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  11. 公暁

公暁

ジャパンナレッジで閲覧できる『公暁』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

公暁
くぎょう
一二〇〇 - 一九
鶴岡八幡宮寺別当。鎌倉幕府三代将軍源実朝を殺した。正治二年(一二〇〇)に生まれる。父は二代将軍源頼家、母は賀茂重長の娘。幼名善哉。父が将軍を廃せられて殺されたのち、元久二年(一二〇五)鶴岡八幡宮寺別当尊暁の門弟になる。建永元年(一二〇六)叔父実朝の猶子となる。建暦元年(一二一一)落飾、法名公暁。ついで近江国に赴き園城寺長吏公胤から灌頂を受けた。同寺で修行したのち建保五年(一二一七)に鶴岡八幡宮寺別当となった。承久元年(一二一九)正月二十七日に鶴岡八幡宮寺で行われた将軍実朝の任右大臣拝賀の儀の直後に公暁はみずから剣を揮って実朝を殺し、実朝に扈従した源仲章を北条義時と誤認して殺した。ついで御家人中の有力者三浦義村を頼って将軍となろうとしたが、義村が北条氏に通じたために成就せず、その夜のうちに殺された。二十歳。なお実朝に嗣子がなかったので源氏の将軍はここに絶えた。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ一四 承久元年正月二十七日条
(石田 祐一)


日本大百科全書(ニッポニカ)

公暁
くぎょう
[1200―1219]

鎌倉幕府第2代将軍源頼家 (よりいえ)の三男。幼名善哉。北条氏を中心とする幕府中枢の暗闘に巻き込まれ、数奇な短い生涯を終えた。1204年(元久1)に父の頼家が殺されると、祖母である北条政子 (まさこ)の計らいで鶴岡八幡宮 (つるがおかはちまんぐう)に入り、ついで将軍実朝 (さねとも)の猶子 (ゆうし)となった。11年(建暦1)落飾、法名を公暁と称し、受戒のため京に上った。17年(建保5)政子の命で鎌倉に帰り、鶴岡八幡宮別当 (べっとう)となった。19年(承久1)正月27日の夜、鶴岡八幡宮境内において、右大臣拝賀の参拝を終えて退出する実朝を、親の仇 (かたき)とよばわって殺害。乳母 (うば)の夫である三浦義村 (みうらよしむら)を頼ったが、かえって義村の差し向けた討っ手によって殺された。

[山本博也]



世界大百科事典

公暁
くぎょう
1200-19(正治2-承久1)

鎌倉2代将軍源頼家の子。乳母は三浦義村妻。父の没後鶴岡八幡宮寺別当尊暁の弟子となり(公暁は法名),1217年(建保5)鶴岡別当に就く。3代将軍実朝を父の敵とし,19年1月実朝が右大臣拝賀の儀を鶴岡八幡宮で行うのを機に実朝を刺殺,みずから将軍たらんとして三浦義村に援助を請うたが逆に義村によって殺された。公暁を扇動したのは北条義時とも三浦義村ともいわれる。
[青山 幹哉]

