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  11. 和田義盛

和田義盛

ジャパンナレッジで閲覧できる『和田義盛』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

和田義盛
わだよしもり
一一四七 - 一二一三
鎌倉時代前期の武将。三浦氏の一族。久安三年(一一四七)生まれる。三浦大介義明の孫で義宗の子。義澄は叔父にあたる。通称小太郎。左衛門尉。相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市)に住した。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝の挙兵にあたり三浦義澄らとともに参加し、頼朝が安房国へ脱出した後は常に頼朝に近侍してその信頼を得た。同年十一月、御家人統制機関として侍所が設置されると、かねてより望んでいた侍所別当に補任され、諸将士を管轄する重責を担った。しかし、元暦元年(一一八四)木曾義仲および平家追討のため源範頼に属して西海まで長期にわたって出陣した際、義盛はじめ多くの軍兵の士気は衰え戦果も少なかったため、頼朝の譴責をうけている。文治五年(一一八九)の奥州藤原氏征伐では侍所所司梶原景時とともに軍兵の召集につとめ、みずから出陣し武功をあげた。正治元年(一一九九)頼朝が没し頼家が二代将軍になると、専恣的行動の目立つ頼家の訴訟親裁を停止し、元老諸将十三名の合議制が発足したが、このとき義盛は宿老の一人に選ばれている。同年十二月には侍所の職務を二分してきた梶原景時を失脚させ(梶原景時の乱)、その地位を一層強固なものにした。建仁三年(一二〇三)九月、頼家から北条時政の追討を命じられたとき、逆に時政に通じて頼家を退け、北条氏と協調関係を保った。元久二年(一二〇五)閏七月、時政の後妻牧の方が将軍実朝を廃そうとする陰謀が発覚して(平賀朝雅の乱)北条時政が失脚すると、義盛は幕閣の最長老として隠然たる勢力を持つようになった。『愚管抄』は「義盛左衛門ト云三浦ノ長者、義時ヲ深クソネミテウタンノ志アリケリ」と記しているので、京都では義澄の死後、義盛を三浦一族の族長とみていたらしい。それほど、義盛が初期幕府の基礎固めに果たした功績は大きかった。しかし建保元年(一二一三)一族の中から北条氏排斥を企てた者が出たおり(泉親衡の乱)、北条氏の巧みな挑発に乗ぜられて同年五月二日和田合戦がおこり、翌三日義盛は一族とともに敗死した。時に六十七歳。→和田氏の乱(わだしのらん)
[参考文献]
『大日本史料』四ノ一二 建保元年五月二日条、『和田系図』、安田元久『鎌倉幕府―その実力者たち―』、同『北条義時』(『人物叢書』八二)、羽下徳彦『惣領制』(『日本歴史新書』)
(三浦 勝男)


日本大百科全書(ニッポニカ)

和田義盛
わだよしもり
[1147―1213]

鎌倉初期の武将。鎌倉幕府初代の侍所別当 (さむらいどころべっとう)。義宗 (よしむね)の長子で三浦大介義明 (みうらおおすけよしあき)の孫。根拠地は相模 (さがみ)(神奈川県三浦市)和田。1180年(治承4)頼朝 (よりとも)挙兵に際し、叔父の三浦義澄 (よしずみ)らとともに大いにこれを助け、同年侍所創設と同時に別当(長官)に任じた。のち平家追討や89年(文治5)の奥州藤原氏征討などにも活躍。訴訟の裁決が重臣13名による合議制となった頼家 (よりいえ)の代には、元老の1人として参加した。1203年(建仁3)比企 (ひき)氏の乱では北条時政 (ときまさ)に加担してこれを討ち、同じく将軍頼家から時政の追討を命じられたとき、北条氏に通じて頼家を退け、実朝 (さねとも)を3代将軍に擁立した。しかし13年(建保1)北条氏排斥事件に加わった息子と甥 (おい)に対する北条義時の処罰の仕方を憤って挙兵したが利なく、5月3日和田氏は滅亡した。

[三浦勝男]



世界大百科事典

和田義盛
わだよしもり
1147-1213(久安3-建保1)

