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  11. 伊能忠敬

伊能忠敬

ジャパンナレッジで閲覧できる『伊能忠敬』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
伊能忠敬
いのうただたか
一七四五 - 一八一八
江戸時代中期の地理学者、測量家。延享二年(一七四五)正月十一日、上総国武射郡小堤(おんづみ)村(千葉県山武郡横芝町小堤)の神保利左衛門貞恒の三子として、同山辺郡小関(こせき)村(同九十九里町小関)に生まれる。幼名は三治郎、字は子斉、東河と号する。十八歳のとき伊能氏の婿養子となり、通称を三郎右衛門と改め、忠敬と名乗る。伊能家は元来、佐原の豪家であったが、当時衰微していたので、忠敬は家を継ぐと、造酒業のほか米穀の取引、薪問屋の江戸開設など、大いに貨殖の途を講じ、家運の恢復に努めた。彼はまた名主となって、公益に尽くし、しばしば困窮した村民を救い、幕府から苗字帯刀を許された。特に天明の大飢饉の際は、私財を投じて米を購入し、これを与えて窮民を救った。家がやや豊かになると、学問に志し、数学・暦学などを独習したが、寛政六年(一七九四)隠居して通称を勘解由と改め、翌七年江戸に出、十九歳年下の高橋至時の門に入って天文を学んだ。このとき、大金を費やして、その居所深川黒江町に観測器械を備えつけ、天文の観測に努力した。一通り天文学の知識を得た後、緯度一度の長さを知ろうとして、江戸の測量を企てたが、その距離が短すぎるので、至時の勧めに従い、蝦夷地の測量を考え、幕府に願い出で、自費による測量の許可を得た。同十二年閏四月江戸を出発、十月まで蝦夷東南海岸および奥州街道を略測、十二月その地図を幕府に献上した。これが手はじめとなって、全国の測量が次のように計画された。享和元年(一八〇一)伊豆より陸奥に至る東海岸。同二年陸奥より越後に至る海岸。同三年駿河より尾張まで、越前より越後までの海岸、その他。文化二年(一八〇五)江戸を出発し、伊勢より備前に至る海岸、その他。同三年備中以西の山陽海岸、山陰および若狭海岸、その他諸島嶼。同五年四国および淡路の海岸、大和および伊勢街道。同六年中山道および山陽道の街道筋。同七年九州の西部および南部の海岸。同八年諸所の小街道。同九年九州の東部海岸および諸島嶼。同十年九州残部の海岸および諸島嶼。同十一年近畿における主要街道、その他。同十二年・十三年部下の測量隊に伊豆および江戸付近を測量させる。この測量の間に、幕府から与えられる便宜は次第に増し、また必要な費用も支給されるようになり、前後十七年を経て、全国の測量を終えた。忠敬は途中においても測量のすみ次第、地図を作って幕府に呈上した。測量が完了すると、それに基づいて『大日本沿海輿地全図』および『輿地実測録』の編纂に従事したが、業半ばにして文政元年(一八一八)四月十八日江戸亀島町の自宅にて没した。七十四歳。しかし地図が完成するまで喪を秘し、同四年『輿地全図』および『実測録』が完成、呈上ののち、九月四日喪を発した。その遺骸は遺言によって、江戸浅草(東京都台東区東上野)の源空寺にある師高橋至時の墓の側に葬った。
[参考文献]
『伊能忠敬測量日記』、大谷亮吉『伊能忠敬』
(大矢 真一)


世界大百科事典
伊能忠敬
いのうただたか
1745-1818(延享2-文政1)

近代的日本地図作成の基礎を築いた人。上総国小関村,現在の千葉県九十九里浜沿岸の村に生まれたが,幼少時のことはよくわからない。1762年(宝暦12)に佐原の伊能家の養子となり,名を忠敬と改めた。酒造,米穀取引などの家業にいそしむ一方,村政にも尽くして名主を命ぜられ,苗字帯刀を許される。早くから暦学を好み,天体観測も行った。95年(寛政7)に家を長男に譲り,江戸へ出て深川黒江町に住み,高橋至時(よしとき)に師事して52歳のときから西洋天文学の本格的な勉学を始めた。至時は寛政改暦のために関西から召された若い学者であったが,至時の立場からは緯度1°の距離の測定,ひいては地球の大きさの確定が当面の課題であった。そこで防衛問題が切迫していた蝦夷測量の重要性を幕府に説き,ここへの旅行に際して南北に長い奥州街道を測量して,緯度1°の距離を確定しようと考え,忠敬とその弟子数名に実施させた。これによって示された忠敬の測量技術は幕府を動かし,ついには日本全国沿海測量にまで発展した。こうして伊能隊(忠敬を中心とし,その弟子および天文方の下役それぞれ数名)の測量は,忠敬が56歳から72歳までの間にわたり,その測量日数は3737日,測量距離は4万km近く,天体観測地点数1203に達した。測量に際しては沿道の諸藩から多数の手伝人が差し出された。測量に用いた測器機は,高橋至時やその同僚の間(はざま)重富が漢籍から示唆を得て苦心を重ね,精密工まで養成して作製したものであったし,この測量によって得た緯度1°の距離28.2里(地球を球として)は,現在からみてもかなり正確なものである。忠敬の業績は〈伊能図〉と呼ばれる地図および《輿地実測録》として編纂された。その墓は遺言によって東京上野の源空寺墓地内の高橋至時の墓と並んでいる。千葉県香取市の旧佐原市の旧宅敷地内には伊能忠敬記念館が建ち,遺書(測量日記28冊を含む)や遺品(観測器などを含む)が重要文化財として蔵され,公開されている。
[保柳 睦美]

[索引語]
間(はざま)重富 輿地実測録 伊能忠敬記念館
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検索コンテンツ
1. 伊能忠敬画像
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江戸中期の測量家。通称勘解由(かげゆ)。号は東河。上総(かずさ)国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれる。母の死後、父の実家であった武射(むさ)郡小堤の神保 ...
