1. 仁田忠常
世界大百科事典
?-1203(建仁3) 鎌倉初期の武士。新田とも書く。伊豆国の住人。源頼朝の伊豆挙兵以来,これに従って頼朝の信任を得る。1203年の北条時政と将軍源頼家の外戚比
2. にった‐ただつね【仁田忠常】
日本国語大辞典
鎌倉初期の武将。伊豆国(静岡県)の人。仁田(にたんの)四郎と称した。源頼朝の挙兵以来仕え、平氏討伐・奥州征伐に活躍。曾我兄弟の仇討ちで、曾我十郎祐成を討ち、猪に
3. にったただつね【仁田忠常】
国史大辞典
一一六七―一二〇三 平安・鎌倉時代前期の武士。仁田四郎と称す。新田・日田とも書いた。父母ともに未詳。伊豆国仁田郷(静岡県田方郡函南町)の住人。仁安二年(一一六
4. 仁田忠常
日本史年表
1203年〈建仁3 癸亥〉 9・6 仁田忠常 ,頼家の命により北条時政殺害を計るも討たれる(吾)。
5. にった-ただつね【仁田忠常】
日本人名大辞典
1167−1203 平安後期-鎌倉時代の武士。仁安(にんあん)2年生まれ。源頼朝に挙兵時からしたがい,信任される。建久4年富士の巻狩で曾我祐成(すけなり)(十郎
6. 仁田忠常[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:1件 『史伝小説仁田四郎忠常』戸羽山瀚『富士山を背景とせる人物』横山健堂
7. あたみごう【熱海郷】静岡県:熱海市/熱海村
日本歴史地名大系
遺称とする中世の郷。建保元年(一二一三)一二月一八日、元は走湯山(伊豆山神社)の神領であった「阿多美郷」が仁田忠常によって押領され、忠常滅亡後北条泰時が拝領して
8. くじゅうさん【九重山】大分県:総論
日本歴史地名大系
その後再興されたが、明治になって廃寺となった。また猪鹿狼寺には当山(朽網山)の裾野で源頼朝の臣梶原景季・仁田忠常が試しの巻狩を行ったとの伝承が残されている。〔火
9. 広益俗説弁 222ページ
東洋文庫
富士の人穴に入しめらる』に、通り得ずしてかへりければ、仁田忠常を入しめらる』に、一百三十六地獄をへめぐりてかへり来る。 ある人云、仁田忠常、野猪をと父むる説は、
10. 広益俗説弁 223ページ
東洋文庫
といふに、各、奇異の思をなせり。 果して晩に及で景光発病す、とあるを、仁田忠常、野猪をと父めしことに作れるもの也。 又、和田胤長・仁田忠常、人穴に入説は、『東鑑
11. 広益俗説弁 続編 391ページ
東洋文庫
巻十五「志賀寺上人、京極の御息所に逢て歌をよむ説」(巻三十六「志賀寺上人の事」) 『北条九代記』 巻十三「仁田忠常、富士の狩に野猪をとゞむる説、 附 忠常、富士
12. 甲賀三郎
世界大百科事典
遍歴した甲賀三郎は異界への訪問者であろう。この種の人物に似たものとしては,《富士の人穴》の草子の新田四郎忠綱(仁田忠常)がいる。《吾妻鏡》建仁3年(1203)6
13. 十二支考 3 184ページ
東洋文庫
仁田忠常が頼朝の眼前で仕留めた「幾年経るとも知らざる猪がふしくさかく十六付きたるが」とは誤写で、何とも知れがたいが、多分何かの木が生えておった、とあったのかと思
14. そが‐きょうだい[‥キャウダイ]【曾我兄弟】
日本国語大辞典
母の再嫁によって曾我氏を称した兄弟は、建久四年(一一九三)富士野の狩場で父の仇を討ちとったが、兄は仁田忠常に討たれ弟は五郎丸に生捕りにされ殺された。この仇討ちに
15. そが‐すけなり【曾我祐成】
日本国語大辞典
工藤祐経(すけつね)を討とうと弟五郎時致(ときむね)とはかり、富士の裾野で夜、風雨に紛れて目的を達したが宿衛の仁田忠常に討たれた。この仇討ちは、のち「曾我物語」
16. そが-すけなり【曾我祐成】
日本人名大辞典
建久4年5月28日,源頼朝の富士の巻き狩りの場で弟時致(ときむね)とともに仇討ちをはたしたが,同日仁田忠常に討たれた。22歳。のちこの事件は「曾我物語」として文
17. 太平記秘伝理尽鈔 1 107ページ
東洋文庫
この密事を障子越しに耳にした政子が、時政に通報。時政は、能員を薬師供養に招き、天野蓮景(遠景)・仁田忠常をして誅戮した。四七御台の仰せと号して、羽林の息…… (
18. にたんの-しろう【仁田四郎】
日本人名大辞典
⇒仁田忠常(にった-ただつね)
19. にったしろう【仁田四郎】
日本架空伝承人名事典
仁田忠常。鎌倉初期の武士。新田とも書く。伊豆国の住人。源頼朝の伊豆挙兵以来、これに従って頼朝の信任を得る。一二〇三年の北条時政と将軍源頼家の外戚比企能員(よしか
20. 人情本 553ページ
日本古典文学全集
為永春蝶為永金賀為永柳水 校合跋 洪太尉は穴を穿つて百八の魔王を走らし、宋の世に夥多の豪傑を出し、仁田忠常は富士の人穴に入て武勇の誉れ高く、世人豪傑と称す。爰
21. 人穴
世界大百科事典
はじめ船穴,新穴,姥穴などの溶岩トンネルがある。人穴は《吾妻鏡》にも記載され,源頼家の命により仁田忠常が探検したとある。この話は御伽草子《富士の人穴》によって広
22. 人穴
世界大百科事典
である。《吾妻鏡》に,建仁3年(1203)6月3日源頼家の富士の巻狩りの際に,新田四郎忠常(仁田忠常)がこの人穴を探るよう命じられ,主従6人で行くが,穴の奥に大
23. ふじ の 人穴(ひとあな)
日本国語大辞典
仁田忠常入
24. 富士の人穴
世界大百科事典
時の口承文芸の投影であろうといわれ,新田の冥府巡りの語りには,富士道者の関与が考えられる。→仁田忠常宮内 克浩 人穴(地名)
25. ほうじょうよしとき【北条義時】画像
国史大辞典
義時は時政の命により、将軍源頼家の子一幡の館に拠った比企一族を破り、一幡を殺した。またこの事件に関連して、仁田忠常一族が尼将軍政子の住む大御所を襲ったとき、義時
26. みなもとのよりいえ【源頼家】画像
国史大辞典
その年の九月、比企一族は北条氏に攻められ、一幡とともに族滅したが、このことを知った頼家は和田義盛・仁田忠常に時政追討を命じた。しかし義盛はこれを時政に告知し、忠
27. 1203年〈建仁3 癸亥〉
日本史年表
北条時政 ・ 政子 ,比企能員を謀殺し,比企一族と一幡を滅ぼす( 比企氏の乱 )(吾)。 9・6 仁田忠常 ,頼家の命により北条時政殺害を計るも討たれる(吾)