NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 正岡子規

正岡子規

ジャパンナレッジで閲覧できる『正岡子規』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
正岡子規
まさおかしき
一八六七 - 一九〇二
明治時代の俳人、歌人。本名常規(つねのり)。自作墓誌銘には「又ノ名ハ処之助(ところのすけ)又ノ名ハ升(のぼる)又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋(だっさいしょおく)主人又ノ名ハ竹ノ里人」(原文ルビなし)と記し、『筆まかせ』のうち「雅号」の章には二十七種の筆名を記録している。慶応三年(一八六七)九月十七日(太陽暦では同年十月十四日)に、伊予国温泉郡藤原新町(松山市花園町三番五号)にて出生。父隼太(常尚)は佐伯氏の出、正岡家の養嗣子となり、松山藩御馬廻加番、明治五年(一八七二)没。母八重は大原氏の出、慶応元年十月に隼太の後妻となる。父の死後、大原家の叔父恒徳が後見人となり、母が裁縫内職をして、妹律との生活を支えた。また、大原の祖父有恒(観山)の塾に漢学を学びながら小学校を終えた。明治十三年に松山中学入学。このころから漢詩を創り、友人たちと『五友雑誌』などを発行していたが、十五年ころから自由民権思想の影響をうけ、演説会に参加して国会開設要求を唱え、弁説中止を受けたりした。在京の叔父加藤恒忠(拓川、恒徳の弟)の尽力で上京の望みの実現したのは十六年六月である。旧藩主久松家の書生宿舎に入り、諸学校に学び、翌年春久松家給費生となり、七月に大学予備門入学試験に合格した。上京当時は政治家志望であったが、十八年春には哲学志望に転じた。拓川の影響や、学校で『荘子』を学んだことによる。井手真棹の手ほどきをうけて和歌を創り始めたのも同年で、二十年に帰郷した時には大原其戎の教えをうけて俳句も創り始めた。二十一年にはベースボールに熱中し始め、同年九月久松家の給費施設常盤舎寄宿舎(本郷真砂町、坪内逍遙旧邸)に入り、二十四年暮れまで舎生として過ごし給費を受けた。夏目漱石との交友の始まるのは二十二年初めからであり、スペンサーの文体論で「最簡単ノ文章ハ最良ノ文章ナリ」という説を知り強く傾倒するに至ったのもそのころである。哲学青年が次第に文学へ傾くようになり、二十三年秋には幸田露伴の『風流仏』に魅せられ、二十四年暮から翌年二月までかかって小説『月の都』を草し、露伴に見てもらうが好評を得ることができず、高浜虚子に宛て「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」と書くに至った。また二十四年暮れからは俳句分類の仕事にも着手している。帝国大学文科大学哲学科へ入学したのは二十三年九月であるが、二十五年六月の学年試験に落第し、翌年三月、退学。新聞『日本』の社主陸羯南(くがかつなん)には、上京後間もなくから加藤拓川の紹介で会っていたが、二十五年六月から「獺祭書屋俳話」が『日本』に連載され始め、十一月には母と妹とを郷里から移住させ、上根岸の羯南の家の隣りに住み、十二月から日本新聞社社員となった。月給十五円であったが、どんなに高給でも他の社へは移らぬと、大原恒徳に書き送った。以来、生涯の日本新聞社社員として、また活溌な文学者としての活動が始まる。二十六年二月に二度めの喀血(二十一年八月一日以来のこと)、七月には奥羽旅行をして「はてしらずの記」を書いた。二十八年三月、日清戦争に従軍、金州城に入り、五月十七日帰国の途中船中にて大喀血。神戸病院・須磨保養院に療養し、八月末松山に帰り、松山中学校在職中の漱石寓に宿す。従弟藤野古白のピストル自殺を知ったのも従軍中のことである。十月三十日帰京以後永い病床生活に入り、外出も人力車に頼るほかなくなるが、文学上の仕事はこのころから充実し、二十九年には三千句以上を残している。三十年一月に、柳原極堂が松山から『ホトトギス』を創刊して全面的に協力し、『古白遺稿』も刊行。三十一年一月には蕪村句集輪講を始めるとともに「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新にも乗り出し、三月には根岸短歌会を始め、十月には『ホトトギス』を東京に引き取り編集刊行に全面的に尽力。翌年一月『俳諧大要』刊行。一年間休んでいた根岸短歌会を、岡麓ら歌人が参加して再開、三十三年になって伊藤左千夫・長塚節らが参加した。三十四年には『墨汁一滴』を、翌年『病牀六尺』をともに『日本』に発表するが、これらは二十九年の『松蘿玉液』、三十四年以後の手記『仰臥漫録』、明治十七年以後の雑文集『筆まかせ』とともに、子規の生活と思想とを知るために欠かすことのできぬものである。俳句革新者としての子規は、江戸時代末期以後形骸化した芭蕉崇拝を排したが、芭蕉の真価を見失うことはなかった。同時に蕪村を新たに評価したことは、その写生理論によるものであった。短歌革新においては王朝和歌様式を否定して奈良朝様式を強く推し、「子規鉄幹不可併称」を宣言した。なお、小説・新体詩・漢詩なども見落とすことのできぬもので、それらの綜合において子規を見なおす作業は第二次世界大戦後に進んだ。明治三十五年九月十九日死去。三十六歳。墓は北区田端四丁目の大竜寺にある。法名、子規居士。句集に『寒山落木』『俳句稿』、歌集に『竹乃里歌』があり、『子規全集』は、アルス版(十五巻、大正十三年(一九二四))、改造社版(二十二巻、昭和五年(一九三〇))、講談社版(二十五巻、昭和五十年)がある。→根岸短歌会(ねぎしたんかかい),→俳句革新運動(はいくかくしんうんどう)
[参考文献]
松山市立子規記念博物館編『子規俳句索引』、河東碧梧桐『子規の第一歩』、同『子規の回想』、柳原極堂『友人子規』、高浜虚子『正岡子規』、久保田正文『正岡子規』(『人物叢書』一四四)、芥川竜之介『病中雑記』(岩波書店『芥川竜之介全集』八)、佐藤春夫「批評家子規」(『退屈読本』所収)、土方定一「正岡子規の文学論」(『近代日本文学評論史』所収)
(久保田 正文)