2. 伊能忠敬
世界大百科事典
宅敷地内には伊能忠敬記念館が建ち,遺書(測量日記28冊を含む)や遺品(観測器などを含む)が重要文化財として蔵され,公開されている。保柳 睦美 間(はざま)重富  ...
3. いのう‐ただたか【伊能忠敬】
日本国語大辞典
江戸中期の地理学者。暦学者。上総国(千葉県)の人。五〇歳の時江戸に出て、高橋至時(よしとき)の門にはいり西洋暦学、測量術を学ぶ。幕府の命で蝦夷や日本全国を測量し ...
4. いのうただたか【伊能忠敬】
国史大辞典
江戸浅草(東京都台東区東上野)の源空寺にある師高橋至時の墓の側に葬った。 [参考文献]『伊能忠敬測量日記』、大谷亮吉『伊能忠敬』 (大矢 真一)  ...
5. 伊能忠敬
日本史年表
戊辰⑥〉 1・‐ 伊能忠敬 、幕命で四国・淡路・大和などの沿岸の測量に向かう(伊能忠敬測量日記)。 1809年〈文化6 己巳〉 8・‐ 伊能忠敬 、幕命で九州沿 ...
6. 伊能忠敬(いのうただたか)
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7. いのう-ただたか【伊能忠敬】
日本人名大辞典
1745−1818 江戸時代中期-後期の測量家。延享2年1月11日生まれ。養家の下総(しもうさ)佐原(さわら)(千葉県)の酒造業を再興,米穀取引などで家産をきず ...
8. 伊能忠敬[文献目録]
日本人物文献目録
(編)『伊能忠敬 付測量日記』伊能登『伊能忠敬の沿海測量』土屋元作『伊能忠敬言行録』西脇玉峰(編)『伊能忠敬』大谷亮吉(編)『伊能忠敬の事蹟』大森金五郎『伊能忠 ...
9. 伊能忠敬
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10. 伊能忠敬測量日記[文献解題]鹿児島県
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11. 測量日記(著作ID:3271758)
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12. 測量日記・忠敬先生日記(伊能忠敬測量日記)[文献解題]千葉県
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13. 測量日記・忠敬先生日記(伊能忠敬測量日記)[文献解題]福岡県
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14. 測量日記・忠敬先生日記(伊能忠敬測量日記)[文献解題]長崎県
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日本歴史地名大系
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16. あいつむら【愛津村】長崎県:南高来郡/愛野町
日本歴史地名大系
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17. あいのうらむら【相之浦村】長崎県:南松浦郡/奈留町
日本歴史地名大系
六月、伊能忠敬の一行は奈留島を測量、阿古木浦近くの水ノ浦に鮪納屋が五軒あり、久賀島(現福江市)の多々良島との赤波石瀬戸は唐人通船場所という。夏越浦に医王権現社が ...
18. あおううらめん【阿翁浦免】長崎県:北松浦郡/鷹島町/阿翁村
日本歴史地名大系
鷹島村浦分として阿翁浦と記される。文化一〇年(一八一三)二月二一日、御厨浦(現松浦市)を出た伊能忠敬は黒島を測量したあと、一ッ瀬・竹ノ子島などを経て阿翁浦・橋積 ...
19. あおかたむら【青方村】長崎県:南松浦郡/上五島町
日本歴史地名大系
網田儀左衛門らが記される。文化一〇年(一八一三)六月伊能忠敬の一行が青方村を測量、大曾に鮪・鰯の納屋があり、紀州からの出張漁という(伊能忠敬測量日記)。明治二年 ...
