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  11. 石田三成

石田三成

ジャパンナレッジで閲覧できる『石田三成』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
石田三成
いしだみつなり
一五六〇 - 一六〇〇
安土桃山時代の武将。幼名は佐吉、はじめ三也と名乗る。永禄三年(一五六〇)近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に生まれる。父は隠岐守正継。長浜城主であった羽柴秀吉にその俊敏さを認められ、年少のころから近侍として仕えた。秀吉の中国征伐・山崎の戦にも従い、天正十一年(一五八三)の柴田攻めには賤ヶ岳の戦で軍功を立てた。同十三年秀吉が関白に任ぜられると、諸大夫十二人の一人に選ばれて、従五位下治部少輔に叙任され、さらに秀吉の奉行として枢機に参画し、また同十四年から十六年の末にかけて堺の奉行をも兼ねた。九州征伐には兵站のことを掌るとともに、西下して島津氏との折衝にあたり、さらに博多の町の再興を指揮した。小田原征伐では館林城・忍城などを攻略して戦功をあらわし、小田原落城のあと陸奥に遠征した。奥羽の諸大名の所領替などを処理し、一揆や反乱の鎮圧にもあたった。文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵に際しては、船奉行を勤めて渡航部隊の輸送にあたり、さらにその年六月には増田長盛・大谷吉継とともに在朝鮮部隊督励のため奉行として渡海し、碧蹄館の戦には小早川隆景らとともに力戦して大勝を得た。その後小西行長らとはかって明軍との間に和平交渉を進めたが、交渉は不調に終り、慶長二年(一五九七)再び遠征軍が派遣された。翌年八月秀吉が死去したため、三成は浅野長政とともに博多に赴いて、在朝鮮部隊の撤収にあたった。再度にわたる朝鮮出兵で、前線の将士は疲労困憊し、将士間の意志の疏通を欠いて反目を深め、石田三成・小西行長らの文人派と加藤清正・黒田長政・蜂須賀家政・鍋島直茂らの武人派との対立を生み、大きなしこりを残した。石田三成は武将ではあるが、その本領は軍事よりもむしろ吏務に長じ、五奉行中随一の実力者として政務の処理にあたり、内政面での功績が大きかった。戦陣に臨んでも兵站関係や占領地の処理にその手腕を発揮した。ことに太閤検地についてはかなり早くから参画し、天正十二年の近江の検地をはじめ、美濃・陸奥・越後・薩摩・大隅・日向・常陸・磐城・下野・尾張など諸国の検地を実施し、現在島津家には石田三成の署判のある検地尺が残っている。三成は同十一年ごろ近江の水口城主に封ぜられたが、十三年以後の所領は明らかではなく、関白秀次事件が一段落した文禄四年八月、近江の佐和山城主に封ぜられ、江北で十九万四千石を領し、さらに近江にある秀吉の直轄領七万石を預けられた。三成が領内に出した慶長元年三月一日の蔵入地に対する十三ヵ条の掟、および給人地に対する九ヵ条の掟は、封建領主としての三成の面目をよく示している。三成は慶長四年閏三月加藤清正・黒田長政ら七人の武将の襲撃を受け、辛うじて難を免れたが、居城佐和山に引退することを余儀なくされた。しかし三成は秀吉の死後、家康の権勢が豊臣氏を凌ぐ勢いにあることに危惧を感じ、ひそかに家康打倒の機会をねらっていた。たまたま家康が会津の上杉景勝を討つため、五年六月東下したので、三成は早速景勝と連絡をとる一方、大谷吉継・安国寺恵瓊とはかって、毛利輝元を盟主に仰ぎ、家康打倒を諸大名に呼びかけた。三成の誘いに応じて挙兵した諸大名は、毛利輝元・小早川秀秋・吉川広家・宇喜多秀家・島津義弘・鍋島勝茂・伊東祐兵・立花宗茂・長宗我部盛親・小西行長・増田長盛・長束正家・安国寺恵瓊・脇坂安治・大谷吉継などで、その多くは関西の諸大名であった。三成は東軍を迎え討つため佐和山城をたって、八月十日美濃大垣城に入り、西軍の諸将も続々と美濃に結集した。東西両軍は九月十五日関ヶ原で決戦を展開した。当初西軍がやや優勢であったが、小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、奮戦力闘した三成の部隊も午後二時過ぎには潰乱した。三成は戦場を脱出し、近江伊香郡古橋村(木之本町古橋)に潜んでいるところを捕えられて、十月一日六条河原で処刑された。時に年四十一。遺骸は京都大徳寺三玄院に葬る。法号は江東院正岫因公大禅定門。大徳寺の円鑑国師の撰である。
[参考文献]
小瀬甫庵『太閤記』(『(改定)史籍集覧』六)、林羅山他編『関原始末記』(同二六)、渡辺世祐『(稿本)石田三成』、今井林太郎『石田三成』(『人物叢書』七四)
(今井 林太郎)
©Yoshikawa kobunkan Inc.


