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  11. 仁田忠常

仁田忠常

ジャパンナレッジで閲覧できる『仁田忠常』の世界大百科事典のサンプルページ

世界大百科事典

仁田忠常
にったただつね
?-1203(建仁3)

鎌倉初期の武士。新田とも書く。伊豆国の住人。源頼朝の伊豆挙兵以来,これに従って頼朝の信任を得る。1203年の北条時政と将軍源頼家の外戚比企能員(よしかず)の対立に際して,忠常は時政にくみしたが,時政による比企氏謀殺を憤った頼家は,和田義盛と忠常に時政追討を命じた。義盛はこれに応じず,時政に内通したが,忠常はあいまいな態度を示したため,疑われて時政に滅ぼされた。
[細川 涼一]

伝承

《曾我物語》巻八〈富士野の狩場への事〉によって,頼朝の面前で猪に逆さまに乗ってしとめたという忠常の勇猛ぶりは知られているが,この猪は実は山神であり,そのたたりで忠常はいくほどもなく謀反の疑いをかけられ,討たれたとある。《曾我物語》成立の動機に,曾我の十郎,五郎の荒ぶる霊(たたり)を鎮める鎮魂の意図があることは明らかであるが,史実とは異なる忠常の死についてのこのような伝承も,《曾我物語》全体を通してうかがえる御霊(ごりよう)信仰との関係で改変されたものであろう。なお巻九〈十郎が打死の事〉には,工藤祐経を討ち取った十郎を,忠常が一騎打ちで討ち取るところが描かれている。これは《吾妻鏡》建久4年(1193)5月28日条にものる史実ではあるが,先の猪(山神)を葬ったのと併せて,十郎を討ち取ったのが忠常であることを考えると,忠常の不慮の死は,十郎のたたりの結果生じたものとして伝承世界の中で書き変えられたといえよう。室町末期の成立といわれる《富士の人穴》の草子には,将軍頼家の命を受けた新田(仁田)四郎忠綱(忠常)が,富士の御神体である浅間権現の案内で,穴中地獄にかたどられた富士の人穴を見て回るという構成になっている。〈穴中地獄の様子を語るな〉と権現からいわれながら,禁忌を破って頼家に語ったために忠綱は命を失う。忠綱という人物は,伝承世界の中では顕冥二界にまたがる媒介的な存在であり,したがって巫覡(ふげき)の徒に担われて流布したものであろう。
[岩崎 武夫]