日本大百科全書(ニッポニカ)
正岡子規
まさおかしき
[1867―1902]

俳人・歌人。慶応(けいおう)3年旧暦9月17日(陽暦10月14日)伊予国温泉郡藤原新町(松山市新玉町)に生まれる。本名常規(つねのり)、幼名処之助、また升(のぼる)。別号獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)、竹の里人。父隼太(はやた)は松山藩の下級武士。政治家を志し、松山中学校を中退して、1883年(明治16)17歳のとき、叔父の加藤拓川(たくせん)を頼って上京した。やがて一ツ橋大学予備門(旧制一高の前身)に入学し、夏目漱石(そうせき)を知る。この前後に和歌や俳句をつくり始め、また人情本に親しみ落語なども好んだが、当時はやりだしたベースボールにも熱中した。一時、哲学者になろうとしたが、一方、古俳諧(はいかい)の研究を進め、友人と句作に励んだ。1889年に喀血(かっけつ)して子規と号し、翌1890年帝国大学文科大学(現、東京大学文学部)国文科に入学し志望が三転した。当時の新進作家幸田露伴(ろはん)の影響を受け、1891年小説『月の都』を書いたが成功せず、「僕は小説家となるを欲せず、詩人とならんことを欲す」と記して、結局俳人として生きる決意を固めた。

 1892年新聞『日本』に『獺祭書屋俳話』を連載。俳句革新運動の先駆けとなる。ついで大学を中退し、日本新聞社に入社。社長陸羯南(くがかつなん)の家の隣(当時下谷区上根岸町)に住み、終生羯南の庇護(ひご)を受ける身となった。1895年、日清(にっしん)戦争に志願して従軍し、帰途喀血、のち脊椎(せきつい)カリエスとなり、死ぬまでほとんど病床に釘(くぎ)づけになったが、その間の7、8年に子規は獅子奮迅(ししふんじん)の働きをした。発表の場は主として新聞『日本』と1897年創刊の雑誌『ホトトギス』で、洋画家中村不折らとの交流により、俳句に自然を描写する写生の重要性を悟り、また蕪村(ぶそん)の絵画的で自在な句境を学び、従来の月並や理屈を排して若い作者の中心となり俳句の革新を進めた。おもな俳論に『俳諧大要』(1895)、『俳人蕪村』(1897)などがある。1898年には和歌の革新に乗り出し、『歌よみに与ふる書』を発表して因襲にとらわれる旧派の歌人を攻撃し、『百中十首』(1898)をもって、当時としては破天荒の斬新な手法による短歌を示した。

