『万葉集』末期の代表歌人、官人。旅人(たびと)の子。少年時の727年(神亀4)ごろ父に伴われ大宰府(だざいふ)で生活し、730年(天平2)帰京。737年ごろ内舎人(うどねり)。745年(天平17)従(じゅ)五位下。翌3月宮内少輔(くないのしょうふ)。7月越中守(えっちゅうのかみ)として赴任した。751年(天平勝宝3)少納言(しょうなごん)となって帰京。754年兵部(ひょうぶ)少輔。さらに兵部大輔、右中弁を歴任したが、758年(天平宝字2)因幡守(いなばのかみ)に左降された。以後、信部大輔(しんぶたいふ)、薩摩守(さつまのかみ)、大宰少弐(しょうに)などを歴任。長い地方生活を経て770年(宝亀1)6月民部少輔、9月左中弁兼中務(ちゅうむ)大輔、10月、21年ぶりで正五位下に昇叙した。諸官を歴任して781年(天応1)4月右京大夫(うきょうのたいふ)兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦4)4月中納言従三位(じゅさんみ)兼春宮大夫陸奥按察使(みちのくのあんさつし)鎮守府将軍とみえ、同年8月没。没時はおそらく任地多賀城(宮城県多賀城市)にいたと思われる。年68または69歳。名門大伴家の家名を挽回(ばんかい)しようとして政争に巻き込まれることが多く、官人としては晩年近くまで不遇で、死後も謀反事件に連座して806年(大同1)まで官の籍を除名されていた。
作品は『万葉集』中もっとも多く、長歌46、短歌425(合作1首を含む)、旋頭歌(せどうか)1首、合計472首に上る。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。作歌活動は、732年ごろから因幡守として赴任した翌年の759年までの28年間にわたるが、3期に区分される。第1期は746年越中守となるまでの習作時代で、恋愛歌、自然詠が中心をなす。のちに妻となった坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)をはじめ、笠女郎(かさのいらつめ)、紀女郎(きのいらつめ)らとの多彩な女性関係と、早くも後年の優美、繊細な自然把握がみられる。第2期は越中守時代の5年間で、期間は短いが、望郷の念を底に秘めつつ、異境の風物に接し、下僚大伴池主(いけぬし)との親密な交遊を通し、さらには国守としての自覚にたって、精神的にもっとも充実した多作の時代である。第3期は帰京後から因幡守となるまでで、作品数は少なく宴歌が多いが、万葉の叙情の深まった極致ともいうべき独自の歌境を樹立した。『万葉集』の編纂(へんさん)に大きく関与し、第3期の兵部少輔時代の防人歌(さきもりうた)の収集も彼の功績である。長い万葉和歌史を自覚的に受け止めて学ぶとともにこれを進め、比類のない優美・繊細な歌境を開拓するが、この美意識および自然観照の態度などは、平安時代和歌の先駆をなす点が少なくない。
[橋本達雄]
ふり放(さ)けて三日月見れば一目見し人の眉引(まよびき)思ほゆるかも(第1期)
うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがりこころ悲しも独りし思へば(第3期)
奈良時代の政治家,歌人。安麻呂の孫,旅人の子。橘諸兄政権下に内舎人として出身し,745年(天平17)1月,正六位上から従五位下に叙される。この昇叙の記事が《続日本紀》に家持の名の見える最初である。746年3月宮内少輔,同年6月越中守に任ぜられ,751年(天平勝宝3)7月少納言となり帰京した。754年4月兵部少輔となり,このとき防人の事務をつかさどる。757年(天平宝字1)6月兵部大輔,同年12月右中弁,758年6月には因幡守となった。《万葉集》最末尾の歌であり,また家持作として知られる最後の歌でもある〈新(あらた)しき年の始の初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)〉は翌年1月1日,因幡国庁で降りしきる雪を見ながら国郡の司等を招いた宴席で作られた。その後信部大輔となったが,763年恵美押勝(藤原仲麻呂)を害せんとする事件に連座して薩摩守に左遷された。その後,大宰少弐,民部少輔,相模守,伊勢守などを経て,780年(宝亀11)2月参議に至り,翌年4月右京大夫兼春宮大夫,11月従三位となった。782年(天応2)閏1月氷上川継の事に座して現任を解かれたが,5月参議春宮大夫に復し,6月陸奥按察使鎮守将軍を兼ねて多賀城に赴き,翌年2月持節征東将軍に任命された。785年8月28日多賀城に没する。死後20余日にしてまだしかばねを葬らないうちに,藤原種継射殺事件にかかわりありとして除名され,息子永主等は隠岐に流された。このとき家持の遺骨もともに配流の憂き目にあったろうともいう。806年(大同1)3月,勅によって罪科を除かれ,本位に復された。
家持は江戸前期の国学者契沖の研究以来《万葉集》の最終的な整理編纂者に擬せられており,それは今日ほとんど疑いないものとされている。特に巻十七以降は,家持の歌による日録の体裁をなしている。集中,群をぬいて作品数も多く(長歌46,短歌431,旋頭歌1,連歌1),その作歌過程は大別して3期に区分される。1期は年次の分かっている歌の初見とされる〈初月(みかづき)の歌〉の見られる733年(天平5)から越中守に任命されるまでで,この時期は後に妻となった坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)(大伴坂上大嬢)をはじめとして多くの女性と贈答歌を交わしている。2期は越中守在任時代で,作歌意欲も旺盛であり,いわゆる〈北越三賦〉をはじめとして大伴池主との往復書簡・歌,〈陸奥国より金を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌〉(巻十八)等多くの大作をものし,自然,人事への新しい眼を開いている。またこの時期には着任早々にして弟の死に遭遇し,みずからも死に瀕する大患にかかるなど,かつてない苦悩を体験した。3期は帰京後,最後の歌に至るまでで,藤原氏の勢いに押されながら次第に衰退する大伴氏の氏上(うじのかみ)としての自己を保ちつつ,繊細にして哀愁を帯びた独自の歌風を完成した。〈わが屋戸のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも〉〈うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独りしおもへば〉(ともに巻十九)。これらの歌はすでに平安朝和歌の到来を予見させるものとなっている。
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