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  11. 高村光雲
国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

国史大辞典
高村光雲
たかむらこううん
一八五二 - 一九三四
明治から昭和時代前期にかけての彫刻家。嘉永五年(一八五二)二月十八日、江戸下谷北清島町(東京都台東区東上野)に生まれる。旧姓は中島、父は兼松。幼名を光蔵といった。文久三年(一八六三)十二歳のとき、仏師高村東雲の門に弟子入りし、幸吉と呼んだ。明治七年(一八七四)年明けとなり、光雲の号を師より与えられ、この年東雲の姉の養子となり、高村姓をついだ。明治初年木彫の衰退期に、西洋画の写実を参考とした写生をとり入れ、新しい作風をひらき、近代木彫の展開に大きな業績をのこした。明治十年、第一回内国勧業博覧会に師の代作として「白衣観音」を出品、最高賞の竜紋賞を受けた。明治十年代、象牙彫が隆盛となり木彫が衰微するなかで、木彫の孤塁を守った。明治二十年から翌年にかけての皇居造営に際し、装飾の一部を担当して好評を得た。明治二十二年東京美術学校雇を命ぜられ、翌年帝室技芸員・東京美術学校教授となり、また二十二年日本美術協会展出品の「矮〓」が皇室買上げとなった。二十四年から三十年にかけて、東京美術学校に依頼された「楠公像」「西郷隆盛像」の銅像を木彫の原型から完成させ、明治二十六年シカゴ万国博覧会で「老猿」が妙技二等賞を受賞した。明治四十年文展開設後は審査員を歴任し、大正八年(一九一九)帝国美術院会員となり、文字通り官展系木彫の重鎮であった。昭和九年(一九三四)十月十日、東京市本郷区駒込林町(文京区千駄木)の自宅で死去。享年八十三。豊島区駒込の染井墓地に葬られる。法名善照院小誉勲徹光雲大居士。長男光太郎は彫刻家・詩人、三男豊周は工芸家として名高い。著書に『光雲懐古談』(昭和四十二年中央公論美術出版より『木彫七十年』として覆刻)がある。
[参考文献]
坂井犀水『日本木彫史』
(三木 多聞)


日本大百科全書(ニッポニカ)
高村光雲
たかむらこううん
[1852―1934]

彫刻家。江戸に生まれる。本名幸吉、旧姓中島。仏師高村東雲(とううん)(1826―1879)の門に入って木彫を学び、1874年(明治7)東雲の姉の養子となり、高村姓を継いだ。1877年内国勧業博覧会に東雲の代作として『白衣観音(びゃくえかんのん)』を出品、最高賞を受けた。明治初年の木彫衰退期に、写生を取り入れた新しい作風を開き、近代木彫の展開に大きな業績を残した。1889年東京美術学校(現東京芸術大学)の開設とともに彫刻科の指導者となり、翌年帝室技芸員、東京美術学校教授に任命され、1891年光雲と号した。東京美術学校に依頼された『楠公像(なんこうぞう)』『西郷隆盛像(たかもりぞう)』の銅像を木彫の原型から完成させ、1893年のシカゴ万国博覧会では『老猿(ろうえん)』が妙技二等賞を受賞した。1907年(明治40)の文展開設後は審査員を歴任し、1919年(大正8)には帝国美術院会員となり、文字どおり官展系木彫の重鎮であった。1926年東京美術学校教授を退いて名誉教授となった。長男の光太郎(こうたろう)は彫刻家・詩人、三男の豊周(とよちか)は工芸家として名高い。著書に『光雲懐古談』がある。
[三木多聞]



改訂新版 世界大百科事典
高村光雲
たかむらこううん
1852-1934(嘉永5-昭和9)

彫刻家。江戸下谷に生まれる。幼名中島幸吉。1863年(文久3)仏師高村東雲の門にはいって木彫を学び,東雲の姉の養子となって74年高村姓をつぐ。77年内国勧業博覧会に東雲の代作をして《白衣観音》を出品,最高賞を受賞。87年から翌年にかけての皇居造営に際し装飾の一部を担当した。明治時代に入り仏像の需要が激減し,象牙彫が隆盛するなど木彫衰退の時期に,鳥や獣を題材に写生をとり入れた新しい作風をひらき,明治の木彫の蘇生に大きな業績をのこした。89年東京美術学校の開設とともに彫刻科の指導者となり,1926年同校名誉教授となるまで後進を指導し,また多くの門下を育成した。1891年光雲と号し,帝室技芸員,帝国美術院会員となり,官展系木彫の重鎮であった。代表作に《老猿》《楠公銅像》《西郷隆盛像》などがある。著書に《光雲懐古談》がある。高村光太郎,豊周は子である。
[三木 多聞]

[索引語]
西郷隆盛像
