最近、日本語に関連した実用書のベストセラーが目につきます。これは「日本語は記号で読む言語ではなく、知識で読む言語」であるがゆえの現象でしょう。
どういうことかというと、たとえば「金」という単語があります。日本語では、この単語を「かね」とも「きん」、あるいは「こん」とも読みます。そして、それぞれで意味が違ってくるのです。アルファベット圏ではまずありえない複雑さですし、中国語やハングル語でもないことです。別の例を挙げると、医学界に「解諾」という言葉がありました。これは「インフォームド・コンセント」のことです。また「侵襲(しんしゅう)」というのは「メスを入れる」という意味なのです。今では医学界以外ではほとんど使われることはない、現代人にはむずかしい日本語だと思います。
これほど複雑な日本語を支えてきたのは、ぼくは読書であると思うのです。つまり、日本人は本を読み、新聞を読んで、この豊富なボキャブラリーを維持し、研鑽(けんさん)してきたのです。会話だけでは、日本語ほどに複雑な語彙(ごい)を保っていくことはできなかったはずです。ぼく自身、言葉は本の中から得ることが多かったと感じています。ある種の言葉は、はっきりどの本の中にあったか覚えているくらいです。とにかく、この国の言葉にとって読書は不可欠なものなのです。
ところが、1960年代ころからでしょうか、「映像(テレビや映画)」、「音声(ラジオ)」、そして「活字(本や新聞など)」を並列に扱うという考え方が生まれました。単に情報を得るという意味では、この三者を同価値にみなしても問題はないでしょう。ただ、正しい日本語を維持し、伝えていく点では問題があった。映像や音声だけに頼っていては、日本語を維持していく知識や語彙を網羅しきれないのです。日本語が乱れ始めたのはそのころからといってよいと思います。そのせいか、日本語の知識を実用的に補うタイプの本が増え始めたのもこのころですね。
さらに最近の10代~20代をみると、映像や音声だけで思考する人が大半を占めるようになりました。ぼくは、彼らを“純粋映像世代”と呼んでいます。映像世代が悪いといっているわけでは決してありません。映像や音声を存分に使いこなすこと自体は一つの文化であると思います。しかし、正しい日本語を身につけるという点からみれば、やはり問題があると思うのです。事実、40代くらいの人のなかには、「自分たちの子どもの世代とは対話もできない。何を言っているのかよくわからない」と嘆く人が少なくありません。
そこで、今われわれがなすべきことは、読書で培ってきた日本語の知識や教養を、なんとか新しい世代に伝えていくことなのです。いいかえるなら、どうやって若い人々に本を読む習慣をつけてもらうかということです。当たり前のことですが、単に名作を押しつけ「さあ、読め」では、とても子どもは読んではくれません。そこにはなんらかの工夫が必要です。そういう意味では、名作のさわりを集めて誦読を薦める『声に出して読みたい日本語』のような出版物は、なかなか面白い試みだと思うんです。第二次世界大戦後、誦読はどうも軽視されてきたようです。だが、古い名作には、声に出して読んでこそ面白味が伝わるものが多いのです。誦読することによって興味を持てば、本格的な読書に入っていくきっかけになるでしょう。
もう一つ、これまで培ってきた活字の遺産を、若い世代も活用できるようにネット上に移し変え、再編集していく作業も忘れてはならないことです。そういう意味で、権威ある辞事典類をネットで活用できるようにしたジャパンナレッジは意義深い存在です。今後、このサイトには、混沌(こんとん)としているネット世界の編集者となることを期待したい。つまり、活字の辞事典類をネット上に移植していく作業に加え、正確な知識を提供しているホームページを選別し、リンクしていく作業に、もっと力を注いでほしいということです。そうすれば百科空間はさらに広がっていくことになりますから。