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  11. 柿本人麻呂
改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書

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改訂新版・世界大百科事典
柿本人麻呂
かきのもとのひとまろ

《万葉集》の歌人。生没年,経歴とも不詳ながら,その主な作品は689-700年(持統3-文武4)の間に作られており,皇子,皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いところから,歌をもって宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。人麻呂作と明記された歌は《万葉集》中に長歌16首,短歌61首を数え,ほかに《柿本人麻呂歌集》の歌とされるものが長短含めて約370首におよぶ。質量ともに《万葉集》最大の歌人で,さらにその雄渾にして修辞を尽くした作風は日本詩歌史に独歩する存在とみなされる。

家系と閲歴

柿本氏は《古事記》によれば第5代孝昭天皇の皇子の天押帯日子(あめおしたらしひこ)命を祖として,春日,大宅(おおやけ),粟田,小野などの氏と同族関係にあり,《新撰姓氏録》には敏達天皇代に家門に柿の木のあったことから柿本の名がおこったと記されている。姓(かばね)はもと〈臣(おみ)〉で,684年(天武13)の改姓において〈朝臣(あそん)〉となった。《万葉集》人麻呂作のすべてが〈柿本朝臣人麻呂〉と記されている。しかし人麻呂の名は正史にまったくあらわれない。ただ708年(和銅1)に従四位下で卒した柿本朝臣佐留(さる)の名がとどめられているが,人麻呂との関係は不明である。人麻呂について手がかりを提供するのは《万葉集》だけであって,それによれば前記のほかに,近江,瀬戸内海,山陰の石見(いわみ)での詠から,かれが比較的下級の官人として四国,九州,中国などへ遣わされていたこと,またその臨終の作〈鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあらむ〉(巻二)の題詞から,人麻呂は石見で世を去り,歌の配列された位置により死期は709-710年(和銅2-3)とみられること,などが推定されている。なお同じ題詞に〈死〉の字が用いられているが,これは人麻呂の官位が六位以下であったことを示すものである。

作品と作風

人麻呂の作品は短歌1首のみの場合もあるが,多くは長歌と短歌が組みあわされ,数首の短歌が連作として工夫されるなど長大な構成を持つ。また表現技術についても対句や枕詞が修辞的に多用され,1句1語に推敲,彫琢の跡がとどめられている。これらは人麻呂以前にはなかったことで,かれが意識的な歌の技術者,その意味で日本最初の職業的詩人であったことを示すものである。《万葉集》の歌の部立(ぶだて)(分類)にしたがってその内容をみると,人麻呂の歌は大部分が雑歌(ぞうか),挽歌に属し相聞(そうもん)はやや少ない。雑歌は天皇,皇子の行幸,出遊にさいしひとつの賛歌として詠まれた場合が多く,〈大君は神にしませば〉とのこの時代特有の慣用句により王権の偉大さをうたい上げた作が目だっている(持統女帝の吉野行幸時の歌ほか)。しかしこの種の作が華麗な修辞を伴いつつも形式的空疎に陥りがちなのに対し,同じ雑歌でも近江の旧都を詠んだ作,軽皇子(かるのみこ)(のちの文武天皇)の安騎野(あきの)の狩りに際しての作は,つぎに引くように過ぎ去りゆくひとつの時代への思いが沈痛に語られ,人麻呂の一方の代表作をなしている。〈楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも〉〈東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ〉(ともに巻一)。さらに雑歌のうちの〈羇旅(きりよ)〉においても,〈玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島が崎に舟近づきぬ〉(巻三)のごとく独特な旅情の世界がひらかれた。挽歌作品は9編を数え,そのうちでもっとも問題性に富むのは,高市皇子(たけちのみこ)の死に際しての殯宮(ひんきゆう)挽歌であろう。その長歌は149句におよんで集中屈指の長編をなすが,特に亡き皇子の活躍する壬申の乱の戦闘場面は,日本古代文学に稀有の迫力と気宇を備えている。〈ささげたる幡(はた)のなびきは 冬ごもり春さりくれば 野ごとにつきてある火の 風の共(むた)なびくがごとく〉といった高潮した叙事には,過去の激動に対する共感と哀惜がこめられており,そこに人麻呂の詩心の核が存したとしてよかろう。相聞においては,石見国で妻と別れるときの歌が,〈笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹(いも)思ふ別れ来ぬれば〉(巻二)の秀歌を含み著名だが,これらは普通の意味の恋歌ではなく,亡妻のために〈泣血哀慟〉して詠んだという挽歌と同様に,ひとつの物語歌としておそらく宮廷人士に披露されたものであるらしい。そこには古代宮廷詩人の隷属性の一側面がみえている。