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検索コンテンツ
1. 高村光雲画像
日本大百科全書
彫刻家。江戸に生まれる。本名幸吉、旧姓中島。仏師高村東雲(とううん)(1826―1879)の門に入って木彫を学び、1874年(明治7)東雲の姉の養子となり、高村
2. 高村光雲[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵
3. 高村光雲
世界大百科事典
1852-1934(嘉永5-昭和9) 彫刻家。江戸下谷に生まれる。幼名中島幸吉。1863年(文久3)仏師高村東雲の門にはいって木彫を学び,東雲の姉の養子となって
4. たかむら‐こううん【高村光雲】
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明治の彫刻家。江戸下谷生まれ。旧姓中島。仏師高村東雲に学びその姓を継ぐ。光太郎の父。東京美術学校開設に際し、教授として彫刻科の基礎を築く。仏師の伝統の上に写実を
5. たかむらこううん【高村光雲】
国史大辞典
一八五二―一九三四 明治から昭和時代前期にかけての彫刻家。嘉永五年(一八五二)二月十八日、江戸下谷北清島町(東京都台東区東上野)に生まれる。旧姓は中島、父は兼
6. たかむら-こううん【高村光雲】画像
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1852−1934 明治-昭和時代前期の彫刻家。嘉永(かえい)5年2月18日生まれ。高村光太郎,高村豊周(とよちか)の父。高村東雲に木彫をまなび,東雲の姉の養子
7. 高村光雲[文献目録]
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【逐次刊行物】:8件 『光雲懐古談』高村光雲『光雲追悼録』光雲追悼録刊行会(編刊)『光雲先生を憶う』山崎朝雲『光雲と観音像』高村豊周『高村光雲翁と川喜多穂洲翁』
8. こうどすい【黄土水】(Huáng Tǔshuǐ(Huang Tushui))
世界人名大辞典
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9. あまおか-きんいち【天岡均一】
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10. あらかわ-れいうん【荒川嶺雲】
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明治-昭和時代前期の彫刻家。明治元年生まれ。郷里の島根県松江で荒川亀斎にまなび,24歳のとき東京にでて高村光雲に師事。シカゴ世界博覧会,パリ博覧会などに出品し賞
11. うえのおんしこうえん【上野恩賜公園】東京都:台東区/旧下谷区地区/上野公園地地図
日本歴史地名大系
国立文化財研究所・都立上野高校・東京芸大附属音楽高校などが置かれている。旧寛永寺黒門付近には高村光雲作の西郷隆盛の銅像、その背後には慶応四年(一八六八)の上野戦
12. 上野公園画像
日本大百科全書
旧寛永寺五重塔、旧本坊表門(黒門)、東照宮(とうしょうぐう)本殿などは国の重要文化財に指定され、高村光雲(こううん)制作の西郷隆盛銅像(さいごうたかもりどうぞう
13. おかざき-せっせい【岡崎雪声】
日本人名大辞典
をまなぶ。23年東京美術学校(現東京芸大)教授となり,26年欧米に留学。大型の鋳金にすぐれ,高村光雲作の木彫り原型から鋳造した皇居前の「楠木正成像」や,上野の「
14. 荻原守衛[文献目録]
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氏に就て』斎藤与里等『彫刻家荻原守衛 その人と作品』仁科敦『日本近代彫刻の出発 四人の作家 高村光雲・荻原守衛・藤川勇造・橋本平八』今泉篤男『碌山の彫刻作品につ
15. かい‐がん【開眼】
日本国語大辞典
頼みて、開眼(カイガン)すべしとて待ける所に」*江戸から東京へ〔1921〕〈矢田挿雲〉七・七六「高村光雲氏の先代の東雲翁に頼んで一体の観世音菩薩を彫らせ之をお石
16. 川喜多穂洲[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『高村光雲翁と川喜多穂洲翁』篠田鉱造
17. 官展
世界大百科事典
下村観山,竹内栖鳳,川合玉堂,黒田清輝,岡田三郎助,和田英作,浅井忠,小山正太郎,中村不折,高村光雲,長沼守敬,新海竹太郎など各派の有力作家のほか,大塚保治,岡
