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  11. 足利義昭

足利義昭

ジャパンナレッジで閲覧できる『足利義昭』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
足利義昭
あしかがよしあき
一五三七 - 九七
室町幕府第十五代最後の将軍。一五六八―七三在職。天文六年(一五三七)十一月三日、十二代将軍義晴の次男として京都で誕生。母は近衛尚通の女。幼名未詳。同十一年十一月尚通の子稙家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室。のち覚慶。永禄五年(一五六二)一乗院門跡、権少僧都。同八年五月十九日松永久秀らが兄将軍義輝を暗殺すると、一乗院内に幽閉されたが、七月二十八日脱出。近江国和田(滋賀県甲賀郡甲賀町)の和田惟政の館に入った。八月五日、上杉輝虎に宛てて室町幕府の再興を表明。十一月同国野洲郡矢島に移る。同九年二月還俗して義秋と名乗り、四月従五位下左馬頭に叙任。八月末近江国を逃れて、若狭国を経て、越前の金崎城に入り、同十一年四月同国守護朝倉義景の一乗谷城で元服し、義昭と改名。七月織田信長の要請をいれて美濃岐阜に赴き、九月信長とともに入京、十月十八日征夷大将軍、従四位下参議、左近衛権中将に叙任されて、幕府を再興し、翌年六月には従二位権大納言に進んだ。ところが、義昭は将軍就任後まもなく政治的な動きを始めたので、十二年正月信長は「殿中の掟」を定めてこれを規制したが、再び信長との間に不和を生じ、元亀元年(一五七〇)正月いったん和解したものの、同三年に入ると反信長の態度を明らかにして、五月武田信玄との盟約を固くし、七月上杉謙信に信玄と講和するよう命じた。そして石山の本願寺門跡顕如・浅井長政・朝倉義景・信玄ら反信長派を糾合して包囲網をつくる。信長は来たるべき信玄との決戦に備え、九月義昭に対し「異見十七条」を呈出した。天正元年(一五七三)四月に挙兵して信長に抗し、いったん講和、七月一日山城国槇島城に再度挙兵したが、十八日には早くも降伏して、ここに室町幕府は十五代、二百三十八年で崩壊、義昭は顕如の斡旋で三好義継の居城河内国若江に移った。そして義昭はこれ以後、毛利氏・本願寺・上杉氏以下の地方諸勢力に頼って、幕府再興の努力を続ける。同年十一月毛利氏の使者が和泉国堺で信長の使者と会して信長・義昭の和をはかったが成らず、義昭は紀伊国由良(和歌山県日高郡由良町)の興国寺に移り、ついで同四年には備後の鞆(広島県福山市)に転じた。同年五月毛利氏はついに反信長の態度を明らかにし、翌五年に入ると上杉・本願寺および武田・北条間に和議が成立し、三月には毛利氏が京都に向かって軍を進め、閏七月には上杉氏も動き出すなど、義昭の努力した信長包囲策は成功の緒についたかにみえた。しかし翌六年上杉謙信は病死し、中国地方で織田氏の進出が毛利氏を圧迫する。同八年本願寺はついに石山城退去を約し信長と和するの余儀なきに至った。同十年六月本能寺の変で信長が倒れると、義昭は重ねて、毛利輝元に奔走を命じ、また同十一年の羽柴秀吉と柴田勝家との争いにも、毛利氏を利用しようとしたが、成功しなかった。同十三年秀吉は義昭の猶子となり、征夷大将軍に任命されることをのぞんだが、義昭はこれを拒否した。同十四年から義昭は島津氏に対し、秀吉と和平するようにすすめた。同十六年正月すでに帰京しており、山城槇島に住み、出家し昌山道休といい、一万石を与えられた。同十三日参内して准三宮となった。文禄の役に肥前名護屋に従軍したが、慶長二年(一五九七)八月二十八日大坂で死亡。六十一歳。京都相国寺霊陽院に葬る。法号は霊陽院昌山道休。正室なく側室六名、子は三名を数える。→織田信長(おだのぶなが),→織豊政権(しょくほうせいけん),→本圀寺の変(ほんこくじのへん)
[参考文献]
奥野高広『足利義昭』(『人物叢書』五五)、同『武田信玄』(同一九)、河合正治『安国寺恵瓊』(同三二)、磯貝正義『武田信玄』、渡辺世祐「上洛前の足利義昭と織田信長」(『国史論叢』所収)、同『武田信玄の経綸と修養』、同「足利義昭と織田信長との関係についての研究」(『史学雑誌』二二ノ一)
(奥野 高広)


世界大百科事典
足利義昭