人麻呂の位置,人麻呂伝説

総じて人麻呂の歌には,荒々しい混沌の気象が周到なことばの技術のもとにもたらされているとしてよい。近代歌人の斎藤茂吉はその歌風を〈沈痛,重厚,ディオニュソス的〉などと評したが,おそらくそうした特性は,人麻呂が口誦から記載へという言語の転換期を生き,両言語の特質を詩的に媒介,統一しようとした営みから生まれたと考えられる。潮のうねりにも比せられるかれの声調には原始以来の〈言霊(ことだま)〉の力が感ぜられるが,同時にその多彩な修辞には外来の中国詩文に触発された記載言語の技法が駆使されているからである。こうした一回的な言語史,文化史の状況はまた大化改新,壬申の乱を経ての律令国家体制の確立過程と重なっていた。前者が人麻呂文学の形式的背景をなすとすれば,後者はその内容を詩的に充電する契機として働いたであろう。

 人麻呂の声名は万葉時代すでに,大伴家持により〈山柿(さんし)の門〉(歌を山部赤人,人麻呂に代表させたいい方)と称揚されたが,《古今和歌集》仮名序,真名序では〈歌仙(うたのひじり)〉としてまつり上げられるにいたる。以後,勅撰和歌集を中心とする宮廷和歌の世界でこの傾向が増幅され,平安末期には〈人丸影供(ひとまるえいぐ)〉という,人麻呂の肖像をかかげ香華,供物をそなえての歌会も行われた。鎌倉期以降の有心連歌(うしんれんが)の衆が無心連歌に対して〈柿の本〉と称したのは,優雅を本旨とする和歌の本宗として人麻呂を見ていたからだが,こうした堂上歌人の人麻呂受容はその詩的本質からはるかに遠ざかるもので,勅撰集,私撰集にとられた〈人丸〉作の多くは《万葉集》に典拠を持たない非人麻呂的な歌であった。おそらく〈和歌〉を宮廷の晴れの文学として聖化してゆく風潮が,最初の宮廷詩人たる人麻呂の像を肥大,転轍させていったものとみえる。〈和歌〉のこうした伝統のもとに,人麻呂の神格化や伝説化はその後の歴史を通してくり返されており,近年の人麻呂刑死説などもまたその埒内の産物と判断できる。
→万葉集
[阪下 圭八]

[索引語]
柿本氏 天押帯日子(あめおしたらしひこ)命 柿本佐留 人麻呂伝説 斎藤茂吉 山柿(さんし)の門 人丸影供 柿の本


日本大百科全書
柿本人麻呂
かきのもとのひとまろ

生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣(あそみ)。奈良朝(710~)以前に活動した。「人麻呂歌集」歌に「庚辰(こうしん)年」(天武(てんむ)天皇9年=680)作の歌(巻10・2033歌)があるので、天武朝(673~686)にすでに活動していたことが知られる。また、700年(文武天皇4)作の明日香皇女挽歌(あすかのひめみこばんか)(巻2・196~198歌)が、作歌年時のわかる作品として最後のものになる。天武・持統(じとう)朝を中心に、文武(もんむ)朝にかけて活動したのであるが、主要な作品は持統朝(686~697)に集中している。
[神野志隆光]

