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  11. 近藤勇
国史大辞典・日本架空伝承人名事典・日本大百科全書

国史大辞典
近藤勇
こんどういさみ
一八三四 - 六八
幕末の幕臣。諱は昌宜、通称勝太・勇、変名大久保大和。天保五年(一八三四)十月五日生。武蔵国多摩郡石原村辻(東京都調布市)の農業宮川久次(郎)の三男。母はおえい。四人兄姉の末っ子。嘉永二年(一八四九)十月十九日に天然理心流の近藤周助(試衛館主)の養子になり、江戸の牛込市ヶ谷甲良屋敷にすむ。はじめ島崎勝太と称し多摩郡に出稽古し、島崎勇、ついで万延元年(一八六〇)に近藤勇となる。その間、万延元年三月にソネと結婚し、八月天然理心流の宗家の四代目をつぐ。文久三年(一八六三)将軍徳川家茂の上洛にあたり、幕府が京都の尊攘派志士、浪人を牽制するため両毛・武甲その他の剣に熟達した浪士を将軍の列外警衛として先発西上させた。その中に、勇は養父の門下であった一門の有志十余人、すなわち土方歳三・沖田総司・永倉新八らとともに平隊員として参加した。浪士隊は清川八郎および講武所剣術世話心得山岡鉄太郎の指導をうけていたが、意見を異にしたため、佐々木只三郎らのすすめもあって芹沢鴨・新見錦・沖田・永倉ら十七名(十三名・二十名・二十五名説もある)が分かれ、京に残留し、葛野郡壬生村に屯営して、壬生浪人といわれた。彼らは京都守護職の会津藩主松平容保の支配下に入り、新撰組を組織した。そして会津藩別動隊となった。芹沢が局長となり、近藤と新見が副長となった。芹沢や新見は粗暴であり、それを責める中で近藤は頭角をあらわし、局長に推された。のち新見や芹沢を粛清している。爾来京都市内警備にあたり、尊攘派志士の取締りにつとむ。元治元年(一八六四)六月池田屋へ屯集した志士たちを襲撃して功をたてたが、七月の禁門の変で洛中・洛外の治安維持につとめ、志士の藩邸出入りや、旅館出入りを取り締まる中で新撰組からも多数の人材を失っている。その間に西国九州人はたよりにならぬので関東者で補充を考える。伊東甲子太郎らがそのころより参加している。その後油小路事件で両者は対決し、伊東らを斬る。その残党の中から偽官軍の相楽隊へ参加するものが生まれたが、近藤は慶応三年(一八六七)六月には見廻組頭取となり、麾下の士となり、ついに幕臣となった。同年十二月、王政復古の大号令が出ると、伏見街道藤森で伊東らの残党に狙撃されて負傷したが、大坂へ下って療養した。翌明治元年(一八六八)正月、鳥羽・伏見の戦ののち東下し、名を大久保大和と改め、新撰組の残党を指揮し、甲陽鎮撫隊を組織して、三月、政府軍(官軍)と甲斐の勝沼で戦ったが敗北した。ついで下総流山の長岡に陣営をかまえたが、官軍の誘いをうけて出て捕えられ、同年四月二十五日板橋庚申塚で斬首処刑され、首は京都の三条河原に梟される。三十五歳。板橋刑場に葬られるが、のち多摩郡大沢村(東京都三鷹市)の竜源寺に改葬された。法名は心勝院大勇儀居士。
[参考文献]
平尾道雄『新撰組史録』
(芳賀 登)


新版 日本架空伝承人名事典
近藤勇
こんどういさみ
1834‐68(天保5‐明治1)
 新撰組隊長。武蔵国多摩郡石原村(現、調布市)の宮川久次の第三子として生まれ、天然理心流近藤周助に剣を習って、その養子となり宗家を継ぐ。将軍家茂の上洛に際し、その警護にあたった浪士隊に加わり、のちに同門の土方歳三らと新撰組を結成。京都守護職の支配の下、尊攘派の弾圧を行った。一八六四年(元治一)、尊攘派によるクーデター計画を知った新撰組は、池田屋に宮部鼎蔵らを襲って討伐した。この時、勇は土方らの部隊を待たずに、わずか五名の人数で斬り込んだことが自らの書簡に記されているが、実際には、階下にも数名の隊士が待機していた。ともかくも、この池田屋事件は、新撰組の名を高くし、尊攘派志士たちに大いに恐れられた。勇はその剣の腕もさることながら、隊長としての統率力にも定評があった。六八年の鳥羽・伏見の戦で幕府軍が敗れた後、江戸に帰り、甲陽鎮撫隊を結成、官軍に抗するが甲斐国勝沼で敗れ、下総流山で降伏、四月に板橋で斬首される。