あしかがよしあき
1537-97(天文6-慶長2)

室町幕府15代将軍。足利義晴の次男。母は近衛尚通の女。尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称した。1565年(永禄8)兄義輝が三好三人衆に弑逆(しぎやく)されたとき幽閉されたが,細川藤孝(幽斎)らの活躍で一乗院を脱出,近江の和田惟政を頼り,のち矢島に移って義秋と名のり,従五位下左馬頭に叙任して将軍となる意志を明らかにし足利義栄に対立した。そして若狭を経て越前の朝倉義景のもとに赴き,68年元服して義昭と改名した。上杉輝虎(謙信),武田晴信(信玄),北条氏政,毛利元就らに上洛援助を依頼していた義昭は同年織田信長に奉ぜられて入洛を果たし,征夷大将軍に任ぜられたが,政治の実権は信長の手中にあったため,70年(元亀1)5ヵ条の要求受諾,72年信長の異見17ヵ条提出など,両者はしだいに反目し,73年(天正1)ついに浅井,朝倉,武田諸氏と結んで挙兵したが,信長に一蹴されて幕府は滅びた。すでに武田信玄は病没し形勢は不利であったが,義昭は悲願を捨てず六角承禎,河野牛福,武田勝頼,上杉謙信,北条氏政,徳川家康,本願寺顕如,毛利輝元,島津義久らに幕府回復を依頼し,76年には備後鞆(とも)に移居して毛利氏と織田氏とを断交させ帰洛運動の拠点とした。毛利氏は初め本願寺を支援したが信長の装鉄船が出現したため制海権を失い,陸戦でも羽柴(豊臣)秀吉に圧迫されるようになった。しかし本能寺の変で信長が倒れたため,義昭は再び京都復帰を図って秀吉,柴田勝家,徳川家康らを説得し,竜造寺政家や島津義久に援助を依頼したが実現しなかった。その後88年の聚楽第行幸を機会に京都に帰り出家して昌山と号し,三后に准ぜられ,92年(文禄1)の朝鮮出兵には肥前名護屋に従軍した。病没して等持院に葬られ,霊陽院殿と諡(おくりな)された。義昭が執拗に京都復帰運動を展開できたのは将軍家の権威がなお精神的規範として戦国大名の間に作用しえたからであって,足利将軍家の最後を飾る行動として評価されるべきである。
[岩沢 愿彦]

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1. あしかが-ぎしょう【足利義昭】
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1405?−1441 室町時代の僧。応永12年?生まれ。足利義満の子。真言宗大覚寺(だいかくじ)門跡(もんぜき)。大僧正,准三宮(じゅさんぐう)となる。大和(奈 ...
2. 足利義昭[文献目録]
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【図書】:1件 【逐次刊行物】:6件 『足利義昭』奥野高広『足利義昭と織田信長との関係についての研究』渡辺世祐『足利義昭と武田信玄』奥野高広『足利義昭と信長光秀 ...
3. 足利義昭画像
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室町幕府第15代将軍。義晴(よしはる)の子。母は前関白近衛尚通(このえひさみち)の女(むすめ)。天文(てんぶん)6年11月3日京都に生まれる。初め興福寺一乗院に ...
4. 足利義昭[百科マルチメディア]画像
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足利義昭画像」 東京大学史料編纂所所蔵模写 ©東京大学史料編纂所 ...
5. 足利義昭
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1537-97(天文6-慶長2) 室町幕府15代将軍。足利義晴の次男。母は近衛尚通の女。尚通の子稙家の猶子として奈良一乗院門跡となり覚慶と称した。1565年(永 ...
6. あしかが‐よしあき【足利義昭】
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室町幕府最後の一五代将軍。義晴の子。初名義秋。はじめ覚慶と号し、奈良一乗院の門主。兄義輝が暗殺された時、近江にのがれた。還俗し織田信長に扶持されて、永祿一一年( ...
