とが大石駅に
20. おおたぎりがわ【大田切川】長野県:上伊那郡/宮田村
日本歴史地名大系
那郡との境であったことを証するものか。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)九月一〇日の条には甲斐の武田信義・一条忠頼らが諏訪大明神の神託に力を得て「伊那郡大田切郷之城
21. おかや【岡谷】
国史大辞典
ある。古代『延喜式』所載の左右馬寮所管の官牧の設けられた地である。治承四年(一一八〇)九月、武田信義とその子一条忠頼が伊那郡の平家の一党を討って、諏訪神の神霊に
22. おかやのまき【岡屋牧】
国史大辞典
現在の長野県岡谷市付近。『延喜式』所載信濃国十六牧の一。平安時代末期は左馬寮の管轄。治承四年(一一八〇)武田信義は伊那郡の平氏与党を滅ぼした奉謝として岡仁谷(岡
23. 甲斐国
世界大百科事典
示している。飯田 文弥 甲州(旧国名) 甲斐の黒駒 加吉 河口 水市 八代(やつしろ)荘 甲斐源氏 武田信義 武田氏 安田義定 富士川(河川) 武田信光 武田信
24. かいのくに【甲斐国】山梨県
日本歴史地名大系
井・河内・曾禰・奈胡・浅利・八代らを称し、さらに多数の分脈を派出する。後世とくに繁栄するのが武田信義と加賀美遠光の系統である。信義は武田氏の祖であり、遠光は小笠
25. かとう-みつかず【加藤光員】
日本人名大辞典
,弟景廉(かげかど)とともに参加。石橋山の戦いに敗れ一時甲斐(かい)(山梨県)にのがれたが,武田信義にしたがって駿河(するが)(静岡県)を攻め,橘遠茂(とおもち
26. かみの【神野】静岡県:富士宮市/内野村
日本歴史地名大系
一〇月一四日条に「武田・安田人々、経神野并春田路、到鉢田辺」とみえ、大石駅を立った甲斐源氏の武田信義らと北条時政父子らは軍を進め、神野を経て鉢田(現未詳)辺りに
27. がんじょうじ【願成寺】山梨県:韮崎市/鍋山村
日本歴史地名大系
。鳳凰山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。古くは天台宗であったといい、開基は逸見冠者清光の子武田信義(法名願成寺殿)とされる。「甲斐国志」によれば初め隆盛であっ
28. きゅうどう【弓道】画像
国史大辞典
流祖とする日置流で、その末流は吉田流以下諸流に分派した。古来の弓術も逸見(逸見清光)・武田(武田信義)・小笠原(小笠原長清)の三流のほか、太子流(聖徳太子)・坂
29. こうそがべごう【香宗我部郷】高知県:香美郡/野市町
日本歴史地名大系
伝証文)に「土左国香美郡内宗我部并深淵」の地頭職に中原秋家が補されたことがみえる。中原秋家は武田信義の子一条忠頼の家臣で、本姓は大中臣であるが甲斐小四郎秋家とも
30. こうふし【甲府市】山梨県
日本歴史地名大系
その子清光は馬の産地である八ヶ岳南麓の逸見に移り、逸見光長・武田信義・加賀美遠光・安田義定など多くの男子を国内の要地に分封して、甲斐源氏発展の礎を築いた。武田信
31. こまぐん【巨摩郡】山梨県:甲斐国
日本歴史地名大系
内乱の際には甲斐源氏が大活躍するが、その中心となったのは当郡武田(現韮崎市)に館を構えた惣領武田信義である。信義は甲斐源氏を率いて積極的に参戦し、信濃国伊那太田
32. しとろのしょう【質侶庄】静岡県:榛原郡/金谷町
日本歴史地名大系
質侶庄には武家政権成立後まもなく地頭が置かれ、補任されたのは板垣三郎兼信(父親は甲斐源氏の総領武田信義)であった。兼信は隣接する大津御厨の地頭をも兼ねていたが、
33. しもやまどの【下山殿】
日本人名大辞典
永禄(えいろく)8年生まれ。穴山梅雪の養女として天正(てんしょう)10年側室となる。11年万千代(武田信義のち松平信吉)を生んだ。天正19年10月6日死去。27
34. しゅご【守護】画像
国史大辞典
指揮して検断にあたる役職に有力御家人を任命し、これを守護・守護人と称したようで、遠江国の安田義定、駿河国の武田信義や下総国の千葉常胤らの名前が『吾妻鏡』にみえて
35. すたまちょう【須玉町】山梨県:北巨摩郡
日本歴史地名大系
