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  11. 石川数正

石川数正

ジャパンナレッジで閲覧できる『石川数正』の国史大辞典のサンプルページ

石川数正
いしかわかずまさ
- 一五九二
安土桃山時代の大名。与七郎、伯耆守、出雲守、のちに康正、吉輝。箇三寺と号す。右近大夫康正の子。天文十八年(一五四九)松平元康(家康)が岡崎から駿府へ人質として送られたとき随行。桶狭間の戦を経て永禄四年(一五六一)二月石ヶ瀬合戦で先懸けとなる。この戦いの直後から織田・松平の連盟の斡旋につとめ、翌年正月の清洲会盟の基礎を築く。同年二月駿府に赴き元康の嫡子信康を今川氏から奪還。同十二年叔父家成に代わって西三河の旗頭となる。以降、酒井忠次と並び外交・内政の両面にわたり家康の老臣として活動。天正十年(一五八二)本能寺の変直後の家康の伊賀越えでも行動をともにし、翌年五月使者として近江坂本に赴いて羽柴秀吉の越前北庄での戦勝を賀した。十二年小牧・長久手の戦では小牧山の本陣を守り、ついで前田城を攻略して戦功をたてた。同年十二月家康の第二子於義丸(秀康)が養子として秀吉の許に赴いた際、嫡子康長、第二子康勝をしてこれに従い大坂に行かせた。翌年十一月十三日城代を勤めていた岡崎城を出奔し秀吉のもとに走った。原因は不詳であるが、秀吉の外交戦の勝利とみるのが通説である。十四年正月和泉国(十万石といわれるが不審あり)を与えられ、九州・小田原に従軍ののち十八年七月信濃国松本城主(八万石)。文禄元年(一五九二)三月肥前名護屋に出陣、同年没す。十二月十四日京都七条川原で葬礼が行われた。享年は不詳。→小牧・長久手の戦(こまき・ながくてのたたかい)
[参考文献]
『信濃史料』一七 文禄二年十二月十四日条、『(岡崎市史別巻)徳川家康と其周囲』、中村孝也『家康の臣僚』武将編、北島正元「石川伯耆守数正」(『近世史の群像』所収)、金井圓「石川数正の死」(『藩制成立期の研究』所収)
(高木 昭作)
©Yoshikawa kobunkan Inc.
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検索コンテンツ
1. 石川数正
日本大百科全書
安土桃山時代の武将で、徳川家康の重臣。のち豊臣政権下の大名。父は康正、母は不明。1549年(天文18)に松平竹千代(家康)が今川氏の人質になったとき、駿府に随従 ... ...
2. 石川数正
世界大百科事典
?-1592(文禄1) 徳川家康旧臣で信濃深志(松本)城主。通称助四郎。出雲守。父康正は家康幼少時の重臣。数正は家成の甥,今川氏の人質になった家康に随従した家臣 ... ...
3. いしかわかずまさ【石川数正】
国史大辞典
、中村孝也『家康の臣僚』武将編、北島正元「石川伯耆守数正」(『近世史の群像』所収)、金井圓「石川数正の死」(『藩制成立期の研究』所収) (高木 昭作) ... ...
4. いしかわ-かずまさ【石川数正】
日本人名大辞典
?−1593* 織豊時代の武将。松平元康(徳川家康)の側近として織田や豊臣との連盟維持に活躍。姉川,三方原,長篠(ながしの),小牧などの戦いに従軍。家康の子信康 ... ...
5. 石川数正[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:1件 『石川数正伝』佐々木正麿『石川伯耆守数正の岡崎脱走 秀吉と家康の外交関係に就いて』花見朔巳 ... ...
6. ありまおんせん【有馬温泉】兵庫県:神戸市/北区/湯山町
日本歴史地名大系
妻・側室をはじめ、千利休・津田宗及・今井宗久らの茶頭を伴ってたびたび有馬に入湯し、徳川の武将石川数正や石田三成・増田長盛・小早川隆景・有馬則頼・山崎片家らの武将 ... ...
7. あんどう-さだつぐ【安藤定次】
日本人名大辞典
戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)9年生まれ。徳川家康,のちその子信康(のぶやす)につかえる。信康の死後は石川数正,内藤弥次右衛門に属した。慶長5年関ケ原の ... ...