7. あしかがよしあき【足利義昭】画像
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) [参考文献]奥野高広『足利義昭』(『人物叢書』五五)、同『武田信玄』(同一九)、河合正治『安国寺恵瓊』(同三二)、磯貝正義『武田信玄』、渡辺世祐「上洛前の足 ...
8. 足利義昭(あしかがよしあき)
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9. あしかが-よしあき【足利義昭】
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1537−1597 室町幕府15代将軍。在職1568-73。天文(てんぶん)6年11月3日生まれ。足利義晴(よしはる)の次男。僧籍にはいり覚慶と号したが,兄義輝 ...
10. 足利義秋・足利義昭
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12. 足利義昭印[図版]画像
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(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
14. 織田信長諫足利義昭 (見出し語:織田信長)
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15. あくたがわじょうあと【芥川城跡】大阪府:高槻市/芥川村
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16. 明智光秀画像
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17. 明智光秀
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18. あけちみつひで【明智光秀】画像
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19. あけち-みつひで【明智光秀】
日本人名大辞典
典礼に通じた教養ゆたかな武将で,はじめ朝倉義景(よしかげ)につかえ,のち織田信長の家臣となって足利義昭の上洛に尽力。義昭や寺社,公家との交渉役をつとめる。元亀( ...
20. あけちみつひで【明智光秀】
日本架空伝承人名事典
安土桃山時代の武将。明智氏は美濃土岐の一族だが、光秀は初め越前の朝倉義景に仕え、そして足利義昭が朝倉氏のもとに流寓したとき出仕し、ついで織田信長の家臣となり義昭 ...
21. あさいながまさ【浅井長政】画像
国史大辞典
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22. あさくらし【朝倉氏】画像
国史大辞典
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23. あさくらやかたあと【朝倉館跡】福井県:福井市/一乗谷地区/城戸内村
日本歴史地名大系
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24. あさくら‐よしかげ【朝倉義景】
日本国語大辞典
姉川の戦いで大敗。のち、信長に一乗谷を攻め落とされ、自刃した。永祿一一年(一五六八)越前に下っていた足利義昭を一乗谷城に供応した時の記録が「朝倉亭御成記」である ...
25. あさくらよしかげ【朝倉義景】画像
国史大辞典
旋で、景忠は城を明け渡して能登に退去したが、この冬加賀門徒を率いて越前に進入してきた。ここで足利義昭は敦賀より一乗谷に赴いて義景を諭し、本願寺との和約を固めさせ ...
26. あさづまみなと【朝妻湊】滋賀県:坂田郡/米原町/朝妻村
日本歴史地名大系
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27. 足利氏画像
世界大百科事典
・文明の乱を終えた後,10代足利義稙(よしたね)以後の将軍はしばしば都を離れて流亡し,15代足利義昭は信長に擁立されるが1573年(天正1)に京都を追われて幕府 ...
28. 足利季世記
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く過程,これに代わり三好氏や松永氏が実権を掌握し京都を支配,1568年(永禄11)織田信長が足利義昭を奉じて入京する経緯を,所々に文書を織り込んで説明している。 ...
29. あしかがじだいし【足利時代史】
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した。田中によれば、足利時代とは、元弘三年(一三三三)足利尊氏の挙兵から天正元年(一五七三)足利義昭の敗走までの二百余年をさすが、はじめの六十余年は『南北朝時代 ...
30. あしかが-よしあき【足利義秋】
日本人名大辞典
足利義昭(あしかが-よしあき) ...
31. あしかがよしてる【足利義輝】画像
国史大辞典
弟鹿苑寺周〓は殺され、末弟の奈良一乗院覚慶(足利義昭)は近江に逃れた。法号光源院融山道円。→足利義晴(あしかがよしはる),→本圀寺の変(ほんこく ...
32. あしかがよしひで【足利義栄】
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説があって一定しない。→足利義昭(あしかがよしあき),→三好三人衆(みよしさんにんしゅう) [参考文献]『大日本史料』一〇ノ一、永禄十一年九月是月条、奥村高広『 ...
33. 排蘆小船(近世随想集) 322ページ
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ここは安土桃山時代にかけていう。織田信長。戦国時代の武将。天正十年没、四九歳。信秀の男。天正元年、足利義昭を追放し、安土城を築いて全国の平定にあたるが、同十年、 ...