 勤皇派を弾圧した勇ら新撰組は、明治政府側から見れば「悪役」ということになるが、幕府に殉じた「義」の人々という見方もあって、その人気は根強い。生誕地の調布市「いろはかるた」に、「義をとりて命を捨てた近藤勇」とある。なお勇の首塚は、岡崎の法蔵寺、会津若松の天寧寺、東京都内では板橋駅前、三鷹の龍源寺、荒川区の円通寺の五カ所にあり、そのいずれが本物であるのか定かではない。京都壬生寺の隊士の墓近くには胸像が建てられている。
[菊池 道人]


日本大百科全書(ニッポニカ)
近藤勇
こんどういさみ
[1834―1868]

幕末期、新選組局長。武蔵国(むさしのくに)多摩郡上石原村(東京都調布(ちょうふ)市)宮川久次郎(きゅうじろう)の三男として生まれる。幼名勝五郎のち勝太。剣を天然理心流(てんねんりしんりゅう)宗家3代近藤周助(しゅうすけ)の試衛館(しえいかん)に学び、1849年(嘉永2)にその養子となった。周助にかわって多摩郡の出稽古場(でげいこじょう)を歩き、日野宿佐藤彦五郎(ひこごろう)、小野路村の小島鹿之助らと義兄弟の契りを結んだ。1863年(文久3)2月将軍徳川家茂(いえもち)上洛(じょうらく)に先んじて、門下の土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(そうじ)、山南啓助(やまなみけいすけ)らを引き連れて浪士組に加わった。清河八郎と意見を異にして京都に残留し、芹沢鴨(せりざわかも)らと京都守護職支配下に属して新選組を組織し、京の治安維持に努めた。芹沢暗殺後は局長となり、1864年(元治1)6月の池田屋事件で功をたてた。1867年(慶応3)6月に幕臣となり、見廻組(みまわりぐみ)与頭格(よがしらかく)に任ぜられた。1868年1月3日鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いでは副長土方歳三が指揮をとったが敗れ、のち残った隊士を集め東帰した。江戸で近藤は主戦論を唱え、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織し隊長となり大久保大和(やまと)と名のった。3月5日に甲州(山梨県)勝沼で官軍と戦い敗走し、下総(しもうさ)(千葉県)流山(ながれやま)で官軍に捕らわれた。慶応(けいおう)4年4月25日江戸板橋で斬首(ざんしゅ)され、首は京都・三条河原に梟首(きょうしゅ)された。年35。東京都町田市の小島資料館に史料が保存されている。
[小島政孝]

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1. 近藤勇画像
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幕末期、新選組局長。武蔵国(むさしのくに)多摩郡上石原村(東京都調布(ちょうふ)市)宮川久次郎(きゅうじろう)の三男として生まれる。幼名勝五郎のち勝太。剣を天然
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3. 近藤勇
世界大百科事典
1834-68(天保5-明治1) 幕末の新撰組隊長。武蔵国多摩郡石原村の宮川久次の第3子。天然理心流近藤周助の試衛館で剣法を学び,1849年(嘉永2)その養子と
4. こんどう‐いさみ【近藤勇】
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幕末の新撰組局長。本姓宮川。名は昌宜。変名大久保大和。武蔵の人。剣道を天然理心流の近藤周助に学び、その養子となる。幕府に仕えて尊王攘夷派志士の取締りにあたり、元
5. こんどういさみ【近藤勇】
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江戸の牛込市ヶ谷甲良屋敷にすむ。はじめ島崎勝太と称し多摩郡に出稽古し、島崎勇、ついで万延元年(一八六〇)に近藤勇となる。その間、万延元年三月にソネと結婚し、八月