清光はのちに逸見を拠点として逸見冠者を称し(尊卑分脈)、また治承四年(一一八〇)九月には挙兵した甲斐源氏武田信義らが信濃国伊那郡大田切郷城(現長野県駒ヶ根市)の
36. すみよしじんじゃ【住吉神社】山梨県:甲府市/旧山梨郡地区/畔村
日本歴史地名大系
いたが、武田信義が現在地に勧請し、社殿を造営したという。神護景雲年間(七六七―七七〇)に高畑に勧請された当社を、元亀年間(一五七〇―七三)に移されたとする説や(
37. 駿河国画像
日本大百科全書
それら荘園の荘官および京都から下向した在庁官人などが土着し、有力な在地勢力ができた。鎌倉期の守護は、甲斐かいの武田信義のぶよしが1180年(治承4)富士川合戦の
38. 駿河国
世界大百科事典
源頼朝は1180年(治承4)8月に伊豆で挙兵,10月には富士川の戦で平氏軍を破り,駿河守護に武田信義を補任して,みずからは鎌倉に入った。その4年後に信義の子一条
39. するがのくに【駿河国】画像
国史大辞典
平氏勢力の一拠点であった。しかし橘遠茂が甲斐源氏に敗れ、また富士川の戦で平氏の主力が敗れると、頼朝によって武田信義が当国の守護に任ぜられたのを皮切りに、代々、北
40. するがのくに【駿河国】静岡県
日本歴史地名大系
頼朝追討の平氏軍を富士川で迎え撃った富士川合戦は大きな意味をもっていた。その直後、戦功のあった武田信義が駿河国守護となっている(「吾妻鏡」同年一〇月二一日条)。
41. せいりつかてい【成立過程】 : 守護
国史大辞典
指揮して検断にあたる役職に有力御家人を任命し、これを守護・守護人と称したようで、遠江国の安田義定、駿河国の武田信義や下総国の千葉常胤らの名前が『吾妻鏡』にみえて
42. 曾我物語 134ページ
日本古典文学全集
頼朝の娘大姫の許婚として鎌倉にいたが、義仲追討後、頼朝に討たれた。武田信義の長男。元暦元年六月謀反の疑いにより誅殺。甲斐源氏。武田信義の弟。遠江守護となるが、建
43. たけたごう【武田郷】山梨県:韮崎市/武田村
日本歴史地名大系
当地に館を構えて武田姓を称し、これが甲斐武田氏の祖となったといわれてきた。神山町武田地内には武田信義の館跡と伝える地もある。しかし、源義清は常陸国吉田郡武田郷(
44. たけだ-ありよし【武田有義】
日本人名大辞典
?−1200? 平安後期-鎌倉時代の武将。武田信義の子。甲斐(かい)(山梨県)の豪族。平重盛につかえたが,治承(じしょう)4年(1180)源頼朝の挙兵に父,兄弟
45. 武田氏画像
世界大百科事典
護職に任ぜられた。一族の逸見,加賀美,安田氏も栄えたが,甲斐源氏の勢力を恐れた頼朝によって,武田信義の長男一条忠頼と弟の安田義定は謀殺された。嫡系は忠頼の弟石和
46. たけだ-のぶみつ【武田信光】
日本人名大辞典
1162−1248 平安後期-鎌倉時代の武将。応保2年生まれ。武田信義の5男。治承(じしょう)4年源頼朝の挙兵にくわわる。甲斐(かい)(山梨県)石和(いさわ)を
47. たけだはちまんぐう【武田八幡宮】山梨県:韮崎市/北宮地村
日本歴史地名大系
館内に移し、これを祀ったことに始まるという。清和天皇の時代には奉幣と社領の寄進がなされ、その後武田信義が桜ノ御所続きの広庭というところに居城(白山城)を構えて当
48. たちばなの-とおもち【橘遠茂】
日本人名大辞典
駿河(するが)(静岡県)の目代(もくだい)。治承(じしょう)4年平家追討のため駿河に侵入しようとした甲斐源氏の武田信義軍とたたかい,敗れて討たれた。
49. たやじょうあと【田屋城跡】広島県:高田郡/八千代町/土師村
日本歴史地名大系
家書上によると中村氏は新羅三郎義光四代の後裔で、源頼朝に属し軍功により駿河国地頭職に補された武田信義より出て、その四代武田弥八郎信貞のとき甲斐中村庄に住んだため
50. だいふくじ【大福寺】山梨県:東八代郡/豊富村/上大鳥居村
日本歴史地名大系
三九)と伝えるがつまびらかではない(寺記)。その後光厳(飯室禅師)によって再建される。光厳は武田信義嫡男一条忠頼の子と伝える(尊卑分脈)。飯室山と号するのは光厳
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