富士山宝永噴火
ふじさんほうえいふんか
宝永四年(一七〇七)十一月二十三日に始まり、十二月八日まで続いた富士山南東側中腹付近での大噴火。大量の火山弾、火山灰が降ったため「宝永の砂降り」ともよばれる。被災地域は駿河・相模・武蔵三国に及び、江戸でも降灰があり雪が降るようであったという(新井白石『折たく柴の記』宝永四年十一月二十三日条)。三国のうちでも駿河国駿東郡北部の被害は特に大きく、須走村(静岡県駿東郡小山町)では七十五戸中三十七戸が焼失、三十八戸が倒壊し、須走浅間社も大破、鳥居の半分以上が砂に埋まったという。宝永七年の御救嘆願書によれば、三尺以上の降砂が駿東郡下三十九ヵ村となっている。火山灰は偏西風にのり東へ流れたため、駿東郡北部から相模国西部の被害が大きく、逆に駿東郡下でも南部は小さかった。こうした被災に対し幕府は、同五年閏正月、救済・復旧の資金として全国へ高百石につき金二両の国役金を賦課するとともに、小田原藩領など私領のうち被害の大きかった村々をいったん収公、その復興を関東郡代伊奈忠順に命じた。忠順は相模国足柄下郡酒匂(さかわ)村(神奈川県小田原市)に会所を置き、被災民への夫食援助、降砂の除去、酒匂川の改修を中心とする施策を行なった。このうち被災民への救済では、須走村に千八百五十両が家屋再建資金として投下されている。一方、降砂の除去を当初は自力でやるように命じ砂掃金は若干しか支給されなかったため、深砂に覆われた村々では退転・飢餓者が続出した。そのため村々は連合して訴願運動を展開、享保期以降は砂除け人足賃が支給されるようになって農村復興も本格化した。なお享保元年(一七一六)以降、段階的に私領への支配替がなされている。また酒匂川の改修は川浚いによる用水整備が中心だったが、降雨によってしばしば多量の砂が上流の谷から流入したため、困難を極めた。忠順は正徳二年(一七一二)に死去するが、後世駿府代官所の米蔵を幕府に無断で開いて飢人に与えたため切腹を命ぜられたという伝承をうみ、のちに神格化されて幕末に駿東郡吉久保村(小山町)の渡辺保三郎によって伊奈神社が創建されるに至った。
[参考文献]
『小山町史』二、『御殿場市史』八、静岡県編『富士山噴火史』、渡辺誠道『贈位欽仰録』
『小山町史』二、『御殿場市史』八、静岡県編『富士山噴火史』、渡辺誠道『贈位欽仰録』
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