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1834−1868 幕末の武士。天保(てんぽう)5年10月5日生まれ。近藤周助に天然理心流の剣をまなび,養子となる。文久3年幕府浪士隊にくわわり京都へゆく。のち
7. こんどういさみ【近藤勇】
日本架空伝承人名事典
いう見方もあって、その人気は根強い。生誕地の調布市「いろはかるた」に、「義をとりて命を捨てた近藤勇」とある。なお勇の首塚は、岡崎の法蔵寺、会津若松の天寧寺、東京
8. 近藤勇[文献目録]
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近藤勇と土方歳三』-『近藤勇』平尾道雄『近藤勇と原田佐之助』景浦稚桃『近藤勇の事』鳥居華村『近藤勇の事に疑あり』-『近藤勇の上書』尾佐竹猛『近藤勇の逮捕顚末』須
9. こんどう-ゆうごろう【近藤勇五郎】
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10. ありま-とうた【有馬藤太】
日本人名大辞典
国家主義者。天保(てんぽう)8年生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。戊辰(ぼしん)戦争に従軍,近藤勇をくだすなど功をたて,東京府参事となる。のち征韓論に敗れた西郷
11. 池田屋事件
日本大百科全書
長州の吉田稔麿(よしだとしまろ)、土佐の北添佶麿(きたぞえよしまろ)ら約30名の尊攘派志士を、近藤勇(こんどういさみ)以下約30名の新選組隊士が、京都守護職や所
12. 池田屋事件
世界大百科事典
麿,北添佶摩,宮部鼎蔵ら長州,土佐,熊本などの藩士20余人が池田屋に集まり蜂起の件を謀議中,近藤勇ら新撰組数十人が襲い激しい闘いとなった。尊攘派志士は,宮部,北
13. いけだやじけん【池田屋事件】
国史大辞典
ったので対馬藩邸に赴き、ようやく事なきを得たという。死者は三条縄手の三縁寺に葬られ、新撰組は近藤勇以下、京都守護職や幕府などから賞せられ、その威名は一時に京都に
14. いとう-きねたろう【伊東甲子太郎】
日本人名大辞典
めぐって土方歳三(ひじかた-としぞう)らと対立して脱隊。大久保利通ら薩長の藩士に親近し,慶応3年11月18日近藤勇(いさみ)に謀殺された。33歳。名は武明。変名
15. いんないむら【院内村】福島県:会津若松市/旧東山村地区
日本歴史地名大系
村となる。村内を湯川から取水した黒川堰(雁用水とも)が流れる。松平家御廟の峰続きに新撰組隊長近藤勇の墓がある。この墓は副隊長であった土方歳三が建立したと伝える。
16. うえだ-くすじ【上田楠次】
日本人名大辞典
で活動。戊辰(ぼしん)戦争では東山道総督に属し,下総(しもうさ)流山(千葉県)で捕らえられた近藤勇を板橋本営に護送した。慶応4年4月18日戦死。32歳。名は元永
17. おおさわむら【大沢村】東京都:三鷹市地図
日本歴史地名大系
。上石原村の農民宮川家の三男として生れ、天然理心流の剣道道場を開いていた近藤家の養子となった近藤勇は、文久三年(一八六三)同門の土方歳三らと京都に行き、新撰組を
18. 沖田総司
日本大百科全書
学び剣技に優れた。のち塾頭となり、多摩郡に出稽古(でげいこ)に歩いた。1863年(文久3)2月に近藤勇らと上洛(じょうらく)し新選組副長助勤、のち一番隊組長。6
19. 沖田総司
世界大百科事典
陸奥白河藩士の子に生まれたが,数え2歳で父が死亡し,姉が沖田家を継いだ。天然理心流近藤周助の試衛館に入り,近藤勇とは同門。卓越した剣の使い手として知られ,186
20. おきた-そうじ【沖田総司】
日本人名大辞典
江戸市ケ谷の試衛館で天然理心流の剣術をまなぶ。天才的剣士といわれ,のちに塾頭となる。文久3年近藤勇の新選組創設に参加。幹部として一番隊組長をつとめ,池田屋事件な
21. おきたそうじ【沖田総司】
日本架空伝承人名事典
新撰組隊士。白河藩士の子として生まれる。天然理心流近藤周助の試衛館で剣を学び、同門の近藤勇とともに、新撰組に加わった。剣の才能は抜群であったものの、結核を患い、
22. おんな二代の記 77ページ
東洋文庫