8. 石川家成
日本大百科全書
将を統括。1569年に遠江国掛川城を攻略すると、家成はその城番となり、西三河諸将の指揮権は甥石川数正(かずまさ)に譲った。1580年(天正8)に家督を康通(やす ... ...
9. 石川氏
世界大百科事典
た。永禄(1558-70)末年,石川家成が西三河の諸士を指揮する旗頭となり,これを継いだ甥の石川数正は家康家臣団を代表する重臣でありながら突然出奔し,豊臣秀吉に ... ...
10. いしかわ-まさとし【石川正俊】
日本人名大辞典
?−1573 戦国-織豊時代の武将。石川数正の弟。永禄(えいろく)6年(1563)徳川家臣団も分裂してたたかった三河(愛知県)の一向一揆(いっき)に,宗門側とし ... ...
11. いしかわみつなが【石川三長】
国史大辞典
幼名勝千代、通称玄蕃・玄蕃頭。『寛政重修諸家譜』『断家譜』には康長とあるが、当時の文書では三長。石川数正の長子。天正十二年(一五八四)羽柴秀吉の養子となった徳川 ... ...
12. いしかわ-みつなが【石川三長】
日本人名大辞典
1554−1643* 織豊-江戸時代前期の大名。天文(てんぶん)23年生まれ。石川数正の長男。文禄(ぶんろく)元年(1592)父の跡をつぎ,信濃(しなの)(長野 ... ...
13. いしかわ-やすかつ【石川康勝】
日本人名大辞典
?−1615 織豊-江戸時代前期の武将。石川数正の次男。はじめ結城(ゆうき)秀康にしたがい,のち父とともに羽柴(はしば)(豊臣)秀吉につかえる。文禄(ぶんろく) ... ...
14. 伊勢国
世界大百科事典
地土豪を基盤に目まぐるしく移り変わったが,豊臣時代を概観すると,北勢の長島に福島正頼,桑名に石川数正,丹羽氏次,氏家行広,亀山に関一政,岡本宗憲,中勢の奄芸郡上 ... ...
15. 小笠原貞慶
世界大百科事典
去り,のち織田信長に仕える。82年(天正10)徳川家康の援を得て父の旧領を復し,松本城に拠る。85年家康の重臣石川数正が豊臣秀吉のもとに走ったとき秀吉に通ずる。 ... ...
16. おがさわらさだよし【小笠原貞慶】 画像
国史大辞典
確保した。このころ深志を松本と改称した。同十二年、徳川家康に属したが、翌年十一月、家康の重臣石川数正が貞慶の人質をつれて豊臣秀吉のもとに走ったことなどにより、一 ... ...
17. おがさわらひでまさ【小笠原秀政】 画像
国史大辞典
宇治田原に生まる。貞慶の嫡男。初名は貞政、童名は幸松丸。天正十三年(一五八五)徳川家康の重臣石川数正の岡崎出奔に従って大坂に赴いたが、同十七年封をついで信濃松本 ... ...
18. おがわむら【小川村】愛知県:安城市
日本歴史地名大系
誓願寺周辺に内藤林とか内藤藪の名をもつ林がある。清長の長子家長は一向一揆の際家康方に味方し、永禄末年には石川数正組下の先手部将となっている。「三河国二葉松」に「 ... ...
19. 甲子夜話三篇 2 268ページ
東洋文庫
之。酒井親忠因二壁人一辞以二夫人世子在ワ駿。氏直以為レ然。是年抜二西郡→虜二鵜殿氏長4参大臣石川数正、脱レ身往レ駿、説二氏直→易二氏長兄弟干夫人世子4於レ是従二 ... ...
20. きたおのむら【北小野村】長野県:塩尻市/筑摩地地区
日本歴史地名大系
近が激戦地となった。天正一九年(一五九一)豊臣秀吉の政策により小野は二分され、北小野は松本の石川数正領となった。北小野が筑摩郡となったのはこの時であろう。中山道 ... ...
21. こまき・ながくてのたたかい【小牧・長久手の戦】
国史大辞典
一方篠木郷民の通報にもとづき情況を探知した家康は、八日夜大須賀康高・榊原康政を先発させ、小牧には酒井忠次・石川数正・本多忠勝を残し、みずから全軍を率いて信雄とと ... ...