[索引語]
三浦義村
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検索コンテンツ
1. 公暁
日本大百科全書
かはちまんぐうに入り、ついで将軍実朝さねともの猶子ゆうしとなった。11年(建暦1)落飾、法名を公暁と称し、受戒のため京に上った。17年(建保5)政子の命で鎌倉に
2. 公暁
世界大百科事典
承久1) 鎌倉2代将軍源頼家の子。乳母は三浦義村妻。父の没後鶴岡八幡宮寺別当尊暁の弟子となり(公暁は法名),1217年(建保5)鶴岡別当に就く。3代将軍実朝を父
3. くぎょう[クゲウ]【公暁】
日本国語大辞典
鎌倉幕府二代将軍源頼家の第三子。鎌倉鶴岡八幡宮寺別当。幼名善哉。将軍源実朝を父の仇と信じて、八幡宮の社前で刺殺。有力御家人三浦義村を頼って将軍になろうとしたが義
4. くぎょう【公暁】
国史大辞典
別当尊暁の門弟になる。建永元年(一二〇六)叔父実朝の猶子となる。建暦元年(一二一一)落飾、法名公暁。ついで近江国に赴き園城寺長吏公胤から灌頂を受けた。同寺で修行
5. 公暁
日本史年表
北条政子の計により,源頼家の子 公暁 を鶴岡八幡宮別当とする(吾)。 1219年〈承久元(4・12) 己卯②〉 1・27 源実朝 ,公暁に殺される. 三浦義村
6. 公曉(くぎょう)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 517ページ
7. くぎょう【公暁】
日本人名大辞典
幡宮境内で殺害。ついで将軍職につこうと三浦義村をたよるが,同日夜義村の配下に討たれた。20歳。公暁をそそのかしたのは,北条義時とも,義村ともいう。幼名は善哉。
8. 公暁[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『実朝と公暁』堀田右京
9. しん【費信】(Fèi Xìn)
世界人名大辞典
 字:公暁 中国明代初めの旅行家.太倉衛(現,江蘇蘇州)の人.永楽年間[1403-24]から宣徳年間[26-35]にかけて,太監鄭和が派遣された南海遠征に随行し
10. あく‐ぜんじ【悪禅師】
日本国語大辞典
と云ふ者あり」*太平記〔14C後〕一・後醍醐天皇御治世事「実朝は頼家の子、悪禅師(アクゼンジ)公暁の為に討れて」
11. あのときもと【阿野時元】
国史大辞典
に多勢を率いて深山に城郭を築き宣旨を賜わって東国を管領しようと企てていると報じた。将軍源実朝が公暁に殺された日の十数日後のことである。尼将軍北条政子は執権北条義
12. あんどう-ただいえ【安東忠家】
日本人名大辞典
かひら)の乱では,奉行人として謀反人追捕(ついぶ)の命令を各地の守護に伝達。また源実朝を殺した公暁(くぎょう)の首実検にたちあう。承久(じょうきゅう)3年6月1
13. 江戸温泉紀行 214ページ
東洋文庫
枝しげりたる銀杏のひと木あり。実朝卿、右大臣に御転任のほぎごとの御参りあり、をがみ済てかへらせ給ふとき、若宮別当公暁、銀杏の木かげに隠れ居て害し奉る。其時、義時
14. 伽婢子 1 38ページ
東洋文庫
になさる。禅師公暁と号す。和田・畠山・梶原等が一族、此君の時うちほろぼさる。実朝卿鶴岡社参の夜、かの禅師公実朝をころす。北条義時その跡をうばひて天下の権をとる。
15. 伽婢子 2 255ページ
東洋文庫
海の関係については 『元亨釈書』(巻一八)に見える。「如意比丘尼」 の項参照。七七四-八三五。公暁(ニノー) 鎌倉鶴岡八幡宮別当。二代将軍源 頼家の三子。母は賀
16. 伽婢子 2 264ページ
東洋文庫
。同一五年勝頼を生む が同二三年(一説に翌弘治元年)死没。?一一五 五四(一五五五)。禅師公暁公暁僧性海(八ノ2) 未詳。僧正遍照(九ノ3) 平安時代前期の歌
17. 伽婢子 2 293ページ
東洋文庫
昇進をしきりに望み右大臣にまでなるが、承久元 年正月鶴岡八幡宮にての右大臣拝賀の儀式の帰 途、甥の公暁に刺殺された。この事件には多くの 謎があるといわれている。
18. 伽婢子 2 339ページ