官人としての人麻呂

人麻呂の活動は天武朝に始まるが、官人としての地位、足跡の詳細はわからない。石見相聞歌(いわみそうもんか)(巻2・131~139歌)によって石見国(島根県)に赴任したことがあったと認められたり、瀬戸内海旅の歌(巻3・249~256歌、303~304歌)などに官人生活の一端をうかがったりすることができる程度である。なお、石見国での臨死歌とする「鴨山(かもやま)の岩根しまける我をかも知らにと妹(いも)が待ちつつあるらむ」(巻2・223歌)があることから、晩年に石見に赴任し、石見で死んだとする説が有力だが、石見相聞歌は持統朝前半の作とみるべき特徴を、表現上(枕詞(まくらことば)・対句)も様式上(反歌)も備えている。臨死歌は、人麻呂の伝説化のなかで石見に結び付けられたものと思われ、石見での死は信じがたい。
[神野志隆光]

人麻呂歌集と歌人人麻呂

歌人としての人麻呂の活動は、「人麻呂歌集」歌(『万葉集』中に364首)と、題詞に人麻呂作と明記するもの、いわゆる人麻呂作歌(延べ84首)とを通じてみることができる。「人麻呂歌集」は現存しないが、『万葉集』に取り込まれた形で知ることができ、天武朝から持統朝初めにかけて筆録されたとみられる。人麻呂作歌は、年時分明のものでは689年(持統天皇3)から700年(文武天皇4)にわたる。「人麻呂歌集」を人麻呂作歌に先行するものとして、両者をあわせて歌人としての人麻呂の全体像をみることができるのである。
 歌人人麻呂の展開をみるうえで「人麻呂歌集」は重要であるが、注目されるのは、「人麻呂歌集」のなかで、歌の表記に変化があり、それが歌の発展と不可分だということである。つまり、助詞・助動詞を少なくしか表記しないもの(略体歌)と、より多く表記するもの(非略体歌)と、2類あるが、略体歌から非略体歌へと書き継がれたと認められ、その表記の展開とともに歌が叙情詩としての成熟を遂げていったとみることができるのである。より古い略体歌にはとくに民謡的な歌が多い。「打つ田に稗(ひえ)はしあまたありといへど択(えら)えし我(われ)そ夜一人ぬる」(巻11・2476歌)など。非略体ではそうした歌から脱却して、人麻呂独自の歌詞と叙情の境地とを開く。「塩けたつ荒磯(ありそ)にはあれど行く水の過ぎにし妹(いも)がかたみとそ来(こ)し」(巻9・1797歌)など。
[神野志隆光]