鎌倉前期の武将。三浦義明の嫡男で若死した義宗の長男。母は遊女玉。通称小太郎。相模国三浦郡和田(現,神奈川県三浦市)を本居とする。1180年(治承4)三浦一族とともに源頼朝の挙兵に参加,勲功著しいものがあった。同年末の侍所(さむらいどころ)設置にさいし,かねての所望に従って別当に任じられた。その後,西国・奥州遠征にもつねに戦功を立て,90年(建久1)頼朝の上洛に随行,左衛門少尉に任官した。頼朝の信任厚かったが,直情径行で,一時侍所別当の職は能吏梶原景時に奪われた。頼朝没後も重臣らの合議機関に席を占め(十三人合議制),また景時追放事件の中心人物となった。1203年(建仁3)比企の乱では北条氏にくみし,09年(承元3)には上総国司就任を強く望んだが,政子の反対により実現しなかった。この間しだいに北条氏との対立が激化,ついに13年5月挙兵するに至ったが,三浦氏の裏切りにあい敗北,一族もろとも滅亡した(和田合戦)。
[杉橋 隆夫]

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1. 和田義盛
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鎌倉初期の武将。鎌倉幕府初代の侍所別当さむらいどころべっとう。義宗よしむねの長子で三浦大介義明みうらおおすけよしあきの孫。根拠地は相模さがみ(神奈川県三浦市)和
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1147-1213(久安3-建保1) 鎌倉前期の武将。三浦義明の嫡男で若死した義宗の長男。母は遊女玉。通称小太郎。相模国三浦郡和田(現,神奈川県三浦市)を本居と
3. わだ‐よしもり【和田義盛】
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鎌倉前期の武将。三浦義明の孫。源頼朝挙兵に応じて戦功をたて、治承四年(一一八〇)初代の侍所別当となる。平家追討・奥州征伐に軍功をあげた。のち北条義時の謀計にかか
4. わだよしもり【和田義盛】
国史大辞典
一一四七―一二一三 鎌倉時代前期の武将。三浦氏の一族。久安三年(一一四七)生まれる。三浦大介義明の孫で義宗の子。義澄は叔父にあたる。通称小太郎。左衛門尉。相模
5. 和田義盛
日本史年表
1213年〈建保元(12・6) 癸酉⑨〉 5・2 和田義盛 ,挙兵し幕府を襲撃,翌日敗死( 和田合戦 )(吾)。
6. わだ-よしもり【和田義盛】
日本人名大辞典
1147−1213 平安後期-鎌倉時代の武将。久安3年生まれ。三浦義明の孫。椙本義宗(すぎもと-よしむね)の長男。相模(さがみ)(神奈川県)三浦郡和田を本拠とし
7. あいはらし【粟飯原氏】
国史大辞典
(一) 武蔵七党横山党の一族。小野氏。建保元年(一二一三)和田義盛の乱に横山氏とともに和田方に参加して敗北した。なお北条氏得宗の被官に粟飯原氏がおり、その出自
8. あいはらし【粟飯原氏】 : 粟飯原氏/(一)
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(一) 武蔵七党横山党の一族。小野氏。建保元年(一二一三)和田義盛の乱に横山氏とともに和田方に参加して敗北した。なお北条氏得宗の被官に粟飯原氏がおり、その出自
9. あおやぎむら【青柳村】岐阜県:大垣市/旧安八郡地区
日本歴史地名大系
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10. あげみむら【上ヶ見村】岐阜県:大野郡/朝日村
日本歴史地名大系
馬一・牛四、猟師鉄砲三(村明細帳)。米少々と雑穀・繭などを産した(斐太後風土記)。鎌倉幕府の侍所別当和田義盛の同族と伝える和田正純なるものが屋敷を構えていた(朝
11. あさいぐん【朝夷郡】千葉県:安房国