世界大百科事典
石田三成
いしだみつなり
1560-1600(永禄3-慶長5)

安土桃山時代の武将。初名三也,通称佐(左)吉。近江坂田郡石田村の出身。父を正継,兄を正澄という。羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜を領していたころ認められ15,16歳で近侍となり,側近の吏僚として働き,1585年(天正13)秀吉の関白就任に際し従五位下治部少輔に叙任,翌年堺の奉行を兼ね,やがて浅野長政,増田長盛,長束正家,前田玄以など豊臣氏直属吏僚の中でも随一の奉行と目されるようになった。87年の島津征伐では秀吉に従い博多の復興を指揮し,島井宗室・神屋宗湛ら豪商と親交を深めた。90年の小田原征伐および奥羽平定ではみずから戦闘の指揮をとったが,武蔵忍(おし)城攻略の失敗にみられるように成果はなかった。むしろ彼の特質は兵站(へいたん)の掌握や民政の実施,服属大名との折衝などにらつ腕を振るうところにあった。92年(文禄1)朝鮮出兵が開始されると舟奉行として名護屋に駐留し,秀吉の朝鮮渡海を主張したが,それが中止されると,代官として増田長盛,大谷吉継などとともに渡海し,前線の諸軍を監察し,明軍と交戦し,戦況を見定め講和論を支持し,93年明の講和使を伴って帰還した。しかし朝鮮での行動は一部武断派諸将の反感を高めた。95年関白豊臣秀次が失脚自殺し,やがて五大老五奉行制が敷かれると三成は五奉行の一員として大坂城に居し,秀吉の死後九州に赴いて朝鮮からの将兵の撤収に尽力した。一方,豊臣秀頼による集権的支配体制を擁護するため前田利家や毛利輝元に接近し,豊臣氏と実力が伯仲する徳川氏の行動には警戒を緩めなかったが,家康が豊臣氏の制法に違背するに及んで99年(慶長4)これを糾弾した。しかし加藤清正・黒田長政ら7将に排除されて佐和山に隠退,そして反徳川勢力を結集して挙兵したが1600年9月美濃関ヶ原の戦に敗れ,逃走中捕縛されて10月1日京都三条河原で処刑された。墓所は大徳寺三玄院。

三成の領知は1591年与えられた近江佐和山19万石余にすぎないが,近江・美濃のほか島津氏領内や佐竹氏領内に設置された豊臣氏蔵入地代官を兼ね,また秀吉の申次(もうしつぎ)を行ったため服属大名の間に隠然たる勢力を持った。そこで後世諸氏に対する三成の策謀説が唱えられたが,確証は乏しいといわれる。彼の業績の中で最も顕著なものはいわゆる太閤検地の推進であろう。1584年の近江今在家村検地以来,89年美濃,90年奥羽,93年越後,94年薩摩・大隅・日向・常陸・磐城・下野の太閤検地を担当したが,とくに島津氏領内の検地に際して彼が丈量の規準として作成した検地尺や検地の掟は,太閤検地の実体を示すものとして貴重である。また96年制定の蔵入地および給人地に関する掟,翌年の麦年貢の掟は豊臣氏の農民支配に関する法令としても重視される。三成は性格が傲慢で諸大名に対して横柄であったといい,監察的職責の遂行とあいまって諸氏の反感を買い人望を失ったため政治家としては大成しなかったが,人材を登用し,茶の湯をたしなみ,文事を解する当時第一級の武将であり,かつ豊臣氏に忠実な能吏であった。
[岩沢 愿彦]

[索引語]
太閤検地
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石田三成の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 652
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検索コンテンツ
1. 石田三成 画像
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。幼名は佐吉、初名は三也。近江(おうみ)国坂田郡石田村(滋賀県長浜市)の出身。正継の子。豊臣(とよとみ)秀吉の長浜城主時代にその俊敏 ... ...
