私はハゲである。鼻も低い。父親は男前とはいわないが、若いころは森繁久彌ソックリで、小学校の父兄参観に来た父親を見てクラスの仲間たちが「森繁がいる」と囁き合っていた。亡くなるまで髪は豊富にあったから、私は母親からの遺伝子が強いようである。

 「淋しき越山会の女王」(『文藝春秋』)で当時総理だった田中角栄の愛人・佐藤昭(あき)のことを書いた児玉隆也さんは、肺がんで38歳の若さで亡くなった。彼が私に「がんは遺伝するんですよ」と悔しそうに語ったことを覚えている。

 何が遺伝して、何が遺伝しないのか。多くの学者たちの研究によって、かなり解明されてきたと『週刊現代』(5/4号)が特集している。

 2010年に米国のニューヨーク州立大学で行なわれた研究では、「ある特定の型の遺伝子を持つ人に、不倫、そして『一夜限りの恋』の経験が多いという結果が出た」そうである。

 よく「勉強は努力、芸術は才能」といわれるが逆で、「芸術的才能は後天的なもの、つまり練習で何とかなる」(東京大学大学院・石浦章一教授)。絶対音感は才能のあるなしにかかわらず、6~8歳ごろまでの訓練によって身につけることができるそうだ。

 当然だが、運動能力は親子の間で瞬発力、持続力に違いはあるようだが、両親からの遺伝力は強い。

 では、気になるがんはどうなのか? 国立がん研究センター研究所遺伝医学研究分野・吉田輝彦分野長によると、「96年にアメリカで報告された分析では、親戚内でがんが複数の人に発症するなど、家族歴が関係する割合は5%程度と言われています」。だが、遺伝しやすいがんがあるという。「とくに遺伝が強く関連する可能性のあるがんは、大腸がん、乳がん、子宮体がん、卵巣がん、胃がんなどの一部です」(吉田分野長)

 寿命にも遺伝的要因がある。寿命を決めるのは、食生活か、運動習慣か、それとも学歴か、さまざまな研究がなされてきたが、最終的に「親の寿命」が最大の要因だということがわかったと、先の石浦教授が語っている。

 生活習慣病の糖尿病や高血圧も遺伝的要素が強く、両親とも糖尿病だと、その子どもが65歳までに発症する確率は40~50%程度。高血圧も両親がそうだと約50%は発症すると、池谷医院・池谷敏郎院長は言っている。

 また石浦教授によると、若年性アルツハイマーも遺伝の影響が強く、「変異したAPoE遺伝子を持っていると、70代の早い段階でボケてきて、変異していない遺伝子を持つ人は、90歳近くまでボケないことがわかっています」

 70代が“若年”? だとすれば60代でボケがきている私などは“幼児性”とでもいうのだろうか。

 興味深いのは、O型の血液型の人は免疫力が強く、ウイルスなどがつきにくいから、感染症に罹りにくいそうである。そのため世界中でO型の人口が一番多いそうだ。

 記事中に掲載されている「人はどこまで遺伝で決まるのか」という表にある、遺伝要素が大きい4つ星以上を拾ってみよう。

 味覚、猫舌、性欲、寿命、文才、数学力、足の速さ、跳躍力、目の大きさ、鼻の高さ、顔の輪郭、足の長さ、デブ、タバコ、方向オンチ、ADHD(注意欠陥多動性障害)、アトピー、加齢黄斑変性、潰瘍性大腸炎、若年性アルツハイマー、高血圧、糖尿病は4つ星。

 歯並び、ハゲ、肌の色、体臭、巨乳、集中力は5つ星。

 私には、鼻の高さ、高血圧、糖尿病、ハゲは遺伝したが、父親の足の速さや母親の味覚と集中力は遺伝しなかったようである。

 

 

   

読んだ気になる!週刊誌 / 元木昌彦   



 最近の観光協会は発想が柔軟になったというべきだろう。以前に「香川県をうどん県に改名する」という「演出」が注目されたが、これと同様の手法に、「自治体の中に架空の地名を置く」というものがある。福岡市の「カワイイ区」が有名だ。男女差別の助長に当たるという意見を受けて、AKB48の篠田麻里子「区長」が退任するという一幕があったが、それまでの広告効果を高く評価する意見も多い。