 子規の俳句は自筆の稿本『寒山落木』全5巻、『俳句稿』全2巻などに2万近く収められ、短歌は『竹乃里歌』に記され、補遺をあわせて2400首ほど。晩年に近づくにつれて俳句も短歌も境涯を生かした至純な境地に進んだのは、『万葉集』からの摂取、また病苦の深まりによるものである。「雞頭(けいとう)の十四五本もありぬべし」「さまざまの虫鳴く夜となりにけり」「いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす」などの作は有名なもの。明治35年9月19日没。

 子規は新体詩、小説にも手を染めたが、随筆『墨汁一滴』(1901)、『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』(1902)、とくに日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(1901~1902)に率直な人間性がみられる。また経験を平明に客観的に書く写生文も提唱して、後世の平易な日本語の成立にも少なからぬ影響を与えた。彼の俳句は、『ホトトギス』に拠(よ)る高浜虚子(きょし)らに、短歌は『アララギ』に拠る伊藤左千夫(さちお)らに継承された。1981年(昭和56)郷里松山市に子規記念博物館が開館した。

[宮地伸一]2018年10月19日



正岡子規[百科マルチメディア]
正岡子規[百科マルチメディア]

 国立国会図書館所蔵


改訂新版 世界大百科事典
正岡子規
まさおかしき
1867-1902(慶応3-明治35)

明治の俳人,歌人,随筆家。本名常規(つねのり),幼名処之助(ところのすけ),升(のぼる)。別号獺祭書屋(だつさいしよおく)主人,竹の里人(さとびと)。松山市生れ。松山中学を経て東京の大学予備門に入学。予備門が校名を改称した一高を経て東大中退。1892年には日本新聞社に入社。社長の陸羯南(くがかつなん)とその交友関係から国粋発揮の思想的な影響を受けている。創作としては,少年期から漢詩を試み,のち和歌,俳句に手を染めた。小説にも関心をもち,大学在学中,夏目漱石との交流を通して新文学への理解を深めた。92年《月の都》を幸田露伴に見せ文壇への進出をはかったが,成功せず俳句に専心。明治初年から勢いを得てきた短詩否定の風潮の中で俳句の可能性を見きわめる決意を固め,新しい文学概念で俳諧を見直し発句を独立させて,一句の季節詩の俳句とした。日本の詩という自負をもち自然を対象として,洋画の〈写生〉を応用し,視覚によって現実の事物と密着する表現を定着させた。95年日清戦争を背景とした〈日本〉の自覚のたかまりの中で従軍,帰国の船上で喀血。病臥の生活を送り,《俳諧大要》を著すなど多くの革新事業を病床で推進した。97年から松山で創刊された《ホトトギス》を指導。98年には同誌を東京に移し,俳諧趣味を鼓吹する雑誌とした。また,98年からは短歌革新に着手,《歌よみに与ふる書》を《日本》に連載,《万葉集》の尊重を説き,実作では日常生活を写生した格調の高い作品を示した。別に,写生を文章にも応用して写生文を試み,《ホトトギス》誌上でも風物の写生的短文を募集した。写生文の中心は子規と高浜虚子で,子規の口述を虚子が筆記する中で精細な描写と洗練された口語文体が定着した。晩年には,写生の極致は〈自然〉にあるという幅広い考え方に移行したが,その手法を《墨汁一滴》(1901),《病牀六尺》(1902),《仰臥漫録》(1901-02)など日録の随筆に生かし,病床の出来事を描写するほか,考証,評論などにも自在な筆運びを見せた。そこには病苦を裏面に押しやった平淡で奥行きの深い内容が見える。1902年肺結核で死去。彼の門下には,俳句では虚子,河東碧梧桐ら,短歌では伊藤左千夫,長塚節らが出て,その影響圏は非常に広い。〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉。
[松井 利彦]

[索引語]
獺祭書屋(だつさいしよおく)主人 竹の里人
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