日本歴史地名大系
郡にかけての太平洋沿岸地域を三浦氏一族が領有したと推定される。建暦三年(一二一三)三浦一族の和田義盛の乱で奮戦したその子義秀は、この朝夷郡を領して朝夷(朝夷名)
12. あさいなよしひで【朝比奈義秀】
国史大辞典
鎌倉時代前期の武将。『吾妻鏡』に建保元年(一二一三)三十八歳とあるより逆算して安元二年(一一七六)の生まれ。和田義盛の第三子で母は木曾義仲の妾巴と伝える。安房国
13. あさひなきりどおし【朝比奈切通】神奈川県:鎌倉市/十二所村地図
日本歴史地名大系
もよぶ。十二所村と峠村との境界に大切通、その東よりの峠村内に小切通と、大小二つの切通がある。和田義盛の三男で豪勇の武者朝比奈義秀が一夜にして切開いたとの伝説から
14. 朝比奈義秀
日本大百科全書
生没年不詳。鎌倉前期の武士。侍所別当さむらいどころべっとうを勤めた和田義盛よしもりの三男で、安房あわ国朝夷あさひな郡(千葉県安房郡)に住んだので朝比奈三郎と称し
15. 朝比奈義秀
世界大百科事典
1176(安元2)?-? 〈あさいなよしひで〉ともよむ。鎌倉前期の武将。和田義盛の三男。母は木曾義仲の妾巴御前という。安房国朝夷(あさい)郡で育ち,朝比奈三郎と
16. あさひな‐よしひで【朝比奈義秀】
日本国語大辞典
鎌倉前期の武将。和田義盛の子。母は巴御前といわれる。通称三郎。勇猛、かつ豪力無双と伝えられ、能、狂言のほか、「岸姫松轡鑑(きしのひめまつくつわかがみ)」「朝夷巡
17. あさひな-よしひで【朝比奈義秀】
日本人名大辞典
1176−? 鎌倉時代の武将。安元2年生まれ。和田義盛の3男。安房(あわ)(千葉県)朝夷(あさひな)郡でそだち,朝比奈と称した。鎌倉幕府の御家人。建暦(けんりゃ
18. あさひなよしひで【朝比奈義秀】
日本架空伝承人名事典
「あさいなよしひで」ともよむ。鎌倉前期の武将。和田義盛の三男。母は木曾義仲の妾巴御前という。安房国朝夷(あさい)郡で育ち、朝比奈三郎と称す。膂力(りょりょく)無
19. 足利義氏
日本大百科全書
武蔵守むさしのかみ、陸奥むつ守、左馬頭さまのかみなどを歴任し正四位下に至る。1213年(建保1)和田義盛よしもりの乱で、豪傑をもって知られる朝比奈あさひな三郎義
20. あしかがよしうじ【足利義氏】画像
国史大辞典
検非違使・蔵人・治部少輔・武蔵守・陸奥守・左馬頭に任じ、正四位下に叙せらる。建保元年(一二一三)和田義盛の乱に際しては、若年ながら義盛の子で剛勇の朝比奈義秀と渡
21. あしかがよしうじ【足利義氏】 : 足利義氏/(一)
国史大辞典
検非違使・蔵人・治部少輔・武蔵守・陸奥守・左馬頭に任じ、正四位下に叙せらる。建保元年(一二一三)和田義盛の乱に際しては、若年ながら義盛の子で剛勇の朝比奈義秀と渡
22. あひるのしょう【畔蒜荘】
国史大辞典
日条によると、熊野別当が上総国畔蒜荘を知行し、源頼朝が彼に地頭職を避付せしめたが、足利義兼と和田義盛の両人は年貢を抑留して納めず、頼朝がこれをなだめたとある。寛
23. あびるのしよう【畔蒜庄】千葉県:袖ケ浦市
日本歴史地名大系
常の地頭職が没収され、範智に与えられたと思われる。同日条によれば、地下は上総介(足利義兼)と和田義盛が自らのものとしており、二人は本所(熊野別当)の使者の命令に
24. あぶずり【鐙摺】神奈川県:逗子市/桜山村地図
日本歴史地名大系
「源平盛衰記」巻二一(小坪坂合戦)によれば、治承四年(一一八〇)畠山重忠と戦った三浦勢は押され、和田義盛は伯父三浦義澄に「其れには東地に懸りてあぶすりに垣楯かき
25. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
問われて失脚し、時広の子時兼が淡路守護を回復した。しかし建保元年(一二一三)の和田合戦に際し、時広の妹が和田義盛の妻であったことから、時兼は和田氏に味方して敗れ
26. 安房国
世界大百科事典
