イエス・キリストの降誕記念日。クリスマスは英語でキリストChristのミサmassの意味。〈Xmas〉と書く場合のXは,ギリシア語のキリスト(クリストス)ΧΡΙΣΤΟΣの第1字を用いた書き方である。フランスではノエルNoël,イタリアではナターレNatale,ドイツではワイナハテンWeihnachtenという。また,12月25日を〈クリスマス・デー〉,その前夜を〈クリスマス・イブ〉,クリスマスから公現祭(1月6日)の前日(ときには1月13日または聖燭節=2月2日)までを〈降誕節Christmastide〉と呼んでいる。
新約聖書にはマリアの処女懐胎に始まるキリストの誕生について記されている(《マタイによる福音書》1:18~25,《ルカによる福音書》1:26~38など)。しかし,その日がいつかということは語られていない。このため,初期キリスト教徒は1月1日,1月6日,3月27日などにキリストの降誕を祝したが,教会としてクリスマスを祝うことはなかった。3世紀の神学者オリゲネスはクリスマスを定めることは異教的であると非難している。クリスマスが12月25日に固定され,本格的に祝われるようになるのは教皇ユリウス1世(在位337-352)のときであり,同世紀末にはキリスト教国全体でこの日にクリスマスを祝うようになった。長い議論の末,クリスマスが12月25日に固定されたのは初期教会の教父たちの体験と英知とによるものであった。
一般に,この時期に大きな祭りを行うことは古い時代の社会の慣習であった。なかでも揺籃期のキリスト教会が改宗を願っていたローマ人やゲルマン人の間には,冬至の祭が盛大に行われていた。納屋には収穫した穀物がたっぷりと積まれている。牧草の欠乏する冬をひかえて屠殺した家畜の肉も十分に貯蔵されている。1年のはげしい労働から解放され,何となく心豊かなこのとき,人々はやがて訪れる食糧不足のときを忘れ,飲みかつ食らう盛大な祭りを行った。生命の恵みを与える太陽の力を弱め,冬をもたらす自然の怒りをやわらげるために,人々は犠牲を捧げ,豊作・豊穣を祈って火をたいた。大方の草木の枯れるときになお緑を保つ常緑樹は永遠の生命の象徴として飾られた。ゲルマン人の冬至の祭ユールについて詳しいことはわからないが,ローマ人の冬至の祭については詳細な記録が文学・絵画・彫刻などに残っている。12月25日はローマの冬至の当日であった。その日は〈征服されることなき太陽の誕生日〉として,3~4世紀のローマに普及していたミトラス教の重要な祭日であった。12月17日から24日まではサトゥルナリアと呼ばれる農耕神サトゥルヌスの祭が行われていた。この期間,家々にはあかあかと火がともされ,常緑樹が飾られた。贈物が交換され,男たちは女の衣服や獣皮などをまとい,ふだん禁止されていたかけ事に興じた。主人と奴隷が席を交換するどんちゃん騒ぎも行われた。
このようなローマのサトゥルナリアとゲルマンのユールの祭の時期がイエスの降誕を祝うクリスマスとして選ばれた。教会は既存の祭日をできるかぎり利用することを考えていたからである。とくに,ミトラス教はキリスト教の強敵であった。コンスタンティヌス1世はこれよりさき,類似点の多いミトラス教との習合を考え,321年には毎週の休日を〈太陽の日dies solis=sun day〉と呼ぶことに決めた。クリスマスについても教会の同一の方針をみることができる。その上,当時,キリスト教徒の間にもイエスをこの世の光,太陽と考える習慣があった。ミラノ司教アンブロシウスは〈わが主イエスの降誕したこの聖なる日を“太陽の誕生日”と呼ぼう〉と述べている。クリスマスがいつごろから祝われたかは不明である。初期の東方教会の人々は公現祭をキリスト受洗の日,その神性顕示の日として祝った。彼らはアリウス派の人々で,イエスの受洗を重視し,降誕には意味を認めない人々であった。降誕のときからイエスの神性を信じる正統派キリスト教徒は彼らを異端と考えた。325年のニカエア公会議の異端宣告とほぼ同時期に,西方教会がクリスマスを12月25日に定めたのは異端との区別を明確にするためでもあったかもしれない。ともかく,ローマでクリスマスが12月25日に祝われたのは336年以前であったことはほぼ確実である。この日が決定するまでにさまざまな意見が出された。たとえば,12月末,イエスの生まれたパレスティナ地方は雨季にあたり,羊飼いは野に出ていない。この時期に人口調査が行われた(《ルカによる福音書》2:1~3)証跡はない。学者たちは別の根拠からクリスマスを推定しようとしたが,いずれの見解も十分に説得的ではなかった。こうしてクリスマスは固定された。数世紀の間,異教の慣習はなお強く残り,教会はこれを懸念しながらも,キリスト教の教義と明確に矛盾しないかぎりこれを根絶することなく,同化・習合の方針をとった。以下,イギリスを例として,今日にいたるクリスマスの変遷を鳥瞰しよう。