正岡子規の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1883
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 正岡子規画像
日本大百科全書
俳人・歌人。慶応(けいおう)3年旧暦9月17日(陽暦10月14日)伊予国温泉郡藤原新町(松山市新玉町)に生まれる。本名常規(つねのり)、幼名処之助、また升(のぼ
2. 正岡子規
世界大百科事典
1867-1902(慶応3-明治35) 明治の俳人,歌人,随筆家。本名常規(つねのり),幼名処之助(ところのすけ),升(のぼる)。別号獺祭書屋(だつさいしよおく
3. まさおか‐しき【正岡子規】
日本国語大辞典
俳人。歌人。本名は常規(つねのり)。別号は獺祭書屋(だっさいしょおく)主人・竹の里人。伊予(愛媛県)松山の生まれ。帝国大学文科大学退学後、日本新聞社に入社。平明
4. まさおかしき【正岡子規】画像
国史大辞典
高浜虚子『正岡子規』、久保田正文『正岡子規』(『人物叢書』一四四)、芥川竜之介『病中雑記』(岩波書店『芥川竜之介全集』八)、佐藤春夫「批評家子規」(『退屈読本』
5. まさおか-しき【正岡子規】画像
日本人名大辞典
1867−1902 明治時代の俳人,歌人。慶応3年9月17日生まれ。明治25年日本新聞社入社,紙上で俳句の革新運動を展開。28年以降は病床にあり,30年創刊の「
6. 正岡子規[文献目録]
日本人物文献目録
忌特輯号』-『正岡子規』-『正岡子規』-『正岡子規』-『正岡子規 講演筆記』岡麓『正岡子規』岡麓『正岡子規』上甲平谷『正岡子規』窪川鶴次郎『正岡子規 1‐8』久
7. 正岡子規[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵
8. 正岡子規蔵書印[図版]画像
国史大辞典
獺祭書屋図書 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. 正岡子規書簡(著作ID:4384850)
新日本古典籍データベース
まさおかしきしょかん 書簡 
10. 正岡子規短冊(著作ID:4384750)
新日本古典籍データベース
まさおかしきたんざく 正岡子規(まさおかしき) 俳句 
11. あいきょう‐しん[アイキャウ‥]【愛郷心】
日本国語大辞典
し愛郷心(アイキャウシン)の団体の外ならずと説きかけられし時」*筆まかせ〔1884~92〕〈正岡子規〉一・愛身、愛郷「愛郷心、愛国心とは妙なものにて道理もなきこ
12. あいじま-かんじろう【相島勘次郎】
日本人名大辞典
大阪毎日新聞社政治部長,東京日日新聞社副主幹をへて明治45年衆議院議員(当選2回,国民党)。俳句を正岡子規,高浜虚子にまなんだ。昭和10年4月4日死去。69歳。
13. あい‐たす・ける[あひ‥]【相助】
日本国語大辞典
)から) ある物事に、もう一つ物事が加わってその状態を強める。*消息〔1899~1900〕〈正岡子規〉「虚子君の無精と小生の発熱と相助けて保等登芸須の遅延を来し
14. 会津八一
世界大百科事典
の尾崎紅葉の話相手をつとめたり,まだ評価の定まっていなかった良寛和尚の芸術をいちはやく認めて正岡子規に知らせたりした。早稲田大学英文科では坪内逍遥の知遇を得,卒
15. あいづ‐やいち[あひづ‥]【会津八一】
日本国語大辞典
書家。新潟県出身。号は秋艸道人、渾斎など。早稲田大学教授。中国の古美術、大和の文化に造詣が深い。正岡子規に傾倒。万葉調、良寛調の独特の歌風をもつ歌集「鹿鳴集」「
16. あいづやいち【会津八一】
国史大辞典
新潟古町通に生まれる。同三十九年早稲田大学文学部を卒業、坪内逍遙にふかく師事した。青年時代、新潟にあって正岡子規の俳句革新をうけつぎ、実作・評論に従ったが、のち
17. 会津八一[文献目録]
日本人物文献目録
論』亀井勝一郎『会津八一論 歌集による作家論』尾山篤二郎『現代短歌鑑賞』吉野秀雄『秋艸道人と正岡子規』藤川忠治『文学と仏教 9 会津八一の歌』長田恒雄
18. アウト
日本国語大辞典