18. きんだい【近代】画像
国史大辞典
陶芸、漆芸、象牙彫などが勃興するが、なお造型的創造につながるものはみられなかった。彫刻界も、高村光雲の回想録に描かれているように、なおしばらくは、旧来の職人の系
19. 牙彫
日本大百科全書
その細密な技巧が外国人に喜ばれて、日本の特技とまで称され、一時は「牙彫にあらざれば彫刻にあらず」(高村光雲)とまでいわれる状態であった。しかし材の大きさに制限さ
20. 小林如泥[文献目録]
日本人物文献目録
『小林如泥伝』高村光雲『如泥と権兵衛』太田直行『諸国畸人伝』石川淳『小林如泥 』高村光雲『彫工の名手小林如泥翁 』高村光雲『不昧公の御優寵を蒙りたる御側工人小林
21. ごとう-せいいち【後藤清一】
日本人名大辞典
大正-昭和時代の彫刻家。明治26年8月19日生まれ。富岡周正に牙彫をまなぶ。東京美術学校(現東京芸大)で高村光雲に師事し木彫をはじめる。仏教に傾倒,作品のモチー
22. ごとう-ていこう【後藤貞行】
日本人名大辞典
嘉永(かえい)2年12月23日生まれ。紀伊(きい)和歌山の人。陸軍軍馬局などにつとめ,かたわら高村光雲に師事して馬の彫刻を得意とした。明治23年東京美術学校(現
23. さいごうたかもり【西郷隆盛】
国史大辞典
』で、武士の最大なものと賞揚した。明治二十二年二月憲法発布の大赦で正三位を追贈され、三十一年高村光雲作の銅像が東京上野に建てられ、三十五年六月嗣子寅太郎は侯爵を
24. さいごうたかもり【西郷隆盛】
日本架空伝承人名事典
日を前に、西郷が皇太子とともに来日するという噂が広く流布した。 有名な東京上野公園の銅像は、高村光雲が依頼されて制作することになったものの、写真がなかったためキ
25. 『西郷隆盛像』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
たかもり)の銅像。西郷の功績を讃(たた)え、1898年(明治31)に建立された。作者は彫刻家高村光雲(こううん)。「上野の西郷さん」として親しまれ、上野のシンボ
26. したやたけちよう【下谷竹町】東京都:台東区/旧下谷区地区地図
日本歴史地名大系
広い野原になり、佐竹の原とよばれた。それが市街になったので竹町というようになったと下谷出身の高村光雲は語っている(幕末維新懐古談)。町の西部には正保年間(一六四
27. 好(す)きこそ物(もの)の上手(じょうず)〔なれ〕
故事俗信ことわざ大辞典
ので且つ斯道に関する眼識も普通のお素人とは違ひ頗る高かったのである」光雲懐古談(1929)〈高村光雲〉昔ばなし「好きこそ物の上手で、俺に似て器用でもあるから、行
28. すずきけいうん【鈴木慶雲】[人名]
能・狂言事典
‐1971(昭和46)・3・19能面作家。東京生れ。本名は秀次郎。一九一二年(大正一)彫刻家高村光雲に入門、仏師修行のかたわら、兄弟子西村雅之とともに能面制作に
29. せきの-せいうん【関野聖雲】
日本人名大辞典
1889−1947 大正-昭和時代の彫刻家。明治22年5月2日生まれ。高村光雲(こううん)に師事し,仏教,神話,歴史に取材した木彫を制作。大正9年,10年帝展で
30. 染井
日本大百科全書
じろう)、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)、岩崎弥太郎(やたろう)、岡倉天心(てんしん)、高村光雲(こううん)らの墓がある。沢田 清
31. そめいれいえん【染井霊園】東京都:豊島区/上駒込村地図
日本歴史地名大系
正式には染井都営霊園とよび、広さ約一一万五四〇〇平方メートル。園内には二葉亭四迷・山田美妙・岡倉天心・高村光雲、高村光太郎・智恵子夫妻、明治女学校の創立に参加し
32. ぞうぞうりょうどきょう【造像量度経】
国史大辞典
もとに理想的な仏像比例を完成したわが国の仏師たちの技術は評価される。口伝を重んじる仏師の世界ではあるが、高村光雲以後近年木寄法など比例をふくめて公表される傾向に
33. 高橋鳳雲[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:1件 【逐次刊行物】:3件 『光雲懐古談』高村光雲『彫工高橋鳳雲』高村光雲『名工高橋鳳雲 』高村光雲『名工高橋鳳雲』高村光雲
34. 高村光太郎
日本大百科全書