22. さかいし【酒井氏】 画像
国史大辞典
った。永禄七年(一五六四)家康の三河統一成るや吉田城主に配置され、家康の軍制改革には西三河の石川数正とならんで東三河の諸氏を率いてその旗頭となった。家康の両家老 ... ...
23. さかいし【酒井氏】 : 酒井氏/(四)
国史大辞典
った。永禄七年(一五六四)家康の三河統一成るや吉田城主に配置され、家康の軍制改革には西三河の石川数正とならんで東三河の諸氏を率いてその旗頭となった。家康の両家老 ... ...
24. 酒井忠次
世界大百科事典
向一揆等に力戦,64年家康が三河一国を統一したとき吉田城主となり,東三河の諸士の旗頭となる。石川数正とともに家康の左右にあって補佐した。86年(天正14)従四位 ... ...
25. さかいただつぐ【酒井忠次】 画像
国史大辞典
、家老の職責と近似していれば、単なる名称のちがいにすぎず、実態にはちがいがないようにみえる。石川数正とならんで両家老といわれたのは、東西三河の旗頭という三河一国 ... ...
26. さかい-ただつぐ【酒井忠次】
日本人名大辞典
田城主。姉川,長篠(ながしの),小牧・長久手(ながくて)などの戦いで活躍。政治手腕もすぐれ,石川数正(かずまさ)とともに家康を補佐した。慶長元年10月28日死去 ... ...
27. したらがはらこせんじょう【設楽原古戦場】愛知県:新城市/竹広村
日本歴史地名大系
北方の須長付近から木下藤吉郎・佐久間信盛・池田信輝・丹羽長秀・滝川一益らが布陣。大宮から川路にかけて家康麾下の石川数正・本多忠勝・榊原康政・酒井忠次・大久保忠世 ... ...
28. ぜん‐ぽう【前鋒】
日本国語大辞典
前鋒©、石川数正等為©次隊 ... ...
29. 大老
世界大百科事典
8年(寛永15),酒井忠勝,土井利勝が任じられたのが最初とされるが,家康の将軍就任以前では,石川数正,酒井忠次,井伊直政など軍事的に有能な大身の武将が徳川家の宿 ... ...
30. たなかじょうあと【田中城跡】静岡県:藤枝市/田中城下
日本歴史地名大系
払った(以上「浜松御在城記」「家忠日記」「武徳編年集成」)。このあと徳川氏の田中城攻めは同年七月二三日の石川数正による攻撃(家忠日記)、翌九年五月の家康による田 ... ...
31. てんぱくちょう【天白町】長野県:松本市/松本城下
日本歴史地名大系
荷)である。藩政時代は安原町付近の旧士族の産土神として崇拝された。天正年間(一五七三―九二)石川数正が松本城入封の際、出身地の現岡崎市外にあった天白道場の祭神を ... ...
32. とろのいち【土呂市】愛知県:岡崎市/土呂村
日本歴史地名大系
出典は不明であるが「毎月三八日大道に於て貨物売買勝手たるべく依如件」の文言が家康から石川数正宛に出されたと伝える(石川数正伝)。土呂三八市許可に伴って、近在の中 ... ...
33. とろはちまんぐう【土呂八幡宮】愛知県:岡崎市/山畑村
日本歴史地名大系
応仁二年(一四六八)蓮如が神宮寺の側に土呂本宗寺を創建。永禄七年(一五六四)三河一向一揆で滅亡し、社殿造営は石川数正と伝える。本殿の造りは室町末期の特質を残して ... ...
34. とろむら【土呂村】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
「土羅一向堂一日逗留」と記す。永禄七年(一五六四)三河一向一揆の一拠点土呂本宗寺破却の後は、石川数正によって土呂市の再建などが実施された。中世の土呂郷は天保郷帳 ... ...
35. ひかるむら【光村】長野県:南安曇郡/豊科町
日本歴史地名大系
天正三年(一五七五)小県郡の塩田城(現上田市)主村上義清の三男義照(善誉故念)の開基で、松本城主石川数正没後、子の石川三九郎が菩提を弔うため再建したとある。また ... ...