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法名は玄旨。足利義晴の男、母は清原宣賢の娘智慶院。慶長十五年没、七七歳。細川元常の養子となり、足利義昭を擁立、ついで信長、秀吉に仕えた。古今伝授を実枝に受け、二 ...
35. あずちももやまじだい【安土桃山時代】
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36. あずちももやまじだい【安土桃山時代】 : 朝幕関係
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)の回復と皇子誠仁(さねひと)親王の元服や禁裏御所修復の費用の献上を命じた。信長は翌年九月、足利義昭を第十五代将軍に奉じることと、前年の正親町天皇綸旨の内容を実 ...
37. あつみぐん【厚見郡】岐阜県:美濃国
日本歴史地名大系
織田信長は斎藤氏を滅ぼし、稲葉山城(岐阜城)へ入って、城下町井ノ口を岐阜と改称した。翌年には足利義昭を奉じて入洛するなど、安土城(現滋賀県蒲生郡安土町)に移る天 ...
38. 安土桃山時代
日本大百科全書
まず文化史上で時代呼称として定着し、政治史上でも一般に用いられているのである。 安土時代の時代区分は、信長が足利義昭(あしかがよしあき)を擁して岐阜より上洛(じ ...
39. 安土桃山時代
世界大百科事典
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40. 安土桃山時代(年表)
日本大百科全書
政治1568(永禄11)2月織田信長、北伊勢を攻略。9月信長、足利義昭を奉じて入京、義昭、将軍となる1569(永禄12)5月今川氏真、掛川城を徳川家康に譲る。閏 ...
41. あねがこうじよりつな【姉小路自綱】
国史大辞典
永禄三年(一五六〇)従五位下左衛門佐、同六年三月十二日侍従にすすむ。元亀元年(一五七〇)四月十四日上洛して将軍足利義昭の二条第において能の見物に諸大名や公家とと ...
42. あねがわのたたかい【姉川の戦】
国史大辞典
支配する小谷城主浅井長政と同盟し、永禄十年(あるいは十一年)ごろ、妹お市を娶せ盟約を固めた。そして足利義昭を擁して上洛すると越前一乗谷の朝倉義景の攻撃に着手し、 ...
43. あのうむら【穴太村】滋賀県:大津市/北部地域
日本歴史地名大系
万松院殿穴太記)。元亀四年(一五七三)二月には織田信長勢を攻撃するため、浅井長政の軍勢が将軍足利義昭の軍とともに滋賀郡に攻め入り、穴太も兵火にかかっている(年欠 ...
44. あまがさき【尼崎】兵庫県:尼崎市
日本歴史地名大系
タンの歓迎を受け一〇日間にわたって滞在し、昼夜説教を行った。永禄一二年二月二八日、前年九月に足利義昭を奉じて上洛した織田信長が矢銭を徴収するために軍勢三千人を当 ...
45. あやどむら【綾戸村】滋賀県:蒲生郡/竜王町
日本歴史地名大系
享禄四年(一五三一)管領細川晴元によって京を追われた将軍足利義晴が桑実寺に逗留した際の仮御所となり、のち足利義昭や織田信長らの保護を受け、近世に入り天台宗から浄 ...
46. 荒木村重
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安土(あづち)桃山時代の武将。摂津国豊島(てしま)郡(大阪府)の人。織田信長が将軍足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて京都に入り、ついで摂津に進出すると、信長に ...
47. 荒木村重
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安土桃山時代の武将,茶人。摂津池田勝正に属したが,のち織田信長と結んだ。1573年(天正1)足利義昭京都追放後,有岡城(旧伊丹城)にて摂津一国の支配を行うととも ...
48. あらきむらしげ【荒木村重】
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村重も勝正の郎党として仕えた。織田信長が摂津に進出すると池田氏は信長に属し、永禄十二年(一五六九)足利義昭が三好政康らに京都本圀寺に囲まれたとき、村重は勝正に従 ...
49. あらき-むらしげ【荒木村重】
日本人名大辞典
1535−1586 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)4年生まれ。池田勝正,のち織田信長につかえ,足利義昭の京都からの追放に功をたて,摂津一国を支配した。天 ...
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との激戦地の一つに粟田口(三条口)が数えられる。下って永禄一一年(一五六八)九月、織田信長が足利義昭を擁して入京したのもこの口からで、「道家祖看記」に「其時信長 ...
「足利義昭」の情報だけではなく、「足利義昭」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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