2. 石田三成[百科マルチメディア]
日本大百科全書
「石田三成画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ... ...
3. 石田三成
世界大百科事典
1560-1600(永禄3-慶長5) 安土桃山時代の武将。初名三也,通称佐(左)吉。近江坂田郡石田村の出身。父を正継,兄を正澄という。羽柴(豊臣)秀吉が近江長浜 ... ...
4. いしだ‐みつなり【石田三成】
デジタル大辞泉
[1560〜1600]安土桃山時代の武将。近江(おうみ)の人。幼名、佐吉。豊臣秀吉に才知を認められて五奉行の一人となり、太閤検地など内政面に活躍。文禄4年(15 ... ...
5. いしだ‐みつなり【石田三成】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。近江の人。幼名佐吉。治部少輔と称する。豊臣秀吉に仕え、五奉行の一人として、特に太閤(たいこう)検地など、行政面に実績をあげ、近江佐和山城主に ... ...
6. いしだみつなり【石田三成】 画像
国史大辞典
将士間の意志の疏通を欠いて反目を深め、石田三成・小西行長らの文人派と加藤清正・黒田長政・蜂須賀家政・鍋島直茂らの武人派との対立を生み、大きなしこりを残した。石田 ... ...
7. 石田三成
日本史年表
1593年〈文禄2 癸巳⑨〉 5・15 石田三成 ら奉行と 行長 ,謝用梓・徐一貫を伴い名護屋に戻る(時慶卿記)。 1600年〈慶長5 庚子〉 7・11 三成 ... ...
8. いしだ-みつなり【石田三成】
日本人名大辞典
1560−1600 織豊時代の武将。永禄(えいろく)3年生まれ。石田正澄の弟。羽柴(豊臣)秀吉の近侍をつとめ,のち治部少輔(じぶのしょう)。知将として秀吉の全国 ... ...
9. 石田三成[文献目録]
日本人物文献目録
郎『石田三成の時代的性格』茗渓逸史『石田三成事蹟考の弁』小倉秀貫『石田三成と春屋国師』大狂居士『石田三成の死所に就きての疑』不涅慮主人『石田三成の評論』坂東次郎 ... ...
10. Ishida Mitsunari 【石田三成】
Encyclopedia of Japan
1560−1600 Warlord of the Azuchi-Momoyama period (1568−1600). Born in Omi Provinc ... ...
11. 石田三成爲二生虜一 (見出し語:石田三成)
古事類苑
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12. 石田三成爲二豐臣氏奉行一 (見出し語:石田三成)
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13. 石田三成被二梟首一 (見出し語:石田三成)
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14. 石田三成讒二加藤©正一 (見出し語:石田三成)
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15. 石田三成陣二于關原一 (見出し語:石田三成)
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16. 石田三成印[図版] 画像
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17. 石田三成花押[百科マルチメディア]
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18. 石田三成花押[図版] 画像
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(c)Yoshikawa kobunkan Inc. ... ...