597年,カンタベリーのアウグスティヌスがイギリス伝道を開始したとき,クリスマスはローマ教会の三大祝日の一つとなっていた。彼は翌年のクリスマスに1万人以上のアングロ・サクソン人に洗礼を施したという。約1世紀後,ベーダはこの日がもと〈母たちの夜〉と呼ばれ,母なる女神の祝日だったと述べている。人々は改宗してもなお,寛大な教会の慈悲により,罪のない異教の祭りをたのしんでいたのである。彼らは常緑樹を飾り,ユールの丸太を燃やし,仮面劇やまじない歌を誦し,踊りに興じた。このようにして,イギリスのクリスマスはユールと降誕節の習合として成立し,アングロ・サクソン暦はこの日から新年を数えることとなった。この慣習は中世末まで残った。アルフレッド大王はクリスマスから公現祭までを聖なる期間と定め,労働を禁じた。王が878年デーン人に一時敗退したのはこのためであるといわれている。なお,上記の期間が聖なる期間と定められたのは567年のトゥールの公会議においてである。アングロ・サクソン人のキリスト教化はデーン人の侵寇により遅滞ないし後退したが,〈ノルマン・コンクエスト〉までにはほぼ完成した。〈クリスマス〉という用語は《アングロ・サクソン年代記》の1043年の項で初めて使用されている。それ以前は〈冬至祭〉または降誕を意味するNativityの語が使用されている。
ヘンリー8世,エリザベス1世の時代にもクリスマスはイングランド教会(アングリカン・チャーチ)の三大祝日の一つとして祝われた。当時の文学作品などによると,クリスマスは神に感謝を捧げるとき,正真正銘の喜びのとき,友人・親戚との旧交を温め,貧しい隣人を歓待するときであった。この時代は宮廷生活の華やかさに比し,地方では貧富の差が激化し,過去の人間関係のきずなが破綻しはじめた時代であった。クリスマスは貧しい隣人を歓待するようにという文言が著述家たちによってとくに強調されている。エリザベス1世,ジェームズ1世は故郷の人々を歓待するようにと,クリスマスには廷臣たちを帰省させた。地方自治体は貴族・ジェントリーにこの歓待を義務づけた。とくに凶作の年にはそれが地方の治安維持にとって重大な役割を果たした。1627年のクリスマスに,枢密院はロンドン主教に対して,イギリスに亡命してきたフランスの新教徒救済のため,主教区全体から寄付金を集めるように命じ,古きよき時代のクリスマス精神を懇請した。
王党派とイングランド教会は楽しい伝統的慣習を象徴する日としてクリスマスを祝った。しかし,謹厳なピューリタンはこの日をローマ・カトリックの祝日として非難し,暴飲暴食,ダンス,かけ事,乱ちき騒ぎその他諸悪に結びつく祭日として攻撃した。すでに《諸悪の解剖》(1583)の著者P.スタッブズは劇場・演劇を誹謗し,仮面劇を装って盗み,売淫,殺人などがクリスマスほど横行する時期はないと記した。17世紀のあるピューリタンは〈クリスマスは主イエスの降誕を祝う日ではなく,バッカス神の祭りである。異教徒はこれを見て,イエスは貪食な享楽主義者,大酒飲み,悪魔の友人と思うだろう〉と嘆いた。穏健派はゆきすぎを是正するにとどめるつもりだった。長期議会もクリスマスに干渉する気はなかった。ところが,1644年,彼らはスコットランドの長老派教会の圧力によって態度決定を迫られたのである。長老派は1583年,スコットランドでクリスマスを完全に禁止した。その後王の命令によって一時復活したが,再びクリスマスを禁止した。議会派の指導者たちは長老派のクリスマス禁止の要求をイングランドで実施することを拒んだが,ついに屈服した。それは議会派の支配する地域でのみ効果を収めた。1647年,議会派はクリスマス禁止法案を可決しようとした。このとき,これに反対する暴動が各地に起こり,ついに家庭でのクリスマスを認めざるをえなくなった。
クリスマスは再び教会の三大祝日の一つとなり,人々はこれを自由に祝うことができるようになった。しかし,社会経済上の変化はかつて田舎の地主邸で繰り広げられた伝統的クリスマスの相貌を変え,素朴な人々のどんちゃん騒ぎも廃れ,宗教心も薄れていくことになった。この変化はゆっくりと,かつ不均等に進行した。クリスマス休日が制定され,大学,学校,裁判所,議会はクリスマスから公現祭までを休日とし,官公庁はこの期間の数日を,多忙な部署はその一部を休日とした。一部の人々は聖燭祭(2月2日)までをクリスマスと考えた。19世紀になると,産業革命の余波をうけ,労働条件はきわめて過酷となり,クリスマス休日は当日だけとなった。クリスマスは富裕な家庭では華やかに祝われたが,一般にはこれを祝う費用のない人々が増大し,クリスマスはいよいよ死滅するかに見えた。