 明治時代に皇后宮大輔としてときめいた香川伯爵は、藤田東湖の門下、維新の際、新選組のリーダー近藤勇を捕えて処刑した官軍の功労者だったが、維新前京都で活動している
23. かがわけいぞう【香川敬三】
国史大辞典
明治元年(一八六八)、東山道先鋒総督大軍監として関東に転戦、下総国流山(千葉県流山市)で幕臣近藤勇をとらえた。明治三年に兵部大丞・宮内権大丞となり、その後、外遊
24. かがわ-けいぞう【香川敬三】
日本人名大辞典
王政復古の計画に参加。戊辰(ぼしん)戦争では大軍監をつとめ,下総(しもうさ)流山(千葉県)で近藤勇を捕らえた。維新後,宮内少輔,枢密顧問官。大正4年3月18日死
25. 勝沼画像
日本大百科全書
、笹子(ささご)峠を西下した旅人の甲府盆地の玄関口にあたっていた。また、戊辰(ぼしん)戦争で近藤勇(いさみ)の率いる幕軍が官軍によって敗れた柏尾坂古戦場跡(かし
26. かつぬま【勝沼】
国史大辞典
った。近時、勝沼氏館跡の大規模な発掘調査が行われ、遺構が解明された。柏尾はまた明治元年三月に近藤勇ら幕兵が官軍に敗れた古戦場としても有名。近世すでに甲州ぶどうの
27. かつぬまちょう【勝沼町】山梨県:東山梨郡
日本歴史地名大系
等々力村の万福寺では享保一七年甲斐国初の富籤興行が行われたという(辻家文書)。慶応四年大善寺付近で近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊が新政府軍と戦い敗走している。明治八年
28. 桂文枝[六代桂文枝を襲名する桂三枝が襲名披露パーティーを開催]
イミダス 2018
」の司会でも活躍。81年創作落語を定期的に発表する落語現在派を旗揚げし、83年には坂本龍馬と近藤勇がゴルフで決着をつけようとする姿を描いた「ゴルフ夜明け前」で芸
29. 加波山事件 民権派激挙の記録 89ページ
東洋文庫
全員が江戸への帰任を命ぜらる。(清川はこの年四月十三日、赤羽で横死する。)この時、清河と意見を異にする芹沢鴨・近藤勇・土方歳三ら十三人は東帰を拒んで「新選組」を
30. かみいしわらしゆく【上石原宿】東京都:調布市地図
日本歴史地名大系
けてのことと思われる。化政期の家数七八、持添新田分の家数五(同書)。幕末新撰組の局長であった近藤勇は天保五年(一八三四)当宿百姓の三男として生れ、幼名は勝五郎(
31. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 88ページ
東洋文庫
当初の目的に反することとなった   のに驚き、三月、英艦横浜渡来を理由に、清川ら二百人を江戸に帰らせた。しかし近藤勇(昌宜)、芹沢鴨、土方歳三らは、清川と意見が
32. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 183ページ
東洋文庫
わが公もまた新選組の頭取近藤勇を随伴せしめ、十一月七日、一同は大坂を出発した。         この月(十二月)二十二日、新 近藤勇の報告         選組
33. 京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記 198ページ
東洋文庫
しかし長州寛典論をもつ永井は、謹慎し命を待つとの宍戸らの書面を受けとり、帰坂した。八九一。 =三近藤勇を随伴せしめ 近藤勇は、宍戸とともに広島に来ていた長州藩士
34. きよかわはちろう【清川八郎】
国史大辞典
を同行して京都壬生に屯した。しかし学習院・関白鷹司輔煕への攘夷建白の行為が幕府の忌諱にふれて近藤勇らとも対立、同三月江戸に還された。同四月十三日、その過激な攘夷
35. 清川八郎[文献目録]
日本人物文献目録
江秀雄『清河八郎君国事鞅掌の事実』俣野時中『清河八郎君国事尽力の来歴』斎藤治兵衛『清川八郎・近藤勇と土方歳三』-『清川八郎氏の事蹟及び石坂君と共に国事に尽力せら
36. 清河八郎
日本大百科全書
新選組)編成に応じて上洛(じょうらく)し、その中心人物であったが、幕府に反して尊攘を主張して近藤勇(いさみ)・土方歳三(ひじかたとしぞう)らと対立、東帰を命ぜら
37. 鞍馬天狗