 ユニークなものは、滋賀県湖南(こなん)市で設定されているネコたちの仮想都市「こにゃん市」。谷畑英吾(たにはた・えいご)市長の発案によるもので、動物愛護と市のPRを兼ねている。「市議選」のかたちで、動物保護管理センターで保護されたネコたちの引き取り手を募集しているのは温かいアイディアだ。ちなみに、かつてはイヌの「こわん市」もあったが、こにゃん市に「合併」した。2013年で第3回を迎える「市長選挙」では、市内在住のネコ・イヌたち(の飼い主)が立候補して、公式サイト上で投票が行なわれた(市長選の結果は、ネコではなく、イヌのひなたが当選)。

 

   

旬wordウォッチ / 結城靖高   



 夏の参院選に向けて、自民党は憲法改正を公約の柱に掲げている。

 その自民党が昨年4月に発表した憲法改正草案は、基本的人権を踏みにじる非常に危険な内容になっているのだが、国民にはその実態が知らされていない。

 現行の日本国憲法は、「基本的人権の尊重」「国民主権(主権在民)」「平和主義(戦争放棄)」を三大原則として、1947(昭和22)年5月3日に施行された。前文では、先の戦争での過ちを反省し二度と戦争をしないことを「決意」しており、国民主権のもとに、全世界の人々が平和に暮らす権利を確認した崇高な理念の憲法となっている。

 ところが、自民党草案はこの三大原則をことごとく否定し、まるで日本を戦争に導くことになった戦前の大日本帝国憲法と見まがうほどの内容になっている。

 まず、第一条では天皇を「象徴」から「元首」へと改め、国民主権の原理を否定している。本来、憲法は国家が暴走しないように権力に歯止めをかけるはずのものなのに、自民党草案では三権分立を無視して、権力を国会に集中させ、彼らがやりたい放題できる内容になっている。実現すれば言論の自由は奪われ、最低限の生活も保障されなくなる可能性が高い。

 最大の問題点は、戦争放棄を約束した第9条の第2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を削除したことだ。第2項がなくなると、紛争介入などを理由とした外国への侵略が可能となり、結果的に戦争ができるようになってしまう。

 また、基本的人権を保障した第11条も、現行法では、要約すると「すべての国民に基本的人権があり、妨げられないものとして与えられる」となっている。しかし、自民党案では、たんに基本的人権とはどんなものかを規定しているだけで、緊急事態には国民の人権は保障しないことも明記しているのだ。

 そのほかにも、勲章授与者への特権付与、徴兵制の復活、生存権への国の責任放棄につながりかねないものもあり、自民党案の憲法改悪はあげだしたらきりがない。

 そして、改憲を押し進める第一歩として、最初に行なおうとしているのが第96条の改正だ。現行法では、憲法を改正するには衆参両院の3分の2以上の賛成を得たうえで、国民投票が行なわれることになっている。この規定を、改憲しやすいように過半数の賛成で行なえるようにハードルを引き下げることで、次々と自民党草案を通そうとしているのだ。

 改憲を求める理由として、「時代に合わない」「現実に合っていない」という人がいる。しかし、もしも現実が憲法に合っていないのなら、理想に近づくような努力をするのが筋である。その努力をせず、低きに流れるような改憲論は人類としての向上を諦める愚かな行為だ。

 日本の改憲の動きは、平和を求める全世界の人々が固唾(かたず)をのんで見守っている。「9条」を有する憲法を手放すことは、現在の日本の問題だけではなく、後世にも世界にも大きな禍根を残すことになる。

 これからの世界がどのようになるのか。それは主権者としての私たちが、どのようにふるまうかにかかっている。

 

   