〓セーフ。*松蘿玉液〔1896〕〈正岡子規〉七月二三日「走者(通過しつつある者)或る事情のもとに通過の権利を失ふを除外(アウト)といふ
19. アウト‐カーブ
日本国語大辞典
〔名〕({英}outcurve )野球で、カーブのうち、打者の外側へ曲がる球。外曲球。*松蘿玉液〔1896〕〈正岡子規〉七月二七日「投者は打者に向って球を投ずる
20. 青木月斗
日本大百科全書
、大阪満月会、三日月会に加わり、1898年(明治31)『車百合(くるまゆり)』を創刊した際、正岡子規から「俳諧(はいかい)の西の奉行や月の秋」の祝句を贈られた。
21. あおき‐げっと【青木月斗】
日本国語大辞典
俳人。本名新護。正岡子規に師事。俳誌「車百合」「カラタチ」「同人」などを創刊し、大阪俳壇の雄として活躍。句集に「時雨」がある。明治一二~昭和二四年(一八七九~一
22. あおき-げっと【青木月斗】
日本人名大辞典
1879−1949 明治-昭和時代の俳人。明治12年11月20日生まれ。正岡子規(しき)にみとめられ,大阪満月会を結成して明治32年「車百合」を創刊。大正9年か
23. あおき 踏(ふ)む
日本国語大辞典
踏んで遊ぶこと。踏青(とうせい)。《季・春》*俳諧・増山の井〔1663〕三月「青きをふむ」*寒山落木〈正岡子規〉明治三一年〔1898〕春「幼子や青きを踏みし足の
24. あお‐ぬり[あを‥]【青塗】
日本国語大辞典
〔名〕青い塗料、漆などで塗ること。また、その塗られた器物。*仰臥漫録〔1901~02〕〈正岡子規〉一「九月六日〈略〉肋骨より托せし荷物、近衛公の内より陸へ来り更
25. あお‐りんご[あを‥]【青林檎】
日本国語大辞典
果肉は硬く、やや酸味と渋味とを帯びるものが多い。貯蔵に適する。《季・夏》*仰臥漫録〔1901~02〕〈正岡子規〉一「高浜より使、茶一かん、青林檎二三十、金一円持
26. あかい‐こ
日本国語大辞典
〔名〕糸ミミズをいう。*墨汁一滴〔1901〕〈正岡子規〉五月二二日「臭い泥溝をつついてアカイコ(東京でボーフラ)を取っては金魚の餌に売るといふ商売に至っては実に
27. あか‐がみ【赤紙】
日本国語大辞典
買って来たがよい」*雑俳・四季の花〔1851〕「鼻息すう・赤紙の屑散って来る」*新年雑記〔1900〕〈正岡子規〉「ふと支那の家に貼ってある赤紙の事を思ひ出して、
28. あかき-かくどう【赤木格堂】
日本人名大辞典
1879−1948 明治-昭和時代前期の俳人,政治家。明治12年7月27日生まれ。正岡子規(しき)晩年の弟子で,「日本」の俳句欄の代選をした。江戸時代の歌人平賀
29. あか‐とんぼ【赤蜻蛉】
日本国語大辞典
あかねとんぼ。《季・秋》*雑俳・住吉みやげ〔1708〕「赤とんぼ鼻へ来おるとぴんとはね」*寒山落木〈正岡子規〉明治二八年〔1895〕秋「赤蜻
30. あかね【アカネ】
日本国語大辞典
短歌雑誌。明治四一年(一九〇八)創刊。大正一四年(一九二五)まで断続して刊行。正岡子規没後の根岸短歌会の機関誌。三井甲之を主宰として「馬酔木(あしび)」に続いて
31. あか‐ひき【赤蟇】
日本国語大辞典
*重訂本草綱目啓蒙〔1847〕三八・湿生「あかがへる〈略〉あかひき 土州・隅州」*病牀六尺〔1902〕〈正岡子規〉二九「赤蛙(アカビキ)を用ゐるものは鯰釣」(3
32. あき‐じめん[‥ヂメン]【空地面】
日本国語大辞典
〔名〕「あきち(空地)(1)」に同じ。*寒山落木〈正岡子規〉明治二六年〔1893〕新年「遣羽子や根岸の奥の明地面」
33. あき の 海(うみ)
日本国語大辞典
《季・秋》*筑紫道記〔1480〕「海の上も凪ぎ渡りて心澄めり。取あへず 月にみつ夕しほ寒し秋の海」*寒山落木〈正岡子規〉明治二六年〔1893〕秋「夕陽に馬洗ひけ
34. あき の 蚊(か)
日本国語大辞典
の蚊」*俳諧・萩の露〔1693〕「秋の蚊やしかとはらはで老の伽(とぎ)〈秋色〉」*寒山落木〈正岡子規〉明治二六年〔1893〕秋「秋の蚊や死ぬる覚悟でわれを刺す」
35. 秋山真之画像
日本大百科全書
されている。また名文家でもあり、彼の起案した日露戦争中の大本営への報告文は広く知られている。正岡子規(まさおかしき)は同郷の友人。司馬遼太郎(しばりょうたろう)