世界大百科事典
勤皇派とはいえ,狭い党派性にとらわれず,いわば自由人の雰囲気をただよわせていて,たとえばそれは,宿敵近藤勇を〈あなた〉と呼び,フェア・プレーの勝負を行うことに現
38. 慊堂日暦 6 222ページ
東洋文庫
校し詑る。」月帯食。戌初刻、食二分にて出で、二刻、下の右に甚だしく、戌七刻、右の下に終る。」近藤勇之助。小松家臣、その父は篤山、年七十七。銀十五銀を賞す。五月二
39. 慊堂日暦 6 223ページ
東洋文庫
游び、多胡碑を観て甲に入り、本月登嶽す。」新保小文太、浅野与喜右衛門。二十五日 陰。哺、雨。近藤勇之助来る(五日を約す)。石窓来る(茶)。戸田達蔵(雲藩)来り、
40. 慊堂日暦 6 295ページ
東洋文庫
作って梨餅一曲を付して謝となす。上村生は郷藩〔細川侯〕に往き、明日往きて恩を謝することを告ぐ。近藤勇之助は侯〔小松侯〕の意を奉じ別れを告ぐ。加藤一介来る。二十四
41. こうふじょうあと【甲府城跡】山梨県:甲府市/甲府城下
日本歴史地名大系
まもなく高松隊は偽勅使として弾圧された。当時勤番士のなかには去就に迷う者が多く、一部に甲府城占拠を目指す近藤勇らの甲陽鎮撫隊に呼応する者もあったが、三月五日東山
42. こんごうじ【金剛寺】東京都:日野市/高幡村地図
日本歴史地名大系
都の文化財に指定されるなど、数多くの文化財・美術品・歴史資料を所蔵している。境内には新選組の近藤勇と土方歳三の事跡を讃えた殉節両雄之碑がある。
43. ごへえしんでん【五兵衛新田】東京都:足立区地図
日本歴史地名大系
の移動中、当新田の人家・寺院に分宿して再編制が行われた。期間は同年三月一四日から四月一日で、近藤勇らが逗留。村役人は随時支配代官佐々井半十郎に報告した(金子家文
44. さかもとりょうまあんさつじけん【坂本竜馬暗殺事件】
国史大辞典
見廻組説が定説とみてよい。事件当初は新撰組説が有力で、すでに四日後の大久保利通の書状では、「近藤勇ガ所為ト被察申候」とされていたが、新撰組の結城無二三は、「十五
45. 佐々木只三郎[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:2件 【逐次刊行物】:2件 『佐々木只三郎及近藤勇の短冊』井上通泰『佐々木只三郎伝』高橋一雄(編)『佐々木只三郎』青柳武明『佐々木只三
46. さとう-ひこごろう【佐藤彦五郎】
日本人名大辞典
妻は土方歳三(ひじかた-としぞう)の姉。武蔵(むさし)日野(東京都)の名主。嘉永(かえい)7年近藤勇の養父周助から天然理心流の極意皆伝の免許をえる。新選組を後援
47. 三銃士
世界大百科事典
デュマの作品は,日本に明治のかなり早い時期から翻訳・翻案されているが,前田曙山の《落花の舞》の中で,新選組の近藤勇,芹沢鴨,土方歳三が上洛するくだりは,この《三
48. 下総国
世界大百科事典
一部が脱走して撒兵隊と称し,下総に逃れ,市川・船橋で官軍と戦い,敗れて四散した。元新撰組隊長近藤勇が流山で捕らえられ,板橋に送られて処刑されている。小笠原 長和
49. しもうさのくに【下総国】画像
国史大辞典
明治元年(一八六八)江戸開城の前夜、幕兵の一部が脱走、撒兵隊と称し、市川・船橋で官軍と戦ったが敗れた。新撰組の近藤勇は流山で捕われ、板橋で処刑された。明治四年十
50. しもうさのくに【下総国】千葉県地図
日本歴史地名大系
上野彰義隊の戦いでは幼少の藩主以下六〇人余が参加し、敗れている。幕府の歩兵奉行大鳥圭介が市川で官軍と戦い、近藤勇は流山に陣を布き、捕らえられた。慶応四年閏四月三
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一八三五 - 六九 幕末・維新期の新撰組副長・幹部。歳蔵とも書く。天保六年(一八三五)武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)に出生。生家は石田散薬という家伝薬を副業とする旧家。父義醇、六人兄弟の末子。幼時に父母を失い
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