揚屋とは、遊宴のために場所を提供した店(家)のことである。こんにちの酒席のあり方とはずいぶん違い、昔は酒席を盛り上げるため、舞を担当する舞妓さん、音曲のために芸妓さんをそれぞれ呼び、さらに指名して呼び寄せた遊女に相手をさせていた。このような酒宴に呼ばれる高級遊女を、太夫(たゆう)や格子(こうし)などと呼び、揚屋とは、そのような贅沢な遊びのために使われる場所であった。「あげや」という名称は、酒宴の座敷が2階に設けられていたためとされ、「芸者を揚(あ)げる」などという表現として現代も使われている。時代劇でよく目にする、飾り立てた花魁道中(おいらんどうちゅう)は、揚屋へと向かう太夫一行の行列である。
一方、このような遊宴の世界で働く女たちの生活を支える場所であるとともに、女を遊宴の場へ送り出すことを生業としていたのが置屋である。女は幼いころから置屋に預けられ、訓練が施されて一人前になっていく。そして、遊宴の場へとさし向けられるのである。京都では置屋のことを屋形(やかた)とも呼ぶが、屋形の本来の意味は、芸妓専用の住居をさしていたようである。
早くから遊里が発達していた京都で、公の取り決めに則った日本初の遊郭ができたのは1589(天正17)年のこと。この二条柳町にあった遊郭は島原(下京区)の前身であり、現在地の朱雀野(すざくの)西新屋敷に移ったのが1641(寛永18)年である。この移転時に大騒ぎが起こり、それを直前の1637~38(寛永14~15)年に、九州の天草と島原であった百姓一揆「島原の乱」に見立てたことが「島原」という通称で呼ばれるようになった理由である。建物が現存している揚屋の角屋(すみや)と、置屋の輪違屋(わちがいや)に、城のように重厚な壁に囲まれた廓であったという隆盛ぶりをうかがうことができる。京都の遊郭といえば、水上勉の小説で映画にもなった『五番町夕霧楼』の舞台、西陣(上京区)の五番町も有名であるけれど、このような昭和期まで続いていた遊廓の町並みは、本当にわずかな遺構だけになりつつある。
現在も続く島原唯一の置屋、輪違屋。置屋として300年を超える歴史がある。