ニッポン生活ジャーナル / 早川幸子   



 若い女性にとって、メイクの勘どころはどんな顔のパーツがイマドキ的に「かわいい」のか見定めることだ。現在は、目の下まぶたに添った部分のふくらみ「涙袋」が重要視されている。佐々木希、トリンドル玲奈、板野友美、きゃりーぱみゅぱみゅなど、いまをときめく女優・タレントたちは涙袋が目立つことが多い。細目やつり目でも顔の印象がソフトになるので、ない女性からすれば憧れの対象だ(ただし加齢が現れやすい部分でもあるのだが……)。

 昔は文字通り、涙が入っている袋と捉えられていた。「涙堂(るいどう)」などの別名もある。また、女性ホルモンがたまっている「ホルモンタンク」と説明されることもあるが、医学的には事実ではない。単純に目を囲む「眼輪筋」によって形成される凹凸である。筋肉だけに、毎日のマッサージや「筋トレ」で多少ふくらますことも可能なようだ。また、メイクで陰影をつけることでそれらしく見せることもできる(女性誌でもよく紹介されている)。なかにはテープを使ったり、ヒアルロン酸を注入することで涙袋を「作る」女性までいて、まさに涙ぐましい。

 

   

旬wordウォッチ / 結城靖高   



 いま、「ものづくりに“産業革命”を起こすのでは」と注目を集めているのが3Dプリンターだ。

 パソコンなどを使って3次元データを機械に入力すれば、短時間で本物そっくりな造形物を製作することができる。文字通り、プリントアウトする感じだ。

 本来、造形物を作る場合は、工場で金型を作って材料を固めたり、工作機械で素材を削ったりする必要があった。しかし、3Dプリンターさえあれば「個人でも『メーカー』になれる」という。米国のオバマ大統領も、今年2月の一般教書演説で「あらゆるもの作りに革命をもたらす。米国から新たな産業が生まれるに違いない」と指摘したほどだ。

 3Dプリンターが作る造形物の素材は樹脂や金属など。製造は、素材を液状や粒状にしてノズルから噴出して積層し、立体に“プリント”していく。

 価格は精度によって異なり、10万円台から1億円以上するものもある。用途は、工業製品の部品のほか、人工骨の製作など医療面でも需要がある。オーダーメードや少量・多品種の製造に向いている。デザイン事務所やクリエーターの仕事も変わりそう。

 低価格化で、家庭にも普及しそうだ。お気に入りのフィギュアも自作できる。

 

   

マンデー政経塾 / 板津久作   



 京都の家の小屋根の上には、ひげ面の厳しい顔で長靴(ちょうか)を履き、刀を抜いた姿の小さな像がよく据え付けられている。この鍾馗さんは、中国の唐代の偉人。第6代皇帝・玄宗(在位712~756)に取りついた悪鬼(あっき、妖怪の一種)を、夢に現れて退治した、と伝えられている人物である。中国には邪鬼(じゃき、祟(たた)り神の一種)や悪鬼を祓(はら)うため、端午の節句に鍾馗さんの肖像画を飾るという信仰が広く伝わっている。この鍾馗伝説が日本でも室町時代から信仰されるようになり、江戸時代には我が子を守ってくれる神様として、端午の節句の武者人形の姿で定着した。近畿地方では魔除(まよ)けや子どもの守護神として小屋根に瓦(かわら)製の鍾馗像を置く風習も広まり、京都には極めて数多くの鍾馗さんが存在している。

 家々の屋根にすっくと小人のように立つ鍾馗さん。京都の据え付け方には一定の決まりがある。京都の町家の造りは、道を挟んで家の入り口が向かい合わせになっている。各家は、入り口から奥へそのまま通り庭になっている(表入口から裏口まで土間が通り抜けになっている)ため、 家から家へとまっすぐに抜ける一本の通りがあるようなものである。だから、風が吹けば、家から家へと、通り庭を吹き抜けていく。これはこれで心地よいのであるが、たとえば、向かいの家に病人がいて病神(やまいがみ)が気になるとき、あるいは、貧乏神に祟られているとき、そんなときに向かいの家から風に乗り、こちらへも悪い気がやってくるのではないかと気にかかる。このようなとき、屋根の上からしっかと睨(にら)みをきかせ、悪い気を追い払ってくれるのが鍾馗さんなのである。細い露地を見通す突き当たりの家に鍾馗さんが置かれている場合もある。これは露地全体の魔除けや厄除けのため、屋根の上に鎮座しておられるのである。