36. ひがしちくまぐん【東筑摩郡】長野県
日本歴史地名大系
回復して深志城を本城とし名を松本城と改めた。〔近世〕天正一八年豊臣秀吉は小田原北条氏を滅亡させると、石川数正に筑摩・安曇両郡を与え、旧松本城主小笠原貞慶は古河( ... ...
37. ひらいわちかよし【平岩親吉】 画像
国史大辞典
河に加えて信濃半国と甲斐国を手に入れたとき、甲斐郡代となる。同十三年十一月十三日に岡崎城留守石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔した時、親吉は家康の命を受けて武田氏の ... ...
38. ひらちほんしゅうじりょう【平地本宗寺領】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
条件として寺内の許容者を禁じている。この沙汰により、同年に馬頭野の平地山で土呂の替地を与えられている。「石川数正伝」所載の宝永八年(一七一一)の年号記名の七池山 ... ...
39. ほうふくじ【保福寺】長野県:東筑摩郡/四賀村/保福寺町村
日本歴史地名大系
天文二一年(一五五二)の戦乱で兵火のため堂宇什物を焼失し、文禄年間(一五九二―九六)には松本藩石川数正により寺領を没収されて衰えたが、寛永六年(一六二九)広沢寺 ... ...
40. ほんだしげつぐ【本多重次】
国史大辞典
、同十一年以後数年間のことらしい。天正十年ごろより駿河奉行。同十三年十二月、出奔した岡崎城代石川数正の後任となった。豊臣秀吉母大政所が同十四年に岡崎へ下向した際 ... ...
41. まつだいらしげかつ【松平重勝】 画像
国史大辞典
その後天正三年(一五七五)長篠の戦、同十二年小牧・長久手の戦などで功績をあげ、ついで同十三年岡崎城を舞台とした石川数正事件の事後処理に手腕を発揮した。そうした数 ... ...
42. まつもとし【松本市】長野県
日本歴史地名大系
開いた。〔近世〕松本領主の変遷は七回行われ、すべてが徳川家と特別関係の深い家柄であった。初代の石川数正は、初め徳川家康譜代の重臣、のち豊臣秀吉に従い、天正一八年 ... ...
43. 松本城 画像
日本大百科全書
のち1582年(天正10)小笠原貞慶(さだよし)が旧領を回復し城を拡張して松本城と称した。90年に石川数正(かずまさ)が入城し、さっそく大規模な改築に着手したが ... ...
44. 松本城[百科マルチメディア]
日本大百科全書
室町期の深志城(ふかしじょう)が始まりといわれる平城(ひらじろ)。1590年(天正18)に石川数正(かずまさ)が大規模な改築に着手、天守は子康長(やすなが)の代 ... ...
45. 松本城
世界大百科事典
ったが,長篠の戦(1575)の後,小笠原貞慶が入城し松本城と改称,90年(天正18)に至って石川数正が入って8万石を領した。現在の松本城は数正とその子康長によっ ... ...
46. まつもと‐じょう【松本城】 画像 地図
デジタル大辞泉
原氏の一族島立貞永が築城、深志城と称した。のち、松本城と改称。天正18年(1590)入城した石川数正が現存の天守閣を含む城を造り、その子康長がさらに整備して完成 ... ...
47. まつもと‐じょう[:ジャウ]【松本城】
日本国語大辞典
年(一五〇四)島立貞永が創建。天正三年(一五七五)小笠原貞慶が入城、松本城と改称。同一八年、石川数正が入り、その子頼長とともに現在の松本城を築いた。明治に至り楼 ... ...
48. 松本藩 画像
日本大百科全書
1590年(天正18)豊臣(とよとみ)秀吉の命により徳川家康および配下の諸大名が関東に移り、石川数正(かずまさ)が入封すると藩の規模も定まった。1592年(文禄 ... ...
49. 松本藩
世界大百科事典
市)に藩庁を置いた譜代中藩。ただし初期の松平家は越前家分家で親藩。1590年(天正18)7月石川数正が松本城主となり,安曇・筑摩両郡8万石を領したのが藩の起りで ... ...
50. まつもとはん【松本藩】
国史大辞典
堀田氏、水野氏、戸田氏(再封)。家門の松平氏を除き、譜代。いずれも城持。天正十八年(一五九〇)九月石川数正が和泉国から入封し、小笠原秀政の旧領八万石を所領とする ... ...
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一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
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