20. あおきむら【青木村】千葉県:富津市地図
日本歴史地名大系
葉市中央区)、船橋、行徳(現市川市)方面で魚釣をしていた。享和元年(一八〇一)の家数一一五(伊能忠敬測量日記)。文政九年(一八二六)富津村の漁師に魚類を奪われ、 ...
21. あおきむら【青木村】千葉県:鴨川市地図
日本歴史地名大系
秣場は天面村へ米三斗を納めていた。また田尻という内郷が江見村と内遠野村に接してあった。同年七月九日伊能忠敬が当村付近の測量を行っている(測量日記)。幕末の村絵図 ...
22. あおせむら【青瀬村】鹿児島県:薩摩郡/下甑村
日本歴史地名大系
「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高二五〇石余。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では家数二一六。また「伊能忠敬測量日記」によると、南方の瀬尾に ...
23. あおばらむら【青原村】島根県:鹿足郡/日原町
日本歴史地名大系
青原組の代官所・茶屋・町屋敷があり、家数は一四一であった(「庄屋控」日原町史)。文化八年(一八一一)伊能忠敬の測量隊一行は津和野に宿泊した後、津和野奥筋往還を通 ...
24. あおやぎ-たねのぶ【青柳種信】
日本人名大辞典
筑前(ちくぜん)福岡藩士。加藤千蔭(ちかげ),本居宣長(もとおり-のりなが)らにまなぶ。文化9年伊能忠敬(ただたか)の筑前測量を補佐し,その求めに応じて「宗像宮 ...
25. あかさきむら【赤崎村】岩手県:大船渡市
日本歴史地名大系
享和元年(一八〇一)九月二一日伊能忠敬一行は末崎村の門之浜を出発、当村の北から南へと海上引縄で測量した。この日は波が高いため、村の入口から村内までは翌二二日朝に ...
26. あかしまむら【赤島村】長崎県:福江市
日本歴史地名大系
野市)の漁師が当地に移住したという。文化一〇年(一八一三)六月伊能忠敬の一行は崎山村持の赤島を測量、人家八九としている(伊能忠敬測量日記)。天保三年(一八三二) ...
27. あかみずむら【赤水村】宮崎県:延岡市
日本歴史地名大系
海運の便はよかったが陸運は悪かった。鯛名村庄屋の支配で鯛名村と一村扱いされることもあった(「伊能忠敬測量日記」など)。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)に ...
28. あきづきかいどう【秋月街道】福岡県:総論
日本歴史地名大系
松崎よりさらに筑後国府中町・久留米城下(現久留米市)や肥前国田代(現佐賀県鳥栖市)に続いた。「伊能忠敬測量日記」文化七年(一八一〇)一月一二日条に小倉城下の常盤 ...
29. あきばるむら【秋原村】大分県:日田市
日本歴史地名大系
代々庄屋を勤めている(「財津家譜」財津家文書)。文化八年(一八一一)七月九日伊能忠敬が当村を測量している(伊能忠敬測量日記)。明治八年(一八七五)藤山村・市瀬村 ...
30. あきめむら【秋目村】鹿児島県:川辺郡/坊津町
日本歴史地名大系
「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高六〇石余。旧高旧領取調帳では高六四石余。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」によると家数二九八、うち秋目浦二 ...
31. あこうぎむら【赤生木村】鹿児島県:川辺郡/笠沙町
日本歴史地名大系
「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高二二七石余。旧高旧領取調帳では高六一六石余。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では家数二六一、うち黒瀬八九 ...
32. あさいぐん【朝夷郡】千葉県:安房国
日本歴史地名大系
慶安元年(一六四八)には江見村との出入など地先漁業権をめぐる争論が繰返された(「安房郡水産沿革史」「伊能忠敬測量日記」など)。この江見村も享保一七年当時縄船八三 ...
33. あさくさ【浅草】
国史大辞典
玩具(蔵前)・食器具(合羽橋)・靴(浅草六丁目)などの問屋街で知られる。江戸時代の浅草は寺院街でもあった。伊能忠敬・平賀源内・葛飾北斎ら著名人の墓碑も多い。 [ ...
34. あさくさきたきよしまちよう【浅草北清島町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
明暦の大火によって焼失し、浅草に移転した。境内は拝領地。寛政暦の作者で天文学者の高橋至時の墓、その弟子でもある伊能忠敬の墓(ともに国指定史跡)、江戸時代末期の画 ...
35. あさだむら【麻田村】大分県:東国東郡/武蔵町
日本歴史地名大系
研究した(「杵築市誌」など)。寛政九年(一七九七)幕府から招かれたが、弟子の高橋至時を推挙し、その学問を伊能忠敬が全国地図の作製に生かしたことで知られる。剛立は ...