19. 石田三成陣跡[百科マルチメディア]
日本大百科全書
関ヶ原の戦いで西軍の将石田三成(みつなり)が陣を構えた笹尾山。西軍の布陣北端にあたる。この山の麓(ふもと)で、関ヶ原の戦い最大の激戦が繰り広げられた。山上には「 ... ...
20. いしだ-みつなりの-つま【石田三成妻】
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?−1600 織豊時代の女性。宇多頼忠(よりただ)の娘。三成から「うた」とよばれた。慶長5年関ケ原の戦いで井伊直政にせめられ三成の近江(滋賀県)佐和山城が落城, ... ...
21. 石田三成讒二加藤©正一 (見出し語:加藤©正)
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22. 美しき生涯 石田三成 永遠(とわ)の愛と義
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23. 大谷吉隆諫二石田三成一 (見出し語:大谷吉隆)
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24. あいづせいばつ【会津征伐】
国史大辞典
家康の上洛の要請に応じなかったことにあった。しかし家康の真意は豊臣秀吉死後の政局を有利に展開し、かつ石田三成一党を挑発することにあったといわれる。家康は豊臣秀頼 ... ...
25. 会津藩
世界大百科事典
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27. あかまつ-のりひで【赤松則英】
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28. 浅尾藩
日本大百科全書
初代広定(ひろさだ)は生国尾張(おわり)、豊臣(とよとみ)秀吉に仕えて1万石を領したが、関ヶ原の戦いのとき石田三成(みつなり)方に加担、敗れて高野山(こうやさん ... ...
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30. 浅野長政
世界大百科事典
渡海を諫止した。そして秀吉の晩年には秀頼擁護のため五奉行の一員となったが,秀吉没後徳川家康と石田三成との政争に際し,三成らに謀られて失脚,武蔵府中に蟄居(ちつき ... ...
31. あさのながまさ【浅野長政】 画像
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同年の奥羽検地には石田三成・大谷吉継らと奉行を務め、翌年の九戸政実の乱には羽柴秀次の軍奉行として従軍した。そして豊臣政権衰微の遠因ともなった文禄・慶長の役には、 ... ...
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た。この間、1593年(文禄2)に父とともに甲斐(かい)(山梨県)一国を与えられ、1595年石田三成(みつなり)の讒言(ざんげん)で一時能登(のと)(石川県)に ... ...
33. 浅野幸長
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34. あさのよしなが【浅野幸長】 画像
国史大辞典
城では苦戦をかさねた。しかしようやく明軍を撃退、三年四月帰国した。秀吉没後の不安な政情下では石田三成の党に強く反発、加藤清正・細川忠興らとともに「七人衆」と呼ば ... ...
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一月、竹鼻などとともに「あさひら」の二四七石余が伊木忠次に宛行われた(同月一四日「浅野長政・石田三成連署所領充行目録」伊木文書)。年未詳六月八日の下間頼龍奉本願 ... ...
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日本古典文学全集
中古以来の妄 に和歌を学び、古今伝授を受け、古典学の集大成を図る。慶長五年の役で、後陽成院の勅旨によって石田三成に包囲されていた田辺城を開城し、智仁親王に古今伝 ... ...
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8月秀吉没。豊臣氏五大老、朝鮮出兵の諸軍を召還1599(慶長4)1月豊臣秀頼、大坂城に移る。石田三成、徳川家康不和1600(慶長5)6月家康、上杉氏討伐のため大 ... ...
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46. あんこくじえけい【安国寺恵瓊】 画像
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る。秀吉の死後、文吏党の石田三成らと結び徳川家康を討つため毛利輝元を味方にするが、毛利家内部の広家らに裏切られ関ヶ原の戦に敗北し捕えられる。慶長五年十月一日、石 ... ...
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文明四年(一四七二)慈徳が蓮如に帰依し見順と改名、真宗に改宗したと伝える。寺蔵の聖徳太子像は石田三成の守仏であったが、当地に逃れた甥石田佐兵衛が自刃の際、同寺に ... ...
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一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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