人麻呂作歌

人麻呂作歌は、このような「人麻呂歌集」のなかで人麻呂の遂げた展開を受け、これをさらに推進する方向でなされていく。人麻呂作歌のなかでもっとも早い作は、689年作とみられる近江荒都(おうみこうと)歌(巻1・29~31歌)であるが、その2首の反歌「ささなみの志賀(しが)の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人(おほみやひと)の舟待ちかねつ」「ささなみの志賀(しが)の大わだ淀(よど)むとも昔の人にまたもあはめやも」は、非略体歌の「塩けたつ」の歌のような歌い方のうえになされたことは明らかであろう。そうした歌い方を成熟させ、しっかりと自分のものにして方法化していくことで、前記のような歌は生み出されたのである。それは人麻呂の独自な歌調の定着でもあった。近江荒都歌の2首の反歌や、石見相聞歌中の反歌の1首「笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば」(巻2・133歌)の、沈痛重厚で、心の昂(たか)まり・激情を渦巻くように投げかける調べはたぐいがない。人麻呂調というべきものである。
 人麻呂作歌は、長歌を中心とする。84首のうち、長歌が18首、残りの短歌も36首まで反歌としてなされたものである。その多彩な内容は人麻呂を宮廷歌人ととらえる説もあるように、晴れの場での人麻呂の活動を想像させる。持統朝の宮廷が要求した、中国の詩に対抗できるような独自の文化としての歌ということにこたえてつくりだされていったのがこれらの長歌であったが、石見国から妻と別れて上京するときの歌という石見相聞歌に代表される相聞を主題とする長歌、草壁皇子(くさかべのおうじ)挽歌(巻2・167~169歌)、高市皇子(たけちのおうじ)挽歌(巻2・199~202歌)のような皇子たちの殯宮(ひんきゅう)に際してその死を悼み悲しむ荘重な響きをもつ挽歌など、新しい歌の境地がそこで開かれた。
 たとえば、「やすみしし我が大君の 聞こしをす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内(かふち)と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太しきませば ももしきの大宮人は 舟並(な)めて朝川渡り 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆる事なく この山のいや高知らす みなそそく滝のみやこは 見れど飽かぬかも」(巻1・36歌)は、吉野行幸のときの作だが、枕詞・対句を駆使して重々しく華麗で、しかも緊張を失うことがない。比類ない歌いぶりであり、その歌調のみなぎりは、時代の精神を体現して生まれたといえよう。
[神野志隆光]

人麻呂の達成

様式のうえでも複数反歌、複数長歌の構成などが初めて生み出され、表現のうえでも、多数の新しい枕詞が創出されるなど、人麻呂の果たしたものはきわめて大きい。人麻呂を通じて和歌史が転換するといっても過言ではない。大きく日本の文学史のうえでいえば、口誦(こうしょう)から記載への転換という点で人麻呂の位置をみるべきである。口から口へ受け継がれた文学から、書く文学という根本的に新しい質の文学への転換を歌において体現するのが人麻呂である。文学史にとってもっとも大きな、緊張に富んだ転換期であり、それを体現する歌人として人麻呂の文学的魅力は大きい。
 なお、人麻呂の後代へ与えた影響は圧倒的に大きく、『万葉集』の時代にすでに模範として仰がれていた。奈良朝の代表的歌人である笠金村(かさのかなむら)や山部赤人(やまべのあかひと)は明らかに人麻呂の影響のもとに作歌し、大伴家持(おおとものやかもち)は「山柿(さんし)の門」とよんで彼を賛仰した。のちに歌聖といわれ、さらには歌神として祀(まつ)られるに至った。
[神野志隆光]


小倉百人一首(3) 歌人/柿本人麻呂(柿本人丸)[百科マルチメディア]
小倉百人一首(3) 歌人/柿本人麻呂(柿本人丸)[百科マルチメディア]
〈上の句〉あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 〈下の句〉長長し夜を ひとりかも寝む
あしひきのやまどりのをのしだりをの ながながしよをひとりかもねむ
定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/あし

