《万葉集》の歌人。生没年,経歴とも不詳ながら,その主な作品は689-700年(持統3-文武4)の間に作られており,皇子,皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いところから,歌をもって宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。人麻呂作と明記された歌は《万葉集》中に長歌16首,短歌61首を数え,ほかに《柿本人麻呂歌集》の歌とされるものが長短含めて約370首におよぶ。質量ともに《万葉集》最大の歌人で,さらにその雄渾にして修辞を尽くした作風は日本詩歌史に独歩する存在とみなされる。
柿本氏は《古事記》によれば第5代孝昭天皇の皇子の天押帯日子(あめおしたらしひこ)命を祖として,春日,大宅(おおやけ),粟田,小野などの氏と同族関係にあり,《新撰姓氏録》には敏達天皇代に家門に柿の木のあったことから柿本の名がおこったと記されている。姓(かばね)はもと〈臣(おみ)〉で,684年(天武13)の改姓において〈朝臣(あそん)〉となった。《万葉集》人麻呂作のすべてが〈柿本朝臣人麻呂〉と記されている。しかし人麻呂の名は正史にまったくあらわれない。ただ708年(和銅1)に従四位下で卒した柿本朝臣佐留(さる)の名がとどめられているが,人麻呂との関係は不明である。人麻呂について手がかりを提供するのは《万葉集》だけであって,それによれば前記のほかに,近江,瀬戸内海,山陰の石見(いわみ)での詠から,かれが比較的下級の官人として四国,九州,中国などへ遣わされていたこと,またその臨終の作〈鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあらむ〉(巻二)の題詞から,人麻呂は石見で世を去り,歌の配列された位置により死期は709-710年(和銅2-3)とみられること,などが推定されている。なお同じ題詞に〈死〉の字が用いられているが,これは人麻呂の官位が六位以下であったことを示すものである。
人麻呂の作品は短歌1首のみの場合もあるが,多くは長歌と短歌が組みあわされ,数首の短歌が連作として工夫されるなど長大な構成を持つ。また表現技術についても対句や枕詞が修辞的に多用され,1句1語に推敲,彫琢の跡がとどめられている。これらは人麻呂以前にはなかったことで,かれが意識的な歌の技術者,その意味で日本最初の職業的詩人であったことを示すものである。《万葉集》の歌の部立(ぶだて)(分類)にしたがってその内容をみると,人麻呂の歌は大部分が雑歌(ぞうか),挽歌に属し相聞(そうもん)はやや少ない。雑歌は天皇,皇子の行幸,出遊にさいしひとつの賛歌として詠まれた場合が多く,〈大君は神にしませば〉とのこの時代特有の慣用句により王権の偉大さをうたい上げた作が目だっている(持統女帝の吉野行幸時の歌ほか)。しかしこの種の作が華麗な修辞を伴いつつも形式的空疎に陥りがちなのに対し,同じ雑歌でも近江の旧都を詠んだ作,軽皇子(かるのみこ)(のちの文武天皇)の安騎野(あきの)の狩りに際しての作は,つぎに引くように過ぎ去りゆくひとつの時代への思いが沈痛に語られ,人麻呂の一方の代表作をなしている。〈楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも〉〈東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ〉(ともに巻一)。さらに雑歌のうちの〈羇旅(きりよ)〉においても,〈玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に舟近づきぬ〉(巻三)のごとく独特な旅情の世界がひらかれた。挽歌作品は9編を数え,そのうちでもっとも問題性に富むのは,高市皇子(たけちのみこ)の死に際しての殯宮(ひんきゆう)挽歌であろう。その長歌は149句におよんで集中屈指の長編をなすが,特に亡き皇子の活躍する壬申の乱の戦闘場面は,日本古代文学に稀有の迫力と気宇を備えている。〈ささげたる幡(はた)のなびきは 冬ごもり春さりくれば 野ごとにつきてある火の 風の共(むた)なびくがごとく〉といった高潮した叙事には,過去の激動に対する共感と哀惜がこめられており,そこに人麻呂の詩心の核が存したとしてよかろう。相聞においては,石見国で妻と別れるときの歌が,〈笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹(いも)思ふ別れ来ぬれば〉(巻二)の秀歌を含み著名だが,これらは普通の意味の恋歌ではなく,亡妻のために〈泣血哀慟〉して詠んだという挽歌と同様に,ひとつの物語歌としておそらく宮廷人士に披露されたものであるらしい。そこには古代宮廷詩人の隷属性の一側面がみえている。
総じて人麻呂の歌には,荒々しい混沌の気象が周到なことばの技術のもとにもたらされているとしてよい。近代歌人の斎藤茂吉はその歌風を〈沈痛,重厚,ディオニュソス的〉などと評したが,おそらくそうした特性は,人麻呂が口誦から記載へという言語の転換期を生き,両言語の特質を詩的に媒介,統一しようとした営みから生まれたと考えられる。潮のうねりにも比せられるかれの声調には原始以来の〈言霊(ことだま)〉の力が感ぜられるが,同時にその多彩な修辞には外来の中国詩文に触発された記載言語の技法が駆使されているからである。こうした一回的な言語史,文化史の状況はまた大化改新,壬申の乱を経ての律令国家体制の確立過程と重なっていた。前者が人麻呂文学の形式的背景をなすとすれば,後者はその内容を詩的に充電する契機として働いたであろう。
人麻呂の声名は万葉時代すでに,大伴家持により〈山柿(さんし)の門〉(歌を山部赤人,人麻呂に代表させたいい方)と称揚されたが,《古今和歌集》仮名序,真名序では〈歌仙(うたのひじり)〉としてまつり上げられるにいたる。以後,勅撰和歌集を中心とする宮廷和歌の世界でこの傾向が増幅され,平安末期には〈人丸影供(ひとまるえいぐ)〉という,人麻呂の肖像をかかげ香華,供物をそなえての歌会も行われた。鎌倉期以降の有心連歌(うしんれんが)の衆が無心連歌に対して〈柿の本〉と称したのは,優雅を本旨とする和歌の本宗として人麻呂を見ていたからだが,こうした堂上歌人の人麻呂受容はその詩的本質からはるかに遠ざかるもので,勅撰集,私撰集にとられた〈人丸〉作の多くは《万葉集》に典拠を持たない非人麻呂的な歌であった。おそらく〈和歌〉を宮廷の晴れの文学として聖化してゆく風潮が,最初の宮廷詩人たる人麻呂の像を肥大,転轍させていったものとみえる。〈和歌〉のこうした伝統のもとに,人麻呂の神格化や伝説化はその後の歴史を通してくり返されており,近年の人麻呂刑死説などもまたその埒内の産物と判断できる。
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