36. 秋山真之[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:8件 【逐次刊行物】:7件 『世界的偉人秋山真之将軍』松田秀太郎『正岡子規・秋山真之・夏目漱石』松田秀太郎『秋山真之』秋山真之会(編刊
37. あく‐し【悪詩】
日本国語大辞典
怨の貴稿、大切なる題を微塵にしたる悪詩なり」*ホトトギス第四巻第一号のはじめに〔1900〕〈正岡子規〉「斯うなると時には間に合せの悪詩悪文を載せて置かねばならぬ
38. 悪女(あくじょ)の深情(ふかなさ)け
故事俗信ことわざ大辞典
へへへへへべっかっこと減らず口、爰(ここ)が悪女(アクヂョ)の深情(フカナサケ)」日本の諺(1890)〈正岡子規編〉「あく女の深なさけ」古今俚諺類聚(1893)
39. 悪(あく)は延(の)べよ
故事俗信ことわざ大辞典
中幕「悪(アク)は延(ノ)べろといふからは、明日のことに仕ようかい」〔日本の諺(1890)〈正岡子規編〉〕
40. あく‐りょく【握力】
日本国語大辞典
〔名〕物をにぎりしめる手の力。*筆まかせ〔1884~92〕〈正岡子規〉三・活力統計表「握力〈右 四十四キログラム 左 三十九キログラム〉」*芽むしり仔撃ち〔19
41. 浅井忠画像
日本大百科全書
いたずらに西欧の流行を追うことなく、日本人の感覚を生かした洋画の制作に力を尽くした。黙語、木魚と号し、正岡子規、夏目漱石(そうせき)ら文人たちとも親交があった。
42. あさき 春(はる)
日本国語大辞典
冬の感じも少し残っている、春のはじめの頃をいう。早春。孟春(もうしゅん)。初春。《季・春》*俳句稿〈正岡子規〉明治三三年〔1900〕春「病牀の匂袋や浅き春」
43. あさ‐だか【朝鷹】
日本国語大辞典
」*俳諧・毛吹草〔1638〕二「中春〈略〉朝鷹 継尾、白尾、朝かり すずこさす」*寒山落木〈正岡子規〉明治二六年〔1893〕春「朝鷹の眼に有明のうつり哉」
44. 馬酔木
世界大百科事典
(1)明治時代の短歌雑誌。1903年(明治36)6月創刊,08年1月終刊。第4巻3号まで全32冊。正岡子規の没後,根岸短歌会の機関誌として門下が創刊。編集同人と
45. あしび【馬酔木】
日本国語大辞典
きた」【二】〔一〕伊藤左千夫を中心とする短歌雑誌。明治三六年(一九〇三)創刊、同四一年廃刊。正岡子規没後の根岸短歌会の機関誌として刊行。〔二〕水原秋桜子が主宰し
46. あしび【馬酔木】
国史大辞典
同四十一年一月十日発行の四巻三号で通算三十二号をもって廃刊。根岸短歌会の最初の機関誌であるが正岡子規没後に刊行された。発行所は東京市本所区茅場町三丁目十八番地(
47. 馬酔木(短歌雑誌)
日本大百科全書
短歌雑誌。1903年(明治36)6月から1908年1月まで、根岸短歌会発行。正岡子規(しき)の没後、伊藤左千夫(さちお)、長塚節(たかし)、岡麓(おかふもと)、
48. 東男(あずまおとこ)に=京女(きょうおんな)〔=京女郎(きょうじょろう)〕
故事俗信ことわざ大辞典
フ)」雑俳・柳多留‐五三(1811)「ぬれ事は東(あずマ)男に京女郎」日本の諺(1890)〈正岡子規編〉「あづま男に京女」いろは短句(1890~91)「東男に京
49. あそこ‐いら【彼処─】
日本国語大辞典
〔代名〕「あそこら(彼処等)」に同じ。*くだもの〔1901〕〈正岡子規〉「麓の村に夕日の残ってをるのが昼の如く見えた。あそこいら迄はまだ中々遠い事であらうと思は
50. あたり【当・中】
日本国語大辞典
きをして連れて来た女であるが」(ロ)作物などの出来がよいこと。*仰臥漫録〔1901~02〕〈正岡子規〉一「蕎麦の花もそろそろ咲出し候田の出来は申分なく秋蚕も珍し
「正岡子規」の情報だけではなく、「正岡子規」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

正岡子規と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「正岡子規」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