明治16年3月13日東京・下谷(したや)に生まれる。父は東京美術学校(現、東京芸術大学)彫刻科教授高村光雲(こううん)。本名は光太郎(みつたろう)。のち自ら光太
35. たかむら-こうたろう【高村光太郎】画像
日本人名大辞典
1883−1956 明治-昭和時代の詩人,彫刻家。明治16年3月13日生まれ。高村光雲の長男。ロダンの影響をうけ,明治39年から欧米に留学。帰国後彫刻,絵画の制
36. たかむら-そげつ【高村素月】
日本人名大辞典
1877−1892 明治時代の日本画家。明治10年生まれ。高村光雲の長女。7歳から狩野寿信にまなび,14歳のとき師より素月の号をあたえられ,日本美術協会展に入賞
37. たかむら-ただし【高村規】
日本人名大辞典
1933−2014 昭和後期-平成時代の写真家。昭和8年5月15日生まれ。高村光雲の孫。高村豊周(とよちか)の子。伊藤憲治デザイン室勤務をへて,昭和34年フリー
38. たかむら‐とううん【高村東雲】
日本国語大辞典
仏師。江戸の人。高橋鳳雲の門人。幕末から明治にかけて西洋人向きの愛玩的小品彫刻を作る。門下に高村光雲がいた。明治一二年(一八七九)没。
39. たかむら-とううん【高村東雲】
日本人名大辞典
彫刻家。文政9年生まれ。高橋鳳雲に師事。鳳雲の鎌倉建長寺山門の五百羅漢制作に協力した。弟子に高村光雲がいる。明治12年9月23日死去。54歳。江戸出身。旧名は奥
40. 高村豊周
日本大百科全書
鋳金家。彫刻家高村光雲(こううん)の三男として、東京・下谷(したや)に生まれる。兄は彫刻家・詩人の光太郎(こうたろう)。東京美術学校(現東京芸術大学)鋳金科で津
41. 高村豊周
世界大百科事典
1890-1972(明治23-昭和47) 鋳金家。高村光雲の三男として東京に生まれる。彫刻家・詩人の光太郎は長兄にあたる。18歳で津田信夫の門に入ったが,東京美
42. たかむらとよちか【高村豊周】
国史大辞典
大正・昭和時代の鋳金家。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者。明治二十三年(一八九〇)七月一日高村光雲の三男として東京に生まれる。彫刻家、詩人の光太郎は長兄にあ
43. たかむら-とよちか【高村豊周】画像
日本人名大辞典
1890−1972 大正-昭和時代の鋳金家。明治23年7月1日生まれ。高村光雲の3男。高村光太郎の弟。津田信夫(しのぶ)に師事。无型(むけい)や実在工芸美術会な
44. 竹内久一[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:2件 『近世名匠列伝』村松梢風『神武天皇の御尊像と竹内久一翁』添田達嶺『美術界暗闘史 高村光雲と竹内久一』I翁
45. 彫刻画像
日本大百科全書
フェノロサや岡倉天心によって日本古来の木彫が再認識され、1898年には同校に塑造科も開かれ、竹内久一、高村光雲、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)らが木彫、荻原守衛
46. 帝国美術院
世界大百科事典
院長1人,会員15人で組織することが定められ,初代院長に森鷗外が任命された。会員には黒田清輝,高村光雲,竹内栖鳳らが任命されたが,横山大観と下村観山は辞退した。
47. 東京年中行事 1 227ページ
東洋文庫
美術に関係ある重立った人々が主となって、聖徳太子祭を昨年は四月十一日上野韻松亭に於て催した。今年は高村光雲作の太子像竣成をまって、同じ太子祭が五月二十七日に行な
48. とうきょうびじゅつがっこう【東京美術学校】
国史大辞典
た。二十三年には岡倉覚三が校長となり、当時の教授には橋本雅邦・川端玉章・巨勢小石・加納夏雄・高村光雲らが名を連ねる。開校当初は、岡倉覚三・フェノロサの伝統美術振
49. 銅像画像
日本大百科全書
靖国(やすくに)神社)が嚆矢(こうし)とされる。以後、木彫原型の『西郷隆盛(さいごうたかもり)像』(高村光雲(たかむらこううん)作、1898年、上野公園)など、
50. 銅像
世界大百科事典
のは93年であった。また1890年には大阪の住友家が東京美術学校に《楠公像》の制作を依頼し,高村光雲を原型制作主任として,木彫原型から鋳造したのは93年であった
「高村光雲」の情報だけではなく、「高村光雲」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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