東洋文庫
幕府の儀式や行事に使用され、建保 七年(一二一九)の実朝の右大臣拝賀の儀式も当 宮で行われ、この時に実朝は公暁に暗殺された。 元弘三年(一三三三)に新田義貞が北
19. おやご‐がい[‥がひ]【親御甲斐】
日本国語大辞典
*浄瑠璃・和田合戦女舞鶴〔1736〕軍勢玉の小桜「これ孝心の道を立て給ふ我君のお心。それに敵対公暁(きんざと)をお渡しないは、あんまり親御がひの我儘」
20. お‐ゆどの【御湯殿】
日本国語大辞典
代記〔1781〕三「此和子は夫こそ左中将頼家の惣領。お湯殿(ユドノ)の胎内に懐(やどり)給ひし公暁丸、世にも不運は此若ぞや」言海【御湯殿】言海
21. かた‐みみ【片耳】
日本国語大辞典
5頃〕五・頼義建立みのわ堂事「戦場死亡之者の片耳を切り集めて」*桜井基佐集〔1509頃〕夏「郭公暁かけて鳴く声をかた耳に聞く枕つらしな」(2)ちょっと聞きこむこ
22. 甲子夜話 3 239ページ
東洋文庫
受たる所ありしにやと疑はし。然るに御内書のこと、いっか北条の方に漏るれば、今先んぜずんば制せられんとて、公暁の弑逆を計しにやとこそ思はる、との論なり。この論甚面
23. かまくらし【鎌倉市】神奈川県地図
日本歴史地名大系
〔都市造営と市政〕頼朝の幕府開創からその子頼家・実朝の、いわゆる源氏三代の将軍が続いたが、実朝が甥の公暁に暗殺されて嗣子がなかったため、頼朝の遠縁にあたる摂関家
24. 鎌倉時代画像
日本大百科全書
とって上皇と対立し、実朝は上皇と北条執権との板挟みとなって苦悩した。1219年(承久1)実朝が甥おいの公暁くぎょうに暗殺されると、幕府は九条道家の子の頼経よりつ
25. がんだのしよう【感田庄】福岡県:直方市/感田村
日本歴史地名大系
年四月五日「鎮西下知状」金剛三昧院文書/鎌倉遺文三七)。建仁三年(一二〇三)尼清浄蓮は猶子法眼公暁(西園寺実宗の子)に当庄の預所職を譲り、八条院庁から安堵されて
26. 金谷上人行状記 ある奇僧の半生 22ページ
東洋文庫
義経、宗尊親王、青砥藤綱、大塔の宮等の名を不朽にしているが、中でも人の胸をえぐるは、実朝公が別当公暁に刺された餐天の大銀杏の、今もなお無数の金鷲脚を飾っているす
27. 義経記 1 33ページ
東洋文庫
天王女子範希義頼朝義頼義門朝長平全成(今若)円成(乙若、義円)義経   女子女子女子頼家実朝(公暁に討たれる)忠久忠孝貞暁能寛能直女子(清水冠者義基蜜)女子女禅
28. 義経記 2 169ページ
東洋文庫
頼朝と結ばれたという伝説は名高い。    建保六(=一一八)年十一月従二位、翌年の承久元年正月二十七日に、孫の公暁が鶴が岡八   幡宮で将軍実朝(頼朝の次男)を
29. けいこう【慶幸】
日本人名大辞典
?−1220 鎌倉時代の僧。実慶の弟子。鎌倉永福寺(ようふくじ)別当。建保(けんぽ)7年公暁(くぎょう)の跡をつぎ,鶴岡八幡宮寺別当となる。承久(じょうきゅう)
30. げんじ の 共食(ともぐ)い
日本国語大辞典
為義・為朝父子を義朝が滅ぼし、平家討伐後は、頼朝が範頼・義経の二弟を殺し、また実朝は甥(おい)の公暁に殺されるなど、一門が内部で殺しあって滅びたことをさす。転じ
31. 源氏の共食い
故事俗信ことわざ大辞典
こと。保元の乱では義朝が為義・為朝父子を滅ぼし、平家滅亡後は頼朝が弟の範頼・義経を殺し、実朝は公暁に殺されるなど、源氏一門が内部の殺し合いで絶えたことをいう。転
32. 広益俗説弁 165ページ
東洋文庫
上玄・石象の二曲をさづけ奉る、とあり。此説によりて妄作 せるものなるべし。       源実朝、公暁に試せらるN説俗説云、建保七年正月廿七日、右大臣源実朝、鶴岡
33. 広益俗説弁 166ページ
東洋文庫
いて殺す。詳に『愚管抄』に出たり〕、頼家の子善哉を僧となし、公暁と号して鶴岡に居しめ、人をして公暁をす』めて実朝をうたしめ、其敵なりとて、公暁をも誅せしかば、頼
34. 広益俗説弁 続編 45ページ
東洋文庫
義時・泰時が行跡を見るに、一事として称すべきものなし。頼家を弑し、和田・畠山を殺し、公暁にすゝめて実朝を討せ、公暁をも害し、後鳥羽院を隠岐に遷し奉る。実に天地不