[索引語]
曾我物語 富士の人穴 新田四郎忠綱 新田忠綱 巫覡
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1. 仁田忠常
世界大百科事典
?-1203(建仁3) 鎌倉初期の武士。新田とも書く。伊豆国の住人。源頼朝の伊豆挙兵以来,これに従って頼朝の信任を得る。1203年の北条時政と将軍源頼家の外戚比
2. にった‐ただつね【仁田忠常】
日本国語大辞典
鎌倉初期の武将。伊豆国(静岡県)の人。仁田(にたんの)四郎と称した。源頼朝の挙兵以来仕え、平氏討伐・奥州征伐に活躍。曾我兄弟の仇討ちで、曾我十郎祐成を討ち、猪に
3. にったただつね【仁田忠常】
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一一六七―一二〇三 平安・鎌倉時代前期の武士。仁田四郎と称す。新田・日田とも書いた。父母ともに未詳。伊豆国仁田郷(静岡県田方郡函南町)の住人。仁安二年(一一六
4. 仁田忠常
日本史年表
1203年〈建仁3 癸亥〉 9・6 仁田忠常 ,頼家の命により北条時政殺害を計るも討たれる(吾)。
5. にった-ただつね【仁田忠常】
日本人名大辞典
1167−1203 平安後期-鎌倉時代の武士。仁安(にんあん)2年生まれ。源頼朝に挙兵時からしたがい,信任される。建久4年富士の巻狩で曾我祐成(すけなり)(十郎
6. 仁田忠常[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:1件 『史伝小説仁田四郎忠常』戸羽山瀚『富士山を背景とせる人物』横山健堂
7. あたみごう【熱海郷】静岡県:熱海市/熱海村
日本歴史地名大系
遺称とする中世の郷。建保元年(一二一三)一二月一八日、元は走湯山(伊豆山神社)の神領であった「阿多美郷」が仁田忠常によって押領され、忠常滅亡後北条泰時が拝領して
8. くじゅうさん【九重山】大分県:総論
日本歴史地名大系
その後再興されたが、明治になって廃寺となった。また猪鹿狼寺には当山(朽網山)の裾野で源頼朝の臣梶原景季・仁田忠常が試しの巻狩を行ったとの伝承が残されている。〔火
9. 広益俗説弁 222ページ
東洋文庫
富士の人穴に入しめらる』に、通り得ずしてかへりければ、仁田忠常を入しめらる』に、一百三十六地獄をへめぐりてかへり来る。 ある人云、仁田忠常、野猪をと父むる説は、
10. 広益俗説弁 223ページ
東洋文庫
といふに、各、奇異の思をなせり。 果して晩に及で景光発病す、とあるを、仁田忠常、野猪をと父めしことに作れるもの也。 又、和田胤長・仁田忠常、人穴に入説は、『東鑑
11. 広益俗説弁 続編 391ページ
東洋文庫
巻十五「志賀寺上人、京極の御息所に逢て歌をよむ説」(巻三十六「志賀寺上人の事」) 『北条九代記』 巻十三「仁田忠常、富士の狩に野猪をとゞむる説、 附 忠常、富士
12. 甲賀三郎
世界大百科事典
遍歴した甲賀三郎は異界への訪問者であろう。この種の人物に似たものとしては,《富士の人穴》の草子の新田四郎忠綱(仁田忠常)がいる。《吾妻鏡》建仁3年(1203)6
13. 十二支考 3 184ページ
東洋文庫
仁田忠常が頼朝の眼前で仕留めた「幾年経るとも知らざる猪がふしくさかく十六付きたるが」とは誤写で、何とも知れがたいが、多分何かの木が生えておった、とあったのかと思
14. そが‐きょうだい[‥キャウダイ]【曾我兄弟】
日本国語大辞典
母の再嫁によって曾我氏を称した兄弟は、建久四年(一一九三)富士野の狩場で父の仇を討ちとったが、兄は仁田忠常に討たれ弟は五郎丸に生捕りにされ殺された。この仇討ちに
15. そが‐すけなり【曾我祐成】
日本国語大辞典
工藤祐経(すけつね)を討とうと弟五郎時致(ときむね)とはかり、富士の裾野で夜、風雨に紛れて目的を達したが宿衛の仁田忠常に討たれた。この仇討ちは、のち「曾我物語」
16. そが-すけなり【曾我祐成】
日本人名大辞典
建久4年5月28日,源頼朝の富士の巻き狩りの場で弟時致(ときむね)とともに仇討ちをはたしたが,同日仁田忠常に討たれた。22歳。のちこの事件は「曾我物語」として文
17. 太平記秘伝理尽鈔 1 107ページ
東洋文庫
この密事を障子越しに耳にした政子が、時政に通報。時政は、能員を薬師供養に招き、天野蓮景(遠景)・仁田忠常をして誅戮した。四七御台の仰せと号して、羽林の息…… (
18. にたんの-しろう【仁田四郎】
日本人名大辞典
仁田忠常(にった-ただつね)
19. にったしろう【仁田四郎】
日本架空伝承人名事典
仁田忠常。鎌倉初期の武士。新田とも書く。伊豆国の住人。源頼朝の伊豆挙兵以来、これに従って頼朝の信任を得る。一二〇三年の北条時政と将軍源頼家の外戚比企能員(よしか
20. 人情本 553ページ
日本古典文学全集
為永春蝶為永金賀為永柳水  校合跋 洪太尉は穴を穿つて百八の魔王を走らし、宋の世に夥多の豪傑を出し、仁田忠常は富士の人穴に入て武勇の誉れ高く、世人豪傑と称す。爰
21. 人穴
世界大百科事典
はじめ船穴,新穴,姥穴などの溶岩トンネルがある。人穴は《吾妻鏡》にも記載され,源頼家の命により仁田忠常が探検したとある。この話は御伽草子《富士の人穴》によって広
22. 人穴
世界大百科事典
である。《吾妻鏡》に,建仁3年(1203)6月3日源頼家の富士の巻狩りの際に,新田四郎忠常(仁田忠常)がこの人穴を探るよう命じられ,主従6人で行くが,穴の奥に大
23. ふじ の 人穴(ひとあな)
日本国語大辞典
〓仁田忠常〓
24. 富士の人穴
世界大百科事典
時の口承文芸の投影であろうといわれ,新田の冥府巡りの語りには,富士道者の関与が考えられる。→仁田忠常宮内 克浩 人穴(地名)
25. ほうじょうよしとき【北条義時】画像
国史大辞典
義時は時政の命により、将軍源頼家の子一幡の館に拠った比企一族を破り、一幡を殺した。またこの事件に関連して、仁田忠常一族が尼将軍政子の住む大御所を襲ったとき、義時
26. みなもとのよりいえ【源頼家】画像
国史大辞典
その年の九月、比企一族は北条氏に攻められ、一幡とともに族滅したが、このことを知った頼家は和田義盛・仁田忠常に時政追討を命じた。しかし義盛はこれを時政に告知し、忠
27. 1203年〈建仁3 癸亥〉
日本史年表
北条時政 ・ 政子 ,比企能員を謀殺し,比企一族と一幡を滅ぼす( 比企氏の乱 )(吾)。 9・6 仁田忠常 ,頼家の命により北条時政殺害を計るも討たれる(吾)
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