19世紀中葉,クリスマスが蘇生した。それはチャーチスト運動の時代であり,大英帝国の威光がもっとも拡大された時期であった。新しいクリスマスでは隣人愛,慈善が重視され,宗教心の復活による宗教的側面の補正が行われ,その上に古い時代のにぎやかな祭りの慣習が輝きを添えた。とくに,クリスマスが子どもを中心とする家族の祭りとなったことがこの時代の特徴である。クリスマス・ツリー,サンタ・クロース,クリスマス・カードが導入され,クリスマス・キャロルが復活し,クリスマス・プレゼントやクリスマス正餐(ディナー)が庶民の家庭に進出した。今日のクリスマスはこのときから始まった。新しいクリスマスの成立に大きく寄与したのはビクトリア女王の夫君アルバート公とC.ディケンズである。アルバート公はドイツからクリスマス・ツリーの習慣をウィンザー城の家庭クリスマスにもちこみ,ディケンズは《クリスマス・キャロル》をはじめいくつかの文学作品を公刊し,クリスマスの楽しさ,陽気さを伝え,同時に,クリスマスのあるべき姿,物質的楽しみを享受するために果たさねばならない慈善などの義務を教えた。新しいクリスマスは急速に浸透し,空論家や反対論者も認めざるをえなくなった。非国教徒も子どもたちが友人仲間の楽しみの輪に入るのを抑止できなくなった。彼らの礼拝堂の一部は会員が国教会に流れ始めたのを見てクリスマス礼拝を開始した。こうして非国教徒の態度も軟化し,イギリス国民が新しいクリスマスを祝うようになった。こうした趨勢に応じて,短縮されていたクリスマス休日もボクシング・デーBoxing Day(クリスマスの翌日で,この日に使用人や郵便配達人などに祝儀の贈物を与える)まで延長されるようになった。それは銀行,官庁のみならず,19世紀末までには一般の商工業従事者にも拡大された。ここにみんなで祝う楽しいクリスマスが成立したのである。
クリスマスの風習は明治以降に広まる。教会や在日外国人の手を離れ,初めて日本人によって祝われるのは,1875年ころ,原胤昭が設立した銀座の原女学校においてであったといわれる。明治10年代には丸善がクリスマス用品を輸入し,このころから大正期にかけて,クリスマスはしだいに一般家庭でも祝われるようになった。また,クリスマスの語は俳句の季題にもとり入れられ,正岡子規にも〈クリスマスの小き会堂のあはれなる〉の句がある。クリスマスの風習は日本人の生活に定着していくが,宗教的側面が軽んじられたり,商店の歳末売出しに利用される傾向も強まっていく。
キリスト教の聖節としてのクリスマスは,一年間の教会暦を通じて,もっとも豊かな音楽に装われる。民衆的なクリスマスの音楽は,古くからキャロルcarol(英・米の呼び方。フランスではノエルnoël,ドイツではクリスマスのリートWeihnachtsliedと呼ぶ)として親まれている。北欧諸国ではクリスマスの音楽は主として室内の催しであるが,南欧諸国では屋外に厩舎の聖母子像をあらわす祭壇を設け,その祭壇に向かって音楽を捧げる風習が古くからあった。南イタリアから起こった抒情的な牧笛の音楽シチリアーノsiciliano(6/8または12/8拍子の舞曲)はその典型的な例で,バロック時代を通じて作曲された数多くのクリスマス協奏曲(コレリ,トレリ,マンフレディーニF.O.Manfredini(1684-1762)等)にはきまってシチリアーノの楽章が含まれている。ヘンデルの《メサイア》の降誕の場面に現れる〈ピファ〉(パストラル・シンフォニー)もその一例である。フランスでは,ノエルの旋律によるミサ曲やオルガン変奏曲等も数多く作曲された。
教会内部での聖節としてのクリスマスの儀式は,12月24日の夕べの礼拝(晩課)から始まる。そこで音楽的に重要な役割を果たすのはマニフィカトで,パレストリーナやバッハに名作がある。カトリックの教会では,12月25日の午前零時から第1ミサ(深夜ミサ),第2ミサ(早朝のミサ),第3ミサ(日中のミサ)と,三つのミサが挙げられる。これらのミサはグレゴリオ聖歌で歌われることもあるが,とくに深夜ミサはキャロルやノエルの旋律をちりばめて民衆的な喜びのうちに執行されることが多い。プロテスタントの教会でも深夜の礼拝のほか,クリスマスのシーズンを通じて特別に作曲された作品や賛美歌,オルガン曲が演奏される。とくに有名なのは,壮大な規模をもつバッハの《クリスマス・オラトリオ》である。
クリスマスの音楽には,ルネサンスや中世にまでさかのぼる古曲が多い。比較的新しい作品で全世界に愛唱されているのは,19世紀のグルーバーFranz Xaver Gruber(1787-1863)作曲の《きよしこの夜》である。また,アメリカや日本では,《ジングル・ベル》《ホワイト・クリスマス》などが,広く親しまれている。20世紀の芸術的な楽曲としては,イギリスのブリテンによる《キャロルの祭典》やアメリカのメノッティによるオペラ《アマールと夜の訪問者》などがある。
→クリスマス・キャロル
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