35. 広益俗説弁 続編 205ページ
東洋文庫
」とあり。暁しわきまふべし。 公暁悪禅師が説 俗説云、鎌倉鶴岡八幡別当公暁は、沙門として叔父実朝を弑す。これによつて、世に悪禅師とよぶ。 今按るに、非なり。公暁
36. 広益俗説弁 続編 206ページ
東洋文庫
倫にして禽獣にもしかざるなり。古語云、「九世可〓以復〓〓讐」と。況や公暁をや。悪の号をとゞめて孝と称して可なるべし。 南都悪僧が説 俗説云、むかし、南都に悪僧あ
37. 西遊草 清河八郎旅中記 189ページ
東洋文庫
登って八幡宮の本殿にいたる。石段の中ほどの左側に、公暁が実朝を殺したおり、身をかくした銀杏の木がある。昔から栄えた大木だから枝葉がはびこり、実に珍しい有様である
38. さねとも【実朝】[能曲名]
能・狂言事典
一閃大太刀がきらめき、実朝は身をかわす間もなく朱に染まって雪の上に倒れた。供の者が立ち騒ぐうち、「別当阿闍梨公暁、父の敵(かたき)を討った」と呼ばわる声がしたが
39. さねとも【実朝】[能曲名]
能・狂言事典
現れる。渡宋を志し新造させた船が由比ヶ浜で動かずに朽ちたこと、参拝のとき銀杏の木陰より躍り出た公暁(くぎょう)に首を取られたことを語り(〈クセ〉)、舞い歌い(〈
40. し‐かく【刺客】
日本国語大辞典
殺し屋。しきゃく。せっかく。*神皇正統記〔1339~43〕下・順徳「而神拝畢退出之処、彼宮別当公暁〓刺客
41. し‐ぎゃく【弑逆】
日本国語大辞典
をなすとは、罪の軽重何れに帰せんや」*随筆・胆大小心録〔1808〕一三三「公の才あるをねたみ、公暁と云ふ若法師をささやきをしへて、鶴が岡の参籠に弑逆せさせし」*
42. 沙石集 290ページ
日本古典文学全集
。建保六年(一二一八)右大臣となる。『新勅撰集』以下に入集。家集『金槐和歌集』がある。建保七年公暁により暗殺される。二八歳。実朝の歌の中には見えない。『撰集抄』
43. 沙石集 389ページ
日本古典文学全集
実朝は和歌や蹴鞠など京の貴族文化に傾斜していった。正三位右大臣に至る。建保七年(一二一九)甥の公暁に暗殺された。二八歳。家集に『金槐和歌集』がある。何とか便宜を
44. 修験道史研究 142ページ
東洋文庫
さらにその姿で奥羽藤原秀衡のもとへ赴いた事実は『吾妻鏡』にみえるし、建保七年右大臣実朝を殺した公暁も山臥姿で忍びこみ待っていたらしく、『護国寺旧記』(石清水八幡
45. 信生法師日記(中世日記紀行集) 95ページ
日本古典文学全集
生れて世々になりぬる中に、広く唐土  臣となり、十二月二日右大臣に転じ、翌年正月二十七日、鶴岡八幡宮で公暁のために討たれた。「三笠の月かげなびく今宵」は、御墓で
46. 承久の乱
世界大百科事典
官打ちにしようとしたという説も,一概に否定できない。 おりしも1219年1月,実朝が頼家の遺子公暁(くぎよう)に殺害され,源氏将軍は途絶,公武の緩衝地帯は消滅し
47. じょうきゅうのらん【承久の乱】画像
国史大辞典
はかるとともに僧兵勢力の組織化に力を注ぎ、武備に意を用いもした。おりしも承久元年正月実朝が頼家の遺児公暁(くぎょう)に殺害され、源氏将軍は途絶、公武の緩衝地帯は
48. じょ‐・する【叙】
日本国語大辞典
に人の世話にもならず月々幾分の金を剰(あま)して居る事を叙し」*実朝〔1943〕〈小林秀雄〉「公暁の急使に接した義村の応待ぶりを叙したところも妙な感じのする文章
49. 清和源氏 系図[図版]画像
国史大辞典
有光 (石川氏) 頼信 (河内源氏) 頼義 義家 義親 為義 義朝 頼朝 (鎌倉将軍) 頼家 公暁 範頼 実朝 全成 義経 義賢 義仲 (木曾氏) 義基 為朝 
50. ぜんぎょう【禅暁】
日本人名大辞典
源頼家(みなもとの-よりいえ)の子。母は昌寛法橋(ほっきょう)の娘。源実朝(さねとも)を暗殺した異母兄公暁(くぎょう)と通じていたという口実で,承久(じょうきゅ
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