柿本人麻呂(柿本人丸)(かきのもとのひとまろ)
菱川師宣(ひしかわもろのぶ)画[他]『小倉百人一首』 1680年(延宝8) 国立国会図書館所蔵
ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
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検索コンテンツ
1. 柿本人麻呂
日本大百科全書
生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣(あそみ)。奈良朝(710~)以前に活動した。「人麻呂歌集」歌に「庚辰(こうしん)年」(天武(てんむ) ...
2. 柿本人麻呂
世界大百科事典
と考えられる。人麻呂作と明記された歌は《万葉集》中に長歌16首,短歌61首を数え,ほかに《柿本人麻呂歌集》の歌とされるものが長短含めて約370首におよぶ。質量と ...
3. かきのもと‐の‐ひとまろ【柿本人麻呂】
デジタル大辞泉
〓万葉集の代表的歌人。三十六歌仙の一人。持統・文武両天皇に仕えた。長歌の形式を完成するとともに、短歌も数多く残し、後世、歌聖 ...
4. かきのもと‐の‐ひとまろ【柿本人麻呂】
日本国語大辞典
万葉歌人。天武、持統、文武の三代に活躍した。天智朝に出仕していたとする説もある。持統・文武両天皇に仕えた宮廷歌人という。雄大荘重な長歌の形式を完成する一方、短歌 ...
5. かきのもとのひとまろ【柿本人麻呂】
全文全訳古語辞典
[人名]『万葉集』第二期の歌人。三十六歌仙の一人。生没年未詳。持統・文武両朝に下級の官人として仕えた宮廷歌人で、万葉時代の歌の第一人者。『万葉集』に多くの歌が採 ...
6. かきのもとのひとまろ【柿本人麻呂】
国史大辞典
武田祐吉『国文学研究柿本人麻呂攷』(『武田祐吉著作集』七)、森本治吉『人麿の世界』、吉村貞司『人麻呂抄』、山本健吉『柿本人麻呂』、中西進『柿本人麻呂』(『日本詩 ...
7. かきのもとの-ひとまろ【柿本人麻呂】
日本人名大辞典
90-707)につくられ,「万葉集」には人麻呂作と詞書のある長歌18首,短歌67首。また「柿本人麻呂歌集」所収の長短あわせて約370首が「万葉集」におさめられて ...
8. かきのもとのひとまろ【柿本人麻呂】
日本架空伝承人名事典
と考えられる。人麻呂作と明記された歌は『万葉集』中に長歌一六首、短歌六一首を数え、ほかに『柿本人麻呂歌集』の歌とされるものが長短含めて約三七〇首におよぶ。質量と ...
9. 柿本人麻呂[文献目録]
日本人物文献目録
皇の志摩行幸と柿本人麻呂の歌』大形昌之助『壬申の乱と柿本人麻呂』田辺爵『贈正一位柿本朝臣人麻呂の伝』小中村義象『典型像を探る 6 柿本人麻呂』益田勝実『天武朝に ...
10. Kakinomoto no Hitomaro 【柿本人麻呂】
Encyclopedia of Japan
fl ca 685−705 Most important poet of the Man'yoshu, the earliest anthology of Ja ...
11. 柿本人麻呂歌集
世界大百科事典
《万葉集》成立以前の和歌集。人麻呂が2巻に編集したものか。春秋冬の季節で分類した部分をもつ〈非略体歌部〉と,神天地人の物象で分類した部分をもつ〈略体歌部〉とから ...
12. 柿本人麻呂の妻[文献目録]
日本人物文献目録
本人麿の妻について』木船正雄『人麿と其の妻と』外島瀏『人麻呂の妻』沢瀉久孝『万葉史生手実 柿本人麻呂の妻』武田祐吉 ...
13. 柿本朝臣人麻呂歌集
日本大百科全書
略して「人麻呂歌集」ともいう。歌集としては現存しないが、『万葉集』中には、「人麻呂歌集」から採録した歌が364首ある(数え方には異説がある)。すなわち、巻3に1 ...
14. 小倉百人一首(3) 歌人/柿本人麻呂(柿本人丸)[百科マルチメディア]
日本大百科全書
のしだりをの ながながしよをひとりかもねむ定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/あし柿本人麻呂(柿本人丸)(かきのもとのひとまろ)菱川師宣(ひしかわもろの ...
15. あい‐・みる[あひ:]【相見・逢見】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕二・二一一「去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見し妹はいや年さかる〈柿本人麻呂〉」*万葉集〔8C後〕八・一五五八「鶉(うづら) ...