こうして房総の武士は鎌倉幕府の創設に功をたてた。その後和田合戦に際しては,1213年(建保1)和田義盛の三男,朝比奈三郎義秀が鎌倉における父の死に当たり,500
27. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
もに、その家人で水上交通に長じた一族の三浦氏の存在が大きい。建暦三年(一二一三)三浦氏一族の和田義盛の乱で奮戦した子和田義秀は朝夷郡を領して朝夷三郎を称している
28. いが-ともみつ【伊賀朝光】
日本人名大辞典
関東の豪族。鎌倉幕府の成立により源頼朝につかえる。のち北条氏のもとで比企能員(ひき-よしかず)一族,和田義盛(よしもり)一族の討滅に功をたてた。この間,承元(じ
29. 軍奉行
世界大百科事典
ことによって義経・範頼を西海に派遣したとき,〈軍士等のことを奉行せしめんがため〉侍所の別当の和田義盛を範頼に,同所司(次官)の梶原景時を義経につけたとあるのが,
30. いすみぐん【夷隅郡】
国史大辞典
鏡』に記された「伊北館」所在地にふさわしい。建保元年(一二一三)北条氏の策謀により滅ぼされた和田義盛の本拠ともいわれている。戦国時代末は勝浦城とともに里見氏の将
31. いずみちかひらのらん【泉親衡の乱】
国史大辞典
中心人物は死刊の判決を受けた。ただし親衡は大力の武士で、追手を殺して逃走し行方をくらました。侍所別当和田義盛の四男義直・五男義重・甥の胤長も捕えられたので、義盛
32. いなばのくに【因幡国】鳥取県
日本歴史地名大系
もたらしたと考えられる。同氏とは対照的に、佐治郷の郷司職を相伝した開発領主佐治氏は、建暦三年(一二一三)五月和田義盛の乱の際北条義時方について勲功を立てたことに
33. いのうえのしょう【井上庄】山梨県:東八代郡/御坂町
日本歴史地名大系
ように、古くは黒駒牧に隣接して馬の飼育が盛んに行われたという。建保元年(一二一三)五月七日、和田義盛の乱の論功行賞が行われ、大須賀四郎胤信に甲斐国井上の地が与え
34. いのうじょうあと【稲生城跡】三重県:鈴鹿市/旧奄芸郡地区/稲生村
日本歴史地名大系
(伊奈冨神社蔵)には「稲生殿城」として、土塁で囲まれた方形に近い砦が三つ描かれている。城主は和田義盛の後裔と伝える和田氏(稲生氏)で、「伊勢名勝志」は大永年中(
35. いのうむら【稲生村】三重県:鈴鹿市/旧奄芸郡地区
日本歴史地名大系
段別ニ百文つつの草切在之、五百文取也(下略)」とある。この成光名は成光集落のことをさすのであろう。室町時代は和田義盛の子孫と伝える者がこの集落の南方に稲生城を構
36. いほうのしょう【伊北庄】千葉県:夷隅郡
日本歴史地名大系
受けている。寿永二年(一一八三)上総氏が頼朝に滅ぼされると、当庄地頭職は和田義盛に与えられたと思われ、建保元年和田義盛の乱後、当庄は三浦胤義に与えられた(同書同
37. いるまし【入間市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
家忠の後も一族は鎌倉幕府の御家人となって活躍したが、近範の子余一太郎近吉は建保元年(一二一三)の和田義盛の乱にくみして敗れ、捕虜となっている(同書同年五月六日条
38. いわいとむら【岩糸村】千葉県:安房郡/丸山町地図
日本歴史地名大系
なお当地には和田姓が多く、和田義盛三男朝夷那三郎が和田合戦に敗走して当地に移ったとの伝承がある(豊田村誌)。明徳二年(一三九一)再興と伝える貴船神社、真言宗智山
39. いわとのかげきよ[いはとのかげきよ]【岩戸景清】
日本国語大辞典
嘉永三年(一八五〇)江戸河原崎座初演。江の島の岩屋に隠れて頼朝をねらう景清が、姿をあらわし、秩父重忠、和田義盛らとだんまりになる。天保の改革で江戸を追放されてい
40. いわまのまき【石間牧】山梨県:西八代郡/六郷町/岩間村
日本歴史地名大系