 

   

京都の暮らしことば / 池仁太   



 俳優。本名・佐藤政雄。享年90歳。1950年、27歳の時、銀座で松竹のプロデューサー小出孝に声をかけられ、電車賃とメシ代欲しさについて行った。

 木下恵介監督の『善魔』が初めての映画出演で、そのときの役名を芸名にした。

 俳優として数々の伝説が残っている。年上の田中絹代と一緒に老け役をするため、歯を何本も抜いてしまった。有馬稲子を殴るシーンで本気で20回殴った。森雅之を追いかけ回すとき、監督に真剣を使わせてくれと頼み込み、森が本当に殺されると逃げ回った。名作『飢餓海峡』(監督・内田吐夢(とむ))で左幸子演ずる娼婦との絡みで、左のパンティを引きずり下ろしたなどなど。

 “狂気の役者”とも呼ばれたが、その原点は彼の生い立ちにある。父親の祖父の出身は被差別部落で、父親は電気工事の職人だったが「権力を忌み嫌い、反骨精神にあふれた男」(『生きざま死にざま』KKロングセラーズ刊、以下『生きざま』)だった。奉公先から追い出され孕(はら)んで困っていた娘と出会い、結婚して三國が生まれる。

 学歴のない父親は子どもたちの教育に熱心だった。勉強嫌いの三國が中二のとき学校をやめると言い出して父親にひどく殴られ、家出を繰り返し朝鮮半島にも渡っている。

 召集令状がくるが「赤紙一枚で死ぬことだけは嫌でした」(『生きざま』)と、兵役忌避をして朝鮮半島へ渡ろうとした。直前、母親に書いた手紙を、息子が兵役忌避をして一家が村八分になることを恐れた母親が警察に届けたために三國は捕まり、中国の戦地へ送られてしまうのである。

 三國は「国」ではなく「國」にこだわった。国には王の字が使われているのが嫌だ、国家というのは不条理なものだと話したことがある。父親譲りであろう。

 俳優生活は順調で数々の賞も受賞するが、50歳のころに西アジアにドキュメンタリーの撮影に行き、宗教への関心を芽生えさせる。なかでも鎌倉時代に「仏の前にはみな平等」と説き、命を賭して被差別救済に生きた親鸞に傾倒していき、15年の歳月をかけて映画『白い道』を自ら監督して完成させるのである。(カンヌ映画祭審査員特別賞受賞)

 三國は4度の結婚をしている。3度目の結婚相手は神楽坂の芸者で、その息子が俳優の佐藤浩市である。父親らしいことを何もしてもらわなかった佐藤は、最後まで父とは呼ばずに「三國」と言っていた。

 女性遍歴も有名だ。広島で戦地へ出発する日、これが最後かもしれないと思って駆け込んだ遊郭で「女菩薩」のような女性に出会ったという。彼女が忘れられず、1946年に日本に戻って、すぐに広島に向かったが、そこは無惨な瓦礫(がれき)の原になっていたそうである。

 三國が39歳のころ、当時18歳の女優・太地喜和子(たいち・きわこ)と激しい恋に落ちた。『生きざま』で三國は彼女に「女性観に強い影響を与えられた」と書いているが、太地の一途さに彼のほうから離れていったようだ。後に三國は彼女の「体にひれ伏すことがイヤだった」と語っている。

 晩年は『釣りバカ日誌』の社長役で国民的な人気を得るが、なぜあんな商業映画に出るのかという批判もあった。

 『週刊新潮』(5/2・9号)によれば、死ぬ2日前に病床でこう呟いたという。

 「港に行かなくちゃ。船が出てしまう」

 奇しくも親鸞と同じ卒寿であった。

 

   

読んだ気になる!週刊誌 / 元木昌彦   


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