16. あおかき‐やま[あをかき:]【青垣山】
日本国語大辞典
国見をせせば 畳(たたな)はる 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と〈柿本人麻呂〉」*延喜式〔927〕祝詞・出雲国造神賀詞「出雲国の青垣山の ...
17. あおぎ‐・みる[あふぎ:]【仰見】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕二・一六八「ひさかたの天(あめ)見るごとく仰見し皇子(みこ)の御門の荒れまく惜しも〈柿本人麻呂〉」*今昔物語集〔1120頃か〕二・六「老母、此 ...
18. あお‐こま[あを:]【青駒】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕二・一三六「青駒が足掻(あがき)を早み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける〈柿本人麻呂〉」 ...
19. あお‐やま[あを:]【青山】
日本国語大辞典
(あをやま)を ふり放(さ)け見れば つつじ花 香(にほえ)少女 桜花 栄(さかえ)少女〈柿本人麻呂〉」*夫木和歌抄〔1310頃〕二〇「道遠み急がざりせば青山の ...
20. 明石(市)
日本大百科全書
さる)櫓が残り、城跡はスポーツ、文化施設も備えた広大な県立公園である。人丸(ひとまる)には柿本人麻呂(ひとまろ)を祀(まつ)る柿本神社があり、近くに市立天文科学 ...
21. 明石[市]
世界大百科事典
る。《古今集》巻九羇旅には〈ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ〉の歌があり,柿本人麻呂作と伝える。これにちなみ,人丸山上には人丸神社(柿本神社)が ...
22. あかし【明石】
日本国語大辞典
天和二年(一六八二)以降は松平八万石の城下町。古来、かわら、清酒、明石縮、明石焼などの産がある。柿本人麻呂をまつる人丸神社境内に、東経一三五度の日本標準時子午線 ...
23. あかし【明石】
国史大辞典
合併して現在に至る。面積四七・三四平方キロ、人口二二万五七一一人(昭和四十九年四月一日現在)。なお柿本人麻呂をまつる柿本神社境内に、日本標準時子午線(東経一三五 ...
24. あかし【明石】兵庫県:明石市
日本歴史地名大系
播磨灘に臨む海岸部一帯をさす文芸地名で、古くから景勝地として知られる。「万葉集」巻三に収める柿本人麻呂の「天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」をは ...
25. あかし【明石】広島県:佐伯郡/廿日市町/宮内村
日本歴史地名大系
史」所収)。当地には塔岩・机岩などの奇岩があり、また地名による連想からか、幣竹・机岩などに柿本人麻呂に関する伝えが残る(国郡志下調書出帳)。また塔岩は「此塔中ニ ...
26. 明石(源氏物語) 275ページ
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「人」は明石の君をさす。「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」(古今・羇旅 読人しらず、左注柿本人麻呂)。須磨巻(二〇五ページ)で、筑紫より上洛の ...
27. 明石海峡
日本大百科全書
998年完成)が架かる。また、『万葉集』には「明石の門(と)」「明石大門(おおと)」として柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、山部赤人(あかひと)などによって詠 ...
28. 明石海峡
世界大百科事典
松帆ノ浦の間は約4kmで,潮流最強時は時速9kmに達する。古くから畿内の西口として著名で,柿本人麻呂の短歌〈天離(あまさか)る夷(ひな)の長道(ながじ)ゆ恋ひ来 ...
29. あかしぐん【明石郡】
国史大辞典
神亀三年(七二六)聖武天皇は邑美(おうみ)頓宮に行幸し、山部赤人らが随行した。『万葉集』には柿本人麻呂らが明石の歌を残している。承和十二年(八四五)明石と淡路石 ...
30. あかしし【明石市】兵庫県
日本歴史地名大系
迎え撃った島津忠兼は二七日に加爾坂の北で合戦に及んだ。このとき人丸塚でも合戦があったが、この塚は柿本人麻呂を祀ったものという。市域の所領は摂津住吉社領魚住庄、五 ...
31. あかつき‐つゆ【暁露】
日本国語大辞典