その寄進を受けた藤原忠実から、その子頼長に伝領されたと推定される。建暦三年(一二一三)五月七日、和田義盛の乱の論功行賞が行われ、「岩間」の地が伊賀二郎兵衛尉(光
41. 上野原(市)画像
日本大百科全書
古郡郷は平安末期から鎌倉初頭にかけ、武蔵七党の一、横山党の一派で、内城館うちじょうやかたに拠った古郡氏が支配、和田義盛の乱で古郡氏が滅ぶと、加藤氏がこれを継いだ
42. うえのはらまち【上野原町】山梨県:北都留郡
日本歴史地名大系
蔵七党横山氏から出た古郡氏の支配下にあったとされている。しかし古郡氏は建暦三年(一二一三)の和田義盛の乱に際して和田側にくみしたために敗亡し、古郡の地は加藤兵衛
43. うえのはらむら【上野原村】山梨県:北都留郡/上野原町
日本歴史地名大系
祖とする)の支配下にあったとされている(「古郡氏系図」古郡哲爾家文書)。しかし同氏は建暦三年(一二一三)和田義盛の乱の際、古郡左衛門尉保忠兄弟が和田側にくみして
44. うえのむら【上野村】広島県:神石郡/油木町
日本歴史地名大系
壇もあり、山麓には土居屋敷・和田屋敷などの地名がある。粟飯原氏は和田氏とともに鎌倉のいわゆる和田義盛の乱の敗戦により西国に落延びた永野(現神石町)の二子山城の横
45. うちじょうやかたあと【内城館跡】山梨県:北都留郡/上野原町/上野原村
日本歴史地名大系
古郡館ともよばれ、武蔵横山党の一派であった古郡氏の居館であったとされる。古郡氏は建暦三年(一二一三)和田義盛の乱で滅び、同氏旧領は加藤兵衛尉に与えられた。加藤氏
46. 運慶
世界大百科事典
見られる特色を示す。その3年後の浄楽寺像とともに,これらの像は鎌倉幕府の首脳である北条時政・和田義盛の発願になることは特筆されねばならない。1197年(建久8)
47. うんけい【運慶】画像
国史大辞典
時政発願の伊豆願成就院造像(阿弥陀・不動三尊・毘沙門現存)、同年永久寺正願院弥勒菩薩、同五年和田義盛発願の横須賀浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門(現存)を造り、そ
48. えちごのくに【越後国】新潟県
日本歴史地名大系
その北の奈良東大寺領豊田庄には関(開)瀬義盛、加治川流域に成立した加地庄には佐々木盛綱、その北の奥山庄には和田義盛の弟和田宗実、荒川流域の国衙領荒河保には相模国
49. 江戸繁昌記 1 16ページ
東洋文庫
折って杖とし、岩間づたいに崖を下って、人々を驚嘆せしめたという (一〇)和田義秀 鎌倉時代の武将。和田義盛の三男。安房国朝夷三郡で成長したので朝比奈三郎と称した
50. おうしゅうせいばつ【奥州征伐】
国史大辞典
結城朝光・加藤景廉・工藤行光ら一騎当千の兵が奮戦しこの堅塁も三日にして陥った。八月十日、国衡は和田義盛・畠山重忠らの手にかかり討死した。泰衡は北に走り、頼朝は追
「和田義盛」の情報だけではなく、「和田義盛」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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一一四九-一二〇七平安・鎌倉時代初期の公卿。月輪殿・後法性寺殿ともよばれた。藤原忠通を父として久安五年(一一四九)に生まれた。早く僧籍に入った者を除くと第三の男子であった。母は太皇太后宮大進藤原仲光女加賀。同母兄弟四人のうちの長子にあたる。保元三年
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鎌倉前期の武将。朝政とも書く。父は武蔵守(むさしのかみ)義信(よしのぶ)。母は源頼朝(よりとも)の乳母(めのと)比企尼(ひきのあま)の三女。頼朝の猶子(ゆうし)。北条時政(ときまさ)の後妻牧方(まきのかた)の女婿(じょせい)。武蔵守、右衛門権佐
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