36. あしかわむら【芦川村】秋田県:本荘市
日本歴史地名大系
塩竈三軒、猟舟四艘(「御巡見様御案内ニ付留書覚印牒」大内町文化財資料)。享和二年(一八〇二)の伊能忠敬の「測量日記」に家数五〇軒とある。天保九年(一八三八)の御 ...
37. あしざきむら【蘆崎村】鳥取県:気高郡/青谷町
日本歴史地名大系
に遭っている(以上「在方諸事控」)。文化三年八月と同一〇年閏一一月には全国を測量行脚していた伊能忠敬らが来村している(「石井記録」青谷町誌)。天保二年には徳原彦 ...
38. あじろうら【網代浦】大分県:津久見市
日本歴史地名大系
数二六三、また当浦内の江ノ浦・赤崎は竈数三三・人数二九一(温故知新録)。同年伊能忠敬が当浦を測量している(「伊能忠敬測量日記」同年二月二七日条)。江ノ浦(江野浦 ...
39. あすかむら【飛鳥村】青森県:青森市
日本歴史地名大系
れる。元禄三年(一六九〇)には油川組に属し、村位は下である(平山日記)。享和二年(一八〇二)伊能忠敬の「測量日記」に家数二九とある。天保五年(一八三四)の郷村帳 ...
40. あずちむら【堋村】長崎県:北松浦郡/大島村
日本歴史地名大系
のあつき大嶋有」とみえる。文化一〇年(一八一三)一月、伊能忠敬の一行は大島の枝の的山のうち曲崎や、的山浦の字の板ノ浦などを測量(伊能忠敬測量日記)。旧高旧領取調 ...
41. あそう・あそうわん【浅海・浅茅湾】長崎県:下県郡
日本歴史地名大系
蔵)に「アソノ内」とある。また大船越・小船越は交通の要衝であった。文化一〇年(一八一三)三月伊能忠敬の測量隊一行が来島、「浅海内離瀬・出崎」などに測量の目印とし ...
42. あづまむら【吾妻村】千葉県:木更津市地図
日本歴史地名大系
木更津村と同様に当村でも積替えて、江戸へ輸送した(重田家文書)。享和元年(一八〇一)六月には伊能忠敬が江戸湾沿岸を測量しながら当村を通過した(測量日記)。嘉永三 ...
43. あなんし【阿南市】徳島県
日本歴史地名大系
通り富岡渡を経て富岡に達し、さらに橘へと進む脇道である。なお文化五年(一八〇八)三月から四月にかけて伊能忠敬が沿海地域を測量している。三月二八日中島浦(現那賀川 ...
44. あまくさぐん【天草郡】熊本県
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まれに行われた島原城主の巡視もおおむね船便を用い、富岡町や村の入口で行列を整えていた(天草近代年譜)。伊能忠敬の測量隊による天草測量は、文化七年九月一八日、薩摩 ...
45. 天草郡史料[文献解題]熊本県
日本歴史地名大系
二冊 天草郡教育会編 大正二―三年刊 解説 第一輯には「天草島鏡」「伊能忠敬日本実測録抄」、第二輯には「九州記」「霊光史略」「菊池伝記」「天草家乗記」を収録。 ...
46. あまくさじまかがみ【天草島鏡】
国史大辞典
会により『天草郡史料』一として刊行された。なお、宜珍は伊能忠敬より測量術をも学んだが、刊本には付録として「伊能忠敬の天草測量」「伊能忠敬日本実測録抄」を収めてい ...
47. あみだがわむら【阿弥陀川村】青森県:東津軽郡/蓬田村
日本歴史地名大系
によれば、寛政八年(一七九六)に四六・六石の新田高が書上げられている。享和二年(一八〇二)の伊能忠敬の「測量日記」に「海へ三四五間、家廿二軒」とある。明治初年の ...
48. あみほしむら【網干村】福岡県:大川市
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旧高旧領取調帳の高二四六石余。幕末から明治初年の反別は一三町九反余(郡郷)。文化九年(一八一二)一〇月、伊能忠敬が測量のため通過(測量日記)。高良大菩薩、則善寺 ...
49. あむら【阿村】熊本県:天草郡/松島町
日本歴史地名大系
近世中期より新田開発によって急激に膨張した村で、住吉・立目・町原・六十割・浦田・白浜の諸新田が築造された。伊能忠敬の「測量日記」に「字垣瀬家一軒字中ノ形人家七軒 ...
50. あらいむら【新井村】千葉県:富津市地図
日本歴史地名大系
寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数四四で、旗本小笠原領。享和元年(一八〇一)当時も小笠原領で(伊能忠敬測量日記)、文化七年(一八一〇)より陸奥白河藩領。 ...
「伊能忠敬」の情報だけではなく、「伊能忠敬」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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