*拾遺和歌集〔1005〜07頃か〕雑秋・一一一八「この頃のあか月つゆにわが宿の萩の下葉は色づきにけり〈柿本人麻呂〉」*狭衣物語〔1069〜77頃か〕三「まだ知ら ...
32. あかなとうげ【赤名峠】島根県:飯石郡/赤来町/上赤名村
日本歴史地名大系
あり」とあり、三坂は赤名峠とされる。上り下り九十九曲の難所とされていた。斎藤茂吉の「鴨山考」によると、柿本人麻呂の終焉の地を邑智郡邑智町湯抱の鴨山と推定、人麻呂 ...
33. あかね‐さ・す【茜─】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕二・一六九「茜刺(あかねさす)日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも〈柿本人麻呂〉」*源氏物語〔1001〜14頃〕行幸「あかねさす光は ...
34. あがみむら【安神村】長崎県:下県郡/厳原町
日本歴史地名大系
尾浦村の南西にあり、集落は安神浦に臨む。「津島紀略」では吾神として安我美と訓じる。「万葉集」巻一四の柿本人麻呂の歌「赤見山草根刈り除け逢はすがへあらそふ妹しあや ...
35. あき【阿騎・安騎】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕一・四六「阿騎の野に宿る旅人うち靡き眠(い)も寝(ね)らめやもいにしへ思ふに〈柿本人麻呂〉」 ...
36. 明(現)神
世界大百科事典
のは,7世紀の壬申の乱(672)以降で,天武,持統両朝には〈大君は神にしませば〉という歌が柿本人麻呂ら宮廷歌人により多くうたわれた。天皇を天津神(あまつかみ)の ...
37. あきつの【秋津野】奈良県:吉野郡/川上村/西河村
日本歴史地名大系
「河上の小野に幸す」という。「大和志」には「蜻蛉野在川上荘西河村名区也」と記す。「万葉集」巻一の柿本人麻呂作歌に「山川の清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ ...
38. あきづ【秋津・蜻蛉】
日本国語大辞典
上代、吉野離宮のあったところ。*万葉集〔8C後〕一・三六「吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に〈柿本人麻呂〉」*万葉集〔8C後〕六・九一一「み吉野の秋津の川の万世 ...
39. あき の 雨(あめ)
日本国語大辞典
古今和歌集〔1265〕秋上・三三一「萩の花ちらばおしけん秋の雨しばしなふりそ色のつくまで〈柿本人麻呂〉」*俳諧・続猿蓑〔1698〕秋「残る蚊や忘れ時出る秋の雨〈 ...
40. あき の 月夜(つくよ)
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕二・二一一「去年(こぞ)見てし秋乃月夜(あきノつくよ)は照らせども相見し妹はいや年さかる〈柿本人麻呂〉」 ...
41. あきやま‐の【秋山─】
日本国語大辞典
とこ)と名づけき」*万葉集〔8C後〕二・二一七「秋山(あきやまの) したへる妹 なよ竹の とをよる子らは〈柿本人麻呂〉」*万葉集〔8C後〕一三・三二三四「春山の ...
42. あけ‐・く【明来】
日本国語大辞典
。*万葉集〔8C後〕二・一三八「明来(あけくれ)ば 浪こそ来よれ 夕されば 風こそ来よれ〈柿本人麻呂〉」*万葉集〔8C後〕一五・三六六四「志賀の浦にいざりする海 ...
43. あけ‐は・てる【明果】
日本国語大辞典
帖〔976〜987頃〕一・秋「あひ見まく秋たたずともしののめの明はてにけりふなでせんかは〈柿本人麻呂〉」*源氏物語〔1001〜14頃〕須磨「あけはつるほどにかへ ...
44. 英虞
日本大百科全書
際して「阿胡行宮(あごのかりみや)」が営まれたとあり、『万葉集』にはこのとき、都に留まった柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の詠んだ歌として「阿胡の浦に船乗りす ...
45. あごぐん【英虞郡】三重県:志摩国
日本歴史地名大系
所在地は鳥羽・答志島付近との説もあり確定しないが、「あご」の名の初見である。この年の伊勢行幸のとき京で柿本人麻呂が詠んだ歌に「嗚呼見の浦」の地名がみえるが(「万 ...
46. あさ‐かわ[:かは]【朝川】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕一・三六「ももしきの 大宮人は 船なめて 旦川(あさかは)渡り 舟ぎほひ 夕河渡る〈柿本人麻呂〉」*十六夜日記〔1279〜82頃〕「二十七日、 ...
47. あさぎり‐の【朝霧─】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕二・一九六「ぬえ鳥の 片恋妻 朝鳥の〈一云 朝霧(あさぎりの)〉 通はす君が〈柿本人麻呂〉」*源氏物語〔1001〜14頃〕明石「嘆きつつあかし ...
48. あさ‐ごろも【麻衣】
日本国語大辞典
)」に同じ。*万葉集〔8C後〕二・一九九「遣(つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て〈柿本人麻呂〉」*万葉集〔8C後〕七・一二六五「今年行く新島守が麻衣肩の ...
49. あさ‐ごろも【麻衣】
仏教語大辞典
服喪の時に着る麻の白い御服。喪服。 万葉集 二・一九九〈柿本人麻呂〉 「遣はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て」  ...
50. あさづく‐ひ【朝付日】
日本国語大辞典
*古今六帖〔976〜987頃〕五・服飾「あさづくひむかふつげ櫛なるれどもなすろも君がいや珍しき〈柿本人麻呂〉」*玉葉和歌集〔1312〕秋下・七四四「秋霧の絶えま ...
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万葉集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
飛鳥・奈良時代の歌集。二十巻。〔成立〕現在見る形にまとめられたのは何時か不明。制作年代のもっとも新しい歌は天平宝字三年(七五九)正月の大伴家持の作歌だから、最終的編纂はそれ以後になる。最近の伊藤博説によれば、巻一から巻十六まで
柿本人麻呂(改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書)
《万葉集》の歌人。生没年,経歴とも不詳ながら,その主な作品は689-700年(持統3-文武4)の間に作られており,皇子,皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いところから,歌をもって宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。
額田王(改訂新版・世界大百科事典)
《万葉集》第1期(舒明朝~壬申の乱)の女流歌人。生没年不詳。《日本書紀》天武天皇条に,鏡王の娘で,はじめ大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁して十市皇女を生んだとあるほかは,伝もつまびらかでない。父の鏡王に関しても不明。出生地についても大和国,近江国の2説あるが,どちらとも決定しがたい。
万葉仮名(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
日本語を表記するために、漢字の字音や字訓を利用して表音的に用いたもの。用法の上からは仮名の一種であって漢字本来の表意的な使い方とは異なるが、文字の形としては漢字であり、漢字を省画化した片仮名や略草化した平仮名とは異なる。奈良時代以前の漢字
大伴家持(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
『万葉集』末期の代表歌人、官人。旅人の子。少年時の727年(神亀4)ごろ父に伴われ大宰府で生活し、730年(天平2)帰京。737年ごろ内舎人。745年(天平17)従五位下。翌3月宮内少輔。7月越中守として赴任した。751年(天平勝宝3)少納言となって帰京。
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ま‐がな 【真仮名・真仮字】(日本国語大辞典)
漢字を、そのままの字形で国語の音を示すために用いたもの。万葉がな。片仮名。*俚言集覧〔1797頃〕「真仮字とは今いふ万葉仮字にて、真字にて書たるをいふなり。片仮字、平仮字に対へて真仮字といふなり。此真仮字といふ名目は後に出来たる名目にて、古へは但仮字といひし也」
上代特殊仮名遣い(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
7、8世紀の日本語文献には、後世にない仮名の使い分けがあり、それは発音の違いに基づくというもの。キケコソトノヒヘミメモヨロおよびその濁音ギゲゴゾドビベの万葉仮名は、それぞれ二つのグループ(橋本進吉の命名により甲類、乙類とよんでいる)